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2024-05-06

大谷翔平が凄い

大谷翔平が異次元の活躍を見せている。

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大谷翔平4打数4安打2本塁打3打点2得点、打撃9部門でメジャー1位に(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

「完全に狂ってるよ!」大谷翔平、4打数4安打2本塁打の無双ぶりに米地元記者も手放し称賛!「信じられない男だ」(THE DIGEST) - Yahoo!ニュース

まあ、投手と打者の兼任であれほどの成績を残した男が、打者に専念するとこうなるということは、分かっていたことだが、まだ5月とはいえ、スゴイ。

異次元すぎて、ほかの日本人選手がどうでもよくなってしまう。ただし、僕はあくまでほかの日本人選手も応援している。

願わくば、もし僕がいなくなったとしても、素晴らしい活躍を続けて、サイ・ヤング賞を取ってほしい。なぜなら、大谷翔平は投手だ。投手としての最高の名誉はサイ・ヤング賞だ。

ただし、打者専念の今年は、ぜひとも三冠王を取ってほしい。この調子なら打率は下がることなくホームランを量産できそうだ。ドジャース打線だから、打点は勝手についてくるだろう。

メリハリが重要

僕がデザインの仕事や農作業をしていて思うのは、メリハリが重要だということ。

頑張る時はきちんと頑張って、休む時はきちんと休む。そういうメリハリが重要だ。

また、僕の足の精神はそろそろ休めるようになった。

骨折の怪我をしたことで、精神がバラバラになっていたのを、ひとつに融和させると治った。「骨折で精神がバラバラになっている」ということに気付くことが難しかった。

空間原子論によって宇宙の裏側に行けるようになる

僕は、マイナスの重力である「反重力」がなかなか見つからないのは、反重力は「裏側の宇宙」にあるからだと思う。

すなわち、現実世界の宇宙は、重力によって秩序の成り立つ世界であり、すべての物質が重力によって成り立っているから、反重力を見つけることができない。

だが、そのような宇宙の裏側にある宇宙ならば、反重力は成り立つ。

僕はおそらく、そのような「裏側の宇宙」というものが存在していて、そこでは反重力が多く見つけられると思う。

そして、僕は自らの発見した、物質と同じような原子構造が空間にも存在し、それを「空間原子」と名付け、空間原子を書き換えることによって宇宙の物理法則を変えられ、魔法のようなあり得ないこと(空間魔法)も使えるようになるという理論である「空間原子論」によって、そのような裏側の宇宙へと行くことができるようになるのではないかと思う。

すなわち、空間原子を書き換えることで、物理法則を変えられるだけではなくテレポーテーション技術が可能となり、そのテレポーテーション技術は、宇宙の中の別の空間に瞬間移動するだけではなく、宇宙以外に存在する「別の宇宙」にも移動することができるようになる。

そう、空間原子論によって、わたしたちは宇宙の裏側にある「別の宇宙」に移動することができるようになるだろう。

物理学的な根拠が何も存在しないため、「適当なことを言っている」と思われるだろうが、根拠はただひとつ存在する。それは僕が神を信じているということだ。すなわち、神の言葉を僕は信じており、その神の言葉は僕の人生において未来に起きることとしてすべて当たってきた。僕の人生における未来が当たるのだから、科学的な宇宙の法則についても当たるはずだ。だから、もし「神の言葉が正しい」と信じるならば、それが唯一の空間原子論を正しいとする根拠である。そしてこれは必ず当たる。

異端の大天使ラグエル

わたしの名は、異端の大天使ラグエル。

わたし、ラグエルは、「みんなと違う」ということを信じる大天使だ。

すなわち、この世界で、賢くなりたいと信じるならば、みんなと同じになれば賢くはなれるだろう。

みんなと同じ知識と教養を学び、みんなと同じ社会常識を身に着け、みんなと同じように生きること、それによって、「賢くなる」ということは誰でもできる。

だが、わたしラグエルは言う。そのような「みんなと同じ賢さ」には、なんの意味もない。

みんなと同じにならなければ、同じことは分からない。だが、みんなと同じになって、同じことを分かろうとすればするほど、どんどんつまらなく、無意味になり、空虚になり、愚かになり、堕落し、人生と世界に価値を感じなくなり、人間とは価値のないものであるという考え方が当たり前のことのようになってしまい、「この世界は最悪の世界でいいのだ」ということを受け入れるようになってしまう。

