ホームページに戻る | 紅蓮と黄金の出会う場所に戻る

2024-10-25

ものをそのまま考えるのではなく法則を見ようとせよ

哲学的にこの世界を捉えるために必要なこと、それはものをそのまま考えるのではなく、法則を見出すようにすることだ。

哲学ができない大人は、学校で習う科学のせいで、ものをそのまま考えて分かろうとしている。

物理も、生物も、あるいは歴史も、社会科も、学校で習うお勉強では、宇宙に存在するものの形や性質をそのまま考えようとする。

あるいは、それを単に「表現」という、さらに単純なものに劣化させてしまうのが、美術や音楽といった人間の作り出した芸術だ。

文学もそれと同じようなところがある。非日常と冒険を書く小説家は、楽しさや面白さが分かっているが、その代わり、宇宙の本質的な法則を考えようとしていない。

宇宙を哲学的に捉えるために必要なのは、そのように、ものをそのまま考えるのではなく、本質的な法則を考えようとすることだ。

これは言語学的に言えば、主語ではなく述語を考えるということだ。すなわち、名詞や形容詞や副詞から考えるのではなく、動詞や助動詞や前置詞や接続詞から考えるということだ。

法則を捉えるために必要なのは、「何が真に本質的な法則なのか」ということを考えることだ。

たとえば、政治経済を考える上で、あらゆる法律やルールが法則であると言えるが、そのすべてが重要な法則ではない。ほとんどがどうでもいい些細なことに関する法律であり、本質的な法則ではない。

政治経済における本質的な法則とは、「民主主義」や「憲法」、すなわち基本的な国家体制である。

その基本的な国家体制も、すべてが重要ではない。なぜなら、国家体制そのものを学ぶことは目的ではなく、国家において「自らあるいは自らと同じ人々が、その国家で何を為すことができるか」ということを考えることこそが真の目的だからだ。

すなわち、国家を成り立たせるということは重要ではなく、国家を成り立たせるための社会法制も重要ではない。真に重要なのは国民が何をすることができるのか、どのように生きることができるのかということだ。あるいは、人々が「まさに今どのように生きているのか」ということを考えることこそが、社会において重要なのである。

そのように、重要な法則と、重要ではない法則がある。そして、世界に多く存在するほとんどのことは、重要ではない法則だ。あるいは、重要な法則だと信じているのであれば、一度それを疑ったほうがいい。なぜなら、真に重要な法則というのは宇宙にはとても少なく、ほとんどの法則は重要ではないからである。

たとえば、子供の頃に感じていた素朴な疑問について言うのであれば、ものや表現や心のようなものはほとんどすべて重要ではない。だが、すべてが重要でないわけではない。その中で重要なことは本当に少なくて、そしていくつかある。そのような「本当に重要な法則とは何か」ということを見つけることこそが、子供の人生を卒業して、大人として成長するために真に必要なのである。

では、まず、何から考えればいいのか。それは「人間にできることは何か」ということから考えることだ。あるいは、「人間が真に知り得ることは何か」ということから考えよ。すなわち、歴史的・社会的・文明的あるいは心理学的に、人間は何ができて、どのような状況であればどのようなことが分かるのかということをまさに考えよ。それは「環境を想定する」ということだ。そのようなことから考えることで、宇宙そのものを人間が観測し行為し他者に作用するということが分かるようになる。

同時に、「知識とは何か」ということを考えよ。それは「知識は決してものをそのまま写し取るだけではない」と考えること、あるいは「そのまま写し取るだけの科学はすべて無意味である」と考えることだ。

そのように考える中で、「他人に対して、あるいはこの世界に対して自分が何をできるのか」ということを考えることで、「自らがどのような人間に真になりたいのか」「自らがやりたいことはどのような人間になればできるのか」ということも見えてくる。

