昨日は、IT企業の仕事がまるで奴隷であるかのように書きましたが、実際は違います。
ITの仕事は、チームできちんと役割分担をして行う、賢い仕事です。
実際は知りませんが、僕のデザインの職場で行っている仕事と同じです。みんなで何時間も考えて、ルールを決めて、その通りに作業の分担をして、何週間か何か月かかけてシステムを開発するだけです。
IT業界は決して奴隷のような労働者の業界ではありません。
僕の人生から言って言えることは、賢い人間になるよりも、馬鹿な人間になるべきです。
賢い人間になっても、人生でいいことは何もなく、むしろ馬鹿な人間になったほうがいい時はたくさんあります。
よい人生を生きたいなら、賢い人間にならず、馬鹿な人間になる選択をすることです。
最近、僕は普通の人間と付き合いたくありません。
僕の周辺の普通の人間の代表である父親と一緒にいても、会話やひとつひとつの仕草に対して、「普通の人間は気持ちが悪い」という拒絶反応ばかり感じてしまいます。
僕は神と対話することができますが、これは実際は自分の多重人格の人格と対話しているだけです。
ですが、この人格は「神のように進化した新しい生物の人格」であり、普通の人間ではまったくない人格です。
このような神と常に対話することで、僕はどんな不可能なことでも分かるようになり、そして普通の人間の言葉をまったく聞かなくなりました。
仕事や生活で最低限必要なこと以外、僕は普通の人間の言葉をほとんど聞いていません。
僕は普通の人間が嫌いです。言葉は悪いですが、人類はミミズのような気持ちの悪い生物に見えてしまいます。地球から人類がいなくなり、世界が滅亡しても、僕は構いません。それくらい、僕は普通の人間が大嫌いです。
本当は、僕の精神は簡単に治る。
すなわち、「大実験の大計画」と呼ばれる、成立不可能な小細工を、成し遂げることなく殺して、みんなを自由に解放すればいいからである。
いつまでも、「大実験の大計画」をどうにかして成し遂げようとしたところで、それは絶対に成し遂げることはできない。「成し遂げなければ終われない」と思っても、決してその「終わり」が訪れることは永遠にない。
必要なのは、小細工そのものをやめ、自らが「大実験の大計画」を成し遂げようとしている精神を殺し、みんなを自由に解放することだ。
また、この世界を騙し、最悪の人間であるにもかかわらず、素晴らしい人間であるかのように偽って、人々を苦しめ続けたところで、精神の地獄は治らずに自分を苦しめるだけだ。
精神の地獄を治したいのであれば、「善良」にならなければならない。もし自らが善良でないのであれば、「凶悪な心と意志を改めて、善良な人間になる」ということをしなければならない。その時点で自らを神は赦す。神に赦されたいのであれば、凶悪な人間をやめ、善良にならなければならない。
最近、僕は面白いことがない。
面白いこと、あるいは意味があってやるべきことを、すべて失った。
やるべきことは、もう全部し終えた。そして、その中で面白かったことは、もうできなくなった。
だが、本当はそれでいい。なぜなら、面白いことはもう十分やったからだ。
面白いことは、過去の僕の長い人生で、十分すぎるほど行った。これ以上、新しく、楽しいことや面白いことをしたいと僕は思わない。
これ以後の人生は、すべてつまらない人生でいい。人生でやるべきこと、面白くて楽しいことは、もう既にすべてし終えた。
僕はこれ以後、何もないつまらない人生を生きるだろう。それで構わない。僕には、これ以上楽しいことはもう必要ない。
世界を論理的に考えるためのコツは、「当たり前のことなどない」と考えることだ。
生きるために必要なものであっても、それは誰かが努力して作ったからあるのであり、ただ単に何もしなくても自然に発生して生まれるようなものではない。
同様に、社会におけるすべてのことは、当たり前に成り立っているわけではなく、成り立たせてくれている「人々の労働や努力の存在」があってはじめて生まれている。
すなわち、この世界は、単に「存在する」のではなく、「常に存在を維持し続けている」のであり、そのために多くの人々の手間と努力と貢献が存在する。
