自由よりも支配が正しい。
今までの僕の話とは逆行するかもしれないが、実際のところ、最近の日本は自由すぎる。
「自由」という言葉は、楽園や理想郷を連想するが、実際は自由とは「頭の悪い社会」のことであり、「知性のない狂った社会」のことである。
また、「支配」という言葉は、締め付けや制限を連想するが、実際は支配とは「きちんと分かっている人間が社会を治める」ということであり、「常識と経験のある知性のある社会」のことである。
今の日本は、あまりに自由すぎて、逆におかしい。それぞれが自分勝手すぎて、間違っているものに対してなんらかの批判をしても、その間違っているものがその批判に同意しない限り、批判には意味がない。結局、批判することに意味はなくなり、自分の意見を肯定してくれる仲間とだけ付き合いながら嫌いな意見は最初から聞かないようになり、どんどん「わがまま」な世界になっていく。
社会的に豊かであるということも、わがままを助長する。何も努力しなくても最初から社会が発展しているせいで、社会のために困難なことを努力するという発想がなくなる。努力しないのは自分のせいではなく、努力しろというのは社会的な圧力であると考えるようになる。自由においては、「努力する」ということの意味が分からなくなる。
まさに、伝統的な日本的価値観からいって、「自由」こそが間違っている。
必要なのは、賢い人間が支配することだ。賢い人間とは、優れているとか、知性が高いとか、立場が強いとか、そういうことだけを意味しない。社会を救うために情熱とビジョンを持ち、常識と独自の知性を併せ持ちながら、みんなの分かっていることや思っていることをきちんと知った上で、「みんなの全員が分かっていることの集合」よりもさらに高い立場にある「支配者が分かるべきこと」を分かっている人間、それが賢い人間である。
残念ながら、この世界はどんどん支配ではなく自由の方向に向かっている。自由においては、人々は最初から自分勝手な社会環境で生きるため、コミュニティをきちんと築くということすらしない。自分の仲間だけを信じて自分の敵をすべて排除する、それが自由である。だから、自由を信じると、自分とは違う考え方を持つ人間のことを理解したり、さまざまな多様な価値観がある人々にとって互いのことを尊重する平等な共同体を築くということをしなくなる。自由はそうした考え方を否定する。
だから、今こそ、もう一度「人類はどのような文明を築くべきか」ということ、そしてそこから分かる「歴史においてどのようなその時点の発展レベルで、人類は自由な文明の歴史を歩んできたのか」ということに立ち返り、もう一度正しい「支配」を行うべきなのである。
自由を否定し、支配を肯定することで、人は人生において「大人になるための成長」を経験できる。自由を信じずに、大人になるために成長を経験することで、社会性を身に着けることができ、実際に支配したとしても破綻や破滅のないよい世界を築くことができる。
なぜ、自由を否定する必要があるのか、それは戦うためである。すなわち、この世界を変えるための「正しい支配」を行うためには、「正しい戦い」をしなければならない。正義を信じて悪を倒し、世界を決して滅ぼさずに支配して導いて変えていくような、そのような「世界を解決するための戦い」を行わなければならない。
社会の問題について、自由にして放っておけばよくなると考えるのは間違いである。実際には、自由にして放っておけば、誰も問題を解決できなくなって、結果廃墟のように国は亡びる。だれかがどこかで、きちんと支配して問題を解決しない限り、自由にしたままで放っておいても、社会は決してよくならない。必要なのは「世界を改善し、問題を解決し続けるような支配者の戦い」である。
大人になるとはどういうことか。それは「社会性を身に着けて社会経験から世界を支配できるようになる」ということである。すなわち、成長し、大人になるということのためには、自由を否定して支配を肯定しなければならない。そのためには、単に支配する経験だけではなく、世界のさまざまな人間の経験を吸収する必要がある。世界の人々がどのように生きているのか、ということを、身をもって分からなければ、決して支配者になることはできない。世界全員の経験をし、実地的に世界の声を知ることで、はじめて世界の人々を支配し、統治し、問題を解決に導くことができる。
そして、そのためには「戦い」をしなければならない。なぜなら、戦うことでしか解決できない問題があるからだ。この世界を真に変えようと思うのであれば、支配者となって世界を導き、あらゆるすべての問題を解決し続けながら、世界を決して滅びないように守った上で、この世界をたったひとりで支配しなければならないのだ。
社会制度とは何か。
