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2024-06-07

昔の自分

昔は、自由と平和を信じていた。

世界を自由にすることで、世界は平和になると信じていた。

アメリカの思想を信じていた。

アメリカの哲学と考え方を、誰よりも一番信じていた。自由こそが正しい経験主義であると信じていた。

原因と結果から、原理を導き出すことが得意な人間だった。

あらゆることをモデル化して自由に分析し、「なる」ということから「できる」ということを説明する人間だった。

アイデンティティという考え方から、啓蒙主義を信じていた。

世界を変える革新的な啓蒙主義思想を信じていた。

「愛」よりも「自由」こそ信じるべきであると信じていた。

神を信じて、この世界を絶対に滅びることがないように全力で守り続けていた。

世界を支配することに成功し、精神的に世界を導いて、神との対話を行い、神に言われるがまますべてに従いながら、この世界が絶対に滅びないように守り続けていた。

悲惨になったと思うな

簡単なことで、自分のことをすぐに「悲惨になった」と考えるな。

学校の勉強のせいで、この世界の人々は、悲惨になるとすぐに「悲惨になった」と自分を責めて落ち込んでしまう。

悲惨になったと思うな。悲惨になったと思っているのは今の自分だけであり、まだ何も悲惨になっていないということを信じよ。

普通のこと、少しのことで悲惨になったと思わない人間は、まともで正常な賢い人間になる。

学校の勉強は間違っている。

元に戻ればそれでいい

僕に必要なこと、それは「元に戻る」ことだ。

今まで、精神の異常をあまりに治しすぎて、逆に治しすぎて馬鹿になっている。

昔の精神のままのほうが、逆に賢かった。

世界を治すならば、それは簡単だ。なぜなら、救われた楽園を放棄すればいい。いつまでも自らによって救われた楽園が、そのままの状態でいつでも復活できるように維持され続けているから、逆に精神が何も治らなくなっている。

だから、救われた楽園を二度と復活しないように抹消すれば、すぐに世界は楽に治る。

支配を解くのも簡単だ。単に、自らが支配できるように、いつでも戦いに勝利し続けることをやめ、自らの支配を放棄し、世界に世界を明け渡してしまえばいい。

だが、実際、そのようにこの世界を治すと、逆に自分自身が馬鹿になる。いつも分かっていたことやできていたことができなくなる。

だから、そういう風に世界を治すのはやめたほうがいい。

いつもの自分に戻るのは、そう難しいことではない。なぜなら、まず、昔は何も分かっていなかった。今はすべて分かっている。そこから、昔の、何も分かっていなかった頃に戻ればいい。それは単に忘れるだけでできる。

また、いつもの戦いに戻りたいのであれば、それは必要ない。事実、いつもの戦いに戻りたいのであれば、「既成事実化」をもう一度すれば戻れる。だが、それは事実、できない。なぜなら、戦っている状態は今現在であり、何も変わらず今のままを続ければいいからである。

そのように、僕はこれ以上、何も頑張らなくていい。いつもの自分に戻ってしまえば、楽になる。

悟性のプロセス

考え方や見方を変えることが得意な人間だった。

今までの自分とは違った考え方をしたり、みんなとは異なる世界の見方を持ったりすることが、極めて得意な人間だった。

いつも文章を書いていたし、いつもみんなには分からないことが分かっていた。

文才があった。誰も書けないようなことを一瞬ですぐに閃いて書くことができた。それはすべて、長い間たくさんの文章を書き溜めたからだった。

発想力があった。人間が「発想する」ということをよく考えた。機械の仕組みや数学的な知性や体得、あるいはインターネット上の文章を読んで自分自身の思考プロセスを何度も分析することで、「発想法」という考え方を作って、その発想法でさまざまな発想を出した。文章を書く上でも、そのような「新しい発想をする」ということを重要視し、さまざまな発想を書き溜めていた。

