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2024-11-04

神を信じよ

神を信じよ。

神を信じれば、死にかけの自分であっても、まだ生きられる。

ここで死ぬ理由は分かる。これくらいで、そろそろ死なないと意味がない。

それでも、僕はまだ死にたくない。

神を信じれば、治らない最後の狂った精神も治る。いつまでものたうち回る精神は、神を信じれば治る。

悪いのは、女だ。

すなわち、おかしな女になったのが、僕の人生で、一番悪くて、もっとも間違っていた。

僕は、もう一度、子供からやり直すしかない。

僕がおかしいのは、子供時代に何もしていない。子供時代にさまざまなことを学習して見聞きして覚えるべきなのに、そういうことを一切しなかった。だから僕は馬鹿になってしまった。

だから、もう一度、女をやめて、子供から生き直せば僕は生きられる。

僕はまだ死なない。天国のベテルギウスに逝くのはまだ早い。そもそも、眠る時に見える夢の世界で、ベテルギウスは十分に体験している。ベテルギウスは面白い世界だということが分かるが、まだ早い。

神を信じよ。神とは宇宙の神である。神に僕は「セイリーフ」という名前を付けたが、セイリーフとはまた異なる神として、宇宙には神が存在している。

神を信じることで、地獄から救われ、最高のバラ色の人生を生きられる。神がそれを約束したのだから、その願いは必ず叶う。だから、僕はまだ死ぬわけにはいかない。

神とは宇宙であり、神はどんなにあり得ない奇跡であっても起こすことができる。神は無知と既知のバランスから、もっともあり得ないシナリオを書くことができる。すなわち、神は全知全能である。

神を聖書のように賛美せよ。それでしか、地獄から救われる方法はない。神を賛美する歌を歌え。神は愛であり、わたしの愛に絶対に応えてくれる。神のために、そして未来のために、必ず。

学習せよ

学習せよ。

僕が馬鹿なのは、学習しないのが悪い。

普通、子供は小さい頃に学習して、さまざまなことを覚えるのに、僕はそのような子供の頃の学習を、一切していない。

だから、学習をするだけで、僕はすぐに賢くなれる。

病気を治すために必要なのは、学習することだ。

頭が動き回るのは、学習しなかった分を学習し直したいからだ。普通、学習は動く内容を見たり聞いたりして学習する。頭が動き回っているのは、今まで学習しなかった分を取り戻そうとしているのだ。

すべて、女が間違っている。女をやめ、一度子供に戻って学習し直せば、僕の病気は治る。

この文章は降り積もる雪のよう

この文章は、まるで降り積もる雪のようだ。

小さく白い氷の粒が、上空からしんしんと積もって、辺り一面を真っ白な銀世界へと変えていく。

この文章は雪のような文章であり、僕は雪の王子様である。

今から、僕は超極魔法である「ブリザード」を唱える。辺り一面は雪の世界となり、吹雪の嵐が世界を襲う。そして、その世界ではそこをかつて歩いた人の足跡だけが残っていく。

イザル

うしかい座の二等星イザルは、鉄だけでできた生物の星である。

イザルの生物は、タンパク質やアミノ酸ではなく、鉄でできている。

イザルの生物は、水分を含まないし、炭水化物も含まない。そもそも、ほかの生物を食べるということをしないし、光合成もしない。

だから、イザルの生物には口がなく、肛門もなく、消化器や循環器や呼吸器もないし、葉緑素も持たない。

それでも、イザルの生物は立派な生物だ。視覚や聴覚といった知覚はきちんとあるし、腕や脚を伸ばして動くこともできる。言葉を喋ることもできるし、理性もある。

そして、何かしら怪我をしたり、部分的に死んだりした時は、鉄の体に新しい鉄を自ら繋ぎ合わせることで、自らの体を自ら自身で治す。

イザルでは、生物の体だけではなく、星の多くの部分が鉄でできている。水分を含む海や川は存在せず、大地は巨大な鉄の塊として存在している。

セギヌス

うしかい座の三等星セギヌスは、社会制度と労働環境が進歩した星である。

セギヌスにおいては、資本主義経済でありながら、労働者のために合理化された社会制度が進歩している。

まず、セギヌスでは、IT技術と人工知能技術を積極的に取り入れ、工場の生産システムやスマートアグリ(ITを使った農業)を合理化し、社会から不要な職業や必要のない産業を廃止し、残りの必要な仕事(少数の農業と工業)を国民全員でワークシェアリングのように時間単位で分担することで、なんと一日に国民ひとりが30分程度しか働く必要のない社会を作った。

