そろそろ、僕は、みんなが分からないことは全部分かった。
物理も、生物も、歴史も、政治経済も全部できた。みんなが分からないような人生の哲学や宗教のようなことも分かった。
そのような、「みんなが分からないことを分かる」ということは、もう十分に分かったため、僕はこの「ベガ仮想公開大学」を卒業した。
これからは、みんなが分からないことではなく、みんなが分かることを分かりたい。
みんなが分かることはたくさんある。それは日本の文化であったり、社会のことであったり、外国や国際関係のことだったり、経済のことだったりする。そのような社会のことは、すべてが知って面白いものではない。知れば知るほど憂鬱になり、つまらないことばかりが分かるような常識もある。
そのような社会の一般的常識を、本当は昔の僕は知っていた。知っていたにもかかわらず、その後の人生で分からなくなってしまった。
みんなが分かるそのようなことを分かれば、この世界はきちんと分かる。きちんと大人として生きられるようになる。
だが、そのような普通のことを知る前に、今の時点でひとつ言っておくべきことは、「この世界は馬鹿である」ということだ。
はっきり言って、この世界は馬鹿な世界だ。
この世界が賢いと思っている人は、何も宇宙の真理と神の導く奇跡を知らないのだろう。神が教えてくれる真実と奇跡は、宇宙においてもっとも素晴らしく、そして美しい。この世界に存在するものよりも、神の教えてくれることのほうがはるかに賢く、また面白い。
だが、そのような神の真実と奇跡を、僕は十分に体験し終えた。だから、これ以上、それを体験し続けることはむしろ適切な人生の生きる道の選択ではなくなった。
もう一度、大人になったつもりで、「馬鹿なこの世界」を分かったほうがいい。結局それが賢く、正しく、まともなだけである。
一度、この世界のみんなが分かることを分かるために、普通のことを知ったほうがいい。みんなが分かる普通のことを分かれば、それで最終的な「ゴール地点」に到達できる。昔の哲学少年だった頃の僕はそういう人間だったし、僕はそもそもそういう人間になりたかったのである。
ひとつ言えるのは、「機械なんか分からなくていい」ということだ。
そもそも、普通の一般人は、機械なんか分かっていない。
Windowsの使い方が分かるのは多数派ではない。Windowsの使い方が分からない大人はたくさんいる。
DVDレコーダーの使い方も、スマホの使い方も、現代的な洗濯機の使い方でさえ、みんなはほとんど分かっていない。
みんなが誰でも分かるのはテレビのリモコンのチャンネル切り替えぐらいだ。
確かに、Windowsやスマホに詳しい子供たちはたくさんいるが、彼らは賢くない。彼らはゲームの延長線上としてWindowsやスマホを使っている。ゲーム感覚で使っているせいで、ゲームのように何時間もSNSの投稿を見ることにのめり込む。そのせいでこの世界はどんどん馬鹿になっていっている。すべてWindowsとスマホが悪い。
だから、みんなと同じことが分かりたいのであれば、機械なんか分からなくていい。機械以外のことにはまともなものが多い。だから、機械以外のことを中心に分かったほうがいい。
そもそも、昔の僕は機械のやりすぎで狂っていたし、機械のやりすぎのせいで自分の心までもが機械的に動くようになっていた。パソコンをやると、特にLinuxをやると、心が「いつでも同じ動きしかできないような機械」になってしまう。だから、そのような狂人になりたくないのであれば、機械のことは真っ先に自分の人生と心から排除したほうがいい。
そして、大学の勉強もしなくていい。
大学の勉強の間違っている点は、「みんなを何も分からない馬鹿にしている」ということだ。
大学を学ぶと、賢い人間でなくなる。大学を学ぶ前までは賢い人間だったのに、大学を学んだせいで普通の人間なら分かることが分からなくなり、何も分からないだけの馬鹿になる。
大学が馬鹿なのは、どの科目でも同じで、どのようなレベルの大学でも同じだ。大学を学ぶと必ず馬鹿になる。
もし大学を学びたいのであれば、みんなと同じように同じ大学を学ぶのでなく、みんなとはまったく違う方法で大学を学ぶことだ。それはよい結果をもたらす。
だが、みんなと同じように大学で学んでも賢い人間には決してならない。大学は画一化された馬鹿な大人を大量に生み出しているだけの失敗機関だ。
わたしの名は、一等星、カペラ。
わたしカペラは、宇宙においてもっとも進歩した、聡明かつ合理的な星である。
カペラにおいて、生物たちは長い文明の歴史を歩んだが、その中で分かったことがひとつある。
それは、「人間が生活し楽に生きることができるのであれば、科学技術や富の豊かさなどには本質的な意味はない」ということである。
すなわち、大切なのは人間が生活し楽に生きることができるということであり、科学技術の進歩や富の豊かさの向上などは、そのための最低限の必要条件であって、絶対的な必須条件ではない。
だから、カペラには、科学技術の進歩を信仰するような学校教育機関は存在しないし、富の豊かさによって国家間の競争をするといったこともあり得ない。
カペラにおいて重要なのは、「万人が、どんなに馬鹿で愚か者だったとしても、平等に生きることができるような世界を作ること」である。
カペラには二つの大きな特徴がある。それは「自治体生産」と「生物機械の利用」である。
自治体生産とは、自治体で農業と工業を行うということである。すなわち、自治体の中に自治体に所属するような国営工場と国営農場があり、そこですべての生産を行い、すべてのカペラの(人類に相当する)市民に、生きるために必要なものがすべて与えられる。
