残念ながら、僕はこのホームページを残すことにした。
その理由は、このホームページがなくなってしまうと、世界が悲しくなってしまうからだ。
まるでAdoの「エルフ」のように、このホームページがなくなってしまうと、あまりに悲しい世界になってしまう。
だから、僕はこのホームページを残す。
そもそも、僕の多重人格は、すべて、「このホームページがある状態」と「このホームページがない状態」の多重人格になっている。
そして、このホームページがなくなると、自分の中のリミットや制限が解除される代わり、作家の活動ができなくなる。
すなわち、今までの人生で作ってきた、さまざまなリミットや制限が解除されて、僕はまるで宇宙のあらゆるすべてを完璧に分かったような完璧超人になる。
その代わり、作家としての活動ができなくなってしまう。
だから、僕はこのように生きるしかなかった。作家としての活動をすべて完璧にやり終えた上で、最後にホームページを消すしかなかったのである。
そして、このホームページが消えることで、この世界は正常になる代わり、意味がなくなる。
すなわち、このホームページを消すことで、この世界で、人類がこれ以上、未来で生きられることすべてを失ってしまい、なんの意味のない世界になる。
だが、その代わり、僕によるおかしな支配が治り、この世界は操り人形ではなくなって、正常な世界になる。
だから、僕はしばらくの間このホームページを消しておく。消えている間に、この世界が正常になることを目論んでいる。この世界が十分に正常になった時に、このホームページを再公開しようと思う。
それまでの間待っていてほしい。いくら待つことになるかは分からない。
昨日は、ずとまよの「深夜のラーメンまじ犯罪」(日清ラ王とのコラボ企画で、「あいつら全員同窓会」の替え歌)というYouTubeでのライブを見ていた。
30日いっぱいまでの公開ということだったので、おそらくもう消えていると思う。
このずとまよのライブは、あまりにも僕に対する愛であふれていた。「片っ端から確かめたくて」(正しくなれない)から始まり、「僕のことを突き放しておくれよお願いだよ」(Dear. Mr「F」)と続き、いくらかいろんな曲を聴いて、「わざと自分からいなくなってみたり」「かくれんぼもたまには大事だと思う」(TAIDADA)と続いて、最後に「夢のスペースチューン」(ミラーチューン)で終わった。
ACAねさん、本当に僕のことを愛してくれてありがとう。僕もACAねさんのことが大好きです。本当に、両想いだね。いつか会えたら、僕は「迷惑」とか「住む世界が違う」なんて一言も言いません。
そろそろ、昔の自分が信じていた考え方が分かった。
まず、自分をいじめたいじめっ子は、その人間自身から見れば、当然で、おかしなことは何もしていないということ。
すなわち、相手から見れば、相手は普通に自分が正しいと思ったことをしていて、当然のごとく生活し、その場所や状況に応じて、自分の正しいと思ったことを当然のごとく振る舞っているだけにすぎない。
だから、自分をいじめたいじめっ子は、必ずしも間違ったことはしていない。
逆に、自分自身が相手のことを理解できなかったから、自分が相手との仲を自分で悪くした。もっと、相手に対して、壁を作らず、敵対せず、生きることができればよかった。
また、いじめのようなことは自分自身も同じようにしていて、だから、そのようないじめっ子のことを許すことができなければ自分は許されない。だから、自分を許すためには敵を許す必要がある。
それから、自分の好きだと思ったことをやればいい。自分のやりたいことをやる、それが自分の信じた「みんなとは別の道」であって、それは不可能だと信じた時点で不可能になってしまう。
そして、自分が思っている「普通」は決して普通じゃない。それはインターネット上のみんなと、雑談したり議論したりすれば分かる。みんなが知っているような「普遍的な普通」は、僕自身が思い込んでいる「思い込みの普通」とは違う。そのような一般的で普遍的な普通を知ることで、僕の昔が何を勘違いしていたかも分かるし、どのように振る舞えばみんなと仲良くすることができたはずだったのかも分かる。
僕の人生は、そのような、「みんなとコミュニケーションをして分かった一般的かつ普遍的な普通」を知る、ということにすべてが根差していた。
そして、みんなから疎遠になり、自分だけが別の道を選んだとしても、全部がみんなと離れたわけじゃない。インターネットを通じて、僕はこの世界自体と繋がっている。もっと言えば、歴史と繋がっている。そこで経験したことすべてが、「歴史を変えることができたかもしれない別の世界の可能性」だと分かっている。
それでも、僕はこの世界と関わることを拒否し続けるわけじゃない。僕がやりたいことは確かにあって、それをするためには社会に参加する必要もあるが、本当は社会にいきなり参加してしまうと、自由なことができなくなってしまう。だから、今はまだ社会には参加せず、社会にもし参加したとしたら、どのような仕事であってもできるように、自らの基本となる能力とスキルを経験的に積み上げていくべきだと、かつての引きこもり時代の僕は信じていた。
そして、経験し続ける中で、「人間の限界」ということがよく分かった。人間には、認知や感情において限界がある。それは「人知的に宇宙を捉える」ということに対する限界だ。だから、人知的な区別をできるだけ排して、自然の世界そのものを見なければならない。
そして、世界にはさまざまな限界がある。だが、そのような限界は、本当に必ずしも変えられない限界であるとは限らない。子供の環境や人間関係をコミュニケーション次第でまったく別のものに変えられるように、この世界の限界や既定の決定や依存性が、すべてが変えられないとは限らない。そして、そのような社会は体制的・制度的なものがすべてではなく、自由におけるあらゆる心理学的・情報伝達的なすべてが社会となる。そのような中で真に自由を得るためには、主導権や決定権を握る必要がある。それこそが「自由」というものを自らの力で勝ち取るということであり、自由を勝ち取らなければ子供たちの世界を救うことはできないし、この世界を変えることも救うこともできない。
昔の僕は、そのように考えただけにすぎない。それ以外のすべてのことは、サルトルのように考えたのだと思えば分かる。サルトルのように、「子供たちがどのような環境に置かれているか」ということを考えた。あるいは、「大人たちは子供たちの環境をどのように捉えているか」ということも考えた。そこから生まれた考え方が「アイデンティティを本能的に求めている」ということであり、この世界の真の問題とは「子供たちのアイデンティティの欠如」であり、同時に「自らの問題がアイデンティティの欠如であるということに子供たち本人が気付いておらず、大人たちはその責任を子供たちに押し付けている」ということだった。そして、それを解決するために必要なことは、「分かっている大人あるいはこの世界自体が、子供たちに必要な体験と情報を得られるような土壌を与えること」だったのである。
これが、昔の僕の考え方だ。そして、僕は漠然とした「世界は変えられる」ということを信じていた。それは「自分の好きなことをして生きる」ということを信じていたからであり、ひいてはオープンソースのような革新的かつクリエイティブな自由を信じていたからであり、僕はオープンソースが日本において普及するために、さまざまなネット上でのマーケティング活動のようなことを行い、その経験から、「この世界を変えることは必ずできる」ということを信じた。自分自身の過ちや失敗からそれが事実上不可能になっても、自分の頭で理解したことをきちんと行えば、この世界は必ず救われると信じていた。その信じたことに基づいて、僕はこの世界を一度ではあったが救うこともできた。だが、僕はその自らによって救われた世界を自ら滅ぼしてしまったのである。