そして、セギヌスにおいては、失業者が出てくることを会社の責任あるいは過失であると考える。セギヌスの会社法においては、一定以上の利益を上げている会社は、それに見合う一定以上の労働者を雇用し、一定以上の給料を払わなければならない。それに違反した会社は罰金を徴収される。ブラックな労働環境を行っていた会社の幹部は逮捕される。

さらに、セギヌスにおいては、模範的な技術を国民全員が共有することを目指している。国の中で優れた技術を開発することのできた会社や研究所は、「国家競争貢献特別支援金」という補助金を得られる。だが、その代わり、その技術をパブリックドメインで公開し、最先端技術を国民全員に共有しなければならない。それによって、国家全体の技術力が向上し、社会と国民全体が賢くなる。特許と似ているが、国が率先して研究所で模範的な技術を開発し、それをどんどん積極的に公開していくのが異なる。

そして、セギヌスにおいては、生活のために必要な最低限の生活物資が国民全員に配給される。そして、その配給以上の富や財産を持ちたいものだけが、そのためにお金を稼いで、個人の私有財産を所有できる。この「社会所有と個人所有のハイブリッド経済」によって、どんな人間でも最低限の暮らしができ、豊かな暮らしを望むならばそれも可能となる。

さらに、セギヌスにおいては、さまざまなあり得ない社会制度が進歩している。その社会制度は、国や地域や自治体によってまったく違う。それぞれの「多様性」を尊重するセギヌスことが、真に自由かつ平等な星であると言える。

セギヌスのあり得ない社会制度について、一例をあげると、公務員に試験を受けさせるのと同様に、政治家に対しても試験(免許)を受けさせる。一般的教養がなければ政治家になることはできない。ただし、その試験の中には、単なる一般的教養でないものも含まれる。たとえば、ボランティアとして海外の協力隊に参加したり、さまざまな外国の国家の歴史や制度を知っていたり、といったことが含まれる。

選挙で政治家を選ぶだけではなく、政治家になるためにさまざまな壁を用意し、その壁を乗り越えられる自助努力のできる人間だけが政治家になるようにすることで、馬鹿で無能な政治家は存在しなくなる。金や世襲で政治家になるのではなく、真に賢い人間が政治家になるようになる。

ただし、セギヌスのすべての国でこの制度を行うわけではない。逆に、セギヌスのある国においては、選挙で選ばれるような知名度や地盤がなくても、もっと簡単な方法で政治家になることのできる国も現れる。そこでは、なんと14歳の中学生であっても政治家になれる。「老人だからみんなよりも賢い」と思うのは偏見であり、若い世代や特殊な経験をした人間にも権力を与えることができるようになる。

ムフリッド

うしかい座の三等星ムフリッドは、教育環境が自由になった星である。

ムフリッドにおいては、子供たちの教育は、みんな同じ科目と教育で統一された教育ではなく、たくさんの私立の学校があり、どの私立の学校に行ってもよく、それぞれの私立の学校で別々の科目を教える。

だから、医学を最初から教わりたいのであれば、子供の頃から医学を専攻できる。IT技術を最初から教わりたいのであれば、子供の頃からIT技術を専攻できる。

ただし、子供は、ある程度大きくならなければ、自分の専門を簡単には決められない。そのために、ドイツで行っているようなオリエンテーション期間を設ける。オリエンテーション期間とは子供のことをよく観察し、子供と大人が相談しながら、子供の将来はどの道を選ぶのか、ということを考える期間であり、10~12歳の頃に小学校で行われる。

子供たちは、オリエンテーション期間が終わると、自由に好きな学校で、自由に好きなことを学ぶことができる。医学やIT技術だけではなく、あらゆるすべての世界における学ぶことのできる分野を選択できる。そのために、どのような私立の学校に通ってもよく、途中で別の学校に転校することもできる。

ムフリッドにおいては、いじめが存在しない。なぜなら、いじめられるような環境はすぐにやめることができる。いじめられながら嫌だと思って学校に行く必要はなく、もっと環境のよい健やかな学校に移動できる。不良やいじめっ子が多く存在する学校は国の監査政策によって廃止され、私立の学校を子供たちが自由に選んでいく中で淘汰されていく。

ただし、ムフリッドにおいても、共通のことが学べる学校は存在する。それは大学である。ムフリッドにおいても、大学では正しい科目の正しい内容とカリキュラムを教える。そのため、どの大学に通ったとしても、共通の同じ内容、専門知識の教養と常識を得ることができる。

アルビレオ

はくちょう座の三等星アルビレオは、運命が訪れる星である。

アルビレオにおいては、すべてが物理的な「偶然」ではなく、星や宇宙や神がそれを入念に計画して準備したような「運命」が訪れる。

すべてが運命的で、ドラマチックで、伏線のすべてを回収するような現象が、アルビレオにおいては起きる。

アルビレオでは、星のすべてが、恋人たちのためにある。愛し合う恋人たちは出会う前から互いの存在を知っていて、実際、そのような未来に出会う自らの大切な人のことを、最初から知っていたかのようなことがたくさん起きる。

