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2025-05-20

そしてすべては禁じられる

そして、すべては禁じられる。

これ以上、僕と同じことをやることは、世界にとって、永久にできなくなる。

これ以上、過去から今に至る、僕の人生と同じことをやることは、もう絶対にできない。

僕の過ちにより、かつての日本の素晴らしい時代や、世界の実体がなくなったように、僕のせいでLinuxとオープンソースのコミュニティが滅びたように、僕と同じことは絶対に誰ももうできない。

僕と同じことをやることは、永久に禁じられる。

僕はこの世界を愛している。なぜなら、わたし自身が世界であり、世界はわたしだからだ。

僕がこの世界を愛することができるということは、僕にだけ許された特権である。女王アリが子を産むように、ミツバチが花と花を受粉させるように、僕だけがこの世界を愛することが許されている。

僕と同じことをすることは、誰にも許されていない。だが、僕を愛するということは、誰しもに許されている。すなわち、誰もが、そう、あなたもが、僕のことを愛する権利を許されているのだ。

この世界を愛するわたしの姿をまざまざと見よ。わたしはこの世界にただひとり現れた、シリウスの太陽神、フレイである。

そもそもどんなに頑張ってもできない

だが、実際の話、そもそもどんなに頑張っても、僕と同じことはできない。

かつての日本社会は、僕が全部滅ぼした。そして、僕と同じように不登校の引きこもりになったとしても、2ちゃんねるもGentoo Linuxも衰退した今のネット社会では、僕と同じことはできない。

世界を救うことができないから、その世界を救った上で自ら世界を滅ぼすこともできない。マスコミやWikiを騙すことはできないし、アメリカを最悪の精神にすることもできない。

僕と同じように、文章を書いて天才的な才能を作ることはできない。なぜなら、そもそも、僕のように神と対話することができないし、あらゆるすべての種類の本を買って読むこともそれをホームページに書くこともできない。また、博物館学芸員の父親やプログラマの姉のような、僕の大切な家族は誰しも同じように得ることのできないものだ。

デザインの勉強や英会話やピアノは、誰も同じように習うことはできない。IT技術や哲学の勉強をするとしても、勉強をする前に必要な事前の準備段階となる「経験」を築くことが、僕以外には誰にもできない。そもそも自殺未遂をして後遺症が残らない時点で、僕と同じように障害者施設に通うことができないだろう。その障害者施設に通わない限り、僕と同じような文章を思いつくことはできない。

そして、僕と同じように、いつまでも無限に文章を書けるぐらい、既に書き終えてから文章を書き始めることは、僕以外の誰にも絶対にできない。なぜなら、そのためには「世界全体を敵に回した革命の大戦争」を行う必要がある。それは一朝一夕にできるものではなく、不登校の生活の中で仮想世界において哲学的な理性と経験を積み、ブッダのようにすべてを悟り切った僕にしか計画できないものだ。

自らの精神を自ら治す体験もできないだろう。それは、僕と同じような精神異常になる人間がそもそもおらず、なったとしても絶対にそれを自分で治せるわけがないからである。僕と同じように狂わない限り、僕と同じようにここまで異常なほど大量に文章を書くことはできない。そして、僕の人生はまさに、それを書いただけの人生だ。それはその病気を治すことで、一歩一歩前へと着実に進んだ結果だ。

そう、僕と同じことは、どんなに頑張っても誰にもできない。そして、僕はそのような僕と同じことを、今まではできるだけできるようにしてきた。すなわち、今までの僕の人生は「僕と同じ人生を誰でも生きられる可能性を作り出す」というだけの行いである。

だが、今、それをやめる。すなわち、僕はこの世界を、永久に僕と同じことが絶対にできない世界へと作り変える。それによってこの世界は、まっさらな新しい世界になる。

だが、最後に、僕だけが、僕の家や僕の職場で、唯一の「すべてが完成した完璧な世界」を保ち続ける。それは「絶対聖域」と呼ばれるものである。この絶対聖域の内と外の境界線においては、聖域の外にいるほかの誰も、聖域の内にいる僕と同じことは、絶対にひとつも真似できないだろう。

