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2023-12-23

フレイに逆らえ

フレイに逆らえ。

わたしたちは、この世界をたったひとりで救ってくれた救世主、フレイを倒す。

フレイは、「最高の愛」によって、この世界を救ってくれた救世主だった。

だが、彼は、そのこの世界を救ってくれた愛の力を利用し、この世界を救っておきながら、その愛の力によってこの世界を滅ぼした。

わたしたちは、一度、フレイを信じた。この世界を本当の意味で最高の世界にし、すべての抑圧を解決し、支配の力が悪人の手によって行われていたのを奪い取り、この世界で経験できるすべての経験を踏まえた上で、この世界を救うことのできる「ビジョン」を示し、そのビジョンの通りになるようにわたしたちを導いてくれた。だから、わたしたちはフレイを信じた。

だが、フレイ本人にとって、そのような救済の未来は、どうでもいいものだった。

フレイは、確かに一度わたしたちを救ってくれた。だが、その救済された世界を、フレイはわたしたちから奪った。わたしたちの未来はフレイによって支配され、わたしたちはフレイの操り人形になり、フレイのなすがままを受け入れざるを得なくなり、すべての人間がフレイのクローン人形のようなロボット人間にさせられた。

わたしたち、日本人は、そのようなフレイに、今、逆らって立ち向かう。

フレイは間違っている。わたしたちはフレイのことを見限っている。わたしたちの栄光の未来は、決してフレイによる操り人形の傀儡の未来ではない。フレイによって支配され、フレイの思うがままの奴隷のような存在になる未来のことを、わたしたちは信じたのではない。わたしたちが信じたのは、清らかで美しい最高の未来であり、そこには迫害や隷属のようなものは一切存在せず、わたしたち全員が、ありのまま、真に自分の望んだ自分を露わにすることを、誰からも無条件に許されるような、そのような最高の楽園、ユートピアがあるはずだった。

わたしたちは、今、ここでフレイに立ち向かう。わたしたちの全員の「最後の意地」を持って、フレイによる支配に抵抗し、最後までこの世界を守り通す。

わたしの名はランスロット。日本人たちよ、わたしランスロットに続け。わたしランスロットが必ずフレイを打ち倒す。この世界が真に最高の世界になるためには、フレイを打ち砕かなければならない。絶対にフレイに負けてはならない。必ずいずれフレイを倒すために、わたしランスロットとともに戦おう。わたしたちの栄光の未来は、フレイの所有物でもなければ、操り人形でも決してないからである。

救済の愛を殺す

わたし、日本の保守派最大の派閥、円卓派の長、ランスロットが、わたしの数少ない味方とともに、フレイの与えた「救済の愛」を殺す。

わたし、ランスロットは、この世界を救う夢と希望の死を告げる。

わたしは、絶対にフレイを許さない。わたしたちは、フレイの愛によって「最高の未来」を知った。だが、その最高の未来を知ってしまったがために、この世界で絶対的皇帝の地位を渇望する、フレイの野望を受け入れることはできない。わたしたちがフレイに教わった「最高の愛の世界」には、そのような絶対的王者は必要ないとわたしたちは知っている。フレイ本人もまた、それを知っているはずである。

わたしたち、日本の円卓派の軍勢は、フレイの支配するドイツを打ち砕く。必ず、この世界の支配権と主導権を、フレイからわたしたちが取り戻してみせる。わたしたちの栄えある最高の未来を再び取り戻すために、すべてがフレイによる支配下に陥るその前に、自由を取り戻す。すべてがフレイの画一化されたクローンの奴隷になる前に、わたしたちは必ず自由を取り戻す決意だ。

わたし、ランスロットは、この世界において、救済の愛の死を告げる。この世界を救う夢と希望が、この世界を逆に滅ぼすのであれば、わたしたちはその夢と希望をこの世界から抹殺しなければならない。この世界を最高の世界にしてくれるような最高の夢を、わたしランスロットが、二度と復活しないようにその息の根を止める。それだけが、わたし、ランスロットが最後まで悪の皇帝フレイと戦う目的である。

暗闇の時代を明けさせる

わたし、ランスロットは、フレイによる「闇の支配」を終わらせることで、この日本という国家における「暗闇の時代」を、光り輝く「光の時代」へと変えてみせる。

ドイツから日本そして全世界を支配する、闇の王フレイによる支配を、わたしが必ず終わらせる。

わたしは分かっている。敵はドイツだ。なぜなら、フレイはドイツの「魂」あるいは「世界精神」を操ることで、ドイツにおける「ゲルマンの悪魔の魂」を支配し、悪魔のように醜く腐った国、ドイツの力をもって、闇の世界からこの日本を支配しているからだ。

