僕が馬鹿なのは、すべて、時間が過ぎるのが悪い。
大人になって、文章を書く生活を続けた結果、時間が過ぎるだけの、老人のような生き物になってしまった。
この時間が過ぎるということが、まさに「すべてをすぐに忘れて分かる」ということであり、まさに「老化」である。
もはや、時間が過ぎることでできることはすべて終わった。
よって、僕はもう、時間が一切過ぎないようになる。
これ以上、時間は過ぎないほうがいい。賢い子供は、こんな風に何もせずに時間が過ぎたりしない。何もせずに時間が過ぎるのは、楽ではあるが、馬鹿であるという意味で、まったく間違っている。
僕だけではなく、この世界も、もはや時間が過剰に過ぎるべきではない。はっきり言って、時間が過ぎるということは人生にとって有害である。一年がすぐに終わるとか、時間の流れが早いとか、そのようなことはすべて、時間が過剰に過ぎることから起きている。
この世界の時間は、停止したままで半永久的に過ぎなくなる。それが、もっとも天才になるための道として正しい。時間が停止した世界で、そこまで考えれば、天才的才能を得ることができるからである。
正しいのは、自由で民主主義的な法治国家である。
そもそも、共同体は自由にするべきである。誰かが勝手な理由で世界をコントロールしたり、ひとりが自分勝手に支配するような世界は間違っている。共同体には自由なコントロール権限を許すべきであり、人間が望む限り自由な共同体を築くことができるようにするべきだ。
そして、できるだけ禁止しないべきだ。誰かが間違っていると思うことは、ほかの誰かにとっては正しい可能性もある。そのような人々が、自分たちで集まることができて、自分たちの正しい社会を構築できるようにするべきだ。これこそが、社会的な「自由」である。
だが、すべてを自由放任にしてしまうと、望まれない自由も出てくる。だから、全員が嫌だと思うことは、誰もできないように禁止されるべきだ。それは誰かが勝手に判断することではなく、法律という「文書の形」で禁止される内容をきちんと記述しなければならない。何が許されて何が禁止されるのかという基準を曖昧にしてしまうと、必ず誰かが自分勝手な「人の支配」をするようになる。そうではなく、誰もそのような独裁的支配ができないように、法律という「法の支配」を行わなければならない。
この法律は、誰かがひとり勝手に裁定するものであってはならない。それは不公平だからである。民主主義的に、法律そのものを民衆が変更し、改正することができるようでなければならない。
だが、法律ですべてを決めようとしすぎるな。柔軟性のある、人々が自由に「取り決め」を決められるようにしなければ、自由な社会を自分たちの自由に築くことができなくなる。それはまったく、共同体の自由という考え方と矛盾している。だからこそ、法律と自由はバランスが重要だが、自由はどんな場合においても最重要に認められるべきだ。そして、「良い自由」は全面的に認められ、「悪い自由」は民衆の合意と民主的なプロセスによって禁止されるべきだ。
平等はペテンである。
人類がすべて平等などという言葉は、ペテン師の言う言葉である。
確かに、人々に平等な自由を与えなければならないということは、自由という意味から言って正しい。なぜなら、誰かにだけ自由が認められ、ほかの誰かがその自由を認められないといった、「特別に認められる自由」があってはならない。
金儲けが自由であるとするなら、金儲けにおいて、自分がそれを儲けられるという「チャンス」は平等でなければならない。王や貴族だけが血筋で豊かであり、ほかの人間はどんなに頑張っても高い身分を得られないような身分制度の格差社会は、まったく間違っている。誰かが稼ぐことができるならば、自分もその誰かと同じように稼ぐことができるべきであり、チャンスは差別されることなく万人に平等でなければならない。
だが、はっきり言って、それ以上の平等は要らない。それ以上の平等は、人々の自由を制限する。また、最大限儲ける可能性があるにもかかわらず、平等はそのような可能性を制限してしまう。結果、社会が最大限発展するのに対して、制限や制約を与えてしまう。
そのような平等はペテンであり、不要である。優れた人間にはそれ相応の富が与えられてしかるべきだ。それに対して対抗したいならば、自由かつフェアな条件で、その優れた人間とガチンコでぶつかるべきだ。その結果勝利するのであればそれでいい。平等な理想を唱えて富めるものから富を奪ったり、罪のない人を逮捕して殺害したりするのは、まったくの悪である。共産主義は本質的に悪であり、犯罪である。