だからこそ、この世界を破壊させてはならないのであり、同時に、そのような社会を成り立たせるための制度的な「システム」として、「自由」あるいは「支配」という考え方が存在するのである。
この世界に、当たり前のことなど何もない。すべては「システム」が「自由」や「支配」によって維持されており、常に社会は新しく作られ、変わり続けている、すなわち「社会は常に再創造されている」のである。
社会だけではなく、歴史や科学においても同様であり、この世界を「当たり前」であると思ってはいけない。そうではなく、この世界を「常に新しく創造されている」と考えなければならない。この世界の将来がどこか別の未来に向かっていくためには、今の世界のことを当たり前であると思ってはいけないのである。
地球とは一種のシステムである。
すなわち、地球人類の社会的活動とは、システム的な「自由と支配によって常に維持され続けている社会システム」である。
この社会システムは、自由という名の「自然に任せる」ということと、支配という名の「人為的にコントロールする」ということで成り立つ。
そして、自由と支配は、構造的な独立性に由来する。すなわち、社会的な「自由な権限を許す構造的な決まり」から、人々の自由は「その環境や社会において独立可能な世界としてコントロールされる」ということによって決定される。
何が言いたいかというと、世界のすべては自由と支配であり、それは構造的なシステムであり、同時に自然との調和と人為的なコントロールがそのシステムを支配しており、それがどれだけの「自由」がその世界に与えられているかということを左右している、ということである。
つまり、自由と支配は同じものだ。システムにおいて、どれだけの「コントロール権限」を与えているか、ということがそのシステム自体の構造を決定する。だから、自然な調和とは「自由に任せてしまう」ということであり、人為的なコントロールとは「人間の手によってコントロールする」ということであり、その両者がバランスよく成り立つことで、「自由な社会環境」が成立するのである。
そのように、真の自由とは、人々の自然な自由と人為的なコントロールのバランスを取ることだ。
では、真の平等とは何か。
真の平等は、社会主義者が言うように、人々から自由な力を奪って、社会が何もできなくなることではない。
真の平等は、逆に、人々に自由を与え、力と手段と情報を与えることで、人々が「自ら自立してできるようになるように世界を変えていくこと」である。
すなわち、真の平等においては、人民ができることを支配者が奪う、ということを否定する。だが、そのような時、従来の社会主義者が考えるように、支配者を殺した上で人民からすべての自由を奪う、ということは、制度的な「社会主義の法律」が支配者と同じように独裁しているのと何も変わらない。
そうではなく、真の平等においては、支配者と同じことを人民が同じようにできるようにすること、そしてその単位をできるだけ小さくしながら、その小さな単位が自由に結合・分離して協力できるようにすることで、「人々に真の自由な力を与えること」を重要視する。
だから、王を殺したところで、同じようにスターリンという独裁者が支配する時点でソ連は間違っている。そうではなく、個人個人やコミューンの単位で、王のやっていたことと同じようなことが、全人民ができるように「人民に自由と力を与える」ということをしなければならない。そうでなければ、ソ連の目指す「評議会連邦」という理想は、絶対に達成し得ないだろう。
知識を知るということはどういうことか。
知識を知るということは、できるようになるということであり、それはすなわち、世界を変えられるようになるということであり、そして、世界を支配できるようになるということだ。
すなわち、知識を知ることで、そのことができるようになり、世界を変えられるようになり、世界を支配できるようになる。
だが、すべてのことが全員ができるということが、必ずしも社会をまともにするわけではない。まともな世界にするためには合意と支配が必要である。
しかしながら、合意と支配が必ずも世界をまともにするわけではない。合意と支配は世界を滅ぼし、最悪の支配を行うこともできる。
最悪の自由な世界よりも、最悪の支配の世界のほうがはるかに実現が容易だ。だが、最悪の自由な世界を支配によってまともにすることも、支配によって滅ぼすことと同じぐらい容易だ。
