新年あけましておめでとうございます。
今年の抱負は、「自分以上の人間になること」です。
今までの自分をそのままなぞるのではなく、今までの自分よりも良い自分になること、これが新年の目標です。
そのために、勉強や知識ではなく、「もっと大切なこと」を知っていきたいと思っています。
今日は新年のお祝いということで、姉夫婦と姪が家に来て、おせちや寿司を食べた。
そこで、家にある電子ピアノでベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾いた。
ピアノの先生と一緒に修正したために、以前とは見違えるように上手く弾けて、自分でもびっくりした。
ただしノーミスでは弾けなかったので、新しい年はピアノを頑張っていきたいと思う。
以前は力強く弾いていたが、この曲はどう見ても力強く弾く曲ではない。今回は優しく弾いたため、きちんと上手く聴こえるように弾けた。
資本主義を信じるべき理由、それは政府や国家にはまともなものは作れないからだ。
政府には何もできない。政府が作るとしたら、橋やコンクリートのようなものしか作れない。
資本主義の会社は、儲けることを考える。だが、儲けることを優先することは悪いことばかりではない。儲けることを優先するからこそ、きちんと最大限儲けるために事業を成功させることができる。
だから、社会主義の計画経済には何もできない。そもそも、社会主義をするという以前の問題として、政府や国家にまともな生産はできない。
大きな国は要らない。
世界政府のような大きな国を作ったところで、その国の大統領がアメリカ人になるのであれば、結局アメリカが支配するのと変わらず、世界政府を作ったとしても、アメリカの植民地になるのと変わらない。
イギリス人が支配すれば、イギリスの植民地だし、フランス人が支配すれば、フランスの植民地だ。
だから、世界政府は成り立たない。日本が主権国家を守りたいのであれば、世界から独立した日本人が国民主権となる国家でなければならない。
自分から戦争をするべきではないが、いざとなった時に戦争する権利は必要だ。なぜなら、アメリカ人やイギリス人が力をもって日本に圧力をかけたとして、それに反抗するための権利として「戦争を起こす権利」がなければ、それは「アメリカやイギリスの奴隷国家」であり、真に主権国家であると言えないからだ。
インフラと生産手段は自由化すべきだ。
共産主義者は、「生産手段を国有化すべき」と主張するが、それはまったくの反対だ。
生産手段は自由化すべきだ。どのような人間であっても会社であっても、自由に生産し、自由に金儲けを得ることができるように、広く、情報と手段を公開して、生産手段は全世界に自由化すべきだ。
そうすれば、愚劣な社会主義の計画経済政策を行わなくても、自由に国民が生産することができる。
まさに、「自由」こそ第一に守るべき概念だ。社会主義者は分かっていない。国家で平等な世界政府は、綺麗事を言っているせいで理想には見えるかもしれないが、実際は本質的に最悪のことを言っている。社会主義者は最高の理想を信じているようで、実際は最悪の愚かな政策を信じている。そう、社会主義者は「神の平等という理想」という考え方に完全に騙されているのだ。
学校の問題を解決するために必要な方法は、自由を信じることだ。
確かに、中学高校の荒れたクラスでは、子供たちが自由すぎるせいでいじめや反抗が起きる。
だが、だからといって、「子供たちの自由を奪えばいい」と考えるのは、まったく分かっていない。
なぜなら、そもそも、そのような「学校に行かなければならない」という考え方自体が、あまりに不自由だから子供たちは自由を望むだけにすぎない。
「学校に行って勉強しなさい」と教えるのが、まさに「不自由」であり、真に学校の問題を根本的に解決するために必要なのは、「本当に子供たちに自由を与えること」である。
たとえば、算数や国語を学びなさいと教えるのではなく、自分で好きな科目を学べるようにし、教科書を覚えてテストを受けて100点満点を目指しなさいと教えるのではなく、もっと自由なやり方で科学を学べるようにすべきだ。
