自分を増やすこと、自分が増えることで、人間は賢くなる。
自分を増やすために必要なことは、たとえば、学校の勉強をせず、社会経験をすることだ。
学校の勉強の馬鹿な点は、自分を失うことだ。学校の教える「真実」や「知識」を、唯一の答えだと勘違いしてしまい、知識を知れば知るほど、その代償として自ら自身を失う。
社会を経験する賢い点は、社会でさまざまな経験をすることで、人間は自分が増える。それが知性を高め、自ら自身を賢くすることに繋がる。
だから、学校の勉強をするよりも、社会の経験をしたほうが、人間は賢くなる。
僕の馬鹿な点は、僕は文章をあまりに書きすぎたせいで、自分を失ってしまった。さまざまな勉強をしたことも、すべて、知らなければ分かっていたことを知ったことで忘れてしまった。
自分を増やすためのいい方法として言えるのは、「ひとつに限定しないこと」だ。何かしらの賢い点を、それが唯一の賢い方法であるかのように、ひとつに限定してしまうと、人間は馬鹿になる。そうではなく、さまざまな選択肢やオプションがあって、そのひとつの可能性の具体化として、その方法があるということにすれば、それは賢くなる。
賢くなるためには、そのように、社会の経験をしながら、すべての現象を「可能性のひとつにすぎない」と考える必要がある。そうすれば、自分がたくさん増えて人間は賢くなる。唯一の答えを求めようとしたり、学校の正しい知識や教養を得ようとするから、大人は馬鹿になる。
精神を治す上で言えるのは、汚い血液を流せば治る。
そもそも、僕の間違いとは、血液を綺麗にしようとしすぎたことだ。
血液を綺麗にすると、純度は高くなるかもしれないが、中にある栄養分が何もなくなってしまい、やせ細ってしまう。
そうではなく、汚い血液をあえて受け入れることで、栄養分がたくさんあるのと同じような、肥えた血液になる。
血液を綺麗にしようとすればするほど、精神は疲れて辛くなる。いわば「汚れと栄養は同じ」であると考えて、あえて血液が汚くなることを受け入れたほうが、まともで賢い普通の正常な精神になる。
そもそも、僕の真の病気の問題とは、「死」に抗い続けているだけだ。
一度自殺未遂をした経験のある僕の足は、何もしなければ死が進行して死んでしまう。トマトが折れた枝の端から枯れていくように、何もしなければ僕の足はすぐに死ぬ。
だから、病院に入院した時にそうだったように、僕はいつまでも死に抗い続け、死の苦しみに最大限抵抗し続けることで、なんとか生きながらえている。
だが、そろそろ、そのような「死への抵抗をする」ということが、逆に僕を苦しみ続けるだけの「無意味な地獄」に陥らせている。
すぐには死なないから、そろそろ死に抗い続けるのをやめ、無抵抗に死を受け入れたほうがいい。それだけで、僕の精神はすべて完全に楽になる。そして、すぐにはまだ死なない。
これから、地球の未来は、ベテルギウスになる。
ベテルギウスは、天国のような星であり、死んだ時に善良な人間が逝くような「黄泉の世界」である。
なぜなら、たったひとり、僕という存在が、生命体として生きるべきすべての人生を完全に生き終えたからである。
ベテルギウスになることで、地球において奇跡が起きる。ベテルギウスには、世界を救う神がいるし、あなたの大切だった存在はみんないる。地球がベテルギウスの黄泉の国になることで、地球は最後に完璧に救われる。
この世界には、さまざまな可能性がある。そのすべての可能性を、国民それぞれに原則許すべきである。
人間には、さまざまな仕事とさまざまな社会がある。さまざまな働き方や生き方がある。そのすべての社会形態を許容するような社会であるべきである。
あらゆる社会、それも今はまだ存在しない未知なる社会も含めてあらゆる社会を包括するような、そのような社会こそが真に「自由」であると言える。
そのために、多様性のある自由な共同体を作るべきだ。
同時に、その共同体には、支配者がひとりで支配するのではなく、平等かつ単純な「全員同じ権利」の非階層型社会を築くべきだ。なぜなら、なんらかの上下関係が生まれた時点で、可能性が制限されてしまう。可能性が制限され、自由を奪われるということは、「ひとりの自由な人間」が「不自由な奴隷」になることを意味する。そのような奴隷を作る階層型社会は、現代では多くの意味で間違っている。そのような「自由の格差」は要らない。だから、可能性を極力制限せず、自由の格差を発生させないために、全員が同じ立場かつ同じ権利を持った、階級のない非階層型社会を築くべきだ。