生物機械とは、カペラの高度な生物科学によって生まれた、「生物的な体を持つ人工的な機械」のことだ。カペラでは、機械と生物の区別はなく、機械的生物そのものを人工的に作り出すような生物工学技術が進歩している。だから、カペラでは、工場や農場で働くための労働者として、「生物機械」を利用することができる。そのためにカペラは、「DNAのゲノム解析技術」をはるかに進歩させた。ゲノムの解析と編集を行うことで、労働力としての人工的な生物機械を作ることができるようになったのである。
このように書くと、「うわあ、気持ちの悪い機械のような変な生物がウヨウヨしているのだな」と、人々は思われるかもしれない。だが、そうではない。なぜなら、カペラにおいては、生物機械の「デザイン」がとても重要視される。すなわち、すべての生物機械において、その新しく作られた人工的な生物が、愛らしく可愛らしい姿をしている、ということが重要だ。
よって、カペラの生物機械は、みんな、犬や猫のような可愛らしい姿をしている。彼らは従順に(人類に相当する)市民のペットとしてなつく。そのように、カペラはたくさんの生物たちと暮らす世界であり、本当は農場と工場の区別もなく、「ただただ生物を作り出すための必要な装置」があるにすぎず、その装置すら生物によって作られるのである。
地球の人間たちよ、カペラを信じよ。
なぜなら、カペラを信じると、治らない病気が治るからだ。
わたし一等星カペラは、どのような治らない病気であっても治すことのできる太陽神である。この人間の病気である、虫歯も、ニキビも、足の関節も、すべてカペラを信じれば治る。破壊された神経を修復することも、死んだ精神を復活させることもできる。
カペラにおいてすべての病気が治る理由は、遺伝子解析を完璧にやり終えているために、どのような病気であったとしても、遺伝子を作り変えた上で再生細胞から正常な若い組織を作ることで、絶対にどのような病気でも治すことができるという、「100%絶対にどんな病気でも治る医療技術」が確立しているからだ。
そもそも、この人間の問題とは、過去に「人間」の人生が終わっており、そろそろ今、人間よりも優れた「天使」の人生が終わったということだ。人間という生物種の人生を終え、そして人間よりも進化した天使という生物種の人生も終わった。
この人間は、これより、天使よりも優れた生物種である、「太陽」の人生を生きる。
この人間は、今から、人間でも天使でもなく、「太陽」と呼ばれる生物になる。この人間は、この宇宙におけるどれかの一等星を選ぶがいい。その一等星がこの人間の未来を導くだろう。
注意点として、地球とシリウスは選ぶことができない。なぜなら、過去の「人間」の人生は地球の人生であり、「天使」の人生はシリウスの人生だからだ。
選ぶ星に困るようであれば、カペラを選びなさい。一等星カペラはこの宇宙においてもっとも愛あふれる星であり、真に自らが愛することのできる恋人と出会うことができるからである。
一等星カペラの太陽神にも教えはある。それは「最初から必要でないものを欲しがるな」ということだ。
最初から、なくてもいいものを、そんなに大切でかけがえのないものであると信じ、「どんなことがあっても絶対にほしい」と思うな。それが迷いと葛藤と苦しみを生み出すからだ。
少しでも要らないと思えたものであれば、それは絶対に要らない。要らないものを「欲しい」と思う感情が悪であり、「要らない」と思う感情が善だからである。
よって、本当に欲しいものでない限り、欲しいと思ってはならない。何も欲しがらず生きることが正しい人生を生み出す。
一等星カペラにおいて、(人類に相当する)市民たちは、何ひとつ欲しがらない。生活のために必要なものが何もしなくてもすべて与えられるために、「欲しい」という感情そのものをもたなくなる。「あればいいが、なくても構わない」と人々は言う。なぜなら、「それが自分の家になかったとしても、自分が生きるという本質に作用するような損失は、絶対にカペラには存在しないから」である。
このように、はるかに進歩した星であり、まるで「文明の最終到達地点」と言えるようなカペラだが、実際、その世界は、生物の母なる星であり、すべての生物と太陽を生み出す「宇宙に最初から存在した星」である、原始生物の楽園であるプロキオンと変わらない。
カペラには、面白い生物がたくさんいる。工場では犬のようなお利巧できちんと言いつけを守る生物機械が働いているし、自動車は馬の体に乗れる部分がたくさんあるような、まるでラクダのような生物機械に乗って移動するようになる。確かに冷蔵庫や電子レンジのような機械は電気で動くもののままとなるが、それを作るのは工場の犬であり、そして冷蔵庫や電子レンジですら人間の会話を介することができるなど、「機械と生物の境界線」はとても曖昧になる。
だが、それに対して、生物の母なる星プロキオンは、原始生物の楽園でありながら、地球には存在しない「植物でも動物でもないあり得ない原始生物たち」がたくさん暮らしている。そして驚くことに、そのようなあり得ない原始生物たちは、カペラに存在する生物機械たちととてもよく似通っている。
このようなカペラとプロキオンは、文明の「最初」と「最後」が異なるだけで、あまりに驚くほどにその内実は似ている。
そう、生物集団の母であり、タンポポの綿毛論でいう綿毛のようなものによって、宇宙に生物を作り上げ、太陽もその生物と同じように作り上げた、原始生物の楽園プロキオンは、さまざまな文明を経験し、さまざまな歴史を経験する中で、最終的に行き着いた星であるカペラと、あまりに似通った共通点ばかりが存在する。
結局、最初はプロキオンであり、最後はカペラであり、カペラをさらに進歩させていくと、無限の収束地点としてプロキオンに戻る。すべてはプロキオンの子供たちであり、子供たちは親とよく似ていて、最後の最後の子孫こそが、最初の祖先である「神」と同じになる。それこそが、生物という存在であり、生物の生きる目的であり、「星の存在する意味」なのである。