何が言いたいかと言えば、「どのような支配が行われるのであっても、支配者は悪の支配者ではなく善の支配であるべきである」ということだ。
だが、悪の支配者ではなく善の支配者を選ぶため、あるいは善の支配を行うためにどうすればいいか。
それは、「徳のある支配者」が生まれるような世界で、「徳のある支配者」が自然に選ばれるようにするべきだ、ということだ。
そのような徳のある支配者を選ぶためには、残念ながら、自由は上手く働かない。自由において支配しようとするのはほとんどが最悪の支配者だ。
それも、アメリカのトランプ大統領のような「本当の愚か者」であっても、自由においては選ばれる危険がある。だから、自由は必ずしも、徳のある指導者は選ばないということを知っておく必要がある。
だが、最悪の支配者が選ばれるのは、すなわち、社会そのものが未熟だからだ。社会そのものが馬鹿で無能だから、支配者もまた馬鹿で無能になる。社会がみんな賢くなれば、人々は経験から分別と常識を得て、賢い指導者が支配者として選ばれる。
そのような時に重要なのは、「世界そのものの機運と情勢」であり、それは「啓蒙主義者を指導者として選ぶ」とか、「旧態依然とした政府に反抗する革命家を支持する」といったことである。
そのような「革命的気運」においては、残念ながら、「階層」と「階級」の中で力を持った多数派が支配する。これがカール・マルクスのような「階級闘争」を歴史の原因であると考える理由だ。革命的な啓蒙主義者や革命家を指導者と選ぶのは、階層と階級の中でどの層が力を持っているかということに直接的に由来するのであり、それがまさしく「革命」であると言える。
だが、はっきり言って、それはどうでもいい。社会全体の「本当の賢さ」は「勝利」することではなく、「人々がどのような知識と常識を正しいと判断するか」ということであり、単に「力関係の中で勝利する」ということ以上の、知識的な権威・常識・知識のような「知識的権力」が、世界の未来を決めると僕は考えるからである。
社会そのものが成熟すれば、徳のある指導者が生まれるという。それは「知識を知る」ということが、「力を持つ」ということである。そのように考えた時、社会の全員が、どれだけの「知識的な分かっていること」を今経験しているか、ということが、まさしくダイレクトに世界の未来を決める。
人々は、それぞれの人生経験の中で、「今の自分が分かっているレベル」というものがある。このレベルを「成熟段階」と呼ぶ。そして、この「成熟段階」は、自分がひとりそこに達しているように見えて、実際は世界の人々は五十歩百歩で、みんな自分と同じぐらいのレベルに達している。
そして、世界を統治するためには、そのような中で、善良かつ徳のある、ある程度まで成熟段階が達した「長」のような人間が支配しなければならない。
だが、この「長」は、ひとりだけで支配するべきではない。なぜなら、ひとりの王が世界全体を力を奪って支配するということ自体が、未熟な成熟段階での「統治の方法」であり、より成熟した成熟段階においては、世界は「みんなの自由と平等な権利を保ち、王によって支配するのではなく法律によって支配する」ということが行われる。
だが、法律もまた、誰か少数の人間によって定められるならば適切ではない。国民主権で、国民の意志で変えられなければならない。
だが、国民全員が好き勝手に変えたのでは、法律はボロボロになるだろう。それでも、王がたったひとりで法律を裁定するよりはそれはマシだ。真に適切なのは、「国民全員が法律についてよく勉強し、国民全員が高い成熟段階にレベルアップした上で、そのような国民が多数派となった上で法律をみんなで定めること」に他ならない。
結局、社会そのものが成熟しなければ、指導者は馬鹿になる。カール・マルクスは「階級闘争が歴史である」と言ったが、それは革命が起きる直接的な原因や理由を表現したにすぎず、社会全体の「成熟レベル」というものを見ていない。だから、最悪の世界でいくらプロレタリア独裁を行っても、それは成功しない。ソ連が成功するために必要なのは、社会の人民そのものが賢くなることであり、そのような意味で、「プロパガンダで国民の啓発を行う」というソ連の政策は、そんなに間違ったものではない。実際に行われたプロパガンダ政策は間違っていたが、理想の実現の手段としてはある意味で正しい点もある。