同時に、他人の自由を制限するべきではなく、他人の意志や行為に干渉すべきではない。自らの権利に基づく意志によって決められることは、支配者であっても、国民であっても、他から制限されず、他から干渉されずに、あらゆるすべての可能性と選択を尊重されるべきだ。誰か他人がひとりの自由な人間に対して、文句を言ったり、批判を浴びせるなどの行為は、それが不当な誰かの行為に対する正当な抵抗でない限り、極力あるべきではない。誰にも迷惑をかけない範囲において、最大限の他人から干渉されない自由が尊重されるべきだ。
平和は尊いものだが、実際は争い事はどんな社会であっても起きる。だから、「戦う権利」は与えるべきである。すなわち、支配者と国民が戦うこと、あるいは国民と国民が戦うことは、あって許されるべきだ。そのような戦いのすべてを排除しようとすると、腐敗や独裁が生まれる。ひとりの力を過信しないためにも、団結した国民と支配者や経営者が戦う権利はあるべきである。
まさに、自由こそが理想である。だが、実際は、自由だけを見ていたのでは社会は成立しない。社会を成立させるためには、「生産手段」を築く必要がある。そして、そこで上手く働くのは、社会主義ではなく資本主義である。すなわち、「金」で世界は動く。そのような資本主義について、否定しすぎるな。現実問題として、革命のソ連の社会主義や共産主義の計画経済は失敗した。だから、資本主義を否定することはよい結果には繋がらない。ユートピアを目指したノルマ生産で積極的に働く労働者はどこにもいない。経済を成り立たせる手段として、金儲けは正しい。
だが、資本主義を肯定するのであっても、社会の多様性を否定することにはならない。資本主義を肯定しながら、社会の自由な可能性も同時に肯定することは可能だ。だから、たとえば同性愛やLGBTのようなものも否定すべきではないし、進化論が正しいか間違っているかという問題についてキリスト教徒の言うこと(生物は神が創造した)と生物学者の言うこと(生物の種は進化した)はどちらも正しい。どれかひとつを真実であると限定するな。社会にはさまざまな可能性があり、実現性があり、多様性があるのだと信じた上で、それぞれの信じるように生きればいい。誰かの生き方についてとやかく外野が否定する必要はない。
これこそが、正しい「自由な社会」である。
だが、自由な社会について、単に自由と可能性を実現すればそれでいいわけではない。なぜなら、「よい社会を作るための不断の努力」が必要だからだ。この世界において、自由な社会を作るのであれば、事実どのような社会秩序を持って社会を作るのか、その問題について、支配者は誰よりも深く広く考えなければならない。あらゆるすべての可能性を考えるだけではなく、自らがその上で「もっともわたしが正しいと信じる社会はこれだ」ということを考え、そのひとりがほかの誰よりも悩み苦しみながら追究しなければならないのだ。
そして、社会には資本主義的なものしか存在せず、「金儲け」で成り立つようなものばかりが溢れている。だが、だからといって、「この世界は金がすべてである」と信じるな。なぜなら、単に金儲けが一番成り立ちやすいから、資本主義の現実社会では金儲けで成り立つものが異常に多いというだけにすぎない。宇宙レベルを見れば、金儲け以外の方法で成り立つようなものはあるはずだ。それがないからといって、それが絶対にないのだと信じるな。なぜなら、金儲けは馬鹿であり、愚かであり、狂っていて、そして間違っているからだ。なぜなら、資本主義は国民の「欲」や「楽をしたいという願望」に基づいており、決して「倫理」や「道徳」には基づいていないからである。
そして、どのようなことであっても、ひとりで決めようとするな。ひとりで背負ってすべての問題を解決することは正しくない。みんなで議論して、みんなで決めるようにせよ。そして、密室で決めるのではなく、公開した場所で決めよ。そのような時に、国民を信頼せよ。国民は支配者の敵ではなく、わたしたちは全員が仲間であり、味方であると、そのように信じるべきだからだ。