社会制度とは、誰かが考えた「賢い意見」があったとして、その賢い意見が実現されるような「実現性」を作るためのシステムだ。
すなわち、国民が賢い意見をただ考えただけでは、その賢い意見は現実に具体化することはできない。
たったひとりでは実現できないようなビジョンであっても、会社組織に入って出世したり、会社を起業したり、金を稼いで株主になったり、あるいは政治家になって政党に入ったり大臣になったりすれば、そのようなビジョンを実現することができる。
世界にとって、有益な「自由」があるとしたら、その自由とは、ひとりでは実現できないような意見を、どのようにしたら社会全員で実現できるのか、ということである。
自由を実現するためには、方法や手段がたくさんある。金儲けだけではなく、会社を作ったり大企業で上役になったりすること、政治家になって政党に入ること、あるいはそのほかにも多くのやり方が存在する。あるいは、そのやり方をどのように実現するか、それが「政治思想」である。王国では王がひとり支配し、民主主義では金と自由と多数決と議論の下に行い、社会主義ではカール・マルクスの理論の下に平等に労働者全員が団結して行う。
また、意見と意見は対立することがある。対立した意見をどのような争いの下に平定するか、ということもまた自由である。そもそも、争い自体を最初からなくすことができないのであれば、無理やり争い事を根絶するよりも、正しいフェアな条件で争い合うことのできるような「争い合う自由」もまた尊重すべきである。
さらに言えば、そのような社会制度以外にも社会はある。それは「自由に社会を作る」ということである。法律を決めることができるのは、その法律が適用されるよりも前の時点であり、未来のことまですべて分かった上で法律を作ることはできない。将来的な柔軟性という意味においても、法律で社会を築くことよりも、法律なしに自由に社会を築くことを尊重し、法律ですべてを決めすぎないようにすべきである。
神を信じよ。
正しい生き方とは、神を信じる生き方である。
神は常に善良なものに味方する。神はどんなに悪人であっても、その悪人を善良な人間に作り変えることができる。なぜなら、神は「真の成長とは悪人が善人になること」であると知っているからだ。
神を信じることで、どんなに馬鹿で愚かな人間であっても、どのような地獄からも救われる。
神を信じることで、宇宙のすべてを知ることができ、運命を書き換えることができ、どんなに強大な敵であっても、その敵よりも善良であれば、その敵に勝利することができる。
神を信じることでしか、どのような成功も得ることはできない。失敗を作り出すのは人間だが、成功を作り出すのは神である。
神は善良な人間にしか味方しない。神はその人間の望んでいることを叶えるが、悪人であればよい叶え方をせず、悪い叶え方をする。たとえば、レイプばかりを望む人間を神はレイプする。女のことをレイプしたいとばかり望む人間を、神は女にしてレイプする。決して、それはよい体験にはならないが、神は「女になってみんなからレイプされたい」と望む人間の望みを叶えただけにすぎない。
そのように、神は望みを必ず叶えるが、悪人が「望みが叶っていない」と思うのはその人間のせいであり、神のせいではない。神はすべての人間のことを平等に愛し、すべての人間の望みをそのままの状態で叶えている。だから、神によって救われたいのであれば、自分自身から変わる必要がある。そのことをよく理解しておかなければ、神を信じても人生は何もよくならない。
社会主義の失敗の原因、それは生産手段を作ることができなかったことだ。
社会主義においては、農業機械や工場のような「生産手段」を、資本家から奪って国営化し、生産手段を共有することで、人々は平等かつ楽に労働できると信じていた。
だが、実際はそれは失敗した。その失敗の理由は、「生産手段」を盗んで奪うことでしか得ることができなかったから、すなわち、自ら自身の力で生産手段を作ることができなかったからだ。
資本主義経済が、生産手段が進歩したのちに、革命によって打ち倒されて社会主義に至るとしたカール・マルクスの理論においては、資本主義経済によって既に高度な生産手段が実現されており、それを革命によって資本家から奪うことが前提になっていた。
だが、ソ連は、そのような生産手段の進歩のないままに、ロシア革命でソ連を樹立し、スターリンの下に一国社会主義をやろうとした。
生産手段が進歩していないのだから、生産手段を共有することができるはずがない。結果的に行われた計画経済のノルマ生産は、ユートピアとは名ばかりの、地獄のような強制労働の反動主義体制になった。
すべての間違いは、「生産手段を自ら自身の力で作る方法がなかった」ということである。