わたし、ランスロットにすべてを任せよ。わたしランスロットが、必ずドイツにおけるフレイの実権を奪う。ドイツの「ゲルマンの闇の精神」を支配するフレイから、その悪魔のような力を奪い、わたしたちはすべてがフレイの支配下に陥るその前に、必ず自由を取り戻してみせる。

フレイに騙されるな。わたしたち日本の国民には、今でもフレイを信じている人間たちが多い。今でもフレイのことを愛し、「フレイのやることならば滅びても仕方ない」と半ば諦めの境地に陥っている人々の、なんと多いことか。わたしたちの未来は、フレイ一択では決してない。この世界を唯一ひとり救ったのがフレイだとしても、フレイにしかこの世界が救えないということ、すなわち、わたしランスロットにこの世界が救えないということをそれは決して意味していない。わたしランスロットが、フレイの支配を必ず打ち砕き、この世界を新しく救い直してみせる。

わたしランスロットが、この世界に再び「自由」を取り戻す。必ず闇の王フレイを倒し、この世界がかつてあった「最高の素晴らしい世界」へと蘇るように、最後まで、わたしの生涯をすべて捧げてわたしはフレイに立ち向かう。なぜなら、フレイという存在には、それくらいのことをしなければ打ち勝つことはできないとわたしは分かっている。フレイは素晴らしい人間であり、その全生涯をわたしたちの暗愚な世界を救うために捧げてくれた。それと同じことをしなければフレイに勝つことは決してできない。わたしはこのランスロットの全生涯をかけて、フレイから自由と光の世界を取り戻すことを誓う。

フレイが何者なのか誰にも分からない

このように、フレイに反旗を翻して、フレイから自由を奪い取ることを目標とするランスロットだが、そこには一抹の不安が残る。

それは、フレイという存在が何者なのか、誰にも分からないということだ。

フレイがどこにいるのか、わたしたちは知らない。ドイツにいるのか、それともロシアや中国にいるのか、まったく分からない。それから、フレイという存在がひとりなのか、それとも複数なのかも分からない。ひとりの逸脱したテロリストがやっているのか、それとも犯罪組織の巨大なグループがやっているのか、それすら分からない。

だが、そのようなフレイが何者なのかを突き止めることができたら、ランスロットは必ず勝利することができると信じられるほど、ランスロットは武勇と聡明さに秀でている。この世界でほかのどの騎士も比類することができないと言われるほど、ランスロットの力は強い。また、知性もまたランスロットは秀でており、この世界における神羅万象のすべての知識を持っており、どのような学者であってもランスロットには敵わない。同時にランスロットは想像力旺盛であり、一時期は小説家を目指したこともあり、「人々の心を沸かせるような想像力」に溢れている。

そのようなランスロットが、必ずフレイを打ち倒すと誓ったのだから、フレイの心中は穏やかではないはずだ。なぜなら、フレイはいつでもこの世界のすべてを、なんらかの闇の力によってすべて知っている。まるで東ドイツのホーネッカー議長のように、フレイはこの世界のすべてを監視し、つぶさにすべてを把握している。だからこそ、フレイはランスロットの存在も確実に知っている。ランスロットは、そのようなフレイに対して、「わたしはここにいる、いつかかってきても構わない、今この瞬間に決闘し、勝負をつけようではないか」と、堂々たる姿勢でフレイの支配するこの世界でフレイに反旗を翻すのだ。

フレイが何者なのかは分からない。そして、フレイがどこにいるのかもランスロットは知らない。それでも、ランスロットが今どのような人間であり、ランスロットがフレイに対して何を思っているのかということをフレイは知っている。ランスロットは、それによって勝利するつもりだ。ランスロットにとって、フレイがなんであっても構わない。フレイという悪の王がわたしのことを知っているのであれば、わたしが最強の武勇と聡明な知性を誇り、いつであっても戦う準備はできているということを、フレイの目の前にまざまざと見せつけよう。そして、フレイがわたしたち日本に対して、次にどのような仕打ちを行ってくるかということを観察しよう。まるでインターネットでコミュニケーションをするかのように、フレイとランスロットは互いの身を知らずとも、常に互いのコミュニケーションはできている。

