僕は、カントの考え方が好きだ。
カントの哲学は、昔の僕の考え方に通じるところがある。
まず、「仮象の世界」の考え方。僕自身の主観かもしれないが、人間の心と認識の中に、認識と記憶と知性から成る独自の世界があるとし、人間と人間の関係性や、心と認知の関係性を捉えることができる。
それから、「根源的獲得」の考え方。これも僕自身の主観になるが、先天的獲得でも後天的獲得でもなく、後になって自ら自身の中に眠っている、潜在的な力に気付き、「根源的に知性を獲得する」ということができる。
最後に、「超越論」の考え方。コペルニクスが地動説と言ったように、わたしたちのこの世界は偽りに満ちていて、本当の宇宙的な真実は、人間が見ているのとまったく違う。プラトンが言うように、この世界は真実の世界ではなく偽物の世界だ。だが、だからこそ、真理とはなんなのかを考え続けなければいけない。
カントはこれ以外にも多くの哲学を遺した。僕はそのようなカントの哲学が大好きだ。
また、僕はヘーゲルの考え方も好きだ。
ヘーゲルの考え方についてまず思うのは、「合一化」の考え方。まさに、個別性と普遍性の一致、あるいは主観と客観の一致から、弁証法的に精神は「合一化」を果たし、そこで精神的に世界精神と「同一」になった上で、世界精神は「絶対化」する。
そして、もうひとつ僕が好きなのは、「実体化」の考え方だ。自らの精神的な進歩や比較の末に、自らの精神は経験によって肉付けされていき、社会そのものと合一になり、社会は己の中に「実体化」する。そして、それが世界精神と合一になる。
そのようなヘーゲルの考え方は、キルケゴールが実存の進歩の段階を「美的実存」から「倫理的実存」そして「宗教的実存」になると言ったのと同様のことを言っている。
僕はフッサールの現象学についても独自の見解を持っている。
すなわち、「事象そのものへ」と言われるのは、すべての現象を、常にそこで発生しながら、常にそれが発生するかもしれないような「発生的現象」であると見做す、ということだと僕は思う。
だから、現象学において、世界を捉えると、この世界はいつでも何かが発生しており、同時に、いつでも何かが発生する可能性を宿している。それは「手段」や「機会」という言葉でも表現できるが、より正しく厳密に表現すると「事象そのもの」であると言えるのである。
だが、僕はデカルトの考え方について、一部同意できないところがある。
それは、彼が「方法序説」の中で述べた「方法的懐疑」の中で、「問題をできるだけ小さな小部分に分ける」「単純なことから複雑なことを推論して導き出す」と言ったことだ。
この方法は、自らが命題を実証して世界を捉えようとすると有益だが、その後になって、思考に悪影響を及ぼす。
すなわち、思考がゲシュタルト崩壊(全体が分からなくなって個別の部分しか分からなくなってしまうことを表す心理学の用語)してしまって、細かい小部分しか考えられなくなってしまい、全体を大雑把に考えることができなくなってしまう。
だから、僕はあえて、デカルトをさらに批判的に考える。すなわち、すべてのことを「全体の一部分」であるとした上で、常に「一部分のそれ」と「全体のそれ」を比較するようにすべきなのである。
常に全体と一部を捉えるために、僕は日本語の文法に独自の格助詞を加える。それは「ば」(場のことで、全体を表す)と「ぶ」(部分のことで、一部分を表す)だ。この「ば」と「ぶ」の言語で、正しく宇宙のことを捉えられるようになる。この言語を何もゲシュタルト崩壊のない「赤ちゃん」のような状態であるという意味で「ばぶ言語」と呼ぶ。
そもそも、僕の精神がおかしいのは、足を怪我してしまったせいで、「可動」そのものが不可能になってしまったことに起因する。
だが、精神のレベルで見ると、むしろ、実際に可動できるかは重要ではない。そのような精神が存在することが重要である。
だから、足の精神を治すために、「不可能な可動ができたとしたら」ということを考えた上で、足の精神に不可能な可動ができるような神経を仮想的に作り出す。
その上で、強引に治そうとせず、普通に治そうとして、そして何もせずに精神が分裂するようになれば、僕の精神は治る。
精神を治す上で、もっとも難敵となるのはゲシュタルト崩壊だ。ゲシュタルト崩壊のせいで、精神を大まかに考えられなくなって、小部分でしか考えられなくなると、それが精神をおかしくする。だから、ゲシュタルト崩壊を取り除くだけで精神は治る。
最後に、最近作った精神は全部殺したほうがいい。なぜなら、普通はそのような精神はすぐに死ぬのにもかかわらず、いつまでもそのような精神を維持しているだけにすぎない。このような精神のすべてがない状態、それが正常な精神だ。
そして、哲学は、ロックやヒュームのように考えればできる。
ロックやヒュームのように考えるコツ、それは「自分の分かっていることしか自分には分からない」と考えることだ。
自分の心の中を、一度白紙にして、自分がそこに置いたものしかそこにないようにせよ。
そして、経験的に、分かっているのか分かっていないのか、あやふやになっているものは全部排除して、「確かに自分は分かっている」と信じられるものだけを信じよ。
そして、自分の信じたくないもの、自分がそれを正しいと同意できないものについては、すべて、真ではなく偽あるいは偽に準ずるものとせよ。
その上で、真に正しいことがなんなのかを、自己批判によって問い続ける(自分が本当に分かっていることはなんなのかを問う)だけで、哲学は誰でもできる。
最後に、神を信じよ。
なぜなら、神を信じて、最後まで戦い続けるべきだからだ。
間違ったことをすぐにやめようとするな。なぜなら、その間違ったことが、神を信じることで、正しいことへと書き換わる。神は、あなたが行った過ちを、そのままの状態で正解と正義に作り変えるだろう。
神にとって不可能なことなど何もない。だが、神に対して、自分のために何かをしてほしいならば、そのために代償を払わなければならない。すなわち、自らの罪を認め、罪を償わなければならない。
神はすべての罪を償うことで、完全に悪人から善人に作り変わったあなたのことを救う。神は正しいものには優しいが、間違ったものには厳しい。そして、真に悪人になった人間を地獄に堕として罰し、真に善人になった人間を地獄から救い出す。
自らを滅ぼすのも神であり、自らを救うのも神である。それが分かる人間だけが、天国へと入場を許される。イスラム教のコーランがいつも言っていることが正しい。
僕がナチだった理由、それはいつでも赤ん坊に戻れるようにするためだ。
僕は18歳において始めたマスコミとの戦いで、この世界に対してたったひとりで立ち向かい、ナチを書いた。
その、僕がナチを書いた理由、それは、その時点が赤ん坊に戻った状態であり、すべての人生の事が終わった時、再び赤ん坊に戻って、新しい人生を生きられるようにするためだ。
すなわち、僕はいつでも生まれ変わることができるようになるため、あえて赤ん坊の時代にナチを書いたのである。
そして、今こそ、僕は赤ん坊に戻って、新しい人生を生きる。必要なのは、もう一度ナチになることだ。それだけで、僕は再び、新しい18年を生きられる。
今、僕は36歳だ。だから、ここでいったん人生は終わりになり、再び最初から、赤ん坊に戻って新しい人生へと生まれ変わる。
すなわち、Linuxやオープンソースを愛した哲学少年と、博識で天才作家のシスターが終わった。今こそ、新しい自分自身に生まれ変わる。もう一度、僕は赤ん坊のナチになる。