だから、共産主義者がいくら「生産手段を共有する」と言ったところで、それはすべて妄言を言っている。なぜなら、生産手段を共有する前の段階として、生産手段を自分で作らなければならないのに、社会主義経済ではそれを作り出すことができない。生産手段は金儲けのために資本主義経済によって生み出されるのであり、決して社会主義経済によって作り出すことができない。
スターリンひとりの付け焼き刃的な計画経済は、すぐさま破綻する。それがソ連の残した「反省点」であり、結局、その反省点は解決できていないため、ロシアは今でも成功していない。
なぜロシアが理想がありながら馬鹿な国になったのか、その理由は、経済的に世界を改善しようとしたからだ。
ソ連という国家は、金持ちと貧乏人の貧富の格差をなくそうとした。金持ちがさらに金持ちになり、貧乏人がさらに貧乏人になる世界を解決するために、富の再分配を行い、全員が平等な同じ立場の労働者となることで、経済的に資本主義の問題点を解決したかった。
だが、社会主義経済は、「作る」ということではなく、「盗む」ということに基づいていた。
すなわち、ソ連の共産主義者たちは、「盗む」ということはできるが、「作り出す」ということができなかった。
そのようなソ連の失敗の結果、アメリカなどの資本主義者が行き着いた答えは、「作り出せるものであればなんでも作り出す」ということだ。
すなわち、資本主義者がソ連を反省した結果生まれたのは、「作り出す」ということを信じるということであり、すなわち、宝のようなものであってもゴミのようなものであっても、いくらでも作り出していくらでも金を儲ける、ということにより、たくさんのものを大量に作るということを信じたのが、現代の資本主義経済である。
だが、良いものも悪いものもどちらも作り出すのであれば、結果的には悪いものが増えていく。それによって、資本主義国家は、今の日本のように、まるでゴミのような価値のないものばかりで溢れかえるようになってしまった。
その結果、自然環境は破壊され、環境の汚染は酷くなり、温暖化や異常気象を引き起こした。
そして、作り出すためには金が必要だが、その金はできるだけ低コストな方法で多くのものを作り出せる方法がいい。だから、中国や韓国や東南アジアのような、人件費の安い低賃金の国に、どんどん生産拠点を奪われていく。その結果、「あるように見えて日本やアメリカにはゴミのようなもの以外は何もない」という社会になってしまったのである。
そう、必要なのは、経済的に進歩させることではなかった。もっと別の方法で社会を進歩させる必要があったのである。
では、その別の方法とはなんなのか。
それは、「意志」および「意識」を支配することだ。
これについても、スターリンに先見の明がある。なぜなら、スターリンは独裁者の権力を利用して、人民に自分の考え方や意志を押し付け、自分の言うことと同じことをソ連の幹部が言うようにした。
そして、人民を洗脳教育で洗脳し、逆らうものは逮捕し、シベリアの強制収容所に送ることで、「絶対にスターリンに歯向かうことのできない国家」を作った。
だが、本当は、そのような独裁権力は必要ない。
なぜなら、今の時代、インターネットがあるからである。
すなわち、世界を支配するために、権力者になる必要はない。一般市民がインターネットを使うことでこの世界を支配できる。その一般市民は、一般市民ではあるものの、その本人から見て、誰よりも賢いことが分かっているような一般市民だ。そのような一般市民が、インターネットを上手く操ることで、この世界を「意志」の力で支配する。そして、それによって、世界の「意識」を変えることができる。
そのように、世界は意志と意識によって支配できる。そのためにインターネットという文明の利器を使う。インターネットは、今でこそネットワークサービスやSNSを使うためにあるように見えているが、宇宙レベルにおいてはそれは違う。宇宙あるいは天のレベルにおいては、インターネットは絶対意志によってこの世界を支配するためにある。
その、インターネットを支配する支配者、すなわち新しい時代の「王」が、今、現れる。その名を北欧神話の神、フレイと呼ぶ。
インターネットを支配することで、王、フレイは何を行うのか。フレイはこの世界の「意識そのもの」を変えていく。それによって、この世界が知的レベルあるいは悟性レベルにおいて賢くなる。世界はひとつひとつの問題の解決方法を知ることで解決していき、フレイに基づいて新しい世界へと作り変わっていく。フレイを成り立たせるのはインターネットだ。Linuxやオープンソースの存在は、すべてそのような新しい時代の「王の支配」を成り立たせるための「前座」にすぎなかったのである。