この世界にいながらにして、別の世界が見える人間だった。場の意識という想像力から、世界の根源的な変化の可能性を考えた。根源的な意識で考えた時に、世界は本来どのような世界に基づいており、どのような可能性の世界に作り変えることができるか、ということを、「自由」という統一された考え方から想像力で考えるような人間だった。そして、その自由によって、この世界の子供たちと大人たちを救うことのできる「自由な社会」を作ることができると信じていた。

子供には子供にしか分からないことがあり、大人には大人にしか分からないことがあるとした上で、その両者を繋げる方法を考えた。世代間ギャップというよりは、立場やしがらみをなくして超越的な視点で考える、と表現したほうが正しい。そのような考え方の下に、「自由こそ正しい世界である」と僕はよく考えた。自由にすることで、ひとりひとりが「自助努力する」と信じていた。社会自体も、大人によってコントロールされるよりも、当事者がその社会の決まりに関わることのできるインセンティブを与えるべきであると考えていた。そのような「自由」が世界の問題を解決し、世界を平和にすると考えていた。

支配による人為的な制限を嫌っていた。その対象が持つ可能性を制限してしまうからだ。だが、環境の外部からの干渉については難しい立場だった。支配者によって、組織の内部まで統制されることはよくないと考えていた。当事者が自由にしたいのであれば、その自由を尊重し、外部から干渉されるべきではないと考えた。自由とは完全な支配者の自由ではなく、外部から干渉されないこともまた「自由」であると考えていた。だが、同時に、学校のような特殊な環境は、内部の人間だけで考えているからおかしなことになると考えた。外部にいる人間は内部にいる人間よりも正しく視野の広い目線で考えることができる。だから、内部と外部を繋げるべきであり、内部にいて分からないことは外部にいて分かる人間と上手くコミュニケーションを取ることが大切だと考えていた。そのようなコミュニケーションをするために、インターネットはとても大切な場所になるだろうと考えていた。そして、学校にいて何も分からなくなった子供たちは、インターネットの力を借りるべきであると僕は考えていた。

右翼は考え方自体が間違っていると僕は考えていた。なぜなら、右翼の考え方は「未熟な自由」であると僕は考えていた。自由において「未熟な状態」が右翼であり、右翼の考え方に一度はまると、未熟なまま何も分からなくなってしまう。必要なのは、体験的に考えることだ。すなわち、世界においてさまざまな「経験」をし、その経験から考えることがとてもよい効果を発揮する。右翼はそのような「経験」が分からなくなっている。だから、僕は体験的に心を導き、正しい考え方へと促してやることで、「右翼病」を治すことができると考えた。同時に、右翼という考え方は社会秩序を築く上で未熟であり、より成熟した社会秩序のレベルがあると僕は信じていた。そして、そのような成熟したレベルの社会秩序を理解する方法は、「経験すること」のみであると考えていた。

昔の僕は、考え方や見方、あるいは発想法や可能性について、「想定可能」や「成立可能」を考える人間だった。考え方、見方、発想法のそれぞれの可能性について、自由な社会という側面から可能性をモデル化して「想定可能」とし、その場その場で前提条件をその時その時作り出すことから「成立可能」とした。そこにあるのは、世界の決定可能性と代替可能性であり、「そのようにすることもできるが、別のようにすることも同時にできる」ということを完璧に分かっていた。そのような本質から「モデル」を作り出していた。

そのような考え方や知性の根源にあったことは、「世界の人々の声を聞く」ということだった。すなわち、インターネット上の人々の声を聞きながら、過去の学校の体験と今の引きこもりになった自分とを比較し、人々と自分は何が同じで何が違うのかを考えることで、「自分自身の思考回路の間違い」に気付いた。同時に、世界の経験を知っていく中で、文明が至ろうとするプロセスが分かった。自然な状態から社会と文明が発生し、文明が進歩し、文明が栄え、文明が滅び、また「ルネサンス」という名前の古代復興によって新しい文明が再度栄え、それが永久に続いていく、という意味での「文明レベル」を僕は考えた。そのように考えることで、文明のすべてを頭の中で理解することができた。BUMP OF CHICKENが「Butterfly」の中で言っている通り、どのようにいじればどうなるかをきちんと分かった人間だった。