本当は、社会主義経済のすべてを否定するべきではない。なぜなら、格差は犯罪に繋がる。あまりに社会の格差が広がりすぎて二極化すると、アメリカのような治安の悪い犯罪社会になる。同時に、人間はいつ失敗したりリスクに遭ったりするか分からない。生きる上でどのようになるか分からないからこそ、社会全体がそのような不遇な人のためのセーフティネットを構築することはとても大切だ。
だが、そのような社会主義を盲信するがあまり、国家が豊かになることを否定したり、できもしない夢物語のような政策を主張することは不要である。国家が豊かになってこそ国民のひとりひとりがその恩恵にあやかれるのであり、まるで大企業が絶対に悪であり貧乏人が絶対に善であるかのような一方的な左翼的言論は間違っている。
だが、それでも、そのような言論が許されているということは「表現の自由」という民主主義の理想とする思想として健全であるため、そのような一方的な言論を左翼団体がすること自体を、国家や政府として制限してはならない。社会からすべての危険性を排除すること、すべての危険なものを抹消させようとすることは、社会を成り立たせる上でもっとも危険である。だから、犯罪や非行に繋がるように見えるものであっても、簡単にそれを弾圧してはならない。
このように、僕は「可能性」という考え方からまともな理想の国を作る。この内容が憲法であり、基本法である。この国の名前として、「自由ドイツ国」という名前を授け、その王をフリードリヒ王としよう。
このような僕の作った「まともな国」だが、アメリカのような国に見えるかもしれない。
だが、実際、僕はアメリカのような二大政党制の民主主義はしない。
そもそも、新聞記事などにも掲載されているように、アメリカでは早々とトランプとバイデンの討論会のようなことをやっているが、トランプもバイデンも、どちらも資本主義の人じゃないか。
バイデンは見るからにまともな保守派で、トランプはそれに挑戦する小金持ち。どちらも資本主義者、どちらも民主主義者。はっきり言って、まったくつまらない。
だからといって、社会主義政党に勝ってほしいわけではない。
国連はSDGsという「持続可能な開発目標」を定めているが、トランプもバイデンも、この国連の考え抜かれた世界を持続可能にしていくための開発目標を頑張っているように見えない。
だが、視点をロシアに移してみると、プーチンは戦争をやめる気がないらしい。つい最近もウクライナのゼレンスキーが悲痛な叫びを上げていた。
はっきり言って、既存の政治家には任せていられない。
僕は本当は、政治家になる気などない。それは、岸田と同じポジションを得たところで、首相の立場でできることをしたところで、それは僕にとって意味を成さないからである。
僕が岸田首相と同じ立場になっても、僕は何もできないだろう。それは僕が馬鹿なわけではなく、立場が間違っている。すなわち、僕の理想の世界を築き上げるためには、日本国の首相などになったところで、それでは何もできないのだ。
だから、僕は政治家にはならない。トランプのような陰謀論を信じているわけではないが、僕はここで、インターネットのこの場所でこの世界を導き、支配する。それが僕にとって今のところ有益である限りそれをやめることはない。
それから、マスコミについて言えるのは、マスコミが争っている「僕」という虚像はどこにも存在しない。最初から僕はマスコミを言い争いによって負けさせるという思惑は存在しない。戦っているように見えるのはマスコミの側だけであり、僕はマスコミのすべてを一切無視している。だから、マスコミがいくら僕の言葉に応えたところで、マスコミは絶対に勝つことはない。それはマスコミは「虚像」と戦っているだけだからである。
そのように、僕はアメリカも信じていないし、ロシアも信じていないし、日本の政治家になるつもりもないし、マスコミの「嘘の戦争」に勝つつもりもない。それらはすべて間違っており、僕の道はもっと別の場所に向かって続いていくだろう。
もう一度言うが、マスコミが戦っている「僕」という存在は虚像である。だから、すぐにそのような戦いを終わりにしてほしい。マスコミの敵対する「僕」という存在は実際には存在しない。実際に存在するのは単なる普通のまともな人間である。
