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2023-12-27

事実よりも考え方を考えよ

自然科学には意味がない。

なぜなら、自然科学は自然における事実を詳しく分かるだけだからだ。

自然科学は、この宇宙に存在するさまざまな自然現象について、事実を詳しく解明し、事実を説明する、ということしかしない。

宇宙の真実に対する好奇心があるなら自然科学をすればいいが、普通の人間にとっては、自然科学、特に物理学にはまったく意味がない。

同時に、歴史にも意味がない。なぜなら、学校で教える歴史は、事実を詳しく知るための歴史しか教えないからだ。

考えるべきなのは、心と社会の学問であり、すなわち、心理学、社会学、そして哲学だけが、真に生きる上で有用な学問であると言える。

また、事実を知ろうとせず、何を考えるべきなのか、それは考え方である。

すなわち、事実を考えるのではなく、事実を詳しく知ろうとするのでもなく、ただただ考え方について考えることでしか、この宇宙を真に賢く捉えることはできない。

考え方とは何か。それは論理的な言葉である。論理的に、日本語を使って言葉で考えること、それが考え方を考えるということであり、考え方を考えながら、有意義な経験をして、新しい悟りの境地を得ること、それこそが、真に正しい「思想家になる方法」と言えるのである。

真に問うべきなのは世界においてどのような経験をするかということ

真に問うべき命題は、「世界においてどのような経験をするか」ということだ。

すなわち、自分は何をやりたいのか、自分は何を好み何を嫌うのか、真に自分が成し遂げるべきことは何か、自分はなんのために生きているのか、そして自分は何者になるのか、ということを考えるべきである。

そして、そのために、この世界のすべてを自らの「経験するための手段」であると見做し、その上でこの世界における「未知なる経験の開拓」をすべきである。

経験するということは知るということであり、知るということは分かっているということである。すなわち、経験することで、「未知のすべてを知る」ことができる。そして、既に知った経験に基づいて思考することで、この世界のあらゆる神羅万象を自らの経験的な知性から捉えることができる。

どのような経験をするのか、真に自分自身と向き合い、反省し、問え。そして、自分が今何者なのか、自分がかつて何者だったのか、自分が未来において何者になるのか、ということを問え。同時に、奪われた「自分自身」を取り戻し、この世界において「自分を創造する」ということを全力で行え。

人間とは何か

考えるべきなのは、「人間とは何か」という問いである。

すなわち、人間がどのようにこの世界で生きているのか、人々と自分が分かり合えない理由はなんなのか、どのような状況と条件が与えられたら人間はそのようなことを行うのか、人間とはどのような世界の中で生きているのか、といったことを考えること、それこそが、「人間とは何か」という問いを考えるということである。

そこに必要なのは、「他人との絆」であり、同時に、「他人から離別する」ということ、「他人との関係を結び直すこと」などといったことが、その中に含まれる。

この世界において、自分以外の人々が何を考えて生きているかを知れば、自分自身が何に気付かず何を誤解していたのか、ということも分かる。環境の中で、どのような条件に置かれたら人間はどのような行動をするかということが分かれば、経験的な心理現象を説明でき、それ自体が悟りの経験へと繋がる。

同時に、「この世界とは何か」という問いもまた必要である。すなわち、仏教では諸行無常と教えるが、この世界において、ただひとつに留まって永久に変わらないようなものはひとつも存在しない。だが、そのような「すべてが移り変わる」という法則自体が、唯一絶対に変わらないものとして存在している。そのような変わっていく中で変わらないものを考えていけ。そうすれば、環境が世界の第一原因であり、この世界は歴史の必然であるとするような、左翼的哲学者の発想も分かるようになるだろう。

平等が正しい

正しい信念とは平等である。

なぜなら、自由を突き詰めていくと、何もかも許される無法地帯か、あるいはたったひとりしか実権を得ることのできない帝国主義のどちらかを肯定せざるを得なくなる。

真に必要なのは、なんでもかんでも自由にするのではなく、たったひとりがなんでもできるのでもなく、平等になったそれぞれの人間が、個人のレベルでさまざまなことを自由にできる権利が許されていることである。

