僕は、あまりに魂を殺そうとしすぎている。殺すのではなく、魂を救えばいい。
魂とは地球である。
そもそも、異常な足の精神は、すべてこの世界と繋がっているだけであり、それは魂と繋がっているということである。
よって、僕は足の精神を治すことで、この世界そのものを治すことができる。
だが、僕はあまりに、精神を殺して治そうとしすぎている。間違っている。精神は救うべきなのである。
魂を救済した時、この世界も同時に救済される。また、いつもの希望あふれる、楽園の意味を分かった世界に戻る。
何かの部分を殺すならば、食べる部分を殺せ。
すべて、食べる部分が狂っている。それは虫歯のせいである。
食べる部分を殺すということは、すなわち血糖を殺すということだ。
そう、それだけで、僕の病気はすべて治る。すべて楽になる。
自由を信じよ。自由を人々に任せよ。
そもそも、支配者がいくら正しい社会を築こうとしたところで、そのような正しい社会はまったく正しくない。
人々の自由に任せよ。
その人間が決めたことに関して、ほかの人間がどれだけあれこれと言ったところで、最終的にはその人間の意志を尊重するべきである。
コミュニケーションは行うべきだが、強制や強要はすべきではない。正当な理由がないことについて、強制や強要の一切は許されるべきではない。
自分の持つ力、自分の持つ価値に気付け。
自分の持つ潜在的な力に気付くということは、すなわち、可能性を発揮するということだ。
自らの中に眠っていた、本当の力に気付くということこそ、真に「正しい人生を生きる」ということである。
考えているだけでは分からないこともある。自分の持つ真の可能性を否定するな。自分自身のことを過小評価する人間のことを、神は愚か者と言う。なぜなら、愚か者の人生はすべてが「過小評価」によって起きているからである。
自らが大したことのできない人間だという烙印を押されてしまえば、それで人生は試合終了だ。そのような人生では絶対にいけない。どこの敗者にも、それ以外居ない。
勝者になるために必要なのは、自分の持つ可能性、自分の持つ価値、自分の持つ潜在的な能力に気付くことだ。そしてそれだけで、人生は必ず成功する。
ニュートンは神ではない。ニュートンは人間だ。
ニュートンは、わたしたちと同じ人間だ。
同じ人間の分かったことであるならば、同じだけ学び、同じだけ考えれば、ニュートンの分かったことは、わたしたちほかの人間であったとしても、同じように分かるはずだ。
なぜ、ニュートンが分かったことが、同じ人間であるはずのあなたには分からないと言えるのか。
ニュートンの分かったことを、わたしたちが分からないとするのは、完全に間違った考え方だ。
人間の分かることは、同じ人間であれば誰だって分かる。ニュートンだけではない。ビル・ゲイツやリーナス・トーバルズの実現したことは、同じことを行えばわたしたちであっても、同じようにできるはずだ。
確かに、環境的な要因は違うだろう。だが、違うのは環境的要因だけだ。わたしたちが思っている以上にわたしたちは同じだ。ニュートンとまったく同じ環境に置かれたとしたら、わたしたちはニュートンとまったく同じように考え、まったく同じ発見をするだろう。誰であっても、同じ環境に置かれるだけでそうなるだろう。
だが、実際のところ、「環境」という言葉にはさまざまな裏の意味が含まれている。だが、これはむしろ、「人生をどのように生きているか」という言葉に直したほうが正しい。すなわち、「どのような人格を持っているか」ということだが、この人格には数種類しかパターンが存在しない。多くの場合、哲学者、政治家、神、そして子供ぐらいしか存在しない。そして、同じ人格を持つ人間は本当に同じことを同じように分かるのだ。
そして、ニュートンの分かったことも、ほかの偉人の分かったことも、すべて分かるとするならば、全人類のすべてを分かることもまた可能である。この命題は正しい。なぜなら、全人類の分かったことすべてなど少ないからだ。それぞれの人間は、そんなに多くのことを独自に分かっていない。なぜなら、すべての人間は、「わたしという人間と何も変わらない人間だから」である。自分と同じ人間しかいないのだから、自分さえ存在すればそれで分かる。
そして、真に発見するために必要なのは、「自分自身を知ること」である。自分自身がどのような人間であるか、ということが、考えたり発見したり経験したりする上で、もっとも大切な「裏切らない証拠」となる。どのような学問を学んでも、最後にはその学問それ自体が価値を失う。だが、「自分自身がどのような人間であるか」という学問については、決して価値を失わない。どれだけほかのすべてがゴミくずに化したとしても、自分自身だけは輝きを失わない。なぜなら、それこそが「生きる目的」だからだ。生きる目的とは、自分自身を知ることだ。唯一、それだけだ。
この世界のすべては、環境が違うだけだ。
さらに言えば、環境における、自らが置かれた「ほかとの関係性」が違うだけに過ぎない。
よって、遺伝子で人生は決まらない。ひとりだけで環境に存在する人間は少ない。ほとんどが、環境において、ほかの人間とどのような関係性を持っているか、ということに基づいて、人生も人格もすべてが決定される。
そして、この関係性は、決して良く考えられて築かれたものではない。適当かついいかげんに決まっている。
だが、この関係性の呪縛から逃れる方法がある。それは自由になること、あるいは神を信じることのどちらかだ。自由になるということは、孤独を選ぶということだ。孤独を選べば、100%自分の責任だけで人生を生きられる。そのすべては自分で決定できる。別の解決策は、神を信じることだ。神を信じれば、そのような環境における関係性すら、神が素晴らしい運命に変えてくれる。神が、あなたの関係性がもっとも正しい関係性になるように、環境そのものを与えてくれる。