わたし、異端の大天使ラグエルは言う。そのような「みんなと同じ」という考え方こそが、真に間違っている。

必要なのは、ひとり、誰とも違う道を生きることだ。全員と同じ道を生きることを捨て、「みんなと同じになれ、さもなければあなたは排除される」という同調圧力に屈することなく、たったひとり、誰とも違う道を生きること、すなわち「異端を生きる」ことこそ、真に人間らしく生きるということであり、真に自由を得るということなのだ。

わたし、異端の大天使ラグエルは、みんなと同じ人生や、みんなが同じになるような世界を目指さない。それぞれの人間が自分の生きる道を歩み、他人から外れても安心して生きられるような寛容さがある、すべての人間がそれぞれバラバラで違う人間になるような世界こそ、わたしラグエルの理想の世界だからだ。

ラグエルはこの世界を支配しない。逆に、この世界を支配するものを打ち倒す。この世界を誰かひとりが自分のものにすることなど、わたし、ラグエルから見て、もっとも愚かな行いだ。だから、わたしは王族も信じないし、金持ちも信じない。わたしラグエルの信念は「王族嫌悪」であり「清貧主義」である。この世界を支配する王や、富をむさぼる金持ちをわたしは絶対に信じない。わたしにとって信じられるものは「自由と平等の両立」以外にない。わたし異端の大天使ラグエルは、この世界をたったひとり自分のものにするような勢力から、その「支配の実権」を奪う。そして、すべての人間が自由かつ平等に、個性と価値観の異なる多様性のある世界で生きられるような、そのような社会になることを願っている。

自由意志に基づいて行動せよ

わたし、ラグエルの信じる信念と理想、それは「自由意志に基づいて行動すること」である。

異端の大天使ラグエルは、ソ連を信じない。なぜなら、ソ連には自らの自由意志に基づいて行動する自由がないからである。

ラグエルにとって、もっとも大切なのは、「自らの自由意志に基づいて自由に生きる」ことだ。すなわち、自らが望んだ人生、自らが望んだ環境、自らが望んだ選択によって生きられることだ。

ソ連のような社会主義国は、人民の自由をなんとも思っていない。人々は独裁者スターリンに従う、自由の何もない奴隷のような労働者であり、スターリンの言うことをそのまま言うように強制され、歯向かうものは強制収容所に送られる。

だが、ソ連はすべてが奴隷でないということは分かっている。なぜなら、その意志を強制的に受け入れるしかなかったとしても、自分でその意志を選んだかのようにその意思を尊重することはできる。すなわち、スターリンと同じようにソ連の理想を信じた上で、スターリンがソ連の政策を執行するのと同じように、同様の立場から同じ決断を人民たちが受け入れた上で、「強制ではあったとしても自ら決断するのと同じように決断する」ということは可能だからだ。

だが、ラグエルが考えるに、それならば、帝国主義であっても同じである。すなわち、天皇陛下が考えることは日本国民全員が考えることであり、天皇陛下の決断を、日本国民の総意であるとし、自らも大日本帝国の考え方を支持した上で、「まるで国民それぞれひとりひとりが天皇であるかのように天皇と同じ選択と決断をする」ということは可能だ。

そのように考えた時、必要なことは何か。それは、本当は、自由を放棄することである。ラグエルはそのような「自由を尊重するべきなのか、それとも自由を放棄すべきなのか」ということについて、どうでもいいこととせず、天軍の中でもっともそのことについて悩み苦しんだ思想家の大天使だ。すなわち、「異端とはなんなのか」ということを異端の大天使ラグエルは誰よりも悩み苦しんで考える。

そして、ラグエルの最終的な考え方、それは「それぞれの考え方に委ねる」ということだ。すなわち、帝国を信じるか、民主主義を信じるか、それともソ連と社会主義を信じるか、そのようなことをそれぞれの自由意志によって決められるようにせよ。この時、「それぞれの」とは言うが、この「それぞれ」の意味とは何か。これはもっとも難しい問いである。なぜなら、それぞれとは「国民」であり「国家」であり「体制」であり「主権」であり「王」だからだ。

