残念ながら、自由は間違っている。
まるでユートピアを信じる夢遊病者のように、どこにもない「自由な世界」を信じて、根拠のない確信からこの世界を救うことができると勘違いして、そのように暗闇の世界を彷徨い続ける必要はない。
自らの信じるものは平和であり、平等であり、そして変革であると分かっている。
また、学校教育は間違っていない。なぜなら、僕が何も分からないのは、すべて学校教育を否定し、自らの独自の「自由な人生」を信じすぎたせいであり、学校教育のことを何も覚えていないから、中高生でも分かることが分からないだけにすぎず、学校教育をきちんと受けている日本の子供たちはそうではなく、僕の分かろうとしていることはどんな子供であってもすぐに分かる。
だが、僕自身が、もう一度自由を信じて分かる必要はない。なぜなら、過去の自分が完璧に分かりつくしていることを、どうして再度分からなければいけないのか?もはや分かりきっていて、方法から答えまですべて知っている。そのような人生を再度同じように分かる必要はどこにもない。
今日はピアノのレッスンがあったが、ピアノはきちんと弾けるようになった。
アニー・ローリーと、ビートルズのイエスタデイと、ホルストの木星(ジュピター)を久しぶりに弾いたが、特にジュピターは難しかったがなんとか弾くことができた。昔よりもはるかに自分の読むスキルが上達しているということが分かった。
僕は自分自身のことを馬鹿だと思っているし、馬鹿だと思っているせいで何もできないと勘違いしているが、ピアノについて言えば、僕にでもできることはほとんどピアノぐらいしかないということが分かる。
僕はこの世界を平和にする。
これ以上の無用な戦いや争いごとを、僕は望まない。
僕はこれ以上は自由を否定する。そもそも、昔の自由については、もうきちんとその本質を書けた。
昔は単なる共産主義者だった。そして、共産主義者でありながら、「今ここにない自由な世界」「権力で成り立つのではなく自由に成り立つ社会」を考えただけにすぎない。
そして、オープンソースという信念を持って、資本主義社会における生産手段の自由化を考えた。そのすべては、「社会に参加しなくても自由にできるような生産と研究の手段が欲しい」ということだった。
そして、資本主義社会における「疎外」について、「いじめを解決する」という理想を信じ、その理想はすべて「他人の自由を制限しない最大限の自由」ということに根差していた。
まさにそれが昔の僕であり、そのすべては間違っていた。その理由は、自由が間違っているからだ。
正しいのは平和と平等である。
学校教育は必ずしも間違いではない。これ以上は、学校教育の世界に戻るしかない。それによって、ようやくみんなと同じまともなことが分かる。僕が分からないのは、学校教育を否定しすぎたせいである。
僕自身の自由な人生と独自の研究活動は、ここで終わった。
あとは、量子力学を学べば分かる。
なぜなら、昔の僕は、量子力学的に宇宙と存在を考えただけだからだ。
量子力学のように、すべてを「観測者による観測」であると考えて、それを「視点」と呼び、さらにすべてを「状態と物体と法則は区別できない」と考え、それを「存在」と呼んだ。
さらに言えば、僕はその上で、フロイトの精神分析のように心理学を考えて、すべてを「意識」と考えた。その上で、「わたしが自由自在にその意識になれるもの」を考え、「意識のトレース」を行った。
そしてさらに、僕はブッダのように「意識の在り方」を分析するとともに、「わたしがなれるものは、わたしが今なっているものであり、わたしがなれる可能性は、わたしの今ここにある自分自身の実存である」とか、「自分自身が確かにあるということが、どのような暗闇においても自分自身の確かな灯かりとなる」という、まるでキルケゴールのような、新しい宗教の思想のようなことを考えた。
それらすべて、僕自身の考えた「独自の量子力学」だった。すなわち、量子力学のように考えれば、昔の僕は誰でもできる。