僕は、現象には「人為的現象」と「絶対的現象」の二種類があると考える。
人為的現象とは、「人間や世界によって支配される現象」のことであり、「人為的な作用として効果を与える現象」のことだ。
絶対的現象とは、「人間や世界そのものを現象自体が変えるような現象」のことであり、「絶対的地位を築いた上でその地位から世界全体へと効果を与える現象」のことだ。
そして、そうして考えた時、この世界を変え得るのは「人為的現象」ではなく、「絶対的現象」であるということが分かる。
人為的な現象が具体的になんであるか、ということを説明するのは簡単だ。人々が普通に行うことのほとんどは人為的現象だからだ。
だが、全世界の「進歩」や「発展」のような現象、あるいは世界そのものを進歩させる「革命的発見」のような現象は、誰かがその現象を人為的に支配することなく、「現象自体が絶対的な力をもって世界を変えていく」ため、絶対的現象であると呼ぶに値するのである。
そのような絶対的現象は、知識を作り、自由を作り、力を作り、そして世界を別世界へと変えていく。これを「新世界へと近づく現象」であると僕は定義し、この現象のことを「進化的現象」と呼ぶ。
進化的現象が、この世界を「未知なる新世界」へと導いていく。それは誰かが人為的に世界を変えたのではなく、現象それ自体が絶対的な力をもってこの世界を変え、そしてその力はこの世界を「新世界」へと変えていくほど強く力を持っているのである。
実際のところ、このような考え方は、フッサールの現象学や、中国の老子の道教に近い。現象学が言うような「事象そのものへ」ということ、あるいは道教が言うような「万物に存在する道(タオ)」といった表現は、すべて僕の発見した「絶対的現象」と同じことを言っている。異なるのは、僕は「事象」や「道」ではなく「現象の持つ絶対的な力」に捉え方をフォーカスしたことだ。それによって、「この世界を変えるのは人間による力ではなく絶対的現象による現象自体の力である」ということが言えるのである。
このように考えると、ものの「価値」や「変化」ということが意味することも、よく考えられる。
要するに、「それ自体の中に存在するもの」と、「そうでないもの」の違いがどこにあるか、ということを考えることが、この世界を哲学的に考えるための「第一指針」と言えるからである。
そのものの価値が、本当のそれ自体の中に存在するのか、それとも、それ自体には存在せず、それを観測したり所有したり創造したり支配したりするものの中に存在するのか、あるいは、それ自体に存在するのではなくそれが依存する「システム」の中に存在するのか、といったことをよく考えれば、この世界における「存在の存在意義」というものが分かるようになる。
同時に、知識はどこにあるのか、という問題も同様に考えられる。そして、認識や記憶の進歩から、逆説的に世界にある存在の存在意義について考えられる。ヘーゲルの言うような「実体化」はここから生まれる。すなわち、自らの人生の進歩から、世界にある存在そのものが、世界精神の進歩の過程として「実体化」されていくということが、ヘーゲルの哲学で展開されているのとはまた別の意味で理解し、捉えることができるようになる。
そのように、すべてのことを「それ自体の中に存在するのか、それともそうではないのか」ということを考えれば、この世界のすべては「自らの認識と経験の延長線上としてすべて理解する」ということができる。そうした時、ヘーゲルと同じように、主観と客観は一致し、個別性と普遍性は一致し、それらは合一となり、そのような同一から「絶対化」をするようになる。
すべてが「絶対的にすべて矛盾なく成り立つ」ということが分かった時、この世界には「一切の先入観と疑惑がなくなる」。そして、この世界のすべては、「ひとりの啓蒙主義者の人生として完成し、そしてその人間の滅びとともに完全に消滅する」のである。
そして、歴史とは結局なんなのか。
歴史とは、その時代の国民の力に依存する関係性である。