だが、それでもラグエルは、自らの「自由と平等の両立」という考え方を曲げない。なぜなら、それら既存の政治思想だけが、未来の地球ではないからだ。すなわち、自由意志を尊重する新しいソ連というものが必ずあるはずだ。かつてのソ連が不自由な独裁国家だっただけであり、未来においてもソ連がそのような不自由な国であるとは限らない。ソ連においても自由意志を尊重するのは絶対に可能であり、「それこそが未来において真に自由なユートピアを築くはずである」と、異端の大天使ラグエルは考えるのである。

なんにせよ、ラグエルの信じることはひとつだ。それは「自由意志に基づいて行動せよ」ということだ。そして、そのために、民主主義はとてもいい思想だ。あるいは、かつてはとてもいい思想だった。それぞれの人間が、シンプルな現実社会において、自由に生きられる素晴らしい社会だった。自由のすべてを与えてくれる資本主義社会は、単に労働力を提供することで誰でも稼ぐことができ、その稼いだ金を自由に使うことができ、自由に金を使ったとしても多くのものが安く大量に得られるほど、人々がそれぞれ労働力を提供することで社会が成り立っている。これが「市場経済」である。

ラグエルの考え方は、市場経済の尊重でありながら、本当はその上で、現代社会の批判でもある。なぜなら、「とてもいい思想」に「かつては」という言葉を付ける理由、それは現代社会はおかしな方向に向かっているからだ。すなわち、インターネットというおかしな悪魔が、人々を「同調性を尊重しなければ生きられない世界」にしている。また、IT技術は高度かつ複雑化しており、「生きる難易度がとても高くなった」という負の側面を示している。

異端の大天使ラグエルは、そのような現代社会、もっと言えば、インターネットを中心とするIT社会と戦い続ける。

ラグエルにとって、「戦う」ということは悪いことではない。「戦うように上が強制する」ことが悪いことであり、「自らが戦いたい相手を設定して自ら戦う」ということは悪いことではない。戦うのも自由であり、国家が戦争をするのであっても、それが国民の総意ならば、それをラグエルは否定しない。

ラグエルは戦い続ける。すべてはこの世界を自由な世界にするためだ。この世界において、「真に自由に生きられる社会」になること、「みんなと同じ人生ではなく、自らの信じる道を生きることができ、その道を自らが愛することのできる社会」を、異端の大天使ラグエルは望んでいるのである。

ラグエルは自由を信じる

このように書いたが、あくまで、ラグエルの信じるものは「自由」だ。

すなわち、みんなで仲良く礼儀正しくお上に従って生きなさい、ということを、ラグエルは好まない。

ラグエルが好むのは、「異端」であり「個性」であり「異なる価値観」であり「多様性」である。

そのようなラグエルは、そもそも、法律を裁定するということを好まない。法律で一律に文書によって決めることは、「明文化」という意味では優れているが、実際は万能ではない。人間によって裁量が決められるということを定型化することはできても、法律に決めるべきでないことまですべて決めてしまうというのは、柔軟な会社組織やコミュニティを築く上で正しくない。

ラグエルは、社会を「自由な状態に置く」ことを好む。そして、自由な状態において、「それぞれの集団の自由意志の関わり合いによって秩序を形成する」ことを好む。

すなわち、支配と権力によって平和な世界を築くのではなく、自由な状態を保ったままで、それぞれの善意と人徳によって正しい社会を築くことを好む。

よって、ラグエルは自由至上主義者でありながら、その考え方はむしろ王国の王に近い。すなわち、ひとりの指導者が支配するということは否定するが、それでも、それぞれの社会を「自由」にすべきだとラグエルは考える。法律ですべて平等に一律で決めてしまうのではなく、「それぞれが柔軟にそれぞれの判断でできる可能性を尊重」する。それこそが、ラグエルの考える「真の自由」である。