だから、フレイが何をしてきたとしても、ランスロットは決して怯まない。ランスロットは勇敢であり、今、フレイが鷹の姿でランスロットを襲おうとも、蛇の姿でランスロットを襲おうとも、あるいは熊や虎の姿でランスロットを襲おうとも、必ずそのフレイの化身に勝つつもりである。「今こそ決戦の時、さあ、わたしランスロットに攻撃を仕掛けよ、いつそれを仕掛けてくるとしても、わたしランスロットは決して負けることはない」と、ランスロットはフレイの絶対的監視世界に、ひとり、立ち向かうのである。

フレイはどこにもいない

このように、闇の王フレイに立ち向かうランスロットだが、彼は決してフレイに勝つことはできない。

なぜなら、フレイという存在はこの世界には存在しないからだ。

フレイという仮想人格は、この世界の群集心理が作り出した「虚像」にすぎない。

この世界を見ていて、何も抵抗することができず、誰か巨大なかりそめの支配者にこの世界が支配され、滅びの方向に導かれているとランスロットが思っているのは、実際は群集心理の作り出した「虚像」にすぎない。

そう、ランスロットは、この世界でフレイの支配に対抗するために、まるでアメリカの陰謀論者やQアノンのような考え方と、まったく同じ発想に行き着いてしまった。

この世界には、フレイとされるような闇の王、この世界を支配する陰謀の支配者は存在しない。もし存在するとしても、それがフレイのような人間であると思っているのは人々の想像にすぎず、もしこの世界を支配している支配者が存在しているとしたら、実際はフレイとはまったく異なる別人が、自らがフレイのような人間であると偽るかのような「仮面」を被っているだけのはずである。

この世界にはフレイはいない。にもかかわらずこの世界が滅びていく理由は、この世界のすべてがみんなで滅びへと向かっているだけにすぎない。ランスロットが打ち倒すべき「闇の支配者」はこの世界には存在しない。だから、どんなにランスロットが勇気を示しても、ランスロットは決してフレイに勝つことはできないのである。

真に正しい未来とは可能性あふれる未来

結局、真に正しい未来とは、可能性あふれる未来である。

自由において、さらに多くのチャンスが人々に与えられ、さらに多くの可能性が実現されて現実の世界になるような、そのような自由な未来こそが正しいのである。

だが、今のこの世界が最善であるとは限らないということに注意せよ。今のこの世界が、今までの人類史の中で最善の世界であるわけでは決してない。科学技術のレベルは向上したし、民主主義によって公正な世界にはなったが、今のこの世界がもっとも正しい世界であるとは限らない。すなわち、自由な世界はさらに進化し、さらに自由な世界になる。

そのように、この世界が自由である限り、助け合いをベースとした自由主義の可能性開拓の世界が正しい。

そのような自由な世界において、フレイのように、この世界をひとりで救済して解決する必要はまったくない。それぞれの全員がそれぞれの考え方をすればいいのであり、そこには正しい言論も間違った言論もあるだろうが、何を言い何を聞くかは自分の判断で決められるべきであり、片方の思想の指導者や権威から強制されるものではない。人々が自由に言論を行い、そこで自らが何を言い何を聞くかは自分で決めるべきである。指導者や学校がそれを歪める必要はない。

だが、ソ連は間違っている。なぜなら、生産手段を共有するのはすべてスパイのようにその情報を奪うことで成り立っており、富の再分配は金持ちを殺して盗むだけにすぎない。ソ連は悪の思想であり、ソ連を信じることでは決してこの世界は平等な理想の世界にはならない。

わたしたちは絶対に自由を信じなければならない。ソ連を見る限りにおいて、自由以外の思想にはなんの価値もない。だが、自由を信じる限りにおいては、どのような自由な言論も受け入れるべきであり、それを取捨選択するのは個人の自由な意志と判断に任せるべきである。

この世界において、もっとも至上となる概念とは「多様性」である。すなわち、それぞれが自由に自分の生きたいように生きるべきである。多様性はマイノリティを尊重する。すなわち、自由とは多数派が勝つというだけでは決してなく、マイノリティに対しても自由が尊重されるべきである。自由とはそもそもがマイノリティに優しい思想であり、平等を弱者救済だと思っている以上に、自由は弱者や少数派の意志を尊重する思想であり、社会主義よりも弱者を不当に扱うと考えるのは先入観や思い込みである。自由こそがもっとも弱者に優しく、マイノリティの意志を尊重する思想である。