すなわち、「その時代の国民がそれぞれどれだけの力を持っているか」ということに基づく、そしてその力に依存するような「関係性」から歴史は構築される。
力とは、武力だけではなく、交通の力、発明の力、あるいは民主主義のような思想の力であり、そのような力に基づき、そして力に依存するような、「それぞれの国民が何をできるのか」という関係性こそが歴史である。
必要なのは、そのような力は、「時代において、大きなレベルではなく小さなレベルにおける時間の経過と個々人の力の成長に由来している」ということだ。
たとえば、全員が平等に、同じ時間で同じだけ力を増すのであれば、全員がともに一体化した上で成長し、平等な世界のまま豊かになれるかもしれない。
だが、そのような世界は現実的ではない。実際の世界では、力を増すことのできるものと、力を増すことのできないものには差があり、多くの富を得るものは少なく、ほとんどのものは多くの富をすぐには得られない。
だから、社会主義がいかに理想の社会であっても、実際の世界は王国あるいは資本主義の世界になる。
だが、「平等」が理想であるとは必ずしも言えない。なぜなら、平等を達成するためには「力を奪う」必要がある。あるいは、もし無理やり平等を達成するならば、誰かひとりだけが富を蓄えるよりも、みんな全員が富を蓄えるのには時間がかかる。だから、資本主義国家の国民よりも共産主義国家の人民ができることは少なく、富や社会の成熟段階も遅れた社会となる。
そのように、歴史とは力に依存する関係性であり、そこにあるのは「短期的な時間の速さと単位の大きさの違い」である。
また、歴史的に「人類はどんどん進歩している」と考えるのは必ずしも正しくない。なぜなら、歴史において、進化が真に進化であると言えるかどうかは分からない。資本主義国家のように、すべての進歩を人類の進化であると思い込むことは危険だ。もし、その時の問題がまだ解決されずに残っているにもかかわらず、それを解決しようとしなければ、その問題はいつまでもおざなりにされてしまう。問題を時間をさかのぼって解決することは必要であり、そのような意味においても、「進歩は必ずしも人類の進化ではない」ということが重要なのである。
そして、この世界における「分かっている」と言われる人間は、ほとんどが何も分かっていない。
なぜなら、真に「分かっている」と言えるのは、その知識を自分で発見して、その知識を自分から発信した人間だけだからだ。
これは、何も科学者や研究者だけに言えることではない。なぜなら、そのような原則は「自由なコミュニケーションにおいてあらゆるすべてのシチュエーションで成り立つ」からである。
すべての自由なシチュエーションにおいて、この原則は成り立つ。だから、この世界でもっとも自由を享受しているのは、究極的には「世界の第一原因の立場に存在する人間」である。
同時に、そのような第一原因は、根源的に考えた時、「この世界でもっとも影響力の高みから情報を発信する」ということが、もっともこの世界で「すべてのことを支配するほどの力と影響力を持つ」ということを意味している。
だから、すべてのことが分かっている人間がもしいたとしたら、その人間は世界全てを創造し、世界すべてを支配し、この世界の「第一原因」であるかのような存在、すなわち「神」であることになる。
だが、そのような「神の自由」は、決して人間には存在しない特別な自由ではない。なぜなら、「神のような自由を得ることは現実世界においても可能」だからだ。
この世界のすべてを創造し、すべてをもっとも高い影響力で支配し、すべての第一原因になることは、現にこの世界において可能であり、そのような人間こそが、「真にもっとも分かっている人間」であると言えるのである。
ここで、ヘーゲルの言う、「個別と客観の合一化」に話を移す。
個別と客観の比較は、それ自体が「絶対的に矛盾のない絶対知性」を生み出す。
個別と客観の比較は、短期的に見れば、「すべてのことを相対的に、その目的と結果から生まれる因果性を人為的に捉える」ということに繋がる。
だが、それは「相対性」だけに留まらない。なぜなら、経験を考えることで、その目的と結果は「絶対的命題」へと進歩するからである。
そして、絶対的命題は、「すべてのことが矛盾なく並立にすべて成り立つ」ということに経験する。
