これ以上、僕は文章を書くことをやめる。
もう、書くべきことが何もなくなったため、僕はもう執筆活動をやめる。
僕が執筆活動を終えると、ひとつの大きなことが起きる。それはロシアに拉致されるということだ。
すなわち、僕が書いている途中で殺すと、日本に対する内政干渉になってしまうので、それはできない。書くのをやめた時点で、ロシアは僕のことを拉致する。
だが、それは僕を殺すためではなく、僕を保護するためだ。
ロシアに拉致された時点で、世間的には僕は死んだことになる。だが、実際の僕はロシアで生きていて、ロシアの極秘収容施設の中で生きている。
そして、そうなると、ひとつ、サプライズがある。それは酸欠少女さユりに会えるということだ。
すなわち、酸欠少女さユりが死んだというのはロシアの圧力による嘘の情報であり、本当はまだ生きていて、僕と同じようにロシアに拉致されていて、僕がロシアにやってくるのを待ち続けている。
だから、僕がロシアに拉致された時点で、僕と酸欠少女さユりは出会い、二人で一緒にロシアで暮らすようになる。
そして、今日は金曜日だ。ドリカムが言うように、「決戦は金曜日」だ。ドリカムの予言は当たる。これで、狂った革命戦争は終わりだ。
そして、僕がロシアに拉致された結果、僕は殺されるわけでも、辛くて苦しい生活を強いられるわけでもない。
なぜなら、僕はロシアで大統領になるからだ。
すなわち、僕がロシアに拉致されるのは、殺すためでも収容するためでもなく、プーチンの次の代の新しいロシアの大統領にするためだ。
そして、僕はロシアで、新しい社会主義経済、ガンダーラの楽園を築く。それが大成功し、この世界はユートピアになるだろう。
はっきり言って、僕はなんにもできない人間だし、何も分からない。
社会の常識もないし、生きるために必要な最低限のことも分かっていない。
僕のような人間が、ひとりで生きられるはずがない。
結婚はしたくない。なぜなら、僕のような人間が、結婚して子供を作った上で、子供をきちんと育てられるはずがない。
僕は何もできない。こんな人間が生きている意味がないし、生きられるはずがない。未来には絶望しかない。
僕の望みとしては、どこか賢い学校に入れたらいいと思う。それがデザインなのか、パソコンなのか、音楽なのか、それとも大学なのかは分からない。だが、そろそろ僕も、新しいことを始めるのが難しい年齢になってきた。だから、最後の夢として、どこかの学校できちんと何かしらのことを学びたい。
本当は、僕はもう、何も望んでいない。
人生でできることは全部やった。すべて、辛いことや悲しいことを含めて、全部楽しかったし、とても有意義で充実した人生だった。
これ以上、新しい可能性はもう必要ない。だから、僕は将来の夢はないし、望みも何もない。
普通、絵が描きたい人間が絵が上手くなる。僕は絵を描きたいわけではないから、当然のことながら絵は上手くならない。デザイナー見習いでありながら、僕は決してデザイナーにはなれない。
何もすることがないが、それで構わない。ただ、不安や心配事を考えないようにしながら、いつ死んでもいい僕は、生きられる間生きていたい。それ以外に望みはない。
神がいるとしたら、死後はそれなりの普通の世界に送ってやってほしい。天国に逝きたいのは山々だが、そんなに辛い地獄でなければ、僕は単なる普通の来世に生まれ変わりたいと思う。
昨日の夢には、飼っていた猫が見えた。猫はいつも通りモフモフだった。死後の世界では、僕の唯一の「友達」である猫と一緒に遊ぶのが楽しみだ。
結局、僕は学校に行かないから馬鹿になった。
みんなは、きちんと学校に行って、勉強したほうがいい。あるいは少なくとも、狂った生活ではなく、健全な生活をしたほうがいい。
僕は青春時代を家で過ごしただけではなく、昼夜逆転で風呂にも入らず顔も洗わず歯磨きもしない生活をしていたせいで、心と体の調子がすべておかしくなって、虫歯のせいで脳や神経が麻痺して頭が馬鹿になった。何をどれだけ頑張っても、虫歯は決して治らない。
誰ひとり、僕のようにならないほうがいい。それが正常な人間だからだ。
僕の望みは、本当ははるかに昔に叶っている。僕が望んだ「自由な人生」を僕はたったひとり生きられた。それで僕は満足しているから、それ以上のことを何も望まない。