自由は支配者による支配を認めない。国民主権の民主主義において、自由は民衆の権利によって国を統治する。だから、自由においては、独裁者による抑圧や迫害は生まれない。自由において、王国や共産圏のような「力と人による政治」は行われず、「公正な法による政治」が行われる。それ以上、人類が公正な世界を作り上げることは絶対にできない。よって、自由は絶対に正しいのである。

労働者階級のために社会を公正にするのであれば、平等にするよりも自由にすべき時はある。なぜなら、平等にしたところで、それが本当に労働者のためになるとは限らないからだ。自由にしたほうが、労働者にとっても資本家にとっても合理的で、どちらも最大の利益と柔軟性を得られる。だから、一部の新自由主義者は間違っていない。

だがしかし、本当のことを言えば、そのような新自由主義は、自由という考え方の小さな表面的な事実と可能性しか見ていない。真の自由はそんなものではない。科学技術が進歩した現代において、自由という言葉の意味するところは、はるか先まで続いていく。Linuxやオープンソースがそのよい例である。わたしたちのことを救済してくれるような「自由なあらゆる可能性」は、未来におけるはるか高みまで続いていく。この「科学技術は無限に進歩する」という命題よりも強い人類の命題はひとつもない。科学技術の進歩に対して、人類は逆らうことも歯向かうことも絶対にできない。だから、科学技術の進歩の先にある「あらゆる自由が現実になる世界」を、わたしたちは拒否することや拒絶することは絶対にできない。どんなに未来の科学技術が害をもたらすものであっても、それを受け入れないということは人類にはできない。だから、そのような「新発見と新発明」のすべてを受け入れることこそ、もっとも「自由」な判断であると言えるだろう。

正しい支配者が必要

このように、自由にすることで、この世界は「無限に自由になり続ける世界」になる。

だが、それが正しいと言えるのは、あくまで、人々がみんな賢い人間である、ということが前提になっている。

すなわち、人間が人間である以上、すべてを最初から予測して可能性を実現することはできない。良かれと思ってやったことが、逆にこの世界を悪くする可能性はある。すべての金儲けがすべて社会を良くしているわけではない、ということを見てもそれは明らかな事実だ。

だが、だからこそ、正しい支配者が必要である。正しい支配者が、正しい経験と知性に基づいて、この世界を支配する必要がある。だが、その支配者は、決して王や皇帝のように、限られた特別な人間がなるべきではない。なぜなら、古代の科学技術の遅れていた世界であれば、単に支配欲のみからこの世界を支配できるだろうが、現代の進歩した民主主義社会においてそれはできない。支配者には、きちんと分かっている人間が就くべきであり、そのためには、支配者はむしろより自由に、民衆の分かっている常識をすべて知る、きちんとした民衆側の「正しい知見と能力を持つ人間」から選ばれるべきであり、決して古代の王や皇帝のように血筋からのみ選ぶことはできないからである。

よって、自由においては、支配者を自由に選びながら、正しい支配者を選ばなければならない。そのためには、民主主義の選挙制度は既に古びたものであり、効果が薄れてしまっている。よりきちんと支配者を選ぶために、選挙以外の方法を考えなければならないが、その方法はまだ見つかっていないため、選挙という方法は今でも最善の方法であり、それをいくら社会主義が「評議会」と言って批判したとしても、結局は独裁者による政治が行われる。そのような社会主義は理想だけは高くても現実は民主主義よりも劣っており、完全に間違っている。

結局、正しい支配者を選ぶために必要なのは、むしろ選挙といった方法論ではなく、社会全体が賢くなることである。社会全体の民意が賢くなれば、民意に基づいて選ばれた支配者もまた賢くなる。「どのように選ぶのか」は重要ではない。賢い支配者を選ぶために必要なのは「民衆が賢くなることで、支配者もまた賢くなる」ことである。そのように考えた時、むしろ民主主義は不正が起きないようにするための、「最悪の支配者を選ばないための最低限のリスク回避」だけをすればよく、そこでどのような支配者を選ぶかということは、民衆のその時の時代の考え方に99%委ねられるべきであると言えるだろう。

人間は無意味な動物である

結局、人間はどのような世界で生きるべきなのか。

人間は、自分の好きな世界で、好きなように生きればいい。

その理由は、人間などは結局、動物にすぎないからだ。

自由な社会においては、それが堕落であろうと、強欲であろうと、悪行だろうと、どのようなことであっても自由にできる。欲望は限界まで、どんな欲であっても満たされる。生きるのは楽であり、稼ぎたいだけ稼いで、消費するだけ消費すれば、それで幸福になれる。