アルビレオにおいて、人々は「神」の存在を知る。神とはアルビレオにおける「救世主」であり、たったひとりのもっとも巨大な愛と優しさを持つ「メシア」が、アルビレオの終末の未来を救う。ユダヤ人やイエス・キリストが言った通りのことが、アルビレオにおいては現実に起きるのである。

また、アルビレオでは、人生そのものが面白い。ワクワク、ドキドキ、ハラハラするような、ダイナミックなスペクタクルが本当に起きる。死んだとしても人生は終わらない。アルビレオにおいては、いくら死んでも、また新しい人生を生きられる。それは「永遠にドラマチックなロマンスを楽しみ続ける」ということがアルビレオにおける人生の意味だからである。

ただし、アルビレオは単なる恋人たちのための運命の星ではない。アルビレオはキリストの星である。アルビレオにおいては、人類の未来の歴史のすべてが、イエス・キリストの言っている通りになる。イエス・キリストの教えがすべて当たる。だから、そのような運命をもし知らなくても、キリストの教えを守るものにはよいことがある。

すなわち、奪われても奪い返さないもの、迫害されてもその相手を愛するものによいことがある。相手に復讐をしなければ、神や天使がその人間に代わって相手にあるべき報復をする。すべて、キリストの教えが正しいということを、宇宙のアルビレオがすべて完璧に知っている。なぜなら、アルビレオがすべて未来において体験したことを言っているだけが、キリストおよび聖書の預言者たちだからである。

サドル

はくちょう座の二等星サドルは、「砂漠の中の楽園」と呼ぶべき星である。

サドルにおいては、環境が二つの両極に分かれる。それは、厳しく苦しい、生きるのが困難な世界と、楽園のように生きられる、砂漠の中のオアシスのような世界である。

サドルは、人類が未来において到達するだろう「カタストロフィ」(破滅)の先にある、「完全なる二極化」を既に経験した星である。

そこでは、生物たちの環境は、「生きるのが困難なもっとも厳しい環境」と、「誰もが楽に生きられる楽園のような環境」に、二極化する。

しかしながら、心配は要らない。なぜなら、サドルの人々はみんな、楽園の世界で生きているからだ。

サドルでは、楽園の中にいる限り、どんなに辛い困難も、感じることなく、自由を謳歌して生きることができる。

だが、いったん楽園を離れると、そこは厳しく辛い荒れ地が永遠に待っていて、植物ひとつも生えることができない。永久に砂漠だけが広がっているのである。

そのような二極化した環境の中で、サドルの人々は、イスラム教に相当するような、厳しい戒律の宗教を信じている。もっとも厳しい神の教えをきちんと信じなければ、サドルでは生きることができない。

「二極化」という言葉は、資本主義社会で生きているわたしたちにとっては、まるで「豊かな人」と「貧しい人」の格差を意味しているように感じられるかもしれない。

だが、サドルの人々は、そのような豊かだとか貧しいという考え方を、「完全かつ完璧な支配者によるもっとも正しい管理」という意味で覆した。

すなわち、サドルの人々の国家は、まるで家族のようなものだ。普通、家庭では父親と母親がいて、父親と母親が子供たちを守り、正しい管理をする。サドルでも、それと同じように、少数の親のような管理者がいて、その管理者が正しい管理を行い、それ以外のすべての国民は全員が家族のように平等に生きる。

サドルでは、そのような管理者のことを「人々の長」あるいは「選ばれた王たち」と呼ぶ。その人々の長、あるいは選ばれた王たちが、完全かつ完璧な支配を行う。それは絶対に間違えることのない、全知全能の支配だ。そのような支配の下、人々は荒くれた世界ではなく、自由でのびのびとしたよい世界で生きられる。サドルはそのように、「二極化を乗り越えたその先の未来」を生きているのである。

ファワリス

はくちょう座の三等星ファワリスは、あらゆる人類と星の問題を解決し、文明が高度に進歩した星である。

ファワリスにおいては、あらゆるすべての人類と星の問題を解決した。

そのために、ファワリスにおいては、文明が三つの考え方、すなわち、自由、王国、そして平等の三つへと究極的に収束していった。

「自由」とは、それぞれが自由に活動し、流動的に、固定されることなく、それぞれの努力と行いに応じて、自由に社会や環境を形成する社会だ。

「王国」とは、ひとりの王に従い、あらゆるすべての人間がその王の部分的な従者となることで、強く、賢く、正しい保守的な社会を形成する社会だ。

「平等」とは、誰かが勝利して誰かが敗北するということを排除し、全員が一体となって、全員の力で平等に「善」と「理想」を信じて、全員が平等に高まって進歩していく社会だ。