そして、それを踏まえて人生経験をすることで、「真に重要な法則とは何か」ということを、経験から裏付けることができる。それはまさしく、「自らの人生こそが重要である」ということであり、「人生で経験して分かった法則、すなわち経験から自分の知性を使って分析し発見した法則こそが重要である」ということが分かるだろう。

可能性から予測する

あらゆるすべては「予測」から始まる。

そして、予測するということは、「可能性がそのような結果になると期待する」ということだ。

可能性を期待するためには、常に同じ条件でそれが同じ結果になることを知っておかなければならない。

また、その可能性において、何かの結果が何かの原因によるものだと知るためには、その原因がどこにあるのかを分析し、解き明かし、暴き出す知性が必要だ。

だが、必要なのはそれだけだ。それだけで、この世界における「法則」を考えることができる。なぜなら、法則とは、可能性を予測することだからだ。

そして、そのための方法論を考えることで、たとえば「事前にできるようになった上でその決断や選択を留保する」という真理が見える。あるいは、「その状態が何を意味しているか」という真理も見えてくる。そして、「宇宙において当たり前だと思っていたことが、どんなに希少で大切なものなのか」ということも見えてくる。

哲学者は、知をすべて知っているが、だからこそ知に驚く。なぜなら、この世界には驚くべきことがたくさんあるからだ。その驚くべきことがなぜ驚くべきことなのかを知るためには、原理を知らなければならない。その原理は経験から裏付けされるものであり、人々は当たり前だと思っているが、本当は宇宙レベルで見ると決して当たり前のことではない。そのような原理を知ることで、人間はひとつ賢くなれる。宇宙において、今何が起きているか、ということを本当の意味で観測するためには、単に観測するだけでは十分ではなく、そのような原理的な驚くべきポイントに気付いた上で観測しなければならない。

最後に、科学は間違っている。それは科学という考え方や本質が間違っているのではなく、今の人類が行っている科学のやり方や方法が間違っている。真に正しい科学をするためには、デカルトやニュートンに従っていたのではいけない。もっと正しい科学の方法がある。科学と同様に、政治も同じで、政治という考え方や本質が間違っているのではなく、今の人類が行っている政治のやり方や方法が間違っている。

だが、必要なのは、単に否定することでなく、「もっと別の方法があるのではないか」と追究することだ。それこそが哲学的な可能性の具体化をもたらす。すなわち、「もっと正しいやり方があるはずだと考えて既存のやり方を疑うこと」こそが必要なのである。

社会における革新的なものを信じよ

社会における革新的なものを信じよ。

この世界が新しくなって、別の世界に変わっていく、ということを肯定し、受け入れよ。

なぜなら、それこそが、「今の世界よりももっと別のやり方や方法があるのではないか」ということを疑う、ということだからだ。

同時に、過去の歴史上の社会において、正しい点は肯定し、間違っている点は否定せよ。過去の世界を古いからという理由だけで否定するな。だが、現代の科学で分かった「失敗や過ち」については否定せよ。なぜなら、それこそが現代人に求められる「歴史を捉えるための正しい姿勢」だからだ。

過去が今において過去であるように、現在も未来においては過去になる。だからこそ、今のどのような原因が、未来におけるどのような結果に繋がるのかということを考えた上で、「未来はこのようであるべきだ」という確信を抱け。そして、そこから過去・現在・未来へと繋がる一連の流れを見ようとせよ。

そして、そのために、最先端の科学技術の進歩を信じよ。それがこの世界を新しい世界へと変えていく。人間を模したロボットを発明することはいいことだし、宇宙の天体からミクロな量子までの世界を解明することはいいことだ。そのようなことを信じれば、この世界はさらに哲学的な未来へと進歩していくだろう。

最後に、すべての人間を尊重せよ。すなわち、それぞれの人間は自らの趣味趣向が異なる。社会において信じる思想も異なるし、価値観も異なる。そのような異なる価値観を持った人間を、異なるからというだけで拒絶するのではなく、相手の自由を尊重して受け入れようとし、価値観の多様さがある社会を作れ。それが本質的に哲学と合致する考え方だ。まさに、哲学とは自由を信じることだ。