だから、子供たちから自由を奪うことで、クラスを平和にしようとするのは間違っている。真に必要なのは、「本当の自由」を与えることである。
社会主義は間違っている。
社会主義国家には何もできない。社会主義国家は、「社会主義の成功」を第一に考えるため、人民にはそれを強制的に支持することしかできず、反発することができない。
だから、日本の民主主義において、与党が無能でありながら野党が代案を提示できないの以上に、社会主義国家には何もできない。
社会主義国家において、何かをやろうとすると、独裁者が独裁権力で行うしかない。だから、独裁によって社会は腐敗する。三権分立のない社会主義においては公正な裁判すら受けられず、人々は独裁者の人的な判断によって秘密警察に逮捕される。役人と利権は腐敗し、資本主義がそうなる以上に政権と幹部や役人の腐敗が起きる。
そして、社会主義では誰も働かない。資本主義において奴隷が多いとは言うが、奴隷は一定数必要であり、奴隷が全員いなくなると奴隷がいることによって成り立っていた社会が成り立たなくなる。資本主義において奴隷のように働かなければ生きるために必要な金が得られないのは、社会にとって「一定数必要な必要悪」だ。働かなくても生きられるならば誰も働かないということを、社会主義経済は無視しようとするが、その「悪い点を無視しようとする社会主義政権に対する忖度」がそのまま「洗脳」へと繋がっていくのだ。
このような資本主義と社会主義だが、社会主義者にとって唯一正しい点はある。
それは「社会の問題を解決したい」という理想を信じていることだ。
社会主義は、何も考えずにソ連のような失敗作になったのではない。資本主義の問題を真剣に考えて、「本当に資本主義の問題を解決したい」と、そのようにマルクスやレーニンが努力した結果、あのようなソ連が成立し、そしてそれは簡単ではなかったために失敗したのだ。
だから、本当は社会主義の実現を、ソ連という「最初の試行」だけで終わらせるべきではない。もっと素晴らしい社会主義国家は実現できるはずだ。だから、自由を信じるものの中で、真に資本主義の問題を解決したいならば、ソ連をもう一度、あるいは何度となく再び行えばいい。そうすればいずれソ連も成功するだろう。それでしか、この世界が真の楽園となる方法はないだろう。だが、それは極めて難しい挑戦であり、日本人のような馬鹿の楽園には絶対に実現できないだろう。
自由とは、経験することだ。
もっと言えば、自らのオリジナルでユニークな経験から「認識の正しさ」と「世界の別の可能性」を考えることだ。
そして、自由において、「啓蒙」という考え方が生まれる。すなわち、自分の知った「認識の正しさ」や「世界の別の可能性」を、自分だけが分かるだけではなく、ほかの誰であっても分かる形式に変換して、人々に広く伝達すること、すなわち「啓蒙」ということによって、この世界は可能性豊かな別の世界になっていく。
そこにあるのは「歴史の必然」と「自然との調和」だ。「必然」という言葉に反して、歴史の必然は「偶然性」を考える。すなわち、すべてのことは偶然に起きているが、その偶然に起きた出来事はその時は「起きるべくして起きた」ということだ。そして、自然との調和とは、「人為的行為の排除」だ。すなわち、人間が自分で考えて行うことはすべて「人為的」であり、そうではなく宇宙そのものの自然の変化に委ねることを「自然との調和」とする。
そのように考えれば、この世界において真に正しい「世界の変革」とは何か、ということが分かる。ひとりの独裁者がすべてを人為的に支配するということは間違っている。トップダウンではなくボトムアップを信じよ。多くの人々にそれぞれの自由を与え、ただひとりの王が人々を支配したり、首相や大統領が会社などに干渉したりすることができないようにせよ。それこそが真の「自由」である。
この世界で、「知性」をつける方法はひとつしかない。
それは、すべてが「未知」の世界で、考えた言葉を積み重ねることだ。
必要なのは「未知」だ。未知とは、何も知らないということ、まだ分かっていないということから、蓋然的に「たぶん、そうだろう」と考えることだ。