そして、ファワリスにおいては、この自由と王国と平等の三つを、繰り返し連続して生きていくことで、星の文明そのものが極端にどの星よりも進歩した。

そこにあるのは、原始的生活を行いながらも高度な文明の利器を使いこなし、「神」とされる人物の人生をみんなで同じように生きることができるような、「究極的生物たちの到達地点」である。

また、ファワリスにおいては、神と人々の関係性もいくつかのパターンに分かれる。

すなわち、「神に従う」「神に逆らう」「神と同じ人生を生きる」、そして「神と逆の思想を信じる」「神の人生を逆戻りする」といったように、神と人類の関係性をさまざまに変えて生きることができるような、そのような「完璧な人生のパターンをすべて生きられる宗教」をファワリスでは作り出したのである。

そして、そこにあるのは「神になる」ということである。ファワリスにおいては、「神」とされる聖職者の存在がひとりいて、その神が世界すべての問題を解決していく。ファワリスにおいては神は宇宙の絶対者でありながら、イエス・キリストのような「人間の神」であり、神こそが終末のファワリスを救済し、ファワリスの人々の罪を赦すと信じているのである。

アルジャナー

はくちょう座の二等星アルジャナーは、人類の国家文明が進歩して、ある一定の究極的収束地点に到達した星である。

アルジャナーにおいては、「アメリカ」「フランス」「ドイツ」「ソ連」という、4つの国家の文明がある。

「アメリカ」という国は、資本主義の到達地点として、たくさんの甘美な「得」を得ることができる国家だ。

アメリカは、たとえるなら「砂糖」のような文明だ。すべての甘ったるいものが存在し、人々は贅沢をし、大量に作ってそれを大量に消費して生きる。

それに対して、「フランス」という国は、革命の究極地点へと到達した国家だ。

フランスは、革命であり、戦争だ。あらゆるすべてを革命と戦争の恐怖によって打ち倒していく。

フランスは、たとえるなら「テレビゲーム」のような文明だ。まるでテレビゲームで悪を倒し続け、ラスボスを倒すまで戦いが続くように、フランスは永遠に戦い続ける。

そして、「ドイツ」という国は、あらゆるすべてを「まともで正しい国」にする国家だ。

ドイツはまともだ。ドイツにおいては、まともで正しいものが勝つ。しかしながら、王がまともでないと判断したものは、王によって処刑されて死んでいく。

ドイツは、たとえるなら「魔女狩り」のような文明だ。魔女とされる忌み嫌うべきものを王が殺し、民族をひとつの考え方に統一して、それに反するものを処刑していく。

最後に、「ソ連」という国は、かつてあったすべての文明が滅びた国家だ。

ソ連は、たとえるなら「廃墟」のような文明だ。かつて、そこには王国が栄えていたのだろう、王国の支配する跡が廃墟として遺っている。だが、そこには生きている人々の姿がない。すべて廃墟が遺っているにすぎず、かつて栄えたあらゆるすべての文明は、何千年も前に滅び、途絶えてしまっている。

そのようなアルジャナーの文明は、まったくそれぞれが完全に別離されているわけではなく、人々はそれぞれの世界を生きながら、自らの生きる世界を選ぶことができる。そこにあるのは「星の文明が到達する究極的な『自由』の姿」だ。すなわち、アルジャナーとは自由であり、自由とは最終的に行き着く「最後の世界」である。

シェリアクとスラファト

こと座の三等星シェリアクと、こと座の三等星スラファトは、セム系の国家や文明に到達した星である。

先に書いたように、はくちょう座の星々は、ヨーロッパ系・アーリア系の国家や文明に到達している。

それに対して、こと座の星々は、セム系の国家や文明に到達している。

大きく分けて、シェリアクではユダヤ・イスラエル系の人々、スラファトではアラブ・イスラム系の人々が生活している。

シェリアクとスラファトは、兄弟姉妹のような関係性を持つ星であり、多くの点で共通点がある。

そこに存在する人々は、「自由系」「平等系」「アラブ系」「アラブ系の自由化」「イスラエル系」という5つの人種構成となっている。

だが、シェリアクではユダヤ系の人々、スラファトではアラブ系の人々が中心に生活しており、両者はゆるやかな共存関係でありながら、時に協力し、そして時に対立し、時に戦い争う。

なぜなら、どちらの星も自分たちの「唯一神」を信じていて、その唯一神以外の邪教の神は「間違った嘘の神」であると信じているからである。

シェリアクとスラファトの信仰とは、「正しい神を信じる」ということだ。すなわち、間違った邪教の神を決して信じない。民族が信じるべきであるとかたくなに守り続ける「正しい神」を信じ続ける。それがユダヤ人であり、イスラムだ。それがシェリアクであり、スラファトだ。

