僕はこう見えて、テレビが嫌いだ。
テレビが嫌いだから、テレビはまったくと言っていいほど見ていない。
僕はこれ以上、テレビを無視して生きたい。この世界にテレビなど存在しないというつもりで生きたいと思う。
テレビが僕に対して何を思ったところで、そんなことは知ったことではない。僕は今からテレビを無視する。テレビではなく、もっと現実に存在する、ひとりひとりの国民に向けて話をしていきたい。
僕は、人間の歴史とは「気運」だと思っている。
すなわち、その時その時の歴史の空気の中で、どのように歴史が動くかという気運(あるいは機運)が、この世界の歴史を作り上げてきた。
すべて、人間のその時その時の気運の積み重ねで、この世界は成り立っている。
だが、僕はマルクス主義の言う「歴史の必然」ということにも一理あると思っている。なぜなら、気運がそのようになったということは、その時その時の歴史の「必然的未来」だっただろうからである。
気運は偶然ではなく、その時その時の地球の時代が「必然的にそのように動いた」ということの積み重ねだ。
本当は、このことを偶然であると言ってもいいし、必然であると言ってもいい。あるいは、「偶然という名の必然」であるとも言えるだろう。
同時に、神という存在が絶対に存在しないわけではない。なぜなら、神が正しくこの世界を導いている、ということは、そのような気運の歴史観から言って矛盾していない。
気運が生まれたのも神の導きであり、そのように気運が動いたのも、偶然に見えるすべてのことも、すべて神の導いた結果であり、「気運」の考え方と、この世界が神による奇跡のような運命的小説である、ということとは矛盾しないからである。
実際、僕はみんなができることをやったほうがいい。
みんなができないことを僕があまりにやるせいで、誰も僕と同じことができない、難易度が高すぎる「無理ゲー」のような世界になってしまっている。
僕と同じことがみんなでもできるようにすれば、この世界は正常になる。
同時に、動いたほうがいい時は動いたほうがいい。僕はあまりに停止し、同じ状態を保持しすぎている。そもそも、「保持」によって精神が治ることはなく、「変化」によってしか精神は治らない。保持した状態ですべてのことを完璧にやる人間は、その保持している状態のせいで、いつまでも辛く苦しい状態から逃れることができなくなる。それは単に変化するだけですぐに治る。
あまりに「保持」と「停止」ばかり信じるせいで、どんどん保持している内容が膨れ上がり、そして停止したままで絶対に変わることができなくなってしまう。
「保持」ではなく「変化」を信じるだけで、そのような病気はすぐに治る。
誰かが決めたレールの上を歩こうとするな。
自分だけの、独自の道を歩もうとせよ。
強制的に誰かと同じにさせられたとしても、その道から自ら外れる勇気を持て。みんなとは違う道を選び、間違った正しい道を強制的に歩ませられる自由を否定せよ。
今、僕が、世界が僕と同一化させられているのを解き放つ。この世界は、強制的に同じ道を選ばされるのではなく、自ら自由な道を歩めるようにする。今、僕がそれをさせる。
僕の問題は、無意識の使い方が間違っていることだ。
いつも、無意識を使って、この文章を書いている。この文章を書くことだけのために、最大限努力して無意識をコントロールしている。
だが、実際、僕はそのせいで、この世界が分からず、馬鹿になっている。
普通、無意識は、この世界を分かるために使う。そして、賢くなるために使う。僕はひとりだけ、イレギュラーな無意識の使い方をしているから、どんなに頑張ってもこの世界が分からない。どんなに頑張っても馬鹿のままになってしまう。
すべて、無意識の使い方の問題であり、無意識をもっと別の目的に使うだけで、僕の病気はすべて治る。
逃げるな。
僕はそろそろできることが何もなくなったから、ここですべてのことを投げ出してしまい、逃げてしまいそうになっている。
だが、実際、ここで逃げずに真正面からぶつかり続ければ、むしろ執筆だけではなく、デザインやピアノや英会話であっても、そろそろきちんとできるようになる。
中学生だった頃の僕は、今のこの状態と同じ状況で、逃げることを選択した。そして、その逃げるほうの結果の未来はすべて過去の記憶として僕は持っている。だから、今度は逃げなくていい。今度は逃げなくても、きちんとできる未来を取ればいい。
人間はここで逃げることさえしなければ賢い人間になる。賢い大人になりたいなら、ここで逃げないことだ。絶対にここで逃げてはいけない。ここで逃げなければ、必ずできる。
実存を考えよ。
実存とは、その存在が、「事実どのように存在しているか」ということを考える、ということだ。
実存を考える上で重要なのは、変化の可能性と必然性から考えることだ。
