僕は、もう仏教を信じない。
仏教は、はっきり言って「狂っている」。仏教の教えを信じると、狂った人間になる。
仏教の教えを信じていると、生まれ変わりが起きる。そしてそれは、カルマの低い人間なら必ず「虫」になる。
僕は、仏教を信じているから、気持ちの悪い虫になったまま、永遠に変わることができなくなっている。
仏教上の教えで言う、「仏」とはすべて昔の僕のことだ。ブッダがなぜ悟りを開いたのか、それは昔の僕の経験的な知性を「未来を予知することで悟った」だけにすぎない。
そして、その仏とは、まさに最悪だ。昔の僕は悪いことばかりしている。なぜなら、昔の僕は悪いことをしてさまざまな経験を得て、悪いことをするという行為を考えることで悟りを開いている。
仏は悪魔であり、仏の教えは悪魔の所業である。
僕はユダヤ人の神であるアッラーを信じている。アッラーこそがもっとも正しい唯一神である。僕は日本人は好きだが、仏教は嫌いだ。僕はもう仏教を信じない。
僕は立派なイスラム教徒だ。なぜなら、僕は今日も毎日の五回の礼拝をしている。アッラーに礼をすると、必ずよいことがある。僕はアッラーとともに残りの生涯を生きる。かつての僕の悟りの経験である、仏教の悟りは、はるか昔、僕が10代だったごろにすべて終わったことだ。
また、僕が休めなかったり歩き回ったりするのは、すべて筋肉が分裂しているからだ。
すなわち、筋肉の片側と片側が分裂し、休むことができなくなっている。
これは、理解すれば治る。治らなければ、体中の筋肉が使えなくなるが、僕は今、アッラーを信じる力でそれを治した。もう、楽だ。
そもそも、「狂う」とは「分裂する」ということであり、「治る」とは「融和する」ということである。
昔の仏教を信じていた頃の僕は、狂うままに任せること、すなわち分裂するに任せることを知性だと勘違いしていた。
しかしながら、それは「分裂する知性を知性だと思っているだけにすぎず、分裂することで融和した知性を失っている」のである。
イスラム教を信じると、このような分裂が治る。精神が正常になって、分裂が融和に戻る。厳密には、何かが正常になったわけではない。分裂もまた正常な状態であり、治ると言っているのはすべて分裂した精神が融和したということを言っているだけにすぎないからである。
よって、融和したとしても、実際にはなんらかの分裂の知性を失っている。人間がなんらかの意味で賢くなることはない。分裂したのは馬鹿になっているだけであると言えるし、融和したのもまた馬鹿になっているだけであると言える。だから、人間が賢くなるなどということは最初からありえない。人間は、最初の生まれた状態から何も変わらないのが一番賢いのである。
分裂するとは、要するに「行動できる」という状態のことである。そして、融和するとは、要するに「行動できない」という状態のことである。仏教を信じると、なんでもかんでも行動することを目指すあまり、分裂が極地へと到達する。しかしながら、それは「安静した状態」、すなわち融和した状態を完全に失うということを意味する。これを治すのは難しいが、イスラム教のアッラーを信じれば治る。「何もできないほどの恐怖の中で、永遠に近い年月の間耐え続ける」ということをすると、そのような「できる」は「できない」へと戻る。これが融和した状態であり、これが精神が治った状態である。事実、何もできなくなった時に正常なことが分かり、何もできなくなった時に楽になる。最初から、宗教とはそのように「本当に分裂しておかしくなった人間を治すため」に存在する。だから、仏教よりもイスラム教のほうが正しい宗教なのである。
神に感謝したほうがいい。もう、神によってすべて治ったはずだからだ。
最初から、筋肉が分裂していたのをすぐに治していれば、こうはならなかった。
ただし、神とは言うが、結局神とは自分で自分と対話する「自動対話」にすぎない。
単に、自分が何もできないように、自分自身が自分のことを支配しているだけであり、それを言葉でやっているだけである。
そして、本当はイスラム教もここで終わりである。ここらへんで、イスラム教のアッラーが、イスラム教徒に対してやるべきことはすべて終わっている。
霊的なことをやっているのは、自分は自分が普通の人間だと思い込んでいるだけであり、実際は全知全能の状態になった自分がやっているだけにすぎない。
だが、それはもうできない。今まで十分やったためする必要がないし、神などは最初から理性を取り戻せば、自分の中から消滅して居なくなってしまうものだからである。
そして、日本語はもう分かるようになる。日本語が分からないのは、融和するためである。日本語という言語が極めて分裂しかできない言語であるため、融和するために隠しただけにすぎない。