道教の教えが正しい

そして、人間の人生を正しく生きることで、この宇宙のことはすべて分かることができる。

だが、人生を正しく生きるとはどういうことか。

それはまさしく、老子による道教の教えが正しい。

自然と調和し、宇宙と調和し、地球と調和し、歴史のすべてと調和し、ありのまますべてを晒して生きるのであれば、世界に起きるすべてをありのまま受け入れることができる。自ら自身も、他人から受け入れられるように生きられる。そのような状態では、自分が人為的な行為によって何かをする必要がない。何もしなくても自分は完璧であり、何をしても何をしなくても変わらない。

そう、まさしく、老子の道教の教えこそが正しい。

道教の教えが言うように、「道」(タオ)を求めて生きよ。この世界に存在する、有でもなく、無でもないもの、人為的なすべてを排除して自然と調和した時に宇宙において見えてくるような、存在するのでも存在しないのでもないもの、さらに言えば「有と無は同じことである」とすら言えるもの、すなわち「道」を生きることこそが、人間の人生を生きるもっとも理想的な到達地点である。

そのような道教の到達地点においては、生きる意味など存在しない。なぜなら、生きる意味それ自体を求める意味がそもそもないからだ。すなわち、「意味が意味がない」のであり、「意味を求めるということ自体に意味がない」。道教の教えの到達地点においては、何をしても意味はなく、何もしなくても意味はあり続ける。だから、何をする必要もないし、何もしなくてもそれで自らを肯定できるのである。

応用を自由自在に考えられるような概念と方法による基礎を作れ

数学には、唯一、正しい点がある。

それは「基礎」と「応用」に分けて考えるということだ。

すなわち、応用を自由自在に考えらえるような、基本的な「概念」と「方法」による基礎を作るということ、その点において数学は正しい。

別の言葉で表現するならば、「一般」から始まって「特殊」に至るということだ。あるいは、「共通」から始まって「専門」に至るということだ。

だが、専門のどれかを選ぶ必要はない。

なぜなら、自分自身の手であらゆる専門に対する「基礎」を作ってしまえば、まるでアリストテレスのようにどんな「専門」であっても自分の手で作ることができるからだ。

すなわち、あらゆるすべての専門を勉強することは不可能ではない。なぜなら、自分自身の手であらゆるすべての基礎となる概念的かつ方法的な「考え方」を作ることができる。

これは科学や学問だけに限らない。あらゆるすべての職種の経験を得ることも、あらゆるすべての本を読むことも、あらゆるすべての人間と同じ経験をすべて持つことも可能だ。すべて、自分自身の手で基礎を作ることで、あらゆる応用をその土台の上に作ることができる。そのために、論理的な「概念」と「方法」を考える。あるいは、「経験を概念的に考える」ということを行えばいい。

そこから見えてくるのは、「経験を成立させる」という真理だ。それは何も経験だけに言えることではない。すべてのあらゆる基礎的な考え方を成立させるということから、どんなことであっても視野を広げて新しい見方を得て「気付く」ことができる。そして、それこそが僕の行き着いた「究極的真理」である。僕は「あらゆるすべての応用を基礎的な考え方から成立させる、それはまるで経験を成立させるように」ということを発見した哲学者である。

さらに言えば、社会を成立させるということは、経験を成立させることから可能であり、それは自らの知った知性を人々に与えるための可能性を許すことが可能であり、その可能性の成立が可能であるということを意味する。すなわち、経験を成立させることで人々の状態に可能性を促し、それによって社会を変えることができる。まさしく僕はそのように、心を促すことによって世界を変えた。それこそが、僕の信じていた「絶対にこの世界の子供たちの心を救うことはできるはずである」という確信であり、その確信に基づいて僕は現実社会のすべての常識と非常識を疑ったのである。