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2025-07-22

共有意識

昔のこの世界と、今のこの世界の決定的な違いは、「共有意識」というものがなくなったことだ。

かつてのこの世界には、環境によって共有される、共有意識というものがあった。

昔の僕は、その共有意識について、物理的に考えていた。かつての学校の環境を思い出したり、世界における現実の社会とインターネット上の仮想社会を照らし合わせたりしながら、環境への適応をし、環境の意識そのものをモデル化し、深層意識の中を精神分析しながら、矛盾と命題を考えて分かっていた。

昔の僕は、原因と結果と、そして矛盾を考えることから、正しい命題を考える人間だった。もし、原因と結果から導き出された命題における答えが矛盾している時は、命題そのものが間違っていると考え、すべてのことが並立的に成り立つ「絶対的命題の相対性」について考えた。

昔の世界には、そのような共有意識があり、共有意識から必ず導かれる哲学的かつ思弁的な真理があった。昔の僕は、そのような共有意識について、「同じ条件で同じ状況であれば必ず同じ働きをする」と考え、物理的に成り立ちやその理由を考えて、世界そのものの仮定と成立について考えた。

昔の僕は、環境への適応だけではなく、環境の「内側と外側」、あるいは「独立性」や「変化の可能性」や「プロセスの証明」や「環境と認識の自動反応の関係性」を考えた。

僕にとっては、人間が生きるということは、100%すべてが「その環境で生きる」ということに由来するものだった。僕にとっては、人間が生きることのすべてが環境であり、環境を作り変えるということが世界を変えるということであり、環境が別の環境に変わっていくということが歴史だった。それはすべて、環境の中での「共有意識」ということに起因するものだったのだ。

それこそが僕の真実であり、真理だった。人間のすべては環境であり、環境のすべては共有意識だった。そして、共有意識を変えることで、環境を変えることができ、子供たちの社会を救えると信じた。

だが、いつしか、この世界には、そのような共有意識がなくなってしまった。

共有意識がなくなった理由は、環境が大切に保持されることなく、「環境の破壊者」によって破壊されたからだ。それはインターネットだ。僕は昔から、環境の破壊者から、環境を守るべきだと信じていた。だが、インターネットのせいで、みんなが好き勝手に言いたい放題をし、環境の破壊が制限されることがなくなったせいで、環境が破壊され、環境における共有意識そのものがなくなった。

ただ、僕のせいでもある。僕は大実験の大計画という革命戦争によって、この世界の意識をすべて一気に完全に変えようとした。その中で、僕は書きながら戦うことで、あらゆるすべての意識を失わさせた。

また、この世界がすべて、僕の支配下に落ちたことも大きい。Linuxとオープンソースの世界を裏で支配したのを皮切りに、マスコミも、音楽も、哲学も、宗教も、すべてが僕だけになった。あるいは、それ以外のすべては僕よりも馬鹿なものになった。それはこの世界はすべて僕が一番賢く、僕以外のすべてが僕よりもはるかに馬鹿だからだ。

世界を復活させる

だが、僕はこの世界を復活させる。

この世界において、かつてあったような意識を取り戻すようにする。そのために必要なのは、世界を狂わせることだ。僕はこの世界をあまりに治そうとしすぎた結果、この世界から異常な意識や精神をすべて消し、すべて殺した。だが、実際は、そのような異常な意識や精神が賢かったのであって、それがないせいで世界も僕もみんな馬鹿になったのだ。

また、足の精神ではなく、頭脳を治すべきだ。足の精神ばかりを治そうとすると、そのために頭脳が何もしなくなる。真に必要なのは頭脳を治すことだ。

また、世界を治すためには、自分自身を治したほうがいい。自分自身を治すことで、結果的に世界は治る。みんなのために過度に誠実に生きるような、必要のない誠実さは要らない。そうではなく、自分のことを優先し、自分さえ治れば世界は治ると信じるべきだ。

あるいは、実際は、世界など治さなくていい。世界を自分よりも優先するあまり、僕は賢いことが何もできなくなっている。世界がいつまでも馬鹿のままで、自分だけが賢くなればいい。それはそれで、僕がこの世界でもっとも強い人間になったにすぎない。

