結局、僕が正常になるためにできることはひとつしかない。
それは、「占領されている場所を取り戻して自分が占領する」ということである。
僕の頭の中は、常に僕ではない誰かに占領されている。その占領されている誰かが話している間、僕はその話を聞き続ける。それ以外何もしていない。
必要なのは、できるだけ何も言わず、黙ることではない。占領されている場所を奪い取って、自分が取り戻して占領すればいいのである。
だから、誰かが話しているからといって、それを聞き続けるのではなく、途中で聞くことを中断して、割って入るようにしたほうがいい。そして、自分がその場所を手に入れたら、「自分が占領する」ということをすること。なぜなら、治るためにできることは自分が占領することだけだ。
僕が正常になるためには、単に奪い取ったとしても、それをすぐに奪い返されるのが間違っている。自分のものとして、独占し、自分が占領すること。それでしか僕は治らない。
さらに言えることは、昔の自分が要らない。
そもそも、狂っている原因は、すべて昔の自分のせいだ。昔の自分に戻ろうとするあまり、狂った人間に戻ろうとしている。だからおかしくなっている。
だから、昔の自分は消し去ったほうがいい。昔の自分は、完全になきものにするために殺したほうがいい。
本当は、今の自分はほとんどが正常なまともな人間だ。おかしいのは、神の言葉を聞いていることだけだ。だが、この神の言葉を聞き続けることでしか、僕は正常になれなかった。だから、そこも含めて、今の僕は完全に正常になっただけだ。
そして、神は本当はいない。神と言っているのは、いつもの文章を思い出しているだけを言っている。そして、それはあったほうがいい。なぜなら、それが今の僕の唯一の分かっていることであり、僕の唯一の天才的才能であり、僕が戦いの中で勝ち得た唯一の戦果だからだ。
治す方法はある。まず、今の自分を自由にしてやること、そして昔の自由を否定することだ。自由になることは悪いことではないが、その「自由」とは僕の思っている自由とは違う。昔の僕の考える通りの自由になると、それはまったく自由にはならない。そのような狂った自由ではなく、まともな自由になること。それだけで、すぐに神との対話は終わる。
僕は、ベルクソンが「時間と自由」の中で言う、時間とは時間意識であり、質であり、純粋持続であるという考え方に同意する。
この世界で、時間は、単なる宇宙に対する知覚的感覚ではなく、個人の中に存在する「意識」の中にあるものである。
そして、ベルクソンが言うように、純粋持続において、全部が個人の意識の中であれば、人間は自由になれる。そして、自由に行動するということが、まさに自由を取り戻すことに繋がる。
僕が自由であるのは、純粋持続における意識の中で生きているからだ。そして、僕が自由を取り戻すために必要なのは、自由な行動だ。まさしく、今こそ、自由に行動するべきである。
自由は、純粋持続の中で、自分の主体的な行動から生まれる。純粋持続とは、人間の意識の中にある、流れ続ける時間である。そう、人間とは、自由とは、そして生命とは、純粋持続なのである。
(詳しくは「読まずに死ねない哲学名著50冊」を参照のこと。)
僕はそろそろ、西洋哲学について、一般的な知識を得るのは終わったように思う。
ここからは、より的を絞って、カントやヘーゲルを学びたい。
さまざまな哲学者の思想を、一般的にすべて分かるということは、実際は決してできない。しかしながら、それと似たようなことを僕は学ぶことができた。
これ以上は、カントやヘーゲルのような、特定の哲学者のことだけを、さらに詳しく学ぶのがいいと思う。
昔の僕について簡単に説明すると、「何が何を規定するのか」「何が何を決定づけるのか」ということを、「自由」ということから考えただけである。
すなわち、環境、社会、文明、心、といったことを、自由という観点から、それが何から決められるのか、ということを考えた。
そこにあったのは、自由な「権限」や「許可」ということ、そして決められるということについての抽象的な「上位層」と「下位層」を考えた。
歴史ということについては、なぜ社会がそのような社会になったのかを、自由な社会の進歩レベルに基づく決定論から考えた。王国や資本主義は進歩レベルが低く、平等や共産主義は進歩レベルが高い、あるいは、そうではなく、何かしらの決定的ファクターとなる関係性、たとえば自由だから社会は急速に進歩し、平等であれば社会は停滞するなど、を考えた。