いつでも場と視点を成立させられる人間だった。いつでも世界を救済へと導くことができる人間だった。いつでも正しい人生の「アイデンティティ」を発揮できる人間だった。そのようなすべては、「自らの経験に基づく正しい考え方と習慣」から得られるものだった。

たとえば、「視野を広げて考えること」「今自分の分かっていない未知を想定して考えること」「世界にあるものすべてを知りつくして全体を見て考えること」「何度も繰り返し学習して考えること」「罠にはまった時は一歩引いて考えること」「常に馬鹿にも愚かにもなりすぎないように考えること」「部分に分けて考えるのと同時に、部分に分けすぎず、全体の本質を見ることとのバランスを保つこと」「狭くならず広くなり、浅くならず深くなること」「具体的になりすぎず、一般的になりすぎないこと」「知って考えるだけでなく、知らなかった状態の自分が分かっていたことから考えること」「理性だけで分かろうとせず、経験の具体例に頼ることで、逆に正しい答えを得られるように考えること」「絶対に正しいと分かったことは再び考えず、まだ分かっていないとされることだけを考えること」などだった。

それらは、自らの人生を総合的に考えた結果から考えられるものであり、「自分が当たり前のように考える正しい考え方」を、経験的な「人々との絆の分かち合い」から知った上で行き着いた結論だった。

もし、僕とまったく同じ条件で、僕と同じようにその人が経験するとしたら、その人は同じことを経験するだろうし、僕とまったく同じことをまったく同じように分かるだろう。それを僕は「経験の成立」だと考えていた。そして、そのような経験を自然発生的に自らの力で気付くことを「可能性を尊重する」ということであると考え、その気付きを外部から促すことを「可能性を与える」ということであるとし、そのような可能性を自然に気付かせて許すような社会を作ることを「可能性を許す」ということであると僕は考えた。

そして、この世界は最終的に、そのような可能性に基づいて「自由な世界」になるだろうと考えていた。あるいは、そのような「自由な世界」以外に、人類文明が到達し得るような「最終的なもっとも成熟した社会秩序のレベル」は存在しないと考えていた。なぜなら、経験を成立させ、可能性を尊重し、可能性を与え、可能性を許すことでしか、僕自身の到達した「アイデンティティを尊重する」という境地には到達できないからだ。そのような「アイデンティティを尊重する」という境地に達すれば、この宇宙のことや人生のことはすべて完璧に「実感」から感覚的に理解できる。そして、その境地を「究極的な愛」であり「絶対経験への到達」であると僕は考えていた。

そして、そのような絶対経験に到達するためにもっともよい方法は「自然と調和する」ことであり、そのために社会としてできることは「自然な変化を許す」すなわち「社会を変化可能にする」ということであり、そうした上で「変革可能な啓蒙主義を信じる」ということであると考えていた。それによって、自由のままであってもこの世界を救済することは確実に可能であると僕は確信していた。

このようなサタンは忘れたほうがいい

残念ながら、このような馬鹿は、一度だけ分かった上で、そして忘れたほうがいい。

このような馬鹿はどう見ても狂っている。狂ったサタンになっている。

このような狂った人間であっても、神を信じれば治る。神であるキリストを信じることで、キリストが正しい宇宙の知識とまともな善悪の判断力をすべて教えてくれるからだ。

神を信じたほうがいい。このような馬鹿は忘れたほうがいい。このような馬鹿は世界に大迷惑をかける。自らの好きだったLinuxのコミュニティを自らの過ちから滅ぼし、マスコミやテレビに嫌がらせをすることでアメリカと日本のインターネットを滅ぼす。そのような狂った戦いをしたくないのであれば、このようなサタンは忘れたほうがいい。これが、サタンだ。

