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2024-03-25

楽しさが怖い

僕の病気の本質は、「楽しさが怖い」ということだ。

ゲームやインターネットなどで、いじめのような悪い楽しさしか経験しなかったことで、僕はそのような「悪い楽しさ」が復活するのを恐れている。

だから、生活の中や、この世界から、「楽しい」という感情をすべて消している。

僕は文章を書いていると、高揚感と臨場感を得られて、過度に覚醒状態になり、疲れを感じなくなる。だが、文章を書くのをやめると、その時点で禁断症状が襲ってしまい、まるで倒れてしまうかのような疲れを感じる。

この疲れをできるだけ感じないようにするためには、「楽しい」という感情を排除しなければならない。なぜなら、このような状況で「悪い楽しさ」を感じると、禁断症状が際限なく酷くなってしまう。だから、すべての「楽しい」という感情を排除して、僕はできるだけ疲れを感じないようにしている。

そもそも、昔のこの世界が悪かった。昔のこの世界は、いじめのような楽しさばかりの世界であり、世間を少し歩けば誰かからいじめられるような、「悪い楽しさ」しかない世界だった。

僕自身の行動も悪かった。世界を戦争と滅亡に導くような悪い楽しさを感じながら、かつての僕は文章の中に「愛」や「自由」という言葉で書いていたため、そのような戦争や滅亡のおかしな戦いが、そのまま、純粋な楽しさと結びついてしまった。すなわち、異常な楽しさが正常な楽しさと関連付いてしまったから、そのような楽しさを恐れるようになった。

僕が歩き回るのも、そのような中で正常な楽しさを感じたいと、本能的に望んでいるからだ。すべての楽しさを排除することは難しく、本能的に「走る」という楽しさを感じたいという心理が、「歩き回る」という異常行動に繋がっている。これは僕が小学校高学年の時に1キロメートルを走る駅伝の大会に出たことがあり、中学校の剣道部の持久走で、1年生でありながら3年生を追い抜いて1位になるような、そのような「走りたい」という感情を忘れられないからだ。足を怪我して走ることができなくなった今でも、その楽しさが忘れられず、疲れをいくら感じていてもじっとしていることができない。

そのように、僕は「楽しさ」という感情を感じることができなくなっておかしくなった。僕は文章に「自由な愛」という言葉をよく書いていたが、これはインターネットで経験したエロの経験であり、すなわち、みんなとネット上で仮想世界で乱交するような経験だった。そしてそのエロ表現は普通の表現だけではなく、レイプのような異常な表現も多く見られた。そのような異常な経験を「自由な愛」と表現し、世界を滅ぼす革命戦争をたったひとり起こしながら、その文章でそのような自由な愛を完璧に書いていた。その時の、戦いの高揚感と臨場感が忘れられなくなった。その結果、僕は「楽しい」とか「自由」とか「愛」という感情そのものに恐怖を抱き、自らの心から「楽しい」という感情を排除するようになった。

結局何が答えかというと、もっと、普通の楽しいことを楽しいと感じるようにしたほうがいい。いじめのような楽しさは全部要らない。この世界も信じないほうがいい。この世界は最近、テレビやマスコミやゲームやインターネットのせいで、どんどん「悪い楽しさ」になっている。そのような悪い楽しさを感じると、僕は禁断症状が出た時に疲れや辛さが無限に増幅してしまう。だから、書くのをいったんやめるだけではなく、悪い楽しさではなく「普通の楽しさ」を感じるようにすれば、僕の病気は治る。

ドイツは嫌い

こう見えて、本当は僕はドイツは嫌いだ。

なぜなら、ドイツ人は、支配者階級のような人種であり、奴隷や労働者やマイノリティに対して「命令」するからである。

白人は、「命令」し、「支配」し、「指導」する。だから僕は白人は嫌いだし、ドイツ人も嫌いだ。

今から、もっと日本のことを知ろうと思う。日本は和やかで平等な人種であり、みんなで同じ立場で協力し、一致団結することを好む。だから、日本人のほうがはるかに良い人種だ。