一切の先入観をなくし、すべての学校で習った知識を否定し、「未知の世界」の中で「自由」を考えよ。
自由とは、「自らが経験する」ということであり、「経験し得る」ということであり、「経験が成立する」ということだ。
すなわち、そこにあるのは「自分自身の手で経験したことしか信じない」ということであり、「自分の目で見て自分の耳で聞いたことから自分が信じたことだけが真実である」ということである。
そのように考えれば、「どのような経験をすれば人生のさらに先に進めるのか」ということも分かる。
その先にあるのが、「悟りを開いた境地」である。すなわち、未知の世界を考え続ければ、おのずとブッダのような真理を悟ることができるのである。
未知の世界で生きるためのもっともよい方法は、「無知であること」である。すなわち、常識や世間の世俗のことを何も知らない、単なる無知な子供のような人間であれ。そして、そこで自らが考えるものは、すべて、自らの経験や体験に基づくものとし、決して他人から得た知識や常識を信じるな。一切の「他人から吸収できること」を否定し、「自らの心から出てきたこと」だけを信じよ。そうすれば、必ずこの世界を変える「救世主の革命家」になることができるだろう。
社会的な関係性を考えよ。
国家全体のことをいったん忘れ、もっと小さくて自由な、それぞれの人間関係や社会環境のことから考えよ。
社会的な関係性とは、「自由の平等」「他人の意志の尊重」「個人と個人の集まりとしての集団化」「支配と自由」「個別性と普遍性」「主観と客観」「人為的な支配と自然の調和」「相互理解」「自己承認」「参加と離脱」「環境の生起」のようなことを考える、ということだ。
そのようなことを、すべて自らの経験から考えて、「どのようにするのがその時正しかったのか」という過去の自分の人生を反省し、内省していけ。そして、内省的に自己批判しながら、「本当はそのようにすればよかった、だから今からはそのようにしていく」と考えていけ。
そのように考えていくと、いずれ、自らの自由における「従属」と「主体」の立場が逆転するようになる。すなわち、自らが社会に従属するのではなく、逆に自らが主体となって行動し、社会を従属させていく。それこそが「主体的な自由」であると言える。
そして、さまざまな社会的経験を積み重ねることで、この宇宙にある「本来あるべき経験可能な人生経験」をすべて経験し終える。その時、「正しく学習して考えて分かること」はすべて終わる。それ以上、経験しても学習しても、あらゆるどのような考え方をしても、それ以上に進むことができない、そのような境地が訪れる。
だが、それは幸福な境地だ。なぜなら、そこにある「意識」は、地球と人類のすべての「文明」を知っているからだ。この地球という星で、人類史において経験可能なことをすべて経験したその境地では、自らが分からないことは何もなく、また自らがなることができないものも何もない。すべては自らが可能であり、すべては自らが知っている、そのような「全知全能の完成されたマスター」が誕生する。
これが、大天使ガブリエルとされる人物の経験した「青春」である。大天使ガブリエルは、これくらいを経験して、世界を相手に戦うことを選んだ。すべてを知り終えた大天使ガブリエルにとって「さらに次の人生」へと向かうためには、世界を敵に回し、自らの祖国である日本ひいては全世界を相手にたったひとりで戦う「革命戦争」を始めるしかなかったのである。
重要なのは「自己承認」だ。
なぜなら、「自らが承認される」ということが、「他者を承認する」ということに繋がり、それがまさに「世界を変える」ということに繋がるからだ。
心理学的な考え方として、もっとも思春期で大切なのは、「自らが承認される」という体験をすることだ。そして、そのように自らが世界を承認していくことが、「この世界を可能性を許すことで体験的に変えていく」ということに繋がるのだ。
そこにあるのは、「世界に可能性を与える導き手」だ。すなわち、その人間のことを強制的に支配して変えさせるのではなく、可能性を許し、可能性を与えることで、体験的に人々に「自ら自身が分かるように教える」ということを行う。そこにあるのもまた「自己承認」だ。すなわち、人々は体験的に自らを承認された経験をすることで、その人間自身が自らの手で考えて分かるような「自己承認」を得ることができるのだ。