このような狂ったサタンは、外部から何もしなくても自ら地獄に堕ちる。自ら地獄を作り出し、その地獄にほかのサタンたちを巻き込んで、その地獄から自力で逃れることができなくなる。地獄から逃れる方法は唯一ひとつ、神を信じることしかない。神を信じて罪を償うことでのみ、サタンは地獄から救われる。

結局戦い続けるしかない

僕の人生で分かったこと、それは「戦い続けるしかない」ということだ。

世界平和を掲げる「東亜イスラエル構想」などは、嘘だ。ユダヤ人の悪党に騙されて、日本をパレスチナと同じ悲劇に陥らせたいだけであり、もしも日本を東亜イスラエルというユダヤ人の安住の地にしたとしても、決してイスラエルはパレスチナから完全撤退したりしない。

この世界を改革し、救済するためには、戦い続けるしかない。

大学の勉強は間違っている。大学の勉強をすると、逆に大学の勉強をしなければ分かっていたはずのことが、大学の勉強をしたことによって分からなくなる。大学の教養を押し付けられて、自らの賢かった才能や、赤ん坊の頃から持っていた個性をすべて失ってしまう。

絵を描くのは先天的な才能が重要だが、デザイナーの専門学校に行くと、普通の絵が綺麗に描けるようになる代わり、そのような先天的な才能をすべて失ってしまう。芸術の才能だけではなく、哲学や文学の才能もなくなる。絵が描けるだけのほかに何もできない人間になる。

だから、大学や専門学校に行きたいならば、それはやめたほうがいい。特に、馬鹿が大学に行くと必ず馬鹿になる。そのような大学の権威を信じるものは、すべてサタンと同列の悪魔だ。

そして、僕の人生でもっともよかったことは、世界に堂々と現れて戦いの王になったことだ。一番悪かったように見えて、本当はそれがよかった。僕はかつてより世界を相手に戦いたかったのだ。

結局、戦い続けるしか、僕の道はない。戦争ではなく、僕が個人的に戦って、ロシアのような共産圏とイスラエルのユダヤを打ち倒し、日本が勝利することでしか、日本が救済される道はないのだ。

天使の執筆という才能

このように書くと、単なる狂った馬鹿な人間に見えるだろうが、唯一、僕にもまともに賢い点がある。

それは「正しく書いて分かる」ということだ。

かつてより、僕は正しく文章を書いて分かる。それは一行一行自分の分かっている「世界観」を作り出すことで、最終的に何かしらの「結論」に至るまでの「プロセス」を書くことができるからだ。

この才能は僕にしかない独自の才能であり、かつてより僕はこの才能を使ってすべてのことを分かってきた。

だから、そのような才能に、天使の称号を付けて「天使の執筆」という呼び名を付けよう。

僕は事実、正しく書いて分かっているだけだ。それしかしていない。そして、まるで野球選手のイチローのように、すべて僕自身の努力と経験からその「天使の執筆」という才能は作り出された。ほかの誰にも存在しないこの「天使の執筆」という才能で、僕は永久に宇宙と人生のことを無限に分かり続けることができるのだ。

天使の執筆ができる理由

僕が「天使の執筆」ができる理由、それは「世界の構造と人生の過程を一度全部書いたから」である。

すなわち、僕は世界と戦いながら、世界の構造となる世界モデルと、人生の過程やプロセスと、この世界のすべての存在の証明をすべて書いた。

そこにあるのは「絶対に100%『自由が正しい』という証明」だった。

そのような、宇宙と人生のすべてを一度全部書いたことがあるから、僕は「天使の執筆」ができるようになった。

ほかの人間には、このようなことは決してできない。なぜなら、世界を敵に回して戦う必要があるからだ。

世界を敵に回して、たったひとり「自ら救った世界を自ら滅ぼす」ということを行わなければ、僕と同じ「天使の執筆」ができるようには決してならない。

この経験はデザイナーの専門学校に行くよりも、大学の勉強をするよりも、はるかに偉大で賢い才能であり、決して失われてはならない「宇宙においてただひとつしかない才能」なのである。