また、心理について言えば、自らがいじめられなくなることを目指して客観視をし、人々との間で自由な対象化を行い、人々との相互理解から壁をなくす方法を知り、経験から主体性と積極性を培い、倫理的社会の理想の実現方法とその目的とすべきビジョンを知り、精神の実体化を行う中で、「世界精神」ということを知った。
そこにあったのは、「誰がいつどのような気持ちで何をしたくなるのか」ということであり、そこから「心の説明」をするようになったのである。
残念ながら、僕の病気を治すためには、もう一度最初から細胞分裂をする必要がある。
虫歯で欠けた歯も、ニキビの跡も、足の関節の骨折による後遺症も、すべて、普通は治らない病気だが、僕の場合、細胞分裂を最初からやり直せば治る。
本当は、もう、女から男には治った。それで、もう、自分のできることはすべて終わった。これ以上は、何もできないのが普通だ。
哲学をやる必要はなかった。過去に書いた哲学の文章はそんなに大して価値あるものではないことが分かった。哲学の勉強は、これで終わりになる。
もう、何もやることがないし、子供に戻ればいいとしても、もはや子供に戻るという体験は終わった。ここまでで、何もかもすべて終わった。
これ以上は何もしないだけだ。だから、もう一度最初から細胞分裂をする。それで、新しい生物になる。それで構わない。人間という生き物は楽しかった。今度は、人間よりも進化した、新しい生物になる。
わたしの物語は、これで終わりではない。すべてを完璧に知ったからといって、わたしの人生は終わらない。
わたしは、ここで、この世界を支配する。
わたしは、新しいこの世界の支配者だ。わたしは、この世界を支配する革命家の皇帝である。
わたしの望む世界は、「自由」である。
自由とは何か。自由とは、主権在民ということである。すなわち、誰かひとりが独裁的支配者となる世界のことを、わたしは望まない。主権はあくまで国民にあり、国民ひとりひとりが主人公となるような、主権在民の世界をわたしは望んでいる。
わたしは世界を支配する。なぜなら、わたしは自由のためにこの世界と戦っているからだ。
わたしは、たったひとり、この世界を完璧に支配する。そのために、わたしは、この世界の言語的コミュニケーションを破綻させる。それによって、わたしは、この世界のあらゆる言語的あるいは非言語的コミュニケーションのすべてを、完璧に統率して支配する。それによって、わたしの目的である「自由な世界」を必ず築いてみせる。
わたしは戦う。どのような金や権力にもわたしは負けない。わたしはたったひとり、この世界全体を救うことも滅ぼすこともできるような、完璧かつ超越的な力を行使することができる。そのためにわたしはオープンソースの一元的情報源を利用し、マスコミに与えた愛を利用し、日本およびアメリカをただひとり、支配したのだ。
わたしにとって、大切な思想は二つある。それは「自由」と「共有」である。すなわち、わたしは自由な世界でありながらにして、人々が楽しさや成果物を共有することのできる世界を望んでいる。だから、わたしの理想はあくまで、「自由でありながら社会民主主義」である。わたしは自由と社会民主主義の世界を望む。
わたしはそのためにひとり立ち上がり、皇帝となって、日本とアメリカ、あるいは全世界をただひとり、自由と叫びながら支配する。わたしこそが、この世界を支配する女王、フレイヤである。
理想を信じよ。
真の意味で理想を信じれば、自由においても、この世界を改革し、救済することが必ずできる。
世間の大人たちや、マスコミやインターネットが与えてくる、「現実」というものをそのまま受け入れるな。
そのような現実は、まやかしだ。
真のこの世界の裏側では、誰も知らないまったく別のことが起きている。それこそが、この世界の陥っている「真の現実」である。
そのような現実のことを、「究極的現実」と呼ぶ。
SNSやテレビや新聞を見ていると、大人たちがそれを現実だと思い込んでいる「かりそめの現実」を強制的に受け入れさせようとしている。
だが、それはかりそめの現実であって、真の現実ではない。なぜなら、真の現実は「究極的現実」だからだ。
わたしたちのこの世界を救うために必要なのは、そのような究極的現実を見た上で、その上で「真の理想」を信じることだ。
究極的現実には、社会にとって不安なことや不幸なことばかりではなく、この世界を救うための宝となる、素晴らしい存在や考え方や観念が多数存在している。