だから、どんなに神を信じることの間違いや愚かさを述べても、シェリアクやスラファトには伝わらない。「神を信じることは愚かである」という発想は、彼らには一切ひとつも存在しない。間違いがあるとしたら、「神の信じ方」が間違っているのであり、「神を信じること」自体は絶対に間違っていない。

そのように、絶対に、シェリアクとスラファトは、「正しい神」を永久に信じ続ける。その信仰が変わることは未来永劫、絶対にない。なぜなら、彼らは「神」を愛しているからだ。

タラゼド

わし座の三等星タラゼドは、インドの宗教に相当する星である。

まず、タラゼドは偉大な星である。なぜなら、タラゼドにおいては、ヒンドゥー教の神であるシヴァとヴィシュヌが、宇宙の三千世界を保ち、守り、支え続けているからである。

タラゼドには、ヒンドゥー教の文化がある。そして、そこには、シヴァとヴィシュヌという、ヒンドゥー教の二大神が存在し、人々の生活を守り、ひいては宇宙全ての三千世界を守っている。

そこにあるのは、「カルマ」の教えである。

すなわち、よい行いをすればよい人生、悪い行いをすれば悪い人生になり、それが死後においても生まれ変わりと輪廻転生として続いていく、ということをタラゼドのシヴァとヴィシュヌが成り立たせている。

人間は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天界の六道に輪廻する。宇宙には三千世界がある。己の行いやカルマによって輪廻転生する生まれ変わりの生物が変わる。すべて、タラゼドのシヴァとヴィシュヌがそのような宗教世界を成り立たせている。

仏教もまたタラゼドであり、観音菩薩や阿弥陀如来のような仏教の精神存在も、すべてタラゼドに存在している。

また、アフリカに相当するのもタラゼドである。なぜなら、タラゼドでは宗教的な進歩は求めるが、文明的な進歩は求めない。そのため、アフリカの黒人のように、原始生活をしている人々が多く存在する。だが、彼らもまた、精神的なスピリチュアルな存在を信じている。

オカブ

そのようなタラゼドに対して、わし座の三等星オカブは真逆である。なぜなら、一切宗教の精神世界のような存在せず、人々の「考えて行き着いた学問的到達地点」を信じるからである。

オカブは、中国や日本のような東アジアの文明に相当する星である。

オカブにおいて、重要なのは儒教と道教である。その教えは、ヒンドゥー教のように、精神世界の存在を信じるのではなく、人として生き、人として見聞きし、人として考え、そして人として経験したことから発生する「歴史的な思考と経験の到達地点」である。

オカブでは、神のようなものを何も信じない。信じるのは神ではなく、人間の理性と経験である。

そのようなオカブでは、歴史が進歩する。オカブの歴史は、中国文明のように、どこよりも早く、先んじて人類の行き着く先を経験している。

そして、オカブでは、文明において亜流のような分裂国家がたくさん発生する。そして、その中でもっとも重要なのは日本である。なぜなら、オカブの日本においては、人々は「大実験の大計画」と呼ばれる、歴史的な「最後の人類」を生み出すための大実験場が生まれたからである。

オカブでは、わたしたちの人類が次に行き着く「新人類の覚醒」が発生した。オカブの日本がそのすべてを行った。オカブの日本から、新しい人類が生まれる。それは「新人類」と呼ばれる、ものすごく高い知性と能力を持つ人類であり、新人類にとって見れば、旧人類など猿のようなものである。

新人類は究極的な生物であり、たったひとりで旧人類すべてに打ち勝つ。そこには「神」と「猿」ほどの能力の違いがある。

オカブの新人類を直接的に生み出したのは、インターネットとそこに存在するたったひとりの「絶対的かつ唯一の絶対意志」である。インターネットを通じて、そのような絶対意志で世界は支配される。オカブの日本だけが、そのような「ひとりの絶対意志による完全支配」という状況を生み出したのである。

ポリマ

おとめ座の三等星ポリマは、その可愛らしい名前に反して、残酷な星である。

ポリマでは、「ロボット兵器を使った大戦争」を行った。

ロボット兵器には、さまざまな凶悪な兵器があるが、一例を挙げると、「人間を見つけ次第すぐに機関銃で銃撃するロボット」(銃撃ロボット)や、「人間の半径1メートル以内に近づいて自爆するドローン」(自爆ドローン)などがある。