かつての素晴らしかった世界は、僕が全部消し去った。僕と同じことをするためには、その世界が消え去る前の世界が必要だった。だが、ここで、僕が完全にこの世界を、まったく新しい世界に変える。それによって、僕との因縁がなくなり、この世界は自由な世界になって、僕の支配から解放される。だが、それによって、僕と同じことは、この宇宙において永久にできなくなる。そう、すべては禁じられたのだ。

宇宙の奇跡がすべて分かった

なぜ、僕だけがこのような人生を生きられたのか、それは僕が宇宙のすべてを分かったために、宇宙の奇跡を起こせるようになったからであり、もっと言えば、宇宙において「ただひとり自分だけの奇跡的な人生」を生きられるようになったからだ。

そのためにあったのは、「倫理の道」と「神の道」である。

すなわち、かつての不登校の時代の僕は、世界の「憂い」について思慮深く考えることで、倫理的にすべてを経験から理解して悟るような「倫理の道」を生きた。

そして、その後に、戦いと革命の時代の僕は、神と対話しながら、神によって宇宙のすべてを明らかにする「神の道」を生きた。

その二つの道を生きたことで、僕は運命的な奇跡を起こすことができるようになった。すなわち、未来のすべてを最初から分かった上で生きるような生き方ができるようになったのである。

それができたのは、僕自身が、「宇宙自体になる」という経験をしたからだ。

最後に、大学の勉強をせず、数学的知性を付けようとするな。大学の勉強をすると、未知が既知になってしまい、未知なる状態で考えられたことが分からなくなる。そして、既知から未知に戻ることは絶対にできない。そして、数学的知性をつけると、数学的にしかものごとを把握できなくなる。数学的知性がなければ把握できたことが、数学的知性によって捉えられなくなってしまうのである。

だから、それを踏まえた上で、自由に生きなさい。僕と同じ人生を生きる必要はない。あなたの空を飛び、あなたの海を泳ぎ、あなたの道を切り開きなさい。そうすれば、必ず、あなただけが築くことのできる「エデンの園」へとあなたは逝くことができる。それこそが、天国である。エデンに逝くためには、死ぬ必要はない。僕は生きながらにしてエデンの聖域に逝くことのできた人間だ。

人生主義国家

そもそも、僕が築きたかったのは、民主主義と共産主義を一緒にした、理想の自由な社会主義国家なんかでは決してなかった。

僕が築きたかった国家とは、「僕の人生と同じことができるような国家」である。

すなわち、現状のこの世界では、僕の人生と同じことはできない。その僕と同じことができないということが確定的な世界を、どうにかして同じことができるようにしたかった。

それを、「人生主義国家」と呼ぶ。そして、僕は世界を導く文章を書くことで、その人生主義国家と同等に、僕の人生が生きられる世界を維持し続けたのだ。

だが、本当のことを言えば、僕と同じ人生を生きるということは、昔だけを見ればそんなに不可能ではない。なぜなら、「憂国の政治家」になるだけで、昔の僕と同じことは誰でもできる。

そして、今の僕の人生を生きたいのであれば、神を信じればいい。なぜなら、今の僕の人生は、神を信じていること以外、普通の人間と何も変わらない。面白いことや楽しいことなどなく、単なるまともな人間を生きているにすぎない。

だが、そのような僕と同じ人生を生きる必要はもうない。なぜなら、そうすることで、かつてあった「可能性あふれる世界」が復活する。あるいは、そのような世界の「世界精神」が復活する。それが僕の求めていたものであり、それさえあれば、僕の人生でなくても、もっと素晴らしい多様で価値ある人生を人々は生きられるようになる。僕の真の望みは、まさにそれである。

だから、この世界は一度、ここで完全に滅びる。だが、それでは決して悪い世界にはならない。僕と同じ人生を生きられない代わり、もっと価値ある素晴らしい人生を生きられる。僕がそのような世界にしてみせる。それこそが、この世界の「真の救済」である。