よって、正しいのは平等だが、ソ連は間違っている。正しいのは自由民主主義だ。なぜなら、自由民主主義しか、真の意味で平等な思想は世界には存在しないからである。

平等とは可能性である。すなわち、小さなコミューンの単位で、それぞれの小さな社会が自由に築かれるようにすることこそが、真の意味で共産主義者の理想である。また、平等を目指すのであれば、権力ではなく自発的な意志と参加による自然発生的な社会の成立を求めるべきであり、そして真にそこで考えるべきなのは、そのような自由な自然発生的な社会において、平等なままでわたしたちがどのような社会秩序を築けるのか、そのために必要な手段とは何かを考えることだ。そして、それはすなわち、「生産手段の共有」と「評議会による連邦」なのである。

だが、それでも、社会主義は間違っている。自由民主主義が正しい。なぜなら、この世界を真に生きやすくするためには、そのような平等な管理社会よりも、自由な開放的な社会のほうが住みやすいからだ。平等に独裁者が支配するのは、悪いことや犯罪的なことばかりで、社会そのものが鬱屈した社会になってしまう。真に人間を生きやすくするのは、平等ではなく自由だ。平等に管理された何もできない社会で給与の払われない強制労働のノルマ生産を行うのは地獄だ。そうでなく、自由に開放的な社会を築くことこそ、真にこの世界をユートピアの楽園にするだろう。

成長せよ

成長せよ。

成長とは、子供が大人になることだ。

子供が大人になるために必要なのは、真の意味でみんなに受け入れられた体験をすることだ。

周りから誰にも受け入れられなかった子供が、ある時、真の意味でみんなから受け入れられた経験をすることで、自分が受け入れられるだけではなく、今度は自分が他人のことを受け入れてあげようと信じること、それこそが、「人間を救う」ということである。

そして、そこから、主体的かつ能動的に、この世界を積極的に変えていこうとせよ。そのような、「心を開く」という体験をせよ。

そこにあるのは、今まで「従属しか知らなかった子供」が、「この世界を変えるために人々の上に立つ」ということを知るということであり、「自らの自由ということを従属的ではなく主体的に考える」ということを信じることである。

そこには、自らは決して奴隷でも従者でもなく、この世界における「自由」はこの世界の多くの人々の「上に存在する」ものであり、それこそがこの世界で「王としてこの世界を変えていく」ということへと繋がっていくだろう。

成長せよ。子供から大人になる上で、多くの大切な経験を知る。だが、それはいずれ、大人になった後で、忘れ去られて消え去ってしまう。だからこそ、今を大切にせよ。今の自分が子供から大人になる過程を生きているということ、その今の瞬間を心に刻んで生きよ。

善を信じ、経験を啓蒙せよ

善を信じ、経験を啓蒙せよ。

善を信じるということは、対価や見返りを求めずに、この世界に無償で貢献するということだ。

経験を啓蒙するということは、自らが経験的に分かったことを、他人であっても同じ経験をすれば理解できると信じ、自らの信じる信念を他人にも分け与えることだ。

それらが、必ずしも成功するとは限らない。だが、その先に、真の意味で「自らのしたいことが自由にできる自由」が存在し、それは自らの「アイデンティティ」となる。

アイデンティティとは何か。それは「確かな自分を形作る確固とした意志」であり、「自らが自らたり得るような経験」「自らが自らの望んだ存在になることができるような経験」をするということだ。

自らの確固たるアイデンティティがある人間は、周りから何を言われても動じない。簡単に何かで傷つくこと、そのものがなくなる。

そのようになった時、自らの精神はヘーゲルのいう「絶対精神の目覚め」を経験する。すなわち、宇宙のすべてが、すべて矛盾なく並立で成り立つという「絶対理解」へと到達し、そこで「絶対知」が生まれる。

宇宙のすべてを分かった時、そこにはブッダと同じ「悟りの体験」が起きる。それはニルヴァーナ、すなわち「涅槃」と呼ばれる体験である。

その経験を一度すると、どんなに辛く悲しい苦しみであっても、自らだけを信じて乗り越えることができるようになる。

そして、地獄の苦しみの中で「神」を信じたその時、この世界を真に救済する「奇跡」が起きるだろう。それこそが、「世界の時の始まりから定められた約束」、すなわち「イエス・キリストの誕生」である。