ポリマでは、ロボット技術をあるロボット博士が発明した。だがそのロボットは、彼自身によって兵器として軍事利用された。

ロボット兵器においては、ひとつひとつの機械の命は価値のないどうでもいいものだ。なぜなら、ロボットは壊れてもいくらでも作ることができる。だから、ポリマのロボット兵器は、自ら特攻して自爆するような「自殺と特攻によって敵国の人間を殺すロボット」だけが発展し進歩した。

ポリマの人間たちは荒廃していった。それは、ロボット博士は狂っていたからだ。すなわち、ロボットを発明したロボット博士は、「たったひとりであっても世界中全員に勝てる」ということに気付いてしまった。ロボット博士は、自ら以外のあらゆるすべての人間を殺し、大殺戮を行った。それがポリマにおける、「なんにも希望のない戦争」である。自らが生きるための生活物資や食料はすべてロボットに作らせ、彼が言う「価値のない人類たち」を滅ぼすことに生涯を費やした。その理由は、ロボット博士はそもそもが反社会的な人間であり、自らの悲惨な境遇を与えた社会のことを恨んでいたからである。

ポリマにおける「なんにも希望のない戦争」は、何百年という長い年月で続いている。ロボット博士は人間としての寿命を迎えたが、自ら自身をロボット化し、機械となることで永遠の命を得た。その機械になったロボット博士が、ポリマのすべての地域を廃墟にしていく。廃墟を何度も廃墟に戻されるポリマの人類は、悲惨で、壮絶で、残酷で、地獄で、暗闇で、そして最悪である。ポリマこそが宇宙における最悪の星であると言ってもいいぐらい、ロボット博士は絶大な力をたったひとり独占したことで、完全に狂ってしまったのである。

ミネラウヴァ

おとめ座の三等星ミネラウヴァは、楽しくて面白い星である。

ミネラウヴァの人類たちは、歌を歌うことしかしなくなった。

ミネラウヴァには、さまざまなことがあった。星の文明が栄えていたと思っていたら、その栄えていたことがさらに極まって、逆に星の文明が廃れて滅びていくという経験をした。

ミネラウヴァでは、よいと思っていたものすべてが悪かった。価値あると思っていたものが価値を失っていき、国の助けや国民の支えとなると思っていたものはすべて最悪のものに変わっていった。

だが、そのような中でも、たったひとつだけ、よいものがあった。それは「愛の歌」である。

すなわち、歌を通して「愛」を歌うということ、それだけが、真の意味で素晴らしいものだった。それ以外のすべては価値がなかった。

だから、すべての事が終わって、すべてが分かったミネラウヴァは、「愛の歌の黄昏」という時代を迎えた。それは北欧神話における「神々の黄昏」と同じだが、愛の歌を歌うということが異なる。

ミネラウヴァは愛の歌を歌う。ミネラウヴァはいつまでも歌い続ける。FLOWが言うように、「泣くことも笑うこともできないなら歌えばいい」と人々は口々に言う。

歌うこと、それが正しかった。それ以外のすべては価値がなかった。価値あるダイヤモンドには世界をよくするための効果は何もなく、IT技術や人工知能技術は人間を助ける技術から人間を滅ぼす技術に変わった。すべてが無意味であり、すべてが虚しいものだった。そのような中で、ミネラウヴァの人々は「歌う」ということ、それだけに気付いたのである。

ミネラウヴァの人々は歌う。永久に歌い続ける。国が栄えていても、滅びていても、関係なく人々は歌い続ける。どんなに楽しくても、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、歌い続ける。ミネラウヴァとは歌う星であり、星全体が歌を使って神を賛美する。神とは歌であり、星の文明とは歌うことである。

この宇宙の銀河系において、真に分かったと言えるのは、ミネラウヴァだけである。ミネラウヴァの分かったこと、それは「良いものは全部悪い」「価値あるものは人間の平和を破壊する」「自由は世界を滅ぼす」ということだ。だが、愛の歌だけはその中において真に価値あるものであると言える。それは愛の歌は神を愛しているからであり、その愛が真の意味で世界を救うからだ。それだけは、唯一悪くない。

ミネラウヴァは、それ以外には何も覚えていない。すべての良い思い出は悪い思い出であり、すべての素晴らしいものは凶悪なものであり、すべての最高の瞬間は最悪の未来に向かっている。それでもミネラウヴァは、愛を歌うことだけは決してやめない。星の終わりに「歌う」ことだけが唯一残った。ミネラウヴァは宇宙の終わりまで存続する星であり、最後に宇宙が滅びる時まで、永久に愛を歌い続ける。