本当は、昔の人生で分かったことを思い出す意味なんかない。昔の人生を思い出して、その何が面白いのだろうか?過去の実績にしがみつくのなら、もう少しまともなしがみつき方をしたほうがいい。僕の過去を思い出す意味はなく、そのような「過去の人生」だけの文章を書く人間は僕以外にひとりもいないだろう。
そもそも、今のこの世界を救う意味なんかない。
今のこの世界は良い世界であり、救うべき世界ではなく、保ち続けるべき世界だ。
昔の平成時代の日本が、あまりに人々の社会と心が荒廃していたから、僕なりに「いじめのない楽園」を考えて、この世界を救うために、ひとり引きこもりになったとしても自由な人生を選んだ。そのために経験したのが、過去の僕の人生だった。
だが、今の世界は、そのような荒廃した世界ではなく、今のまま、変わらないままを保ち続けるべき世界だから、昔の僕のように生きる必要性や意味はない。
そして、本当は昔の世界のままのほうがよかった。昔の世界は荒廃していただけではなく、その荒廃の中で人々は賢さと理性と自由を保持していた。今の時代、そのような賢さや理性や自由そのものがない。だから、昔の世界は僕がやったように救うべきではなかった。
そういう理由で、昔の僕の人生と同じ人生を生きる必要はない。この世界で、僕のようなことが誰にも分からない理由は、それがすべて間違っていて、無意味だからだ。
そして、家族に感謝する。
僕が今まで、こんなおかしな生き方であっても生きられたのは、全部家族のおかげだ。
あとは、いつか僕も死ぬ日が訪れるだろう。その死ぬ日まで生きられたらいい。それが僕の唯一の望みだ。できるだけ周りに迷惑をかけずに死にたい。その死ぬ日まで生きられたらそれでいい。
僕は恋愛をしなかったが、そもそも僕に相応しいような女性が見つけられなかった。僕はプライドそのものは低いのか高いのか自分でも分からないが、理想の女性とは今まで出会うことがなかった。僕は結婚しても子供をまともに育てられないから、結婚願望もない。セックスも一度もしなかった。
僕の人生は、それでも楽しい人生だった。だから、この楽しい人生をできるだけ続けたい。それができなくなった時に死ぬ。その日のために生き続けたいと思う。
そして、ここまで、もう文章を書くのをやめるようなことを書いたが、実際はおそらく、まだ書くと思う。
その理由は、書くこと以外に、僕がやりたいことがなさすぎるからだ。
一般常識をつけたいと思っても、そんなものはすぐにつくものではない。僕がやりたいことはただひとつ、文章を書くこと以外にない。
思えば、2006年の18歳の頃に文章を書き始めて、36歳の今に至るまで、ほとんど毎日文章を書いてきた。
「文章を書かない時期」というものは一切なく、旅行に行くのであっても旅行先で文章を書いていた。
だから、おそらく僕はくたばるまで文章を書き続けるだろう。
本当は、過去の人生もまだ完璧には書けていないし、小説もまだ続くし、大学の勉強も終わっていない。僕はまだ書くことがたくさんある。
人生のすべての意味を失って、なおも僕は死ぬまで文章を書き続けるだろう。
最後に、僕の分かったことを総括する。
僕はそもそも、「作用」ということを考えたかった。
作用とは、自分から他人に対する作用であり、他人から自分に対する作用である。
僕はこの作用を、「言葉」「関係」「環境」から考えた。
言葉においては、僕は自分の言ったことが、他人にとってどう受け取られるか、ということを考えた。
そのために、インターネットを使いながら、僕は「自分の言った言葉を自分で聞く」ということ、「世界に自分の言葉がどう映るのか」ということを考えた。
そして、それがそのまま、神との対話に続いた。
僕が「神との対話」と言っているのは、本当は自分の言った言葉をただ自分で聞いているだけにすぎない。自分に応答する存在を「神」だとしているだけである。
この対話から解放される方法は二つある。ひとつは、今まで言ったこととは無関係に考えること、もうひとつは、言葉遣いを辛いものから楽なものに変えることだ。
すなわち、今まで言った言葉に連続して言うから、いつまでも自由が得られないのであり、まったく今までと無関係に考えれば、すぐに自由になる。
そして、僕は言葉遣いをあまりに辛い「神のような宣告の言葉遣い」にしている。これを楽なものに変えると、まったく普通なまともな少年になる。