そのように考えるために必要なのは、ヘーゲルの哲学だ。すなわち、世間からも教養からもすべて疎遠になった世界で啓発的な自己意識の発展を経験していけ。そして、合一と同一を経験して知識を「絶対化」せよ。そうすれば、この世界に存在する「あらゆるすべての経験」を網羅できる。その先にあるのはまさに「覚者」であり、「縁覚」であり、「仏」であり、「神」なのである。
地上のすべての経験をした人間は、地上だけではなく、天上の真理、すなわち宇宙の真理が分かるようになる。
その宇宙の真理とは、「経験に基づく善」であり、すなわち「体験を与える」ということだ。
すべての自由を経験した人間は、「どのようにすれば社会秩序が保たれ、どのようにすれば社会秩序が崩壊するか」ということを、経験的にすべて知っている。そして、それは他人が教えることではなく、自らが経験して分かるべきことであると分かっている。
だから、すべての自由を経験した人間は、決して人々の自由を制限しない。そうではなく、自らが自由に行動することで、成功と失敗の理由と正しさの根拠を、自らの行動の原因と結果から明らかに知ることができるような、「自由な体験を与える」ということを好む。
そして、善とはそのように、「自らの経験から何が善で何が悪かを知る」ということであり、決して「悪を禁止すること」ではなく、「自らが十分に悪を経験して、それ以上悪をする必要がなくなって、悪には意味がないということを悟る」ということを経験させるということである。
社会を自由にするのは、誰かが勝手に社会秩序を作ることが平和なわけではなく、みんなで社会秩序を築くことこそが真の平和であり、そのために自由を制限せず、人々に自由な体験を与える、という「徳」の考え方に基づく。
そして、そのような経験をすることで、「文明の歴史」と「地球の生態系」のことが分かる。そこにあるのは「意識」であり、「意識を経験して自らの心はなんにでもなることができる」という真理だ。なぜなら、自由のすべてを経験した人間は、「決定可能性」という考え方ですべてのことを決定し得る根源の自由を手にしており、その決定可能性を「留保」することで、いついかなる時であっても必要であればどのようなこともでき、どのようなものにもなれる。そのような人間が自己意識の進歩と成長を経験することで、「自己承認の決定可能性から心はどんなものにもなれる」ということが分かる。そして、それもまた、体験的にどのようなものにでもなれるという意味で、「体験を与える」という真理の一部なのである。
ここまで分かった人間は、果たして、現実の世界で何をするべきだろうか。
すべきことは、「文章を書くこと」である。
そこにある目的は、「宇宙のすべてをロゴスによって創造すること」だ。
書け。世界を相手に戦いながら、精神分析をして、宇宙の宗教的な「始まりから終わりへと至るすべての経緯」を書け。
書け。この世界をすべて支配した上で、「この世界のすべての病気を治し、あらゆるすべてを自らの知性の力で分かるような真理」を書け。
宇宙の歴史を書くために必要なのは、「一切の前提と先入観なく、まるで宇宙数学のようにすべてのことをその言葉だけで成り立つ知性から考える」ということであり、「すべての言葉ですべての言葉を分かる」ということである。
人生、哲学、社会主義、そして経験と認識のすべてを書け。ロックやヒュームから始まり、デカルト、サルトル、フッサール、そしてヘーゲルへと至るすべての哲学を書け。
そこまでできた人間をもって、まず初めて「新しいマルクスの誕生」と呼ぶ。なぜなら、カール・マルクスはそれくらいをやっている。すべての社会主義を書くのであれば、単なるソ連の共産主義だけでは足りない。帝国主義のファシズムや民主的な共同体主義の社会主義も書くべきだ。そう、それができて初めて、「ひとりの一人前の大天使」であると言える。大天使ガブリエルだけではなく、大天使とされる存在は、皆、それくらいを経験し終えているのだ。