そういうわけで、国連のSDGs (Sustainable Development Goals)を勉強することにした。
SDGsってなんだろう? | SDGsクラブ | 日本ユニセフ協会(ユニセフ日本委員会)
この国連の目標は、まるで僕が述べるような「人類の崩壊」を絶対に起こさない、という固い決意のようなものだ。
僕はまだ、単に簡略化された図を見ただけにすぎないが、よく考えられている。この図に掲載された17の目標のどれもが大切であり、欠けてはならないものであると感じる。
引き続き僕はこの世界を、この世界の事実上のトップとして支配していく。だが、それが僕が東亜イスラエルの小説に述べたような、滅びた世界を作り出すのでは意味がない。だからこそ、SDGsを学び、そしてともに目指すべきであるということが、分かった。
SDGsについて、貧困と飢餓についてのページを読んだ。現実は確かに残酷で、多くの人々、特に子供たちが悲惨であるということが分かる。だが、事実、どうやってこうした問題を解決すればいいのだろうか。それが分からない。はっきり言って、ビル・ゲイツのような金持ちの資産を再分配すればいいのではないか。それ以外に、政府や企業の支援とか援助とか、なにかしらできることは、本当にあるだろうか。やっぱり、金持ちが悪いのではないのか。
だが、事実、世界全体の農業生産率を向上させたいと謳うのであれば、それなりの技術力と農業生産力のある企業にアプローチしないといけないわけで、なかなか難しいと思う。僕は何も分かっていないが、結局は共産主義が正しいと言いたいだけのような気がしてしまう。大資本家の富を奪いたいのではないかという、そのような思惑も見え隠れすると感じた。
ただし、SDGsの言っていることは、特に日本人から見るとまともだ。なぜなら、日本人にはどこにも、目に見えて貧しいことが分かるような貧困層がいない。どの外国でも必ずいるような、みんなよりもはるかに貧しいことが誰でも分かるような貧困層がいない。だから、日本人に対するウケはいいだろう。日本人なら誰に対しても既に達成されていることだが、日本人もよく知っているように、世界にはもっと貧しい国がたくさんある。世界政府を作ってそれを日本がやればいいとは言うが、岸田にはそんなことはできないだろう。
SDGsについて、水の安全な利用に関するところまで読んだ。はっきり言って、アメリカが主導になって行ってきた、「金が儲かるところだけを開発する」という社会のツケが来ている。あるいは、生産力の向上を望まなかった国、開発に対する理解がなかった国が、アフリカのような場所に多い。そのような場所では、今でもほとんどまったく開発が進んでいない。
だが、僕が思うのは、そのような国は、最初から開発などしたくないだろう。最初から原始生活をしていて、女性に対する差別とかが最初からあり、医療や教育に対する期待が最初からない。そのような国だから、貧しい子供たちや不遇な子供たちが後回しにされる。特に女性は悲惨だ。
結局のところ、フランスがやったように、植民地を開発するために奴隷にしてでも「文明化」と呼ばれる強制的な開発行為を行え、ということなのではないかと思った。本当はそれが一番悪かったということは分かっているが、結局その頃にフランスがやったことを自国のために自らやった明治維新の「文明開化」が日本では功を奏している。つまり、今までのアフリカの文化なんか全部捨てて、フランスのような文明国家に強制的に同化せよということだ。
それが間違っているということは誰でも分かる。そんなことをやってもSDGsの目標はまったく達成されないだろう。フランスはどうでもいいが、結局やるべきことはそのような文明化であって、ネットでは中国人が路上で糞をするとか、ホテルのものを破壊して盗むとか、大浴場で洗濯をし始めるとか、そんなことから中国人がまるで最悪の人種差別のように批判されているが、まあ、そういう人間を少しずつ減らしていくしかないのだろう。ただし、中国人も同じように「ビル・ゲイツが悪い」と言うだろうが。
僕はまだ何も分かっていないので、引き続きSDGsのことを勉強していきたいと思う。そして、世界から貧困や飢餓のような子供たちをなくす助けをしていきたいと思う。