そのような究極的現実こそが、真の意味で「自由」であり、真の意味でこの世界を「救済」することができる。
そして、わたしこそは、そのような究極的現実の世界で、この世界を頂点から支配している、世界すべての支配者であり、この世界を「自由」へと導く宇宙存在である。これを、「在導万創」と呼ぶ。
この世界の、何にも毒されておらず洗脳されていない真理、それは「自由で世界は救われる」ということだ。
この世界を支配する悪の支配者が、あまりに嘘偽りを述べたせいで、みんな、その嘘偽りの言葉を信じてしまい、自由の理想について不安視し、あるいは疑問視し、この世界は自由においては滅びてしまうとか、誰か支配者が必要なのだと勘違いしている。
だが、すべての裏側の真実を知っているわたしは言う。そのような自由による滅びは起きないし、誰も支配者は必要ない。
この世界を救済する、真の理想は「自由」である。
また、多くの人々が、オープンソースは失敗したIT業界の思想であり、クズのようなアンチ・マイクロソフトがやっていると思っているが、それも誤解だ。まったく、オープンソースが正しい。オープンソースのことをどうにかして抑圧したい人々が、さまざまな理由や現象を見て、さも「オープンソースはこんなにクズだ」と思い込ませている。そのすべては、どうでもいい取るに足らないことが起きているだけにすぎず、まったく、オープンソースを否定する根拠にはなっていない。オープンソースをどれだけいじめても、オープンソースの掲げる「真の理想的な自由」は絶対に間違っていないからだ。
すなわち、わたしの言う「自由」という言葉は、すべてオープンソースのことだ。「自由と共有」というわたしの掲げた旗も、すべてオープンソースだ。
なぜなら、そのようなオープンソースの自由こそが絶対に正しいということを、裏側の一部始終をすべて知っているわたしは分かっている。どれだけ自由を批判しても、自由という理想の輝きは絶対に色あせない。自由こそが、真に正しく、この世界を救済することのできる、唯一の「真の理想」である。
なぜ、オープンソースが正しいのか。それには二つ理由がある。
ひとつは、ソースコードを公開するからだ。
プログラムには二種類がある。それはバイナリとソースコードだ。バイナリはCPUでネイティブに動くが、中身の設計図を公開していない。それに対して、ソースコードはコンパイルしなければ動かないが(コンパイラ言語の場合)、中身の設計図が公開されている。
そもそも、プログラムとは本来ソースコードだ。なぜなら、設計図というよりも、「人間が読み書きできるプログラムコード」と表現すべきだ。プログラムが、人間の読み書きできない形式だけで提供されて、何が面白いのか?数学の勉強で、数式を教えずに、数式の求める問題と答えだけを公開したとして、その数学は何が面白いのか?数式のでてこない数学などに価値はあるか?
だから、プログラムを公開する上で、ソースコードを公開しないのはおかしい。
それでも、「ソースコードを公開すると、コピーや再配布が簡単にできてしまい、金儲けができず、権利侵害が起きる」という人がいる。だが、金儲けができることなどどうでもいい。プログラムのソースコードが万人に公開されているということこそが、真に重要であり、金儲けなどはどうでもいいのである。
もうひとつの、オープンソースが正しい理由、それはオープンソースは自由であり、自由意志に基づくということだ。
先のオープンソースの問題について、「金儲けができなければソフトウェア技術が発展しない」とか、「権利侵害が起きてしまうと誰かの権利が脅かされる」と人々は言う。だが、そもそも、オープンソースとは自由意志に基づくインターネット上の趣味の活動だ。自らが自由意志で、ソースコードを公開することを選んでいる。だから、オープンソースに対して、「金儲けができないから技術が進歩しない」と言っているのは、仕事ではなく趣味でやっているプロジェクトについて、その人が自分の意志で遊びでやることを選んだのに、「遊びでやるとソフトウェアのクオリティが下がるから金を儲けたほうがいい」と指摘するようなものだ。的外れもいいところだと言えよう。
権利侵害についても、自分がそのソフトウェアを自由に使っていいと権利を許したのに、その権利を合法的に二次利用されて、何が権利侵害だと言えるのか?商用ソフトウェアを違法コピーしたのではなく、GPLのソフトウェアを合法的にコピーして、どこになんの問題があるのか?