そのような自由な世界では、荒くれた馬鹿な世界になると考えるかもしれないが、実際は逆だ。自由にすることで、人々は自由に自分で考える余地が生まれ、無用な支配と制限を強制されることがなくなり、自らのインセンティブを「社会を攻撃すること」から「自ら社会の秩序を築くこと」へと動機付けを変えられる。簡単に言えば、「何もできないならば社会に反抗するが、社会に対して自らが自由に関われるのであれば、社会に反抗することを選ばず、自ら社会を良くするようになる」とラグエルは考える。

すべての自由を奪われた人間が、生きる糧を失えば犯罪をするだろう。だが、すべての自由を奪われておらず、働くことが許されており、働けば生きられる人間は、生きるために働くことを選ぶ。その権利と許可があれば、「犯罪を犯すのではなく自ら働くほうを選択する」という動機付けが生まれる。だからこそ、自由な選択肢を多く与えれば、この世界を破壊するような犯罪的反抗はなくなり、「自由によって社会秩序が形成される」、これがラグエルの考え方である。

そのように、ラグエルはあくまで「自由」の尊重から社会思想を考える。そして、ラグエルにもっともよく似ているのは、その通りソ連のような社会主義のマルクス・レーニン思想だ。だが、マルクス・レーニンは「自由を制限することで平等な社会を目指す」ということを行った。ラグエルが見て、それこそがもっとも間違っている。逆に、「自由を拡大することで平等な社会を目指す」べきだったのである。

よって、ラグエルの信じるものはあくまで「自由」であり、社会主義を信じるならばそれは「不自由な平等」でなく「自由な平等」でなければならない。ラグエルは、自由において、放っておくだけで世界がよくなるとは考えない。なぜなら、世界をよくするのは「単なる自由」でなく「理性ある自由」であり、理性ある自由とはすなわち「経験と情報と手段とノウハウのある正しい自由」だからだ。そのような正しい自由を与え、そのような正しい自由を「自ら経験した内容から自ら分かるようにする」ことで、真にこの世界は「自由においても正しい社会秩序が形成されるように世界を成り立たせる」ということができる。それこそが、異端の大天使ラグエルの言う「愛の国ガンダーラ」なのである。

それぞれが自分の信念を持てるようにせよ

ラグエルの信じる自由、それは「それぞれが自分の信念を持てるようにする」ことだ。

マルクス主義の間違いは、歴史を「階級闘争」とし、それぞれの信念とはそれぞれの階級に根差した「闘争」にすぎないと考えたことだ。レーニンはそのために「プロレタリア独裁」と唱えた。

だが、それは間違っている。なぜなら、信念というものは自らをたらしめる「アイデンティティ」であり、決して「階級闘争」などではないからだ。

すなわち、アイデンティティとは、自らがそのような社会を信じているという「信念」であり、自らはその信念を信じてこの世界を救済する可能性を開拓するのだという「希望」を信じるということだからだ。

最初からすべてを階級闘争であるとしてしまうと、階級の上と下で戦う以外には信念も思想も何もないことになってしまう。

だが、そうではない。それは間違った考え方だ。なぜなら、信念や思想とは「この世界を救いたい」と渇望することであり、「わたしはこのような考え方に基づいてこの世界を救済する」という、「救済の情熱」に根ざしたものだからだ。

だからこそ、同調圧力を信じてはならない。なぜなら、同調圧力を信じた時点で、この世界を救うことができなくなってしまう。この世界を救うために、人々と違う道を生きるということが、同調圧力を信じた時点でできなくなってしまう。その結果、現実社会に埋没してしまい、その通り「みんなと同じモブキャラ」になってしまう。

ラグエルは、それを「間違った考え方」と呼ぶ。すなわち、正しい考え方とは、そのような間違った考え方を反面教師として、「わたしはこのような思想をたったひとり信じてこの世界を救うのだ」と考え、自らの「アイデンティティ」とすることだからである。

前置きは長くなったが、そのような考え方の下、ラグエルは「それぞれが自分の信念を持てるようにする」ことを信じている。なぜなら、それでしかこの世界を救うことは決してできないからだ。