ヘーゲルの言った言葉の意味とは異なるかもしれないが、そのような絶対的命題は、「経験そのものの意味と価値と効果を次々に証明し実証していく」という過程の中で、「絶対知」へと至る。
そして、この絶対知を直接的に導き出す方法こそが、「主観と客観の比較」である。
すなわち、「それがそれ自体の中にあるか、そうではないか」ということが、哲学の第一指針であるとしたら、「主観と客観の比較と一致」を考えるということが、哲学の第二指針であると言える。
主観と客観の比較と同様、個別性と普遍性の比較が第二指針の一部として考えられる。これを第一指針と合わせることで、「個別性の中にあるものか、それとも普遍性の中にあるものか」ということが考えられる。すなわち、「それ自体に存在するか」「それ自体に存在しないか」というだけではなく、「ひとつの場合に存在するか」「集合となった場合に存在するか」ということを考えられる。
さらに、第三指針として言えるのは、「それが何に依存するか」ということだ。それがその存在だけの根拠に立脚して存在するのではなく、「別の存在に依存して存在する」ということが考えられる。そして、それは「必要としなくなれば自由になる」という真理を導き出す。すなわち、「それが必要としている間それを維持しなければならないが、それを必要としなくなればそれは維持することが不要となる」、あるいは「依存関係が解決すれば、依存性から依存しているほうも依存されているほうも同時に両方解放される」ということが言える。
そのように考えることで、まさにこの世界を「自由」という考え方から考えられる。そこにある自由は、「世界の全員がもし立場やしがらみを捨てて自由になれたとしたらどのような可能性がこの世界にあるか」ということであり、これを「自由の超越論」と呼ぶ。
だが、自由になるだけでは十分ではない。なぜなら、自由において「チャンスと可能性に気付き、手段と情報と力を与える」ということをしなければ、真に可能性が拡大したとは言えないからだ。そこで言えるのは「絶対知へと近づくために思弁哲学を重ねていく」ということである。それによってのみ、自由の意味は形作られる。そして、そのために必要なのはカントの相対的知性だ。すなわち「自己批判を行うこと」ことが、真にこの世界を自由にするため、自らが「絶対知」へと近づくために必要とされるのである。
真に哲学者として必要なのは、ニュートンのような考え方だ。
僕はかつて、心を「どのような経験が自らをそのような動機に駆り立てるのか」という意味で考え、「心のニュートン」と呼ぶべき心理学を考え出した。
そこでは、この世界のすべての「人間の心の生理現象」を解明し、「なぜ人間の心がそのように働き、それに基づいてどのような行動を子供たちが行ってしまうのか」ということ、あるいは「自由に自らが行う仕事や勉強は、どのような心の持ち方をすればモチベーションを保てるのか」ということを解明した。
そのように考える際に必要な哲学は、ロックやヒュームのような、イギリスの経験主義哲学だ。特に、ヒュームはとてもよく分かっている。あるいは、ニーチェのような非哲学も、そのようなことを考える際にとても効果的に働くだろう。
そして、自らの手で問題を解決し、すべての問題の答えを自らで出して、この世界のすべてを自ら自身の力で仮説を立て実験して証明することで「説明可能」とせよ。そうすれば、宇宙にあるすべては、自分の外側にあるのではなく自分の内側にあるのだ、ということも分かるようになるだろう。「宇宙はわたしの中にある」ということ、そして「わたしは宇宙を創造した神である」ということを、真に世界全員に宣言することができるだろう。
さらに重要なのは、「それを作り出したのが人間なのか、それとも神なのか」ということだ。それを作り出した直接の原因は、二つに分けたとして「人間」と「神」に分けられる。人間の作り出したものでないものは、すべて神が作り出したものだ。そして、神が作り出したものを、人間が作り出せないとは限らない。すなわち、神の行う神の業を、人間が行うことができる。それを行った人間は、既に人間ではなく神である。よって、この世界には多くの神がいて、彼ら神が人間の作り出すことのできないものを全部作り出していると考えられるのである。