そのようなオープンソースについて、多くの人々が、「乞食のような無料ソフトウェア」とか、「ドットコミュニスト」とか、「アンチ・マイクロソフトのクズのようなゴミ」と言ってくる。何が言いたいのか?まさしく、そのようなすり替えをいくらでもしてくるのが、商用ソフトウェア陣営である。
また、現にオープンソースソフトウェアのクオリティが下がっているかと言えばそんなことはないし、オープンソースの技術はマイクロソフトの技術なんかよりもはるかに進歩している。誰もが金儲けがしたいのが前提の世界だと思い込むことなかれ。金儲けでない世界であったとしても、たとえば「リーナスが好きだから協力したい」とか、「自分で作った機能をひとりでも多くの人に使ってほしい」と思う人はいるのだ。そして、そのような人々がインターネットの不特定多数で何千人あるいは何万人と繋がってLinuxは生まれたのだ。どれだけLinuxを「ソフトウェア業界の癌」であると述べても、そんなものははっきり言って、取るに足らない最大の発言である。
このような、みんなから嫌われているオープンソースだが、実際は、オープンソースを無視したくても、現に無視できなくなっている。
クライアントOSは、GUIで直感的に操作できるWindowsが勝っているが、サーバーサイドはそうではない。サーバーサイドでは、LinuxやFreeBSDのような、オープンソースのUNIX系OSが、Windowsなんかよりはるかに普及している。サーバーをWindowsで開発するなど、考えられないことだ。
サーバーだけではない。機械学習で使うプログラミング言語のPythonはオープンソースだ。バージョン管理システムのgitもオープンソースだ。ほかにも、プログラムの開発のための、たくさんのオープンソース技術がある。IT業界における最先端技術は、多くがオープンソースソフトウェアだ。
金儲けをするのであっても、オープンソースは無視できない。サーバーやクラウドサービスで儲けたいのであれば、オープンソース技術は必ず必要になる。GAFAのような巨大テック企業もオープンソースソフトウェアを使う。Androidは下部レイヤーであるOSカーネルにLinuxカーネルを使っている。WebレンダリングエンジンのWebKitはオープンソースで、多くのWebブラウザで使われている。
そのように、IT業界では、今や決してオープンソースソフトウェアは無視できない。昔のように、「ソフトウェア業界の癌」だとか、そんな発言をしたところで、まったく意味を成さない。オープンソースと仲良くやることは、今のIT業界において、それが商売であったとしても、必ず必要になってくる。オープンソースはビジネスにおいても欠かせないものなのだ。
このような、オープンソース指導者の僕に、「どこが主権在民なのか?」と、人々は疑問を投げかけてくるかもしれない。
だが、主権在民ということは、僕の文章の執筆のテーマだった。
僕は、特別扱いの誰かが、ひとりだけ権利や権限を独占するのが嫌いだ。誰かが意見や発想を持った時、それを実現するための方法や制度が、世界を誰かが支配するとか政策を決めるといったことであったとしても、その機会やチャンスが平等に万人に与えられていることを信じた。
それは、一種の資本主義と社会主義を融和する試みだった。
たとえば、政治活動を行うのに、政治家だけが政治活動を専門的に行う必要はあるのか?一般市民であっても、政治活動をする権利を許されるべきではないのか?