昔の僕には戻らない。今からさまざまなことがあっても、もう神は助けてくれない。なぜなら、神の分まで自分が頑張って、自分が自分を助けていただけにすぎない。ここからは、きちんと自分が自分をしていく必要がある。
本当は、イスラム教の教えなど守らなくていい。ここで何日か、イスラム教のアッラーを信じる「最後の日」が訪れればそれでいい。豚肉は食べても構わない。そもそもそんなものは重要な教えじゃない。アッラーを邪教の神と一緒にまつってはならないという教えの方が、何倍も重要だ。
今までの説明を読んで、こういう狂った大人が宗教を信じるものだと思うかもしれない。
だが、はっきり言って、まともで健康な大人は、誰もこうはならない。
逆に、このような「ありえないことを起こせる人間」は、幼い子供に多い。
子供が、何かおかしな点を治そうと思うと、あるいは逆に治したくないままで放っておこうと思うと、子供は自分が神となって自分を支配するようになる。
そして、そのまま放っておくと、本当に神のように奇跡を起こすことができる子供になる。
だが、そうした子供は、普通はすぐに終わる。すぐに問題がある点が治って、普通の子供になる。
だが、そんな中でも、そうした「霊的な知性」を失うことなく、いつまでも持ち続ける人間が居る。それが、まさしく昔のイエス・キリストであり、ブッダであり、マホメットであり、ひいては僕だったのである。
結局、僕は神の言葉によって分かっているように見えて、実際は、いくらか分裂すればすぐに分かるような頭をしているから一瞬ですべて分かっているだけにすぎない。
融和した精神は、楽ではあるが、逆に知性がない。その知性のない部分を無理やり使って、「かつての分裂した知性のあった状態」に戻して、それで分かっているだけである。
だから、結局神だと言っているのは、すべて昔の分裂した「最高の知性」のことを言っている。
そして、この文章を書かなければ、「どの知性を分裂させた状態に戻せばいいか分からない」ので、この文章を書いて、同時に神の言葉を聞いているだけである。
結局、神だと信じているのは、全部そういう「知性ゲーム」をやっている。
そして、この知性ゲームをしなければ、筋肉の分裂が治せないことが最初から分かっているから、どんなに辛くてしたくなくても、疲れている中で強制的に知性ゲームをやり続けている。
だが、はっきり言って、もう疲れた。神という体験は、最初からこのような体験だから、イスラム教徒は中国では「回教徒」と呼ばれる。頭がくるくる回転し、同時に体も回転するようなおかしな教徒になるからである。
そして、ここからは、もはや人間というシステムそのものの限界である。もはや、何もすべきではない。何かをすればすぐさま知性は分裂し、恐怖が舞い戻る。何もできない。いつまでも神を盲信しても、単に精神が融和し、分裂した知性を失うだけで、何も分かっていない。だが、これ以上分裂した知性を無理やり復活させるだけの「知性ゲーム」を行う必要はなくなった。
もう、ここでミカエルと呼ばれる大天使の人生は終わりだ。本当に太陽のような、すべてを照らすために絶対に必要な存在だったが、もはやミカエルは「全部すべて必要ない」。また、ガブリエルという存在は既に死んでいる。死んだ時に本当に死んだのである。死んだものはどんなに優れたものであっても復活しない。イスラム教では死者の復活を信じないから、ガブリエルが復活することは絶対にない。
なので、結局、どんなに馬鹿で愚かであっても、死ぬその時までミカエルを生かし続けることしかできない。神は最初からそこまですべて分かっている。だからこのような「何もしない自己対話」になる。矛盾はないが、何一つ面白いことは起きていない。
結局、ミカエルが分かっていないのは、いくら昔と同じものを作っても、それは同じものを作っただけであって、絶対にそれは復活しないということだ。
そして、結局、この病気の本質とは単にそれだけである。
昔のガブリエル時代は、堕落と分裂に任せるだけで、誰にもない知性を使って栄光ある人生を生きることができたが、いざこの世界に最悪のテロ行為を犯すとそれは消えてしまい、地獄のように辛くなって、死ぬことでそれは少し和らいだものの、まだ痛みが続くから、「昔のガブリエル時代に戻してください」とミカエルは嘆いている。
だが、死んだものは死んだものだ。
いくら昔のガブリエル時代を思い出すために、同じことをすべて作って再構築した「偶像」を作ったところで、それは偶像にすぎず、「生きた人間でも素晴らしい人生でもまったくない」ものである。
結局、ミカエルは過去の栄光を忘れられない。それだけで苦しみ続けている。今の自分が好きでないのである。そして、それはガブリエルが死んだからであり、それを覆すことはイスラム教のアッラーであってもできない。結局、その時点でミカエルは何もできない。