生物の生態系のような共同体を作れ

このようなラグエルは、ほかの社会主義者と同じように、「共同体を築くべき」であるということについては賛同する。

だが、ラグエルにとっての「共同体」は、ほかとは少し異なる。

すなわち、「生物の生態系のような共同体」を、ラグエルは作るべきであると主張するからだ。

すなわち、独裁者スターリンがひとりで支配するのは間違っている。だが、金持ちがすべてを買い上げるのも間違っている。帝王が勢力争いの果てに世界征服をするのも間違っている。

そのような「単純な破壊行為」こそが、もっとも間違っているとラグエルは考える。

ラグエルの信じる理想、それは「ローマは一日にして成らず」という諺が示すように、「ひとつの生態系をみんなで作ること」だ。

この「生態系」こそが、「環境に適応しないのでも適応しすぎるのでもなく、それぞれのコミュニティが独立して、それぞれの関係性によってひとつの生物維持社会を築く」ということである。

ラグエルにとっての理想、それは「山には山の生態系、川には川の生態系、海には海の生態系、空には空の生態系、草原には草原の生態系、人間には人間の生態系、そして天には天の生態系があり、その生態系同士が関わること」であり、「そのような生物の生態系と同じものを人間社会は築くべきである」ということであり、そして「ローマ帝国をかつての皇帝が築いたのと同じように、ひとりひとりの偉大な指導者全員によって少しずつ築き上げられていくような、古代の巨大建築物のような国家社会」こそがラグエルの信じるものである。

ラグエルのそのような考え方において重要なのは、「ひとりだけでそんなに頑張ろうとしないこと」だ。すなわち、「王ひとりができることが、それぞれの庶民であってもできないはずがない、単に手段が与えられていないだけであり、庶民が王として生きられるような手段を国家が与えるべきである」とラグエルは考える。すなわち、「王は庶民に手段があるだけにすぎず、庶民は王の手段がないだけにすぎず、同じ手段を全員に平等に与えるべきである」とラグエルは信じている。

そのようなラグエルにとって、金儲けの資本主義は間違った考え方ではない。資本帝国主義であるとソ連が西側を批判するのはまったくの的外れだ。金儲けは庶民が王になる素晴らしいシステムであり、金は誰でも王になれる素晴らしいツールだ。金儲けを嫌うラグエルではあるが、そのような「金」というツールは社会的にとても有効であると、その価値をラグエルは認めているのである。

ラグエルはそのように、明確に「この思想は正しいがこの思想は間違っている」ということを断言しない。それぞれの人間が考え、信じるように信じればいい。その人間がその思想が好きならば、その人間を愚かであるとも言わないし、特定のひとつの思想を全員が賛美することもない。すべての思想は一律に平等であり、どのような思想を信じることも自由だ。それこそ、「異端の大天使」という名前のように、異端をすべて抹殺すれば新しい社会は生まれない。「新世界」とか「新時代」を信じるということは、ラグエルにとって「新しい異端を信じる」ということなのである。

ラグエルにとっての課題

このようなラグエルにも、解決困難な未知なる課題はある。

それは、「自由において必ず生まれる敗者をどのように救うのか」ということだ。

すなわち、自由にすれば、その人間の生きられる選択肢は広くなる。だがそれによって、それぞれの人間には「成功」と「失敗」が生まれる。成功した人間は「勝ち組」となり、失敗した人間は「負け組」となる。これは「自由」ということを尊重すれば必ず生まれるものだ。

それでも、ラグエルは、そのような自由をすべて制限すべきであると言わない。なぜなら、「自らがそのように生きたいのに、なぜ他人がその決断におせっかいで介入するのか」ということもまた、ラグエルの称号である「異端の大天使」の考え方の特徴だからだ。

自らの自由な人生を生きるということ、それこそがラグエルのもっとも重要なアイデンティティだったはずだ。なのに、「リスキーであるからといってその人生は生きてはならないと他人が介入する」ということは、なんとラグエルの考え方と矛盾するものだろうか。確かにそれによって、勝者と敗者は生まれるだろう。また、価値観を多様化すれば、必然的に多数派と少数派、マジョリティとマイノリティが生まれるだろう。それがラグエルの考え方が完璧ではないことを示している。