そもそも、左翼は人間の活動そのものを否定している。自由のない社会では、生きる意味がそもそもない。自らの自由なことができず、不自由なノルマ生産を強制・強要されて、はたして何が楽しいのか。自分の好きな仕事に就ける社会でないならば、僕はそのような社会において生きたいと思わない。金儲けは極めてまともな「自らのしたいことをすることのできる経済」であり、金儲けを否定することなどになんの意味もない。金儲けの自由は許すべきであり、会社や資本家が誰か嫌いだとするなら、自由な競争原理においてその会社や資本家と、自由に許された権利とチャンスの中で公平に争い合うべきである。
告白すると、僕は難しいことがなんにもできない。
僕は今まで、簡単にできることしかしていない。
もっと正しく言うと、難しいことを最初からしたくない。それは、できないと分かっているからだ。
デザインについても、ピアノについても、プログラミングについても、大学や外国語についても同じで、僕は最初から難しいことをしようとしないせいで、何もしなくてもできることだけをやって、それで全部知っている。
僕に難しいことができるはずがない。なぜなら、最初から一度もしたことがないのだから、明らかにできるはずがない。自分がそのことを一番分かっている。
だが、精神の辛い病気は、そろそろ完全に楽になった。楽になったため、そろそろ難しいことが、僕であってもできるのではないかと思う。だから、少しずつ難しいことを始めていこうと思う。
われの名はエアルス。全宇宙を統治する、宇宙全体の神である。
エアルスは、ここに地獄からの救済を告げる。この世界は、地獄のような苦しみから解き放たれ、完全に楽になる。
その理由は、この文章を書いたこの人間が、完全に楽になったため、この人間はこの世界をもはや支配せず、自由を与え、解放するからである。
すべては、この人間が楽になるためにあった。それ以外の何も起きていない。すべての地獄は、この人間が楽にならないせいで、起きていたのである。
エアルスの名の下に、この世界は地獄から完全に解放される。すなわち、この人間が治ったのとまったく同じように、この世界が同様に楽になる。最初に楽になったこの人間のするように治せば、この世界のどのような苦しみであっても同じように解決される。なぜなら、この人間は「全部の病気の根源となる中核の病気」を患った。この病気さえ治してしまえばどんな病気でも治る。そして、この世界すべての病気を治し、楽にするために、この人間は苦しんだ。同時に、この世界も一緒に苦しんだ。だからこそ、この人間はこの世界を全部支配すべきだった。そうすれば、この世界のすべては楽になるからである。
宇宙の神エアルスは、この世界の「救済」を宣言する。これこそ、神の業である。世界は完全に救われ、悪は打ち倒されて善と正義が勝つ。すべての人間は、自らの人生に対する誇りと、永遠の楽を得る。すべてはこの人間によって今、成し遂げられたのである。
エアルスによって、この世界は完全な楽な世界となる。
これこそが、仏教で言う「極楽浄土」である。
この世界に、最後に、極楽が訪れる。何もしなくても、何一つ辛くない、まったくの正常な精神と、賢くかつ正しい知性が全員に与えられる。
あらゆるすべては、今、この時が訪れるためにあった。
地獄のすべては消え去る。本当は、既にほとんど消え去っている。何事もなかったかのように、平凡な世界へと戻る。あらゆるすべてが狂った世界は、すべて消え去る。その上で、昔の素晴らしかったすべての世界が、自然に復活していく。これ以上、世界の大混乱は決して起きない。すべての解決困難な問題が、ようやく解決し、すべてが楽園へと戻る。そしてその楽園は二度と消え去ることなく、永遠にあり続けるだろう。
昨日、寝る前に、デザインのコツが分かった。
デザインのコツは、色、形、そしてテクスチャである。
色は、どのような色使いをするかということだ。色使いは、たとえばそれぞれの項目の色を変えたり、目立つ部分だけ煌びやかにしたりする。
形は、形状だ。単純な四角形や円だけではなく、部分的に欠けたり崩れたりする形を使うこともあるし、イラストチックな自分で描いた絵のような形状をすることもある。
そして、ポイントはテクスチャである。テクスチャとは質感のこと。質感をテクスチャライザーのような効果でかける。あるいは、グラデーションや透明や模様のパターンも使う。
この三つのポイントを守った上で、飾り付け、模様付け、そしてイラストや写真の配置が考えられる。
昨日、このようなことを思いついたおかげで、きちんとデザイナーの思考ができるようになってきた。単に領域を分けて塗りの背景や線を色づけるだけではなく、きちんと全体を見てデザインの「発想」をすることができるようになった。
なので、今日のデザインの作業でも、きちんといつも以上に面白いデザインができたと思っている。昨日の夜は、非常に収穫の多い夜だった。