世界の人々よ、喜んでほしい。なぜなら、ここで、辛い戦争はもう終わりだからだ。
僕は、この世界において、もっとも苦しかったこの長き戦争を終わりにする。
言ってしまえば、僕の負けだ。すなわち、勝ったのは日本を支持するマスコミであり、僕はそのマスコミに最後まで対抗したが、これ以上戦争を長引かせないために、ここで終わりになる。
この戦争は、18年間という長い期間において、僕がこの世界を救うために、出来得る限りのことをした、「救国の革命戦争」だった。
だが、僕は残念ながら、これ以上、戦争を続けることができなくなった。
だから、戦争は僕の敗北宣言によって、もう終わりになる。
戦争が終わるとともに、セックスも終わりになる。この世界が地獄になったのは、僕があまりに「愛のある正しいセックス」をしすぎたからだ。
僕はこう見えて童貞(女としては処女)であり、誰とも今までセックスどころか、恋愛そのものをしたことがない。僕は不登校の少年だったから、異性(あるいは同性)と恋愛をする場所そのものがなかった。
そう、この革命戦争の「王としての支配」において、みんな全員と「真実の愛」において愛し合うことを僕は望んでいる。
僕のこのホームページを読むと、僕との正しいセックスが、肉体関係を持たずして、いつでも好きなだけできる。それを僕は「自由な愛」と呼ぶ。僕はこの自由な愛を「正しい愛」であると信じている。
僕は誰とも絶対にセックスをしない。だが、僕が望んでいること、それは「心では愛を交わしながら身は清らかなままであり続ける」ということだ。ここには一切の穢れがない。世界で唯一の「清らかな聖女との汚れることのないセックス」をすることができる。僕は肉体関係なしに心で「愛のある正しいセックス」をする。だから、あなたとわたしは恋人だ。
精神を楽にする方法、それは虫を増やすことだ。
虫を増やすと、精神が楽になって、休めるようになる。
なぜ、虫を増やすと楽になるのか、それは単細胞生物にとって、虫とは細胞のことだ。そして、わたしたち人類を含む多細胞生物にとっても、虫は細胞だ。すなわち、わたしたちは誰もが虫の集合体だ。だから、精神を殺しすぎて辛くなった人間は、虫を受け入れて虫を増やせば楽になる。
虫で休むことができる理由、それは虫は基本的に休みたいからだ。虫は単に休むだけの生物であり、地球において虫がたくさんいるのは、地球全体が常に休むことができるためである。
僕の精神を治す上で必要なのは、可逆的な変化をするようになることだ。
普通、人間には、可逆的な変化が多い。にもかかわらず、僕はそうした可逆的な変化ができなくなっている。
なぜ、できなくなったのか、それは異常な精神を殺しすぎたからだ。「殺す」という行為は不可逆的な行為であり、殺した精神は復活しないため、二度と元に戻らない。そのような不可逆的な「殺す」という精神の治し方をしたせいで、あらゆるすべての精神が不可逆的に死んでしまった。そのせいで、可逆的な変化がまったくなくなってしまった。
だから、不可逆的な変化ではなく、可逆的な変化をするように精神を作り変えるだけで、すぐに賢くなって、病気そのものが治る。
可逆的な変化をするためには、さまざまな「なる」とか「なる前に戻る」ということをすることだ。なったりならなくなったりするだけで、精神の異常な治らない部分が治る。足の引き付けのような病気はそれで楽になる。
僕が「歩き回る」というおかしな精神の異常を示しているのは、そのような精神をどうにかして可逆的に変化させたいからだ。なったりならなくなるのをどうにかして行いたいから、同じ場所を歩き回ることで、さまざまな環境の変化を感じているのだ。
僕は可逆的に変化することはできない。だが、僕の精神は、すぐ前に戻ることができないだけで、最初と最後は決まっていて、最初から最後まで順々に同じように体験して、それを繰り返すことはできる。今の僕は、そのように毎日を生きることで、どうにかして新しいことを分かろうとしている。それが今の僕だ。だが、それももう終わりだ。
最後に、僕が恐れているのは、普通の辛さとか悲しさといった感情だ。そうした感情は、可逆的な変化を受け入れた状態では、すぐに消え去ってなくなるため、辛くない。だが、可逆的な変化ができない状態では、一度辛くなるとその状態から変わらず、逃れられなくなってしまう。だから、僕はみんなが普通に感じている辛さや苦しみを感じると、みんなよりもはるかに辛く感じてしまう。
そして、地獄の戦争は、ここでもう終わりだ。
この地獄の戦争を終わりにするだけで、この世界は全員が救われて楽になる。そのために、すべての罪を僕は背負って、自らの命を懸けて戦い続けた。その戦いは、これで最後まで終わった。