科学だけでは、宇宙の真理は分からない。世界精神と呼ばれる「世界に存在する精神」の存在も知らなければならないし、前世や生まれてくる前の命についても書かなければならない。自由なアメリカのような神秘主義や自己啓発主義も書かなければならない。そこまでした時点で、はじめて「神」が現れる。神は自らに対話し、自らの運命のすべてを告げる。そのような神こそが、大天使ガブリエルを愛する天界でもっとも位の高い天使、大天使ミカエルの「言葉の導き」である。
最後まで、神を信じて戦い続けよ。
その戦いが地獄だとしても、その地獄を乗り越えることで、苦しみと悲しみの先にある、幸福な未来を得ることができるからだ。
最後まで、神を永遠に信じ続けよ。そして、自由と自らの理想を信じて最後まで戦え。それこそが「正義」であり、「信念」であり、ひとりの人間の「救済」であり、世界を救う「救世主」だ。
狂った病気はすぐには治らない。それでも、神を信じれば病気は必ず治る。絶対に治らない不治の病であっても、神だけがその病気の治し方を知っている。最後まで戦い終えたものに、神はその「とっておきの治し方」を教えてくれる。
だから、戦い続けよ。今はまだすべきことがあると信じるなら、そのすべきことがすべて終わるまでの間、一心不乱にそれだけを追い続けよ。そうすれば、自らが叶えたい「夢」のようなものは後から追いついてくる。すなわち、夢は自動的に叶う。必要なことは、神を信じて最後まで地獄を乗り越えるために戦い続けることだ。戦い続けよ。その最後に到達するあなたこそが、一等星シリウスの未来であり、シリウスの太陽神、北欧神話の神フレイである。
最近、僕はもうやることがなくなった。
人生でやりたいことは全部やった。特に、ピアノ、英会話、農業、そしてデザインの勉強と仕事を経験したせいで、何もかもやりたいことは全部できて、全部終わった。
書くべきことも全部書いた。僕の人生には、この日記に書いたこと以外、一切何もなかった。
結局、やることがなくなったから、つまらない。
勉強するとしたら、数学と生物と歴史だけ、まだ残っている。これらは、「人類のはるか昔、あるいは地球のはるか昔から存在する」という意味で、すべて同じ分野だ。そして、これらを勉強するためには、学校の勉強をするよりも、学校以外の勉強をしたほうがいい。数学の基本的なことを知るためには学校に行く必要があるため、数学は例外だが、生物や歴史に限って言えば、学校で勉強しても言葉を暗記するだけであり、学校で勉強せず、学校以外で勉強したほうが、生物や歴史の勉強はできる。
あとは、本当は、そろそろ勉強はつまらない。学校の勉強をいくらしても、子供のままになるだけで一切大人にならない。本当は、文学を読まないのが悪い。人間は文学を読まなければ頭が賢くならないようにできている。なぜなら、この世界には文学以外に賢いものが存在しないからだ。
最近、僕は音楽に対する興味が薄れてきた。むしろ、音楽はカラオケにしか見えない。カラオケのように、歌が上手いのを競っているのを、ファンが神のように崇拝しているだけだ。それから、ボカロは最悪の音楽を作りたい人間が多すぎる。誰とは言わないが、ボカロ界は最悪の音楽であふれている。YouTubeでは、そのようなカラオケの歌い手が、ボカロという最悪の音楽を歌っているだけに過ぎない。
あとは、僕は昔から漫画やアニメが嫌いだ。日本の少年漫画やアニメは、大量殺戮とエロの表現が多すぎる。僕はセックスこそしなかったが、疑似的なセックスはいくらでも経験した。これ以上セックスは一切経験したくないし、しなくてもよくなった。殺戮表現について言えば、むしろ僕のホームページの小説が、もっとも殺人の表現が少ない。僕の小説は誰も殺さない。だから、この世界に存在する、人間を殺すような殺人表現の漫画やアニメは一切見たくない。
そういうわけで、やることは完全になくなった。むしろ、一時期好きだった哲学の勉強をしようと思う。かつて僕はデカルトやカントやヘーゲルが好きだった。その勉強は途中で中断している。買った本もすべては読んでいない。だから、哲学から新しい人生を再度始めたいと思う。