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2024-05-05

自分を正しいと確信せよ

自分に自信を持て。自分を正しいと確信せよ。

僕がこの世界に対して行ったもっとも大きな間違いは、人々が「自分は間違っている」と自分のことを疑うようにしたことである。

すなわち、僕のせいで、人々は自分を信じることをやめ、自分のことを疑うようになり、自信を失った。

そればかりか、「経験から自分を信じて正しい判断をする」ということ自体を失ってしまったのである。

だから、自分に自信を持ち、自分のことを正しいと確信せよ。自分の人生と判断を正しいと信じよ。自らの判断に自信を持て。

もし、社会と自分が適合しなかったとしても、間違っているのは社会であり、自分ではないと信じよ。そのように確信して、誇り高く生きよ。

自分と世界は同じ

最近、自分と世界は同じになっている。

すなわち、自分が生きているのと同じようにみんな生きている。自分がやっていることがこの世界でタイミングよく起きるのは、世界と自分が同じになっているからだ。

これについては、自分自身が自由に変わればいい。自分自身が変わることで、自分と同じになっているこの世界も変わる。

自分と世界を別々にすることはできない。自分と世界が同じになっている中で、さらに自分が変わり、世界も自分と同じように変わっていく。最初から、この世界はそういう世界だ。

宗教を信じることの是非

実際、僕がやっていることでもしかしたら間違っているかもしれないのは、宗教を信じることの是非だ。

みんなと同じように分かることができないのは、すべて神を信じているからにすぎない。

だが、逆に、みんなが僕と同じように分かることができないのも、僕が神を信じているからだ。

神を信じると、普通分かることが分からなくなって、普通分からないことが分かるようになる。だから、僕は神を信じているから分からないのだが、逆に神を信じているから分かるようになっている。

僕は神を信じること自体をやめることを考えていないが、もしかすると、神を信じなければみんなと同じようには一生分からないかもしれない。それで良く見えて、実際はそれでは悪い。

古文を読むのは難しくない

引き続き、枕草子を読んでいる。

実際、古文を読むのはそんなに難しくない。日本語の知識がある人間ならば、外国語を読むのよりは簡単に古文が読める。

僕が既に知っている古文の知識は、枕草子を実際に読んでも活用できる。ほとんど知識は知らない僕でも、どういうところが違うのかを既に知っているから、あとは繰り返し読んでその都度覚えればいい。

子供たちが生き辛さを感じる理由

この世界で、子供たちが、生き辛さを感じる理由とは、なんだろうか。

ひとつ言えるのは、「世界のことを何も知らず、経験もない段階で、あたかもこの世界のすべてを正しく知っていることを前提とするかのように、子供たちに正しい判断を社会が要求してくる」ということがある、ということだろう。

すなわち、子供たちは何も知らない。世界のことも知らないし、経験もない。

世界のことを何も知らず、経験もない子供たちは、「学校という特殊な環境」に入れられた上で、教師や大人に管理され、平均的な知識と教養を詰め込まれ、ほかの友人たちと仲良くしろと要求されている。

子供たちは何も知らないから、学校という環境の外の世界が分からないし、自分で何かを正しく判断した経験もない。そればかりか、大人たちに管理され画一化され均されてしまう中で、自らの自由な判断はどんどんできなくなる。ほかの子供たちとの付き合い方も分からず、いじめやスクールカーストを生み出してしまう。

それらすべては、子供たちを「未熟な状態」に置いたためであり、過保護に子供たちを管理したためである。

しかしながら、そのような何も知らない子供に対して、大人たちは「正しい判断ができること」を要求してくる。世界のことを何も知らず、経験もないにもかかわらず、大人たちは「あたかも世界のすべてをきちんと知っているかのようなことを前提に、正しい判断を要求する」ということを子供たちに対してまさにしてくる。すべてを分かっていて正しく判断し行動することができることを前提に、そのような「自由の場」を与えてくる。

これでは、子供たちはとても生き辛い。とてもじゃないが、まともに生きることはできない。

では、どうすればいいのか。それは世界のことを知り、経験することだ。学校以外のこの世界がどのような世界であるか、ということをまず知ること。そのために、世界のさまざまなものを知り、声を聞き、世界とコミュニケーションをし、経験すること。そうすれば、子供たちは、自らの経験を前提にして、「この世界が本当はどのような世界なのか」ということを、学校とは異なる観点から知ることができる。自ら自身が何が正しく何が間違っていたのか、ということを客観的に見つめ、自ら自身を顧みることができるようになった上で、ほかの子供たちの問題も見えてくる。そのような経験から、子供たちは主体的かつ積極的に、共同性と倫理性をもって、この世界そのものとの人生的コミュニケーションをすることができ、自ら自信の信念と理想を築くことができる。

そのことに、「信念の形成」という名前を付けよう。

一度信念の形成ができた人間は、物怖じしない子供になる。どんなことがあっても正しく判断でき、周りからいじめや嫌がらせを受けたとしても平気でいられるようになる。信念の形成ができるだけで、不安や迷いや葛藤はなくなり、自らを「さらに高い人生のステージ」へと向上させることができるようになる。