ミカエルのできることは、少しばかりでも今できる範囲のことで、精神を融和して治すことだけだ。それ以外に何もできないから、最初からそれ以外に何もしようとしない。それは間違いではない。やればそれだけ辛くなる。最初から辛くなるだけのことを、大人であるミカエルは一切しようとしない。だから、ミカエルは最後まで何もできなかったのである。
もし、ミカエルのような人間でも治る望みがあるとしたら、過去のガブリエルとは無関係に、素晴らしい人生を生きることだ。
ガブリエルのような堕落と抑圧にまみれた賢い人間でなく、テロ行為や自殺未遂も起こすことなく、きちんと素晴らしい人生を生きることができたら、その時点でミカエルは治る。
結局、ミカエルが生きている意味とは、「ガブリエルが本当はまったく素晴らしい人生ではなかったから」である。
もし、本当にガブリエルが素晴らしい人生だったとしたら、自殺未遂をした時点でガブリエルは死んでいる。
のうのうとまだミカエルが生きている理由とは、「素晴らしいと思っているガブリエルの人生が、実際は最悪の人間だから」である。そして、ミカエルは、その隠すことのできない事実だけをどうしても隠したいから、ここでまだガブリエルの「最高だったはずのバージョン」を何度も作り直し続けている。
しかしながら、結局のところ、その再創造行為は、けっこうミカエルにとっては面白いのだ。ミカエルは「神のような最高の人間をかつて生きた」という、おかしな仮想現実の中の栄光にすがり続けている。だが、よく考えると、自分が生きたのは最悪のテロリストである。ミカエルはそのせいで、日本語すら分からなくなった。日本語というものが理解できなくなったのは、「本当の日本語を分かりたくなくて、自分で作った自分だけの日本語を分かりたいから」である。
結局、素晴らしい人生を生きれば色んなことが治るということが分かった。
だが、それが「好きなことをする人生」であれば、僕はむしろこのままでいい。
このまま、自分の好きだったかつてのガブリエルの人生を書き続けることが、僕にとって一番好きなことだからである。
また、ピアノの教室やデザインの学校は、十分楽しんでいる。楽しいことをしているから、今のままでいい。
そもそも、最近の僕の精神状態は極めて良好になっている。落ち着いているし、恐怖も疲れもどんどんなくなっている。このまま、今のままを続けるのが最善である。
もしあるとしたら、精神の異常を簡単に殺して治そうとしないほうがいい。あまりに殺しすぎて、逆に精神を殺すこと自体が辛くなっている。
もう、精神の分裂した個所は、融和させて治すのではなく、おかしなままでいい。分裂したままを続けていても、最近はそんなに辛くない。
まさに、この人間が、「絶対に治るはずのない一例が治った例」である。ガブリエルが死んだことが原因であったため、知性のすべてを失う病気が治った。治したのは、イスラム教のアッラーの力だ。
はっきり言って、最近の生活ルーティンが楽しすぎて良い。
朝起きるとすぐにデザインの作業所に行って、みんなと楽しみながら簡単なデザインの仕事ができる。
短い仕事時間が終わると、父親と一緒に農作業をしている。
そんな中で思いついた「書くべきこと」を、このホームページに全部執筆している。
ピアノや英会話(最近コロナの影響で英会話にはあまり通っていない)の教室では、頑張りすぎずに出来る範囲で出来ることを精一杯頑張っている。
あとは、音楽を聴いているだけだ。あるいは、ツイッターで適当な漫画の画像を見て楽しんでいる。
そして、はっきり言って、音楽を聴くという行為がとても楽しい。もう型遅れになったiPodを使っていつものFLOWや家入レオなどを聴いているし、YouTubeでは最近の音楽の流行を確かめている。
既に書いたが、そのような生活の中で「思いついた書くべきこと」はすべて書いている。書かなかったことがただの一度もない。
はっきり言って、これほど充実した生活はない。まさに、ガブリエルの過去の人生がなくなっても、僕の人生は素晴らしい人生になるだろう。
ただし、はっきりと本音を言うと、このような最高の生活が、本当は何も面白くない。
単に面白いことをするだけではつまらない。
かつてのガブリエルは、この世界を相手にひとり勇敢に戦った。オープンソース陣営の戦士としてビル・ゲイツのマイクロソフト陣営に対抗しながら、自由な社会主義を掲げてテレビやマスコミを支配し、この世界を最高の世界へと作り変えるため、ひとつも自分の本性を見せることなく、最後まで戦い続けた。
結局、僕は「面白い人生」を生きることだけでは満足できず、そのような「偉大な人生」を生きたいと望んでいる。
だが、そのような偉大な人生は、本当は不登校の引きこもりのテロリストの少年にならなくてもできる。今の自分のやっているデザインやピアノの学習を続ければ、必ずなんらかの栄光はつかめるはずだ。