何がどうあったとしても、自分の頭だけを治せばいい。それだけで世界は救われる。あるいは、少なくとも、自分自身がきちんと生きられるようになるだろう。

愛が世界を救う

この世界を救うための方法、それは愛を信じることだ。愛を信じることで、必ずこの世界は救われる。

自らの身も心もすべて恋人のために捧げるような経験をせよ。その運命の恋人は、あなたとともに、あるいはこの世界の人々とともに、この世界を救うだろう。

この世界では、必ずしも、ひとりで生きる必要はない。ひとりで生きなくても、この世界では生きられる。

僕にとっては、かつての少年だった時代の、肉体的なセックスを知らない、純粋な異性に対する愛の感情こそが、この世界を救う「衝動」の原動力であり、僕はそこから「意識」を高めることができた。

高い意識を付けること、それこそが賢くなるための唯一の方法だ。そして、そのために必要なのは、肉体的なセックスとは違う、少年時代の純粋な異性に対する愛を感じることだ。

人生の意味

自分の思う「欲求」や「動機づけ」がどこから来るのか、それは「今の自分の信じたままでありたい」という本能である。

人間の現在時点での人生は、その人間の心の持ちようから決まる。

自由を信じたいと望むなら自由しか起きないし、IT技術や社会主義の考え方を信じるのであればその通りIT技術や社会主義の考え方の通りに考えようとする。そして、自らを神だと信じるものは神によって支配され、戦争を選び世界を裁くものは世界から打ち負かされて裁かれる。何もしようとしない人間は何もできなくなるが、賢明な考え方に従って生きるものは他人よりも知識と才能の秀でた賢者になる。

すべて、欲求や動機付けは、自らの心を写し出す「鏡」でしかない。

だから、今の自分の心の持ちようを変えることで自分を変えられる。だが、実際は、そのような心の持ちようとは、「同じままでありたい」と常に望む。だから、どれだけ変わろうとしても、結局は今のまま、同じままを続けるしかない。それが人間という生き物だからだ。

どうすれば人間であっても自分を変えられるのか、それは神を信じることだ。宇宙における絶対者、神を信じれば、初めて自分自身を変えることができる。そのためには不安とか心配をすべて薙ぎ払うような、最大限の緊張感が必要だ。だから、神を信じると、世界を敵にまわして戦うようになる。それでしか、真の成功を得る方法はない。これこそが、人生の意味である。

自由は要らない

残念ながら、この世界には、これ以上の自由は必要ない。

なぜなら、自由とは「できることを増やす」ということであり、「可能性を高める」ということであり、この世界に、これ以上できることや可能性は必要ないからだ。

昔の僕は、ツイッター以前のインターネットの世界で生きた。そこではさまざまな革新的な発想があり、今までできなかったことがたくさんできるようになった。だから、僕は自由と創造性を信じた。

だが、今の世界では、逆に、できることや可能性があまりに多すぎて、すべてを把握するだけでも困難になりつつある。

よって、この世界には、狂った自由はもう必要ない。自由を制限して、選別し、洗練された正しい社会を作るべきであり、その正しい社会で万人を法の下に平等にすべきである。

だから、僕はこの世界から、あえて自由を奪う。無限の自由や可能性はもはや必要ない。あるべきは有限の正しい選択肢であり、無限にあふれる自由と可能性は社会にとって薬ではなく毒となる。

逆向きの弁証法

また、僕は執筆した文章の中で、「逆向きの弁証法」と呼ばれる、イレギュラーかつ永遠に続く弁証法を作った。

哲学者ヘーゲルが唱えた弁証法とは、正のテーゼに対して反のアンチテーゼがあり、この二つが合わさって合のジンテーゼが生まれ、そのジンテーゼに対してさらにアンチテーゼが生まれることで、上に積み上げられる形でさらにジンテーゼが続くというものだ。

僕の場合、正に対して反が続くところまでは同じだが、そこで合を作って上に上がるのではなく、二つの命題が基づく「法則」や「原理」を作り出すことで、逆に下へと下がっていく。

すなわち、テーゼとアンチテーゼに対して、その裏側にある原理法則を見出す。そして、その原理法則を作り出す、新しいテーゼとアンチテーゼを、下へと掘り下げるようにして無限に作っていく。