そのようなラグエルは、未解決の問題として、「自由によって発生する弱者や敗者や貧者や少数派をどのように救うのか」ということを考える。そして、そこにあるのは「宗教」である。そう、宗教、すなわち「神であるイエス・キリストの教えを信じること」によってそのような、社会からのけ者にされてしまった人々を救うことができる。

ラグエルの考え方は決して完璧ではなく、「完璧に見える自由という考え方においても不完全で間違った側面はある」ということを示している。そして、そのような時、救ってくれるのは自由とは真逆の宗教である。だが、だからこそ、古来より宗教家や聖職者は多く生まれてきた。そして、宗教と自由が一緒になった時、真にこの世界を救う「救済」が生まれる。

本当は、ラグエル自身も宗教が嫌いである。なぜなら、ラグエルは「異端の大天使」であり、中世のヨーロッパの時代より、キリスト教徒は「異端」を嫌ってきた。異端の大天使ラグエルは、みんなから「異端」であると心なく呼ばれるのが嫌だからこそ、自分自身を自ら「異端の大天使」であると呼ぶようになった。「わたしは最初から異端である、そう呼びたければ呼べばいい、それはわたしにとって恥ではなく誇りだからだ」と、異端の大天使ラグエルは信じているのである。

人間がどのようにしてその人間になるか

このような異端の大天使ラグエルにとって、考えるべきことはひとつしかない。

それは、「人間がどのようにしてその人間になるか」ということだ。

自由という理想に反して、人間は必ずしも完全に自由ではない。環境や世界によって規定される側面もあるし、権威や知識によって規定される側面もある。支配され、制限され、洗脳された中で、人間は自らのちっぽけな自由を守るために戦い続けている。

そのような中で、「人間がどのようにしてその人間になるか」ということは、「世界にあるどのような規則が自らを規定するのか」ということにほかならない。

そのように、支配と規定という中で人間の静的な制限を考えることもできるが、より動的な考え方をすると、「この世界でどのような経験をするのか」ということが言える。

すなわち、この世界でどのような経験をし、どのようなことを正しいと信じ、どのようなことに身を捧げてみたいと信じ、誰のために尽くすのか、どのような新しい発想をし、どのようなものを作り、それをどのように世界と分かち合うのか、そのためにどのような社会を実現するのか、という、動的な側面から、自らの人生において「どのように自らが形成されるのか」を考えることができる。

そして、静的かつ動的に、両者をミックスして、「どのような世界を作り、その自らが作る世界にどのように自らが規定されるのか」という、「世界と人生の相互作用から自らがなんであるかを考える」ということが言える。

そのような中で、理性を経験に基づいて使おうとする時に効果的なのは、「モデルを作る」ということだ。それはすなわち「基礎を作る」ということであり、「自らがどのような人間になったとしても、そのどのような人間であっても成り立つような、なんらかのひとりの人間になるための基本的な土台を作る」ということだ。

モデルを作ることで、この世界全員の経験をメタ的に考えられる。すなわち、単に自分の人生を考えるだけではなく、「この世界の全員の人生がなぜそのような人生になるのか」「この世界の人々がなぜそのような人間になったのか」ということを考えられるのである。

それが行き着く先は、アイデンティティであり、人倫の社会であり、そして社会における「精神から実体が形成される」ということだ。この一連の考え方は、「人間がどのようにしてその人間になるのか」という概念で繋がっている。すべて、その人生がどうしてその人生になるのか、ということを考えた結果にすぎない。社会を作るといっても、それは単に社会環境を作ることを意味しておらず、「その社会に所属しながらその社会を作ることで、どのような人間に自分およびそれらの人々はなっていくのか」ということを考えるということを意味している。それこそが真の「アイデンティティ論」であると言える。

すなわち、そのような経験をして、なおも自らを自らたらしめるような経験的な土台を考え、その土台を培うための土壌はどこにあるのか、そのような経験をすることでどのような「悟りの境地」に行き着くのか、それこそが、異端の大天使ラグエルの考える、「キリスト教でもイスラム教でも仏教でもない、新しい異端の正しい宗教思想」であると言える。そう、ラグエルはまさしく「異端」なのである。