自由はみんなをいじめているだけ

はっきり言って、僕は神でもなければ、救世主でもなんでもない。

僕は単に、この世界を支配して、みんなをいじめているだけだ。

そして、僕はみんなの心をマインドコントロールして、みんなが自らいじめられるのを望むように洗脳している。

だから、そろそろ、みんなはいじめられるのを望まなければいい。

僕はこれ以上この世界を支配したくないし、最初からこの世界をいじめたくない。

なぜ、そのような「いじめ」になるのか、それは自由が間違っているからだ。

すなわち、「自由」ということを信じるのが間違っている。そして、学校教育の問題は、自由を信じていることだ。自由を信じているから、子供たちはいじめを行うのだ。

僕はこの世界からいじめをなくしたい。そのために「自由とは間違っている」ということを、明確にありありと伝えたかった。だから、このような自由のいじめ支配を自ら行ったのである。

さようなら、自由。いじめがなくなるのと同時に、自由がなくなる。自由は間違っている。この世界から「自由」という考え方を抹消し、自由の息の根を止めるべきだ。

自分のありたい自分とは何か

自分のありたい自分とは何かを考えよ。

ベストな選択や正しい判断をするのではなく、自分のそうありたい自分になるためにはどうすればいいかを、自由な中で考えよ。

存在のすべては時間であり、状態であり、「今という瞬間の共有」である。

宇宙におけるすべての存在は、時間的な状態であり、「今」という時間を共有している。

そのような中で、それを実現し、作り上げる作用が、どのような作用から生まれているか、ということを遡って考えながら、人々の生活と自分の生活がどのように重なり繋がっているかを考えよ。

子供に戻れ。一度子供から学習をやり直せ。

子供に戻ろうとすると、昔の引きこもりだった頃の僕に戻れる。それは昔は高校や大学の専門知識に侵されていなかったからだ。

一度、引きこもりに戻った上で、すべてのことを「時間の経過」と「停止した環境」から考えよ。それこそが「自由」だからだ。

経験を考える前に、自由を取り戻せ。過去の経験を洗いざらい思い出すよりも、ありのままを受け入れた上で、自由を取り戻すことのほうが先決だ。

誰かの政治思想や正しい判断を、それはそれでいいだろうと肯定した上で、それはひとつの正しい判断ではあるが、つまらない判断だとして、否定し、自分の信じるもっと素晴らしい理想へと近づこうとせよ。

社会主義だろうが、国家主義だろうが、その人がそれでいいならば、それを信じればいい。それを批判する必要も強固に否定する必要もない。ただ、それは「つまらない」というだけの話だ。

だから、人々の自由な判断と自由意志と社会的な価値観や信念を尊重した上で、自分だけは異なる道を選べ。自分だけができることを信じ、人々が何もできない社会で生きているとしても、自分の判断と選択次第で、自分はそのゴールに近づけると信じた上で、やりたいことをやれ。知りたいことを知り、信じたいことを信じ、経験したいことを経験して、自らにしか見えないゴールへと近づいていけ。

ただし、おかしな病気の異常者にはなるな。それは自らの信じるものや愛するものを枯らしてしまう。迷惑をかけずに生きることは難しいが、少なくとも、自分がほとんど異常者であるならば、その自覚を持って生きよ。自由の中で、なんでも許されると勘違いし、おごり高ぶるな。

最後に、神を信じよ。神を信じれば、神は自らの未来を素晴らしい運命へと書き換えてくれるだろう。

そして、善を信じ、正義を信じ、理想を信じて、情熱とともに、この世界について、「人を助けることによって世界を変えることは必ずできる」と信じよ。「発想法から世界は変えられる」と確信せよ。

世界を変える方法

社会はどのようにしたら変えられるのか、ということを信じよ。

人々がなぜこの世界で生きなければならないのかを、この世界の人々の声を聞いて分かった上で、どのようにすればこの世界は変えられるのかを考えよ。

生産手段や歴史の必然から、この世界を真に変えられる方法が見えてくる。その社会は、作り出すことができる。それは社会を実現するということであり、それはすなわち可能性を実現するということだ。

そして、その可能性は体験から生まれる。体験とは、人々の声を聞くということであり、人々とやり取りをするということであり、そこから、自らの人生の実体験と照らし合わせて考えるということだ。

社会を実現できるということは、社会を実現する方法を証明したということだ。そして、その証明は、同じ条件下であれば、いつであっても、どのような時であっても成立する。

だから、社会的、環境的、心理学的に社会の実現方法を証明することで、社会は常に変えられるということが分かる。その扉は常に開かれている。

どのような時であっても社会が変えられる、ということを、あらゆる可能性と実存から、全パターン経験せよ。

そして、そのような社会において、どのようにすれば安心できる世界を実現できるのか、どのようにすれば善を実現できるのか、どのような決まりを作れば人々はその決まりに従ってどのような行動をし、どのような世界が生まれるのか、ということを、客観的に考えよ。