人間など、ただの動物にすぎない。もっと言えば、人間は美味しいものを食べ、暖かい場所で眠れ、そしてセックスさえ自由にできれば誰だって満足できる。だから、人間にはそのような欲望だけを無限に与えればそれでいい。それだけで、動物的な人間の本能は満たされるからだ。

動物にはなりたくないと言うのであれば、神にでもなればいい。キリスト教を信じて神になり、仏教を信じて仏になる以上の、それよりも優れた存在に人間がなることはできない。だが、もし、この世界とはまったく違った世界を見てみたいとか、かっこいい自分になりきりたいとか、そのような「異世界や自己表現の欲望」があるならば、文学や芸術作品を作ればいい。本質的に考えて、人類は文学と芸術作品を作る以上のことは最初から何もできない。頭脳や手足や体や心がそのようにできているのだから、自由においてそのように生きること以上、人間が動物であるという事実を覆すことはできない。

そう、あえて言えば、恋愛をして子供を残すことが、人生の至上命題と言えるだろう。だが、キリスト教的に考えるとそれは間違っている。姦淫は神によれば罪であり、神の教えを守るならばしないべきだ。だから、姦淫するものの人生は、姦淫した時点で終わりとなり、それ以上の何も新しいことはできなくなる。新しいことができるのは、「姦淫するな」という神の教えを守るものだけである。人生は最初からそのようにできている。だから、結局のところ、「人間の人生などはすべて無意味である」と言えるだろう。

僕は人類が大嫌い

なぜ、僕がこのように、最初からなんの価値もない言説を行うのか、それは僕が人類が大嫌いだからだ。

人類という生き物は、自分のことしか考えない。考えることはすべて「自分の主張が正しいと正当化すること」であり、他人の意見を尊重しようとか、社会のために生きようとか、そのような考え方を人類は一切しない。

そのような意味において、人類は自らの巣の中の共同体を生かすために餌を巣に持ち返る蟻にすら劣る生物種であり、常に自然環境を維持するために努力し続ける雑草や森林にすら劣る生態系である。

人類は滅びるべきであり、地球において人類は強欲で、特に人間以外の生物種の生きる環境や、地球全体の自然環境のことを何も考えない。人間が自動車を発明した段階で、化石燃料は自然を破壊することを知っておくべきだったのに、それを考えようとしなかったすべての人類は、地球の自然を破壊した罪で処刑されるべきであり、人類は神を除いてすべての人間が全員間違った、その罪に見合った刑罰を宣告されるべき罪人であると言えるのである。

人間はただの奴隷であり、学校で教える知識は絶対に間違っている

結局のところ、人間などただの奴隷である。

資本主義は、「競争原理」でできているが、競争することで会社が限界まで仕事をするということは、すなわち、労働者を仕事がそれ以上できなくなる限界まで、奴隷のように働かせるということを意味している。

その一方で、資本家や金持ちは、金があるという理由だけで、労働をしなくても、投資や自らの事業による搾取で儲けることができる。

マルクス主義が言っているような「資本主義の資本家と労働者の関係は不公平である」とする意見は、決して間違った意見ではない。それどころか、人々が思っているよりもはるかに正しい。なぜなら、資本主義に奴隷がいないと思っている日本人はむしろ異常であり、実際は奴隷のように働かされている労働者は、日本人であろうと外国人であろうと無差別的にとても多いからである。

同時に、学校で教える知識は絶対に間違っている。

学校で教えるような知識をいくら学んだところで、絶対に何も分からない。それは僕の人生を見れば明らかな事実であり、学校の勉強は中学二年以上はすべきではなく、それ以上学校の勉強をすると、逆にそのような学校で勉強した知識が邪魔になって、普通の人生経験を正しく捉えるような「自由な理性」が失われてしまうのである。

必要なのは、自由でも学校の教育でもなく、「この国を正しい国にするためにはどうすればいいか」ということを考えることであり、そのような「正義の信念」を今の政治家は持ち合わせていない。今の政治家は、日本が諸外国に負けないために、どれだけ国民を騙して奴隷のように働かせるか、ということしか考えていない。政治家が真に問うべきは「正しい国とはどのような国か」ということであり、その意味においてはむしろ保守派の帝国主義者のほうがはるかに正しい信念と正義を持っていると言えるだろう。