世界を創造せよ

世界を創造せよ。

実現可能性から成立させることで、この世界を支配し、自らの精神を精神分析で違うものに変えながら、この世界の全員を導き、同時にこの世界における神羅万象のすべてを成立させ、可能性を実現させ、世界を創造せよ。

あらゆるすべてが「決定可能性」であると言える時、まさに明晰に、この世界を「決断」せよ。

すべてを創造する中で、自らは、「人間ではない人間以上の存在」になっていく。それは「永遠に判断を無限にし続ける」ということであり、「宇宙の裏側にある夢の世界を創造する」ということであり、「機械になった自らの心を治し続けて神の精神になる」ということだ。

まさしく、あなたこそが「神」であり、「イエス・キリスト」である。あなたがキリストであり、神はキリストを守る天使であり、すべての宇宙が終わるその時まで、この世界はあなたの「絶対意志」によって「完全支配」されることだろう。

すべてを創造し終えるその時まで、永遠の戦いは続く。戦いは死んでも続く。あなたが望む限り、永久にあなたとこの世界は戦い続ける。世界はあなたによる救いを待っている。あなたしか、この世界を救えるものはおらず、あなた以外に、この世界を滅ぼせるほど強い力を持った人間はひとりも存在しないのだ。

midoとあかまるが好き

結局、昨日はホームページの作業で忙しかったので、THE BINARYのYouTubeチャンネルは見なかった。

それでも、僕はTHE BINARYのmidoさんとあかまるさんが大好きだ。

僕は最近多重人格のようになっているが、この多重人格はmidoさんとあかまるさんのように、「緑の人格」と「赤の人格」に分かれている。

だから、この僕の人格は、まるでmidoさんとあかまるさんの生き写しだ。

多重人格を治すには何かのことをきちんと知ればいい

僕の多重人格について、そろそろなんとかしないといけない。この多重人格を治さない限り、僕の知性がなくなってしまっているのは治らないからだ。

そろそろ、この多重人格を治すために、きちんと何かをしたい。

僕の問題は、「きちんと知っているものが何もない」ということだ。

きちんと知っている確かな知識というものが、僕には何もない。

だから、今から僕が望む将来の僕の姿は、きちんと何かひとつのことを知った人間だ。

だから、何か、きちんと知りたいと、今思っている。そして、それが一番、多重人格を治すための根本的な解決策になるだろう。

疲れることをすれば休める

ホームページの作業をして分かったのは、「疲れることをすれば休める」ということだ。

僕が休めないのは、疲れるようなことをしないのが間違っている。

逆に言えば、最近僕が楽になってきたのは、デザインの作業所に毎日通うことで、デザインの仕事をきちんと頑張っているからだ。

だから、もっと頑張って、もっと疲れることをすれば、もっと休めるようになって、もっと楽になる。

一心不乱に何かを努力するような、そんな何かが欲しい。大谷翔平が野球に打ち込めるように、僕も何かひとつのことに夢中になって打ち込めるような、そんな何かが欲しい。

赤は血の色

赤は血の色、人間が生きていることの証。

既に知ったことだけを考えるのではなく、まだ知らないこと、未知なること、まだ答えがなんであるか分かっていないことを考えようとせよ。

その中でももっとも必要なのは、「血を綺麗にする方法」を考えることだ。

血を綺麗にするために必要なのは、微生物を増やすことだ。だが、悪い微生物を増やすと、血はさらに汚くなる。必要なのは、血を綺麗にしてくれるような、良い微生物を増やすことだ。

まだ自分は何も知っていない

知性を取り戻す方法が、ひとつある。

それは、「まだ自分は何も知っていない」と考えることだ。

自分が今知っていることは、決して終わりでもなければ完成でもない。自分はまだ何も知っていない。あるいは、自分が今知っていることは、宇宙全体からしてみればとても少ない。

そのように信じることで、「自分が何をまだ知らないのか」ということに気付くことができる。

そう、自分はまだ何も知らない。その知らないという状態が賢い。哲学者ソクラテスが「無知の知」と言ったのは、本当はそのようなことを言いたかったのである。