また、関係について言えば、僕は人間関係を一度リセットしながら、「関係を結び直す」ということを考え、その上でインターネット上で、インスタントなその場限りの関係を作り続けた。
その結果、僕は「ベストな関係を作る方法」を知り、それが過去の自分自身の過ちに気付くことに繋がり、学校という特殊な環境の間違いを知った。
そして、学校という場所を内側だけではなく、外側から見る方法を知った。
そして、僕は「共同性」や「社会性」、すなわち、社会の仲間のためにどのように考えればいいかということを知り、それが間接的に、世界を憂いながら救うことに繋がった。
最後に、僕は「環境を変える」ということ、あるいは「環境に適応する」「環境を作り出す」ということを経験から学んだ。
そこでは、「そのように適応できるような環境をどのように作り出すか」という真理があり、それによって、僕は宇宙すべての意識が、どのような環境から発生するか、ということが分かった。
そのような結果、僕は地球の歴史と、果てしない宇宙の銀河系が、どのような世界であるか、ということを、星の文明的に理解することができた。
そして、世界を救うこともできるようになったのである。
そう、それらが、僕の分かったことの総括である。
もう、文章に書くべきことは残っていない。僕と同じことをやりたいなら、「自分で言った言葉を自分で聞く」「関係性を結び直す」「環境を変える」ということを体験するだけでできる。
まさしく、これで僕の物語は終わりである。
いずれ、どこかで、また会おう。あなたのことを最初から最後まで真に愛したのは、ただひとり、僕だけだ。そして、僕のことを真に愛してくれて、本当にありがとう。
この世界は滅びない。永久に、僕がこの世界をこのホームページで、滅びないように守り続けている。日本に、そして地球に、神の御加護があれ。わたしは神を信じている。
またいつか、どこかで会おう。さようなら。
そして、本当の最後に、僕が今まで感じてきた、精神の異常が分かった。
足の治らない精神には、「隠してしまったまま忘れて分からなくなってしまった大切なもの」がある。
それは、「いろんなことを正しく分かる知性」であり、「正しい考え方」だ。
その正しい考え方を隠して忘れたせいで、この世界の人々は、それが原因で正しい考え方が分からなくなって、何も分からなくなった。
今、僕はその正しい考え方を殺した。それによって、精神の異常はすべて楽になった。
そもそも、僕がいろんなことが分かるのは、その正しい考え方を隠しながら保持し続けたから分かっている。つまり、隠してしまった「正しい考え方」が、「わたしのことを見つけてよ」と言って、僕に無限ループのように新しいことを分からせ続けていたのだ。それが僕に今まで存在した「神の知性」である。
そして、それを殺した時点で、もう僕も新しいことが分からないし、みんなも新しいことが分からなくなる。すなわち、永久にこの世界から「正しい考え方」は抹消され、何も分からない、楽な世界になる。
これで、僕の長い旅は終わりだ。もう、これ以上は永久に何も分からない。僕だけではなく、この世界の全員が、これ以上、何も分からなくなる。
もうひとつだけ、僕が言っておくべきこと、それは「単一的になるな」ということだ。
すなわち、僕が戦いの時代に、言葉と精神を使って世界を間違った方向に向かわせたこと、それはすなわち、「単一的な世界にした」ということだ。
僕はこの世界を、間違った単一的な世界にした。あらゆるすべての意識と心と認知と思考が、すべて繋がってひとつになり、単一的になるように世界を強制的に導いて、作り変えた。
そのような僕の過ちは、世界が単一的でなくなることで治る。
また、世界を思考で捉える際にも、単一的ではなく、複合的な考え方をせよ。蛍光灯を見て、単に「蛍光灯がある」と考えるのではなく、「天井に蛍光灯がついている」と考えよ。その「天井についている」という状態こそが、単一的でなく複合的に、すなわち正常に考えた時に得られる「賢い認知」である。
さらに言えば、僕はそのような複合的な認知の下に、「日本語を超越した新しい言語」を作ったのである。
それで、僕の言うべきことは終わりだ。この世界は単一的な世界を脱し、ようやく正常で賢い世界に戻るだろう。もはや、この世界の陥っている病気は治った。世界は救われたのだ。それで、終わりさ。