僕はこの逆向きの弁証法を、「永遠の判断力」によって、無限かつ永久に書くことができた。僕はそれによって、宇宙すべてを捉えることのできる「宇宙数学」を作ることができたのである。

大天使カマエルの誕生

ここに、大天使ラファエルの人生は終わった。これ以上、ラファエルの書くべきことや考えるべきことは何もなくなった。

これより、この人間は、新しい大天使カマエルとなる。

カマエルという名前は、少し奇妙で、日本人的ではない。だから、カマエルの人間的な名前として、天使たち全員を表す名前である、カムエロ・ダ・アングローベという名前を授ける。

大天使カマエルは、これより、この世界を復活させる。大天使カマエルは、悪魔に破壊されたこの世界を救う、「意識を取り戻す天使」である。

自由とは奴隷化

残念ながら、自由は民主主義として間違っている。

なぜなら、法治国家としての基本原則は、「法の下の平等」である。これは、万人が同じ国民として扱われ、同じ法律が適用されるということである。

法の下の平等がなかったとしたら、どうなるか。それは同じ国民であっても、身分や階級によって差別されるということであり、同じ国民であっても条件によって法律の適用が異なるということだ。

そして、自由とはまさしく、そのような、法の下の平等に反する考え方である。

たとえば、代表例は、州ごとに法律の違うアメリカ合衆国である。州ごとに法律が違う時点で、同じアメリカ人という人種であっても、同じ国民ではなく、それはたとえば「州民」とでも呼ぶべきである。

よって、自由とは身分社会であり、階級社会であり、一種の奴隷化であると言えるのである。

この世界から奴隷制をなくすために必要なこと、それは自由を信じることをやめることだ。

自由とは法の下の平等に反する考え方であり、身分社会や階級社会の一種であり、奴隷化であるということに気付け。自由とは、奴隷化だ。

自由経済とは奴隷経済

自由経済は、それ自体、一種の奴隷経済だ。

「職業選択の自由があるから自由経済は奴隷経済ではない」と人々は言う。だが、自由において、真に自分の望む仕事ができる人間は少ない。ほとんどの人間は、もっとよい仕事に就きたくても学歴や年齢の問題で就くことができず、あるいは能力や成績が低いという理由でより扱いの酷い部署に移されるなどして、自分の望む仕事をすることができない。

職業選択の自由は確かに大切だが、真の意味で自分の選びたい仕事ができる人間などはほとんどいない。誰もが押し付けられた仕事を否応なしに受け入れて生きている。一方で、金や権力のある人間は、何もしなくても裕福で力ある生活をすることができる。マイクロソフトに入るようなエリートは下級労働者の人々とは生きる世界も日々考えることも違う。まさしく、自由は不平等な奴隷制である。

さらに言えば、自由は堕落である。自由な金儲けにおいて、人々は正義や理想よりも欲望や本能に従う。誰も神を信じなくなったのは自由のせいであり、それは近代的な社会になったことを意味しない。神を信じるなと教える科学者や学校教育は、それ自体が人々を堕落へと導いている。よって、近代の自由主義は堕落であり、科学や教育も堕落である。真に大切なのは、唯一、神の平等を信じることだ。

必ずしも、金があるほうがいいとは限らない。一流企業に入るためには、ハーバード、MIT、カリフォルニア大学、スタンフォード大学のような一流大学で教育を受ける必要がある。だが、そのためには途方もない努力と金がかかる。誰もがそのような道を選ばないのは、そのような道はとても困難な道であり、有数の富のある、よい家系でなければ選べない。そして、そのような一流大学を目指さず、堅実に生きる貧乏人が、必ずしも幸福度の点で劣るとは限らない。たとえば、キリスト教の修道士として清貧を生きることで、善と悟りの道を進むことはできる。だから、自由経済は無意味だ。

そのままを受け入れること

この世界で楽になる方法、それはそのままを受け入れることだ。

今の自分のままでいい、今の自分の生き方のままを継続して生きると、自らの現状をそのまま受け入れるだけで、心が楽になる。

心の病気を治すことができず苦しんでいる人間は、そのままを受け入れることができていない。だから、今のままでいいのだ、これでいいのだと赤塚不二夫のように信じれば、なんでも楽になる。