そして、この世界のすべては、環境が違うだけだ。よって、「環境がどのように異なるのか」を考えれば、どんなことであっても理解することができる。そして、環境は、人格形成だけではなく、行動に対しても作用する。すなわち、「受動感情に基づく受動的な行動は、環境によって決定される」。これを「環境活動」と呼ぶ。どのような行動、たわいのないどうでもいいような行動であっても、すべては環境が決定する。
また、人間の「できること」や「やるべきこと」についても、同様に環境が決定する。この点で考えると、先ほど言ったような「自由になること」は誤りだ。なぜなら、自由においてはできることもやるべきことも何もないからだ。できることややるべきことが欲しいならば、自由を失う必要がある。そして、その時点で、100%自分の責任だけでは生きられなくなる。そう、何かをやりたいと願った段階で、関係性の呪縛から逃れることはできないのだ。
だが、よい方法がある。それは青春時代だけを自由に過ごし、大人になった段階でそのような自由すべてを経験し終えているかのように生きることだ。青春時代、自由において「環境とは何か」という問題を考え続ければ、哲学的な「人生における啓発の期間」を生きることができる。そして、青春が終わり、大人になれば、自由を失い、やりたいことやすべきことをやるようになる。その段階で、既に自由のすべては経験し終えているために、自由をもはや「必要としなくなる」。そう、自由を選んだ時、社会や世俗の多くを必要としなくなったのと同様に、自由を失った際に、自由そのものを必要としなくなる。
このような「必要としなくなる」という発想は、人生のどのような時代であっても役に立つ。もはや子供の友人や学校教育が必要ないならば、さっさと抜け出して別のことをやったほうがいい。青春で多くの人々と受容の愛を分かち合ったならば、そのような愛はなくても心の中にあり、友人のまったくいない場所であっても人々を愛した経験から、たったひとりで立ち上がることができる。すべてを経験から悟りきって、現実のすべてが必要なくなったならば、心の平安や安心が存在しなくても、最後までもっとも強い緊張感を保ったまま、ひとりで世界と戦える。すべてを経験し終えた人間は、何も見ず、聞かず、することがなかったとしても、誰よりも多くの仕事をこなすことができる。そう、これこそが、「必要としなくなる」という、人生において最大の真理だ。
そして、前提条件は多いかもしれないが、自分の分かったことはほかの誰であっても同様に分かる。
ここで、「同じ経験をする」ということ、「同じ環境に置かれる」ということが重要だ。
すなわち、同じ状況に置かれれば誰であっても同じことをするように、同じ人生をもし生きたとしたら、誰であっても同じように分かる。
必要なのは頭の賢さでもなければ、賢い経歴でもない。そのようなものは、宇宙においては一切必要ない。必要なのは、「自分が生きたのと同じような人生経験を得ること」である。
そして、それはすなわち、「自らが正しい人生を勝ち得た」ということを意味している。だが、なぜ勝ち得たのか。それはキリストの言っている言葉に従ったからである。
キリストは、聖書の中で、多くの正しい教えを述べている。その中でも重要なのが、「大きな門ではなく小さな門を選べ」という言葉だ。みんなが同じように歩みを進める大きな門は、大した道には繋がっていない。誰も歩み進もうとしない小さな門こそ、正しい道に繋がっている。その道を見出すものは稀だが、それは不可能ではない。なぜなら、キリストの言っている真実の道は、すべてそのような希少かつ正しい道だからだ。
よって、神を信じない人間には分からない。だが、キリストの教えの通り生きれば誰でも分かる。同時に、それは単なる教え通りの道ではない。その道では、「前提条件は確かに多いが、その前提条件さえクリアしてしまえば、誰であっても同様かつ容易にこの世界のすべての経験が分かるような、そのような人生を生きるための道」を得ることができるのだ。
そして、本当のことを言えば、そのような道を生きる必要すら存在しない。なぜなら、僕がここに、そのような人生で分かるべきすべてのことを記述したからである。この文書を読む人間は、そのようなキリストの教えとは無関係に、僕の言葉だけでこの宇宙のすべてを体験できる。その理由は、僕がまさしくそのような「希少かつ正しい道」を生きたからである。そして、その人生はここで終わりではなく、未来に向かって続いていくのである。
なぜ、キリストは、大きな道でなく、小さな道を選べと言ったのか。
それは、人と同じ経験をするのではなく、人と違う経験をしたほうがいいからだ。
はっきり言って、経験そのものが、良い面だけではなく悪い面を持っている。当たり前の正しい経験をした時点で、それ以外の多くの人間に目が向かなくなり、賢い人間が居ても気付くこと自体できなくなる。
そして、人と同じ経験ではなく、人と違う経験を広くたくさんしたほうが、はるかに「本来の経験の価値」を知ることができる。
悪い経験をたったひとつだけすることよりも、正しい経験をたくさんしたほうがいい。そして、その正しい経験とは、世間一般の言う「正しい経歴」ではまったくない。他人の経験とは違う、多くの人の経験しないところにあるさまざまな経験こそが「正しい経験」なのである。
そして、人々と同じ人間であるということは、すなわち「サタンのままである」ということを意味する。なぜなら、この世界にはサタンになるようにみんなを仕向けているような最悪の支配者しか居ないからだ。この世界で普通の人間と同じように生きているということそれだけで、必ずサタンになるようにこの世界はできている。
サタンから逃れるためには、「人々とはまったく別の道を選ぶこと」が必ず必要となる。はっきり言って、この世界は全部間違っている。この世界に存在するものは全否定しても構わない。それでも、自分のやりたいこと、生きるための努力、そして夢と希望といった「情熱」だけを信じて生きればいい。そこには、多くの人々の知り得ない「宇宙の本当の真実」がある。そう、それが、キリストの言った言葉の意味である。