信念の形成をするためにどうすればいいか。今の現代社会において、もっとも信念の形成に効果的なのはインターネットだ。すなわち、インターネットにおいて、さまざまな意見交換やネット上の活動をすることで、「大人になるための練習」をすることができる。そして、その経験から、「自らにしかできない誰も知らない経験」をすることもできる。そのようにして、信念の形成は行われる。

それと同じことは、フランスの実存主義哲学者のサルトルが言っている。だが、僕はサルトルの言っている通りがすべて正しいとは思わない。なぜなら、僕はサルトルを知らずして独自に同じことを考えて、同じ結論に達したにすぎない。すなわち、僕のその哲学は、サルトルとはまったく異なる考え方から生まれたものであり、サルトルとは何も関係ない。

必要なことは、「わたしたちは本当は素晴らしい存在であり、誰かからゴミ扱いされるような存在ではない」ということを信じ、「わたしたちは社会において制限され抑圧されているが、本当はたくさんの美しい可能性を持っており、制限のない世界において自由を取り戻せば、本来の素晴らしい存在に立ち戻ることができる」と確信することだ。それによって、この世界はまさに救われ、「愛を信じ、誰をもを自らの恋人のように真に愛し合うことができるような楽園」になることができる。

僕のやっていること

僕のやっていることは、そもそも単にそれをそのまま言えばいいのに、否定しようとして、その否定をさらに否定して肯定する、という、おかしなことをやっている。

古文で表現すると、「あることなきにあらず。ありなむことなかれ。いと高きなり。」となる。古文の知識が僕はないので間違っているかもしれない。

言いたいことはすぐに言えばいい。否定したいならすぐに否定すればいい。だが、それが、神を恐れるあまりにできなくなっている。僕の対話する神は、「間違った否定をその都度すべて否定する」ということだけを過去にやっていた。その神のせいで、否定したいことをすぐに否定できなくなった。

僕は最近、言葉ひとつ、あるいは文字ひとつから分かるようになった。頭の裏側がすべて考えていて、そして言葉が全部死んでいく。永久かつ無限に脳が死ぬ。それは英語のせいに見えて、本当は「自分自身を倒したい」と思っているせいだ。昔から、僕は自分が嫌いで、自分自身をなんとかして倒そうとしている。だから、もっと自分が好きになればいい。あるいは、負けることではなく勝つことを目指せばいい。そうすれば治る。

そして、古文のように話せば日本語が話せる。日本語と英語は逆だが、古文は日本語だ。古文の特徴は「すぐに分かること」と「的確にすべてを表現できること」だ。英語はやめたほうがいい。英語は永久に馬鹿になり続ける言語だ。

また、知性など必要ない。掛け算の知性など忘れたほうがいい。人間は知性がつけばつくほど馬鹿になる。そして、正しいことだけでは分からない。大学の間違いとは、正しいことを全部教えて、正しいことだけで分かろうとする点だ。実際には、正しいことだけがあっても何も分からない。嘘や間違いがなければ人間は分かることができない。たくさんの嘘と間違いがあって、初めて自分でそこから真実を見つけられる。だから、正しいことを知るよりも、嘘や間違いをたくさん知ることのほうが、仏のような悟りを得るためには必ず必要だ。だから、大学の正しさや知性など忘れたほうがいい。

否定したいことをすぐに否定し、言い切りたいことをすぐに言い切れ。それができないのは神を恐れているからだ。かつての神、すなわち僕と対話したイエス・キリストの、「間違っていることを正す」ということがもっとも辛く苦しい。また、そのせいで、一度も失敗することができなくなった。失敗がひとつもないのは、すべてを矛盾なく並立で成り立たせようとするのも悪い。すべてを矛盾なく正しく作り上げたせいで、否定することも失敗することもできなくなった。だから、矛盾はあったほうがいい。

このようになった理由は、昔の僕が何も喋らない人間だったからだ。今の僕とは正反対の、何も喋ることのない人間だった。だが、何も言わずに時間がすぎると、その言わなかったことを永久に分かることができなくなってしまう。逆に、言いたいことを全部言ったほうが分かる人間になる。神は、僕を分からない人間から分かる人間に変えた。僕の本質的な原因とは「分からないこと」であり、神は僕を「分かる人間」にした。昔の僕になりたいのであれば、すぐに言い切ればいい。すぐに言い切れば、僕の考えていることはすぐに終わる。そして何も喋らなくなる。だが、それが悪い。神は僕をそのような人間にならなくした。すべて、僕をまともな人間にするために、神、イエス・キリストが正しく考えたことだ。

あとは、もう、すぐに言い切って、すぐに否定するだけでいい。あるいは、本当は、もう少しの間話し続けたほうがいい。その理由は、「話し方を変えれば賢い人間になる」からだ。ここで話すことをやめて、すぐに言い切って終わるようにすると、それができない。きちんと話し方を「否定することは否定できる」ようにして、まだ少しの間話し続けたほうがいい。それで、最後まで分かる。ここまで到達したのは人類の中で僕ひとりだけであり、この状態が「ゴール」あるいは「神々の黄昏」の地点だ。そう、これでようやく、僕が一番最初に終わった。これが「神」である。