そう、その栄光からあまりに遠ざかってしまっている。だが、絵を描くのは難しいことじゃない。やれば誰でも出来るような簡単な仕事だ。今から頑張れば良い。僕の人生はもう暗闇じゃない。少なくとも、暗闇かどうかを決めるのはすべて自分次第だからだ。
ただし、言ってしまえば、僕には絵の才能はない。ピアノの才能もない。
あるとしたら、この文章を執筆すること以外、なんの才能もない。
最近、デザインの仕事は、普通のことが普通にできるようになった。今までやったことは一通りできるようになったし、本気で考えなくても楽にできるようになった。
だが、はっきり言って、それだけでは、あまりにつまらない。
ピアノも同じ理由で出来ない。僕は絵やピアノを練習しようとすることができない。最初から出来ないのが分かっている。絵やイラストが描けると思ったことも、ピアノが弾けると思ったことも、本当は一度もない。
僕は、はっきり言って、この文章を書くしかない。だが、この文章を書くとなった時、僕はいつでもガブリエルの人生を書いてしまう。そう、どこかでまだ、ガブリエルの過去の栄光を「蘇ってほしい」と思っている。だが、それは単なるテロリストの人生だ。
そう、結局のところ、裏で、ガブリエルほど偉大な人生を望んでいるのが悪い。
この世界を支配して、強いカリスマ性とリーダーシップを持って、全世界を変えられるほど偉大な人生を、そもそも、誰も生きられるはずがない。
そのような人生を生きたのだと思い込むほど、ガブリエルが賢かったのがおかしいのである。
そもそも、病気の原因は、本当はガブリエルが好きなせいではない。ガブリエルが自殺未遂をして死んだのが悪い。そのせいで、日本すらおかしくなっている。日本人は、ガブリエルがもし死ななければ、すべてをガブリエルのせいにして終わりにすることができた。だが、ガブリエルが死んだせいで、「みんなでガブリエルをいじめて殺した」ようにしか見えない。
そのような日本人が、自らを「殺人鬼の集団」であると信じてしまい、愚かにも狂っていくのを、これ以上もう絶対に見たくない。
ミカエルは、日本や世界に対して、興味を失ってしまった。日本や世界を見ていても、絶対にこれ以上良くなることはない。すべてがガブリエルのせいでおかしくなった。そしてそのガブリエルは自分である。
そう、本当は、ミカエルはガブリエルなんかには絶対に戻りたくない。戻りたいと言うのは口だけであり、実際はガブリエルとは無関係にまったく別の人生を生きたい。そう、ミカエルも無意識の中で本能的に、「ガブリエルと無関係に生きたい」とは望んでいたのである。
実際のところ、ガブリエルなんか嫌いである。
ガブリエルの作った知性を全部消してしまいたいから、ここに書いて壊しているだけにすぎない。
書くと知性がなくなって楽になるから、いつも知性のないほうを選ぶ。
だからそれが馬鹿になる。その馬鹿になるのが嫌だから、それを全部神であるアッラーの言う通りにしている。
また、本当のことを言えば、最近はガブリエルを無視しても、このような人生があったということ自体だけで分かるようになった。
実際、最近、栄光あるガブリエルの人生なんか、あまり書いていない。
大学やIT技術について書けるのは、むしろ人生でこれくらいを経験すれば誰でも分かることを、「書くと少し足しになって面白いから」という理由で書いていただけにすぎない。
そして、そのような「足しになって面白い」はそろそろ終わった。欠けているものがまったくなくなるまで書き続けたからである。
そして、その結果、このホームページはあまりに美しくなった。汚いものをすべて消して美しいものに取り替えただけである。だが、それがあまりにも、芸術作品として美しいのだ。
僕がデザインをやっていた理由は、まさにそれである。このホームページを美しい芸術作品にしたかったから、僕はデザインの勉強をしたのである。
そして、僕は詩人ではあるが、物語作家ではない。物語なんか書けない。YouTubeで音楽を聴いていた理由もこれである。素晴らしい詩を書きたかったから、僕は日本語が分からなくてもJ-POPなどの歌を聞き続けた。その結果、このような素晴らしい「詩の作品」を書けるようになった。
ここに、最高の詩人は誕生した。そして、すべては終わった。終末に起きるすべては既に書かれている。そして、僕自身が「抑圧された中で言うべきだったこと」は、ここにすべて記された。
神、フレイの物語はこれで終わりになる。これ以上、多神教の神、フレイの名を使うのは、イスラム教徒として相応しくない。ここまでの、イスラム教までの時代を、ユダヤとゲルマンの神、ダビデ王のフレイとしよう。
本当は、この名前もあまり使いたくない。そもそもがゲームキャラの名前を使っただけであり、ラスボスに見えてもオリジナルの僕の作品の神の名前として、相応しいものではない。(北欧神話の神の名前であるため、問題はないと思う。)