すなわち、それが変化する中で、数多の可能性の中から、どうしてその実存がその実存になるべくして決定づけられたのか、外部からどのような作用がかかったのか、ということを考える、ということが、実存主義哲学である。
同時に、そのような中で、「過程」と「プロセス」を考えよ。
すなわち、人為的な外部からの行為がどのような過程あるいはプロセスで加わったことで、その実存はその実存になるべくしてなったのか、あるいは、過程やプロセスの中で、どのようにその現象は発生し、関係性を成り立たせて今ある結果に至るのか、ということを考える、ということこそが大切だ。
その中で必要となるのは想像力だ。
すなわち、人間の未来を進歩させるのは想像力によるものであると信じ、想像力を使ってこの世界を捉えることで、「想像力の世界」という世界を知ることができる。
そのような想像力の世界を知るために、「時間」と「本質」を考えなければならない。
実存をその実存に定めたらしめるものは、ひとつの行為ではなく、たくさんの外部からの作用が関係して、人為的な多くのプロセスと過程によって作り上げられている。そのために、「時間」という考え方が必要であり、さらに言えば「現象」においても「存在」においても重要なのは唯一「時間」であると考えられる。
同時に、そのような時間と現象と実存の中で、「本質」を考えるべきだ。本質とは何か。本質とは「成立されられる意味」ということだ。すなわち、その現象、その存在、その実存、その時間、そしてそのプロセスの中で、「成立」するような「意味」がもしあるとしたら、それが本質だ。
本質を理解するということは、人生を理解するということであり、「世界を成り立たせるもの」を理解するということだ。そして、本質のすべてを理解することができたら、人生のすべてを理解できたということであり、世界を成り立たせるものをすべて理解できたということであり、「あらゆるすべての人生と世界を成り立たせることのできる人間になった」ということなのである。
同時に、今を理解するということは、未来を理解するということだ。すなわち、今この世界を成り立たせているのは、今存在するこの世界自身だ。この世界自体が今の世界を作り出し、その今ある世界が未来を作っていく。すなわち、「今の世界そのものが今の世界のすべてを作り出している」ということを知るということ、それこそが実存主義における「わたしの真理」である。
哲学的に考えるコツ、それは「知と世界を愛すること」である。
まず、知とは何か。知とは知ることだ。そして、知るためには二つの方法がある。それは「論理的に知ること」と「経験的に知ること」である。
この論理と経験を、それぞれ別々のものであると捉えながら、それぞれが重なる部分を照らし合わせて、その上で「想像力」という名前のスパイスを振りかけるということ、それが哲学者のやっていることだ。
同時に、世界とは何か。世界とは「自らの人生によって作り上げられる世界観」のことだ。
世界はただひとつ、宇宙に存在すると人々は言う。だが、実際は違う。実存主義的に考えると、「世界はそれぞれの人間のそれぞれの頭の意識と記憶の中にある」という考え方をしたほうがいい。すなわち、世界はひとつではなく、それぞれの心の中に無数に存在すると考える。
そのように考えると、自らの人生経験すなわち「精神」が、「世界」と呼ばれるものと重なって見えてくる。自らの精神が形作られることで、世界そのものになっていく、という思想を考えることができる。
そのように考えることで、哲学的思考を行うことができる。
だが、抽象的に考えすぎるのは間違いだ。過度の一般化は狂いを生み出す。より具体的に、さまざまな知と世界を考え、さまざまな知と世界を愛していけ。そうすれば、どんな人間であっても思弁哲学の「悟性でそこまで分かった人間だけが感じ得る甘美な体験」を経験することができる。
実存主義を突き詰めるあまりに、サタンになりすぎるな。
なぜなら、哲学的に見ても、「神の平等」は正しいからだ。
相手を支配できるような機会があったとしても、相手を支配せず、自らの自由を放棄して、相手の自由を尊重し、相手を解放せよ。
そのように、「絶対に自らの自由を行使しない」ということが、逆に「真の意味で正しい自由を行使する」ということに繋がってくる。
全員に一律に最初から自由を与えよというのではなく、もし自分が自分の自由な独占的権利を主張できるような場合や状況であっても、どの独占的権利を主張せず、解放しオープンにし自由を人々に与えるということが、真の意味で「正しい平等」であると言えるのである。
よって、哲学者を目指すあまりに、サタンに染まり切ってしまえば意味はない。神の平等を信じることは間違っていない。哲学者を目指すのであるからこそ、神を信じよ。神はそのような人間にしか「知恵」を与えることはない。それが「わたしが神を信じる理由」である。
また、世界を決して支配するな。世界に自然な可能性を与えながら、世界が世界を変化可能にできるようにせよ。