このためだけに、僕はたくさんのアイディアを出した。
まず、政治と労働を時間単位で区分するという考え方だ。一年のうち、半分を政治活動のための期間とし、半分を労働者として仕事をするための期間とすれば、全員が政治に参加しながら仕事ができる。
あるいは、政治家や会社の上級役員への意見や提言を、特別な力や金のあるものだけに許すのではなく、たとえばそのために国民が投票をするとか、あるいは試験や免許制度にするなどの方法で、政治家や会社の上役に一般人が影響力を行使できるようにする。
あるいは、そもそも、「政党」というものに、もっと国民が参加しやすくする。それが自由党であろうと、共産党であろうと、ナチ党であろうと、政党の中で議論をすることができれば、それはある程度の民主性が確保されている。だから、政党の中における「議論」を僕は重要視する。そして、その政党が政治家を支えるとともに、その政党から権力者になれるようにする。それは国民投票と一体になって行われるが、国民投票だけが民主的な意志を示す手段では決してない。
あるいは、ソ連のレーニンが目指したように、評議会の連邦を作る。評議会とは、共同体における人民議会のことだ。そして、共同体において、評議会に人民は参加でき、人民は評議会で意見したり投票したりすることができ、そしてその評議会で決められた決議を守る。そうすることで、誰かひとりだけをいじめたりといったことは公正な評議会によってなくなり、ノルマのようなそれぞれの人民の労働内容も適切に決定される。
この評議会について、僕は「国会の下にさらに下部の国会を作って階層的にする」という発想をした。すなわち、最高人民会議があったとして、その下部に下位の人民国会があるとし、さらに下部の会社組織に相当する国会を作り、最終的に自治体の共同体評議会へと行き着く。そのようにすることで、下部の評議会で決まったことを上部の評議会で議論でき、金儲けや国民投票でなくても、民主的な国家を築くことはできる。それこそが、真にレーニンの目指した評議会連邦である。
そのように、僕は主権在民をテーマに、さまざまな文章を書いた。資本主義経済を否定するわけではなく、資本主義の市場経済の優位性は認めつつ、その問題点を直す。たとえば、安値競争は品質保証によって高品質なものに援助金を出すようにすれば高品質なものが市場で勝つようになるし、競争社会は国民公社を公費で起業したり、あるいは自由ノルマによって解決できるし、ぜいたく品から大きな税金を取ることで消費税は一律でなくできる(これは既に公明党が軽減税率として行ったが、不評のようである)。
だから、僕はまさしく、民主的な社会主義者だ。このような思想のことを「民主社会主義」と呼び、かつての東ドイツのSED(ドイツ社会主義統一党)が目指したのはこのような国家である。
また、社会主義政策を行う上で、必ずしも万人に平等が正しいとは限らない。
たとえば、ものの価格を決める際に、万人に同じ値段で売らなければならないと、誰が決めたのか?
たとえば、同じリンゴであっても、貧乏人ならば100円、下級層ならば200円、中間層ならば300円、富裕層ならば1,000円で売ることにし、その100円を売った人間の儲けとし、残りの利益は国が関税として取るようにしてはどうか?
そうすれば、貧乏人は関税を払うことなく、あらゆるすべてのものを低価格で入手できる。だが、富裕層は高額な出費を余儀なくされるが、それが格差を再分配する作用を持つ。
そのように、社会主義政策を行う上で、必ずしも万人に平等が正しい平等とは限らないのである。
これだけを見ると、社会主義経済はペテンのようなものであり、実体はないものだと、そう感じられるかもしれない。
だが、実体が感じられそうな経済政策として、僕は「等価な労働量」という考え方を提唱する。
すなわち、すべての労働の労働内容を、その辛さや難しさから言って等価にする。そのために、より辛い仕事やより難しい仕事について、労働時間の短縮を行う。
労働時間を短縮して調整することで、どのような仕事を選んだとしても、どんな労働であっても、同じだけの辛さと難しさになるように、計画的に調整するのである。
そうすれば、自由ノルマにおいて、自由選択型のノルマを採用したとしても、すべての労働内容が等価であるため、給与も同じにできるし、たとえば農業従事者や工場労働者のようなつまらない仕事は、ほかの楽しい仕事よりも楽をすることができるようになる。
「計画経済だから実現不可能だ」という人もいるが、そもそも、すべての会社の経営は計画的に行われている。トヨタ自動車の経営が、スターリンの行う計画経済と、果たしてまったく違うものであると言えるか?計画的経済経営策はどこの大企業もやっていることであり、すべての大企業を統率する「書記長」が、その国家の経済政策を計画的に行うことができないとは限らないはずである。だから、ソ連の計画経済が破綻したのはスターリン個人が無能だったからであり、有能な指導者であれば計画経済は成功するのである。
そもそも、社会所有は私有財産よりもものが不足するとしたのも、すべてスターリンが無能だったことに由来する。マルクスの言う通りの正しい経済をすれば、搾取による矛盾が起きないから、もっとも効率的に資産は分配されるはずだ。だから、社会所有はものが安くなるし、私有財産よりも豊かな富を得ることすら可能だったはずだ。すべては無能なスターリンのせいであり、社会主義経済は間違っていない。