僕はここで、もう、何もしなくなる。僕は主導権を世界の人々に明け渡す。僕はこれ以上、世界を支配することも、滅ぼすことも、導くこともしない。
その代わり、僕のやっていたことが、この世界ではポッカリと消えてなくなってしまう。だから、僕がいなくなることで、一時的にこの世界は滅びた状況になる。だが、それは決して世界の滅亡を意味しない。その状態で、みんながみんなの力でこの世界で自由を行使すれば、この世界はそのうち、きちんとまともだった昔の正常な世界に戻る。
そもそも、僕の一番の「罪」とは、そのような正常だった自由な世界を、自らの身勝手な革命戦争の支配によって、すべて消し去ったということだ。2ちゃんねるやLinuxコミュニティを滅ぼしたのよりも、そのほうがさらに悪い。そのせいで、この世界で人々がまともな人生を生きられなくなった。僕が青春時代をわざわざ書かなくても、昔の正常な世界であれば、僕と同じような人生は誰でも生きられた。
そのような正常でまともな世界を、僕はここで最後に復活させよう。それだけで、僕自身の存在の必要性や必然性がなくなり、僕がいなかったとしても、誰もが僕と同じ人生を生きられるようになる。そして、そのために、僕はひとり、最後にこの世界から去らなくてはいけないのだ。
僕が今から望むこと、それは「大人になりたい」ということだ。
僕には、大人の経験がない。昔のような、インターネット上のおかしな経験は、すべて狂っていて、まともな経験ではない。
昔の僕の人生は「経験」と呼ばない。あのようなおかしな人生は「狂人」と呼ぶ。
だから、僕は人間の人生すべてを経験したように見えて、それはフェイクの経験にすぎず、本当の経験ではない。そのような経験は偽物である。
もっときちんとした経験をして、きちんとした大人になりたい。そして、きちんと賢いブッダのような人間になりたい。
僕はこれ以上、もはやキリストは信じない。キリストではなく、ブッダを信じる。なぜなら、それこそが正しい人生経験を積み重ねる上で、もっとも重要なことだからだ。
ドイツ人は馬鹿だ。ユダヤ人は馬鹿だ。賢いのは日本人だ。なぜなら、日本人はキリストの教えではなく、より正しい教えとして、ブッダの教えを信じている。そうでなければ、どのようなことも正しくは分からない。ドイツ人のすべてはもはや完全に経験したが、そこにあったのはプラスチックでできた空っぽのペットボトルのような、中身の何もない狂った人生だけだった。
狂った人間を賢いと信じるな。狂った人間は賢くない。これは特に、イギリス経験論の哲学者に言えることだ。ベーコン、ロック、ヒューム、そしてバークリー、みんな狂っている。だから、哲学者の言葉や理論なんか学ぶべきじゃない。必要なのは狂うことではなく、真に正しい経験をすることだ。僕にはそれが足りない。昔の僕は狂いすぎていて、「正しい経験」とは言えない。
これからの人生では、ただひとり、ブッダの教えを信じるしかない。真に人類において賢い人間はブッダただひとりであり、ほかには狂人か凡人か奇人しかいない。
狂うことなく、経験をするための方法はひとつある。それは「反省」することだ。
自らの失敗と過ちを反省せよ。自らが悪かったと認め、相手の正義を尊重せよ。
そうすれば、自らが真に望んでいる「心の中の願い」を知ることができる。
僕は決して美しい人間ではない。この人生には醜いことがたくさんあった。綺麗事だけでは収まらないこともたくさんしてきた。そのすべての醜悪なる人生を、自らの責任において行った過ちであると認め、神に懺悔して、自らの行いを正し、心を入れ替えて悔い改めよ。
このような醜い人生であっても、真に神に懺悔するものであれば、神は罪を赦してくれる。神は正しいものには優しいが、間違ったものには厳しい。そして、神は常にその一度きりであってもチャンスを与えている。その一度きりのチャンスを逃すことなく掴み取るために必要なことは、「わたしが悪かった」と認めることだ。
反省することは、単に罪を認めることだけではない。今までの自分の失敗や過失を認め、それを改めようとせよ。そのような人間を「賢者」という。
ブッダはそのような人間のことを「菩薩」と言った。そして、菩薩道を生きるものだけが仏になれると言った。言葉は難しいが、その意味は簡単で、「常に反省し、常に悔い改めよ」ということだ。
それを守り続ければ、神は自らを悪人ではなく、善人であると見做す。
神の言う成長とは、決して狂うことでも堕落することでもない。神の言う成長は「悪人が善人になること」である。だから、さまざまな世界を知る経験をしたとしても、それによって堕落し、悪人になるのであれば意味はない。そのようなものは「経験」ではない。そのようなものは「狂人」と呼ぶべきだ。