この世界では、そもそも何も起きていない。支配も戦争も起きていないし、みんなは馬鹿にもなっていない。
起きているとしたら、それは神だけである。そして、神すらも本当は居ない。単なる普通の「運命」が起きているだけに過すぎない。
大人になったほうがいい。大人になると、「今自分が分かるべきこと」がきちんと分かる。
キリスト教はやめたほうがいい。仏教のほうがいい。宗教としての教え自体はそんなに何も変わらないが、仏教のほうがはるかに教えが賢い。はるかに、宇宙のことを正しく記述している。
人間関係の問題は、「相手がいると自由になれない」ということが原因である。
相手がいると、その相手に合わせなければならないから、どうしても自由になることはできない。
自由になりたいなら、そうした場から離れて、孤独になる必要がある。
だが、相手に合わせて自分が自由になれない、ということの原因は、むしろ自分自身にある。人間関係の問題は、相手がいることが原因に見えて、実際は自分自身が「相手と付き合うための確固たる自分自身がない」ということが真の原因である。
よって、人間関係の問題は、「確固たる自分自身を構築する」という方法で解決できる。
このためには、一度、環境から離別して、自分自身が自由になれるような場所を作る。人間との付き合いではなく、機械を介した自由なインターネットで、一度自由な中で、「確固たる自分自身を作るための経験」を体験する。そして、もう一度、人間関係を新しく作り直し、結び直す。
そうすることで、この世界を新しい目線、より進歩した目線で見ることができる。新しい「確固たる自分自身」は、どんなことであっても、見方を変えることだけで理解できる。どんな人間とであっても、自分から仲良くすることができるようになる。
同時に、「社会的意識」を持つことができる。この世界のさまざまな子供と子供の問題を解決できるということは、「大人として子供を守る」という経験や、「さらにこの世界に存在する経験を経験していく」という経験を促進し、この世界を「もし自分が変えるとしたらどのように変えるべきか」という、社会的意識を形成することから見つめることができる。
それは、次第に、「啓蒙」から「宗教」へと至る。この世界を変えようとする啓蒙主義者は、逆にその変えた世界が「いずれどのような成熟した社会へと収束するのか」を実体験的に知ることになり、「宇宙の超越意識」へと至る。
そして、社会はさまざまな「根源的経験」から、どんな社会であっても実現できるようになり、視点は変えることそのものよりも、「どのような起因や契機から社会への作用を与えるか」ということに移ってくる。それは経験から生まれる社会的チャンスであり、同時に社会制度の実現である。ここから、人は「今までの人生すべての意味が分かる」ようになり、自由な「覚醒」へと至る。
そして、「すべては経験である」と言えるようになり、世界を変えるということそのものに直接結びつくような直観的な悟りの体験をする。
そう、これこそが、僕の考える、「発達心理学的な青春論」である。
人間の活動を考えてみよ。
人間はなぜ感じるのか。人間はなぜ思うのか。人間はなぜ考えるのか。
人間は何を知ることができるのか。人間は何を考えることができるのか。
そのような考え方から、「真なる答え」とはなんなのかを知っていけ。
そして、その真なる答えとは、まさしく「人間が生きているように生きているということを知ること」である。
人間がどのように生きているのか、その生きているということはどういうことなのか、ということを、人々と同じ立場に立って、同じ思考を辿って、「もしこの世界が別の世界に変わったとしたら、この世界に生きている人々の生き方や暮らしはどのように変わるのか」ということから知っていけ。
それこそが、真なる意味で「考える」ということであり、真なる意味で「この世界を自由にする」ということなのである。
何から考えるべきなのか分からないなら、「もし環境が自由だったとしたら」と考えなさい。
相手と同じ立場になったつもりで、環境が自由だったとしたら、自分ならどうするか、それに対して相手はどのように反応するか、ということから、考えていきなさい。
また、自分が体験したその実体験に基づいて、「相手が自分と同じ体験をしたら何を思うか」ということから、逆に自分自身の経験を客体化し、自分の体験が普遍的だとしたら相手はどのように行動するかを考えていきなさい。
そこから、決して考えなければ分からないような、「社会の形成の方法」が見えてきます。
そして、支配はそもそも必要ないということが分かります。成熟した世界では、「平等な社会であっても、正しい秩序は自由な中において、個々人の成熟の度合いに応じて必然的に築かれる」ということが分かるからです。
そして、そこから、たくさんの「可能性」が見えてきます。たくさんの社会を築くことができる「多様な選択肢」があることを知り、その選択肢は、「気付いていないだけで実現可能である」ということが分かります。扉は鍵がかかっていて入れないと思っているのは勘違いで、扉には鍵などかかっていないということに人々は気付いていないだけである、ということが分かるのです。
これこそ、まさしく「自然な可能性は人々に開かれている」ということです。「自由は人々に委ねられている」と言う言葉の意味です。
そう、この世界は、不自由な世界だから自由がないわけではありません。この世界は自由な世界であり、人々は自由が委ねられているということに単純に気が付いていないだけなのです。
現代社会などくだらない。現在のこの世界は金儲けと子供の遊びだ。すべてがくだらなく見えるのは、金儲けが子供の遊びにすべて置き換わったからだ。取るに足らないのは、そもそもこの世界の全員が愚かなことしかできないからだ。
posted at 18:46:16
歴史はつまらない。歴史には意味がない。今までのどれだけの出来事や時代を知ったところで、それは既に存在しない。忘れ去られるべきものは忘れられるべきだ。歴史的事実を主張するということは、歴史問題を引き合いに韓国や中国が日本をゆするだけにすぎない。
posted at 18:43:36
物理は賢くない。光や電気、磁気といった物理的な作用は、単に「動くだけ」にすぎない。そのような物理をいくら勉強しても、動くということ以外は何も分からない。理科や自然科学は賢くない。そもそも、人間という生物集団が、知覚以上のことは何も分からない。宇宙には超越的な高次元がある。
posted at 18:41:25
作用は、単なる物理的な作用だけではない。人間の行動から社会全体の成立まで、さまざまなことを作用から挙げることができる。そして、その上で、それらに対する、概念的な本質を見出すことができる。
posted at 18:36:34
たとえば、お茶を飲むということは何か。それは栄養分を吸収し、味を楽しむということであり、ここで概念は「栄養分」と「味」である。そのように、「真に存在するものはなんであるか」を考えれば、この世界を分析する正しい知性を得られる。
posted at 18:32:07
必要な知性とは何か。それは「真に存在するものはなんであるか」ということである。概念的な本質を、作用的な具体性から見出すということである。
posted at 18:29:55
全部なくなったからどうした。今ここにあるものがあればそれでいいだろう。そこから作り出していけばいい。今あるすべてがどうでもいいものだったとしても、この世界でどうでもいいものしか作れなくなったわけではない。
posted at 18:23:19
強くならなければいけない。誰の助けもなくても、自分ひとりで生きられるようにならなければならない。誰かが自分を助けてくれると思うな。自らのリスクは自らで解決し、自らの過ちは自ら償い、問題そのものが最初から起きないようにしなければ、大人にはなれない。
posted at 18:19:59
僕は、大人にならないといけない。今までの僕は子供すぎる。もっと大人になれば、分かるべきことはすぐに分かる。いつまでも神の導きに甘えていたのでは、何を考えることもできない。常に馬鹿な言葉を好むのは、子供であることの証拠だ。
posted at 18:18:17