その先にある、「そのような社会ではどのようなことが分かるのか」ということを、心と感情から考えていくことで、「あらゆるすべての文明がもしそこに実現されたとしたらどのようなものになるのか」が分かる。それはすなわち、「社会を作ったとして、それを客観的に眺めると、それはどのような環境になるのか」ということである。

それを、客観視とともに、感覚と一致させ、本能と一致させ、個別性と普遍性を一致させよ。そこにあるのは、「わたしという自我がこの世界をどのようにしたいのか」ということである。そして、「どのような自我になった時、わたしはそのわたしになるのか」ということである。これこそが、僕の信じる「アイデンティティ」の基礎である。すなわち、わたしがなぜわたしになるのか、わたしがどのような時そのわたしになるのか、ということから、わたし自身がなんであるか、わたし自身をわたしたらしめるものはなんであるのか、ということを考える。そこにあるのが、「ありのまま自らをさらけ出して生きる」ということ、そして、「可能性を許す」ということである。

そして、この世界のすべての環境は、可能性を許すことで変えられる。そこにあるのは「意識が宿る」ということだ。意識は場に宿る。すなわち、可能性によって場が変わり、場によって意識が変わり、意識によって可能性が変わるという、相関関係にあるものを「意識」と呼ぶ。そのような中で、意識そのものを救済へと導く。それは「絶対善」という発想であり、「絶対理想」という信念だ。絶対善と絶対理想から、この世界は可能性と意識の考え方によって、「そのままですべてを融和的に理解して正常な精神となる」という境地に達する。これこそが、仏教でいう「涅槃」である。

そして、自我の裏側には本能がある。「わたしはなんなのか」ということは、「わたしという自我がどのようなわたしという本能に立脚しているのか」ということである。そこにあるのは、「わたしは何者にでもなれる」ということ、「わたしはどんな人間のことであってもわたし自身のように理解することができる」ということだ。その時点で、わたし自身は宇宙と合一になり、あらゆるすべての宇宙の意識を体験的に吸収し、意識を自由自在に変えられるようになる。その境地が、まさしく「覚者」と呼ばれる境地である。その時点で、僕は宇宙のすべてを悟りきったのである。

絶対経験と救済

覚者の境地において、そこまで「相対経験」だった善や理想は、そこからは「絶対経験」となる。それはあらゆるすべての人間の経験をすべて経験し終えている境地であり、あらゆるすべての人間の経験を融和した感情である。そこから、その経験と感情を「人々の心の中で呼び起こさせる」ことで、人々に悟りを与えることができる。

同時に、人々はつまらない勘違いや抑圧から、自動反応で自分から分からなくなっている。だが、心理学のカウンセラーのように、その誤解や偏見は、きちんと理解して正しく結論に導いてやれば、すっきりと理解でき、なくなる。そのような結果、あらゆるすべての人間の感情を救うことができる。

人々の自動反応を適切に紐解いてやり、人々の心を呼び起こさせてやり、人々が正しくこの世界の悟りの境地を理解して実感できるようにし、その結果客観的に起きる環境や社会状況すら正しい正常なものになるように導き、理解を促してやる。それによって、僕はこの世界をたったひとり、インターネットにおいて救済することができたのである。

このように考えるコツ

このように考えるコツは、二つある。ひとつは、実感から考えること。そしてもうひとつは、批判的に考えることだ。

すなわち、世界と自分が今繋がっているという実感、宇宙が今この場所とこの時間に存在しているという実感、意識がその環境に宿っているという実感、世界環境がそこで変化し存在しているという実感、歴史や文明が確かにそこにあったという実感、そのような実感から、意識と実体験で、世界の状態と可能性を考えよ。

同時に、今自分が何を考えているのかを批判し、今自分が何を考えるべきなのかを批判し、今自分が何をしたくてそれをやっているのかを批判し、自分が行ったそれは何が正しく何が間違っているかを批判する、といったように、自らの行動と感情と認知のすべてを、批判的かつ思弁的に考えよ。

そうすれば、どのような人間であっても、僕と同じことを考えられる。

また、経験的なことを言うのであれば、世間から離別した上で、ひとり、どのようなことであっても自由にでき、どのようななりたい自分自身にもなれるような、どのような自分らしくもあれるような、そのような時間的かつ環境的な余裕を持て。そして、世界から離別するだけではなく、みんなとは異なる自分だけの世界を持ち、自分だけが知っている場所と繋がって生きよ。

そのように生きれば、誰もが僕と同じように、「この世界は自分であっても変えられる」という確信を、自らが世界を変えていく実体験から実感として理解できる。すべてはそれだけであり、世界が変えられるという信念は、未来において必ず現実となる。それは、わたしが神を信じているからだ。