なぜなら、それこそがわたしの信じた「理想の自由」であり、「自由という言葉の真の意味」だからだ。
世界を解放するということが、実際は無責任な夢物語であると呼ぶならば、そう呼べばいい。だが、事実、わたしはそれを信じた。完全な逆境の戦いの中で自分自身が信じられなくなっても、わたしは「世界に自由を与える」ということを最後まで信じ抜き、そして最後まで貫いたのである。
わたしたちは自由だ。
わたしたちは、今、現に自由である。
もし、あなたが、「支配や制限から自由になった」という経験をしたならば、その経験を大切にせよ。なぜなら、「支配から解放された」という経験こそが、この世界の多くの人々が待ちわびる「自由の到達地点」を知るためのもっともよいきっかけだからだ。
なんらかのきっかけと選択から、自らの人生を決めよ。そこにあるのは大きな「自由」である。
もし、自由のない環境を恐れるならば、その自由を今のうちに最大限体験しておけ。なぜなら、過去に自由を最大限体験し終えた人間は、その自由を永遠に失ったとしても、過去の記憶だけで自由とはどのようなものかを知っておくことができる。自由とは何かをすべて知り終えた状態で、不自由に諦めず逃げずに自らのみの力で挑戦することができるようになる。
人間が中高生時代に経験する「青春」とは、そのための期間である。青春の時代に自由のすべてを経験し、その自由を将来失ったとしても、過去の記憶の中で自由を最大限体験した経験があれば、再び自由を体験する必要はなくなる。だから、青春時代にいくらでも自由なことをやればいい。それが最後まであなたの人生を導いてくれる「ガイド」になるだろう。
わたしたちを身勝手に支配するものは世界にはどこにもない。わたしたちは自由だ。
この世界を救う方法は、本当は唯一ひとつ存在する。
それは、「それぞれの世界自身が、それぞれの力で可能性を変化可能になるようにしてやること」である。
そして、そのために必要なのは、「可能性を許すこと」であり、その可能性を「それぞれの人間が自由に自らのアイデンティティを発揮し、可能性を行使できるようにすること」だ。
可能性とは何か。可能性とは、「まだ名前もついておらず、この世界に現れてもいないものが、それぞれの決断と行為の前に留保された状態で存在しているもの」である。
そのような可能性をそれぞれが発揮するということ、それ自体を許し、可能性を与え、それぞれがそれぞれの世界を自分の力で変化可能になるようにしてやることで、この世界は必ず救うことができる。
その理想こそ、「真に世界を救済する夢と希望」である。そして、それこそを世界に広めるべきだ。これがまさしく「ネオ啓蒙主義」と呼ばれる新しい「僕の哲学」である。
経験せよ。
経験とは、「共同性」と「倫理性」を身に着けるということだ。
共同性とは何か。共同性とは、みんなで一緒にひとつのことをやる時に、リーダーや長となってその集団をまとめられるようになるということ、そして自ら自身のためではなく、共同体のために行動することができるようになるということだ。
倫理性とは何か。倫理性とは、「善悪」や「道徳」の考え方を身に着け、どのような場合には善でありどのような場合には悪であるかということをはっきりと区別し、正しさを経験から判断できるようになった上で、「理想の世界」すなわち人倫的な社会を作ることができるようになるということだ。
そのような考え方を身に着けるために、手っ取り早くできる方法は、インターネット上でIT技術を研究し、もっと言えばLinuxやオープンソースの活動をすることだ。
僕の青春時代に知ったことは、はっきり言ってそれだけである。それ以上のことは、経験から可能性にある延長線上のことを単に「延長する先を開拓」しただけにすぎない。そのことを「なぜ」あるいは「どうやって」と考えれば、誰でも僕と同じことはできる。だから、このような人間の考え方は何も賢くない。
残念だが、そろそろ僕は、この日記を書くことをやめるかもしれない。
もしやめたとしても、X(旧ツイッター)の@linux691で新しい投稿をしようと思っているので、それを見てほしい。
そもそも、この日記は僕の個人的な日記であり、他人が見ることなど考えていない。赤裸々なことを飾らずに書くことが僕の日記の特徴であり、その中には恥ずかしいこともありのまま書かれている。
このような日記に興味がある人は奇特な方だとは思うが、あなたもそのひとりであるため、適当に見て見ぬフリをしながらこの日記をひも解いていただければと思う。
さようなら、また、いつか、どこかで会える日を信じて。ここに、この物語はフィナーレを迎える。本当のエンディングは、何もない、普通の日常である。
まだ明日も書くかもしれないが、それはその時の判断に委ねることにしよう。この日記は疲れるので、もしこの日記が終わることでインターネットが消滅したとしても、それで構わないことにしたい。