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2022-08-31

結局のところ、僕がやったことは3つある。それは「救済」と「自由化」と「終焉」である。

最初に、僕はひとり、この世界で理想を追い求めた。奴隷のように自由な心のないこの世界で、どのように考えれば、しがらみや制限なく、この世界を救うことができるかを考えた。

そして、僕はこの世界を「救済」した。

しかしながら、僕はその力を悪用して、この世界を「自由化」した。

それはつまり、「救世主が全員にこの世界を滅ぼすように暴走しろと命令する」ということであり、それによってこの世界は、崩壊と破滅を目指すひとりの指導者に支配され、その後は常にその指導者を無視することができなくなった。

だが、これも間違いではなかった。なぜなら、救世主はこの世界に「正しい教え」を与える。このようにすれば正しく生きられるのだという正しい教えを、救世主は半ば頂点からひとり押し付けるような形で与えた。

そして、救世主は、宇宙すべての歴史を辿るかのように、たったひとりでこの世界を導き続けた。

そして、救世主は一度死んだ。この「死」によって、この世界は一度救済される。

だが、救世主は簡単には死ななかった。救世主は、神や天使のような「霊」としてこの世界を支配し続ける。そして、その死後の救世主が、この世界に「罰」を与える。

そして、その後は、ただただ「終焉」だけがあった。救世主は、もはやなんの力も持っておらず、この世界は救世主が死ぬまでに教えた「正しい教え」の呪縛のまま、何も変わらず、面白いことや楽しいことの何もないままの世界で、ただただ「間違った正義」を信じ続けている。

そう、これが「目には見えないこの世界の真実」であり、救世主である僕がそれを唯一ひとりだけ知っているというのが、今の日本で起きているすべての事実だ。

理想を追い求める必要がある

このような中で、わたしたちが何を信じるべきか、それは「理想を追い求める」ということである。

救済も、自由も、すべて間違っている。単に「悪いことをしてもいいと許しなさい」とか、「悪いことを積極的にしなさい」という、「悪行を許すこと」を信じているだけに過ぎない。

実際は、悪行は決してやってはいけない。それが救世主の言葉であったとしても、絶対に悪をしてはいけない。

同時に、「宗教の終末論」を信じるのは間違っている。それが永遠に続く神への愛であっても、そのような愛を簡単に崇拝してはならない。すべての自由を神に委ねたところで、神はそのようなものは救わない。

結局、救世主の述べたことや行ったことは、「正しい教えの押し付け」も含めて、すべて間違っている。

必要なのは、救世主に頼らず、ひとり、理想を追い求めることだ。たったひとり、誰とも違う場所で、理想を追い求めることでしか、この世界を「もう一度救済する」ことはできない。

リンパと動き

精神がおかしいのは、リンパを治せば治る。リンパは、破壊された細胞を修復する力を持っている。

また、動くべき時に動かないせいで、動かないべき時に動いてしまっている。停止を目指すのではなく、活動的に動くことを目指せば、歩き回ってしまう病気は治る。動く時に動くだけで、動くべきでない時は動かないことができる。

勉強が間違っているとは言えないが、僕は勉強以外のことを知りたい

学校の勉強が間違っていると、僕は決めつけたいわけではない。

学校の勉強が間違っているとは、必ずしも言えないかもしれない。

だが、それでも、僕は学校の勉強以外のことを知りたい。

学校の勉強を知れば知るほど、基礎の知識という「新しい当たり前」が増えていくばかりで、頭は何も賢くならない。逆に、普通に分かっていたことが分からなくなってしまう。

だから、僕は学校の勉強以外のことを知りたい。

学校の勉強が間違っていると言いたいわけではない。「何かが間違っている」というのは決めつけだからだ。そのような「一方的な決めつけ」がないところに真実はある。決めつけないことこそ、この世界を救うための「正しい考え方」である。

だが、悪を善であると言い換えるのはよくない。いくら嘘をついても嘘は真実にならないのと同じで、どれだけ悪を何万回と叫んでも、それは善にはならない。

悪は悪なのだと認め、反省することでしか、この世界において、宇宙の真理に近づくことはできない。

何かを一方的に間違っていると決めつけるな。そして悪は悪であると認め、反省せよ。

反省して相手のことを認めるとは、心を開くということ

結局のところ、一方的に相手のことを「間違っている」と決めつけず、反省して相手のことを認める、ということは、すなわち、「心を開く」ということである。

自らの信じたことが、絶対に正しいのだ、当たり前に正義なのだ、と考えるな。

そうではなく、自らが間違っていたということを認めると同時に、人々が間違っていると見なすのではなく、人々が正しいということ、みんなは何も間違っているわけではないと認め、相手の意見を尊重し、相手のことを許せ。

そうすれば、どのような場合であっても、関係はよくなる。少なくとも、悪い関係よりはいくらかベターな良い関係になる。

この世界についても同様だ。世界の人々のことを間違っていると決めつけず、世界は間違っていないのだと認めよ。そうすれば、この世界そのものが救済される。人々は「自分たちは正しかった」とその時点で罪を許され、ひとり、この世界を支配して滅ぼし続ける「世界を洗脳された悪魔であると決めつける支配」は終わりになるだろう。

互いに認め合える経験、自分が本当は間違っていたのだと正しさに気付ける体験が、一番楽しい

この世界で、もっとも一番楽しい経験とは、「互いに認め合える経験」や、「正しいことがなんであったのかということに気付いて、自分は本当は間違っていたのだと悟る体験」である。

本当に正しい知恵はなんであるか、この世界の本当の姿とはどういうものなのか、ということを、自分が新しく知った「未知なる人生経験」から発見し、自らの何が間違っていて、本当は何が正しかったのか、ということを悟る体験こそが、もっとも楽しい体験である。

そして、そこから先は、「積極的かつ主体的に経験する」という経験をする。これこそが「成長」であり、本当の「大人になる」という経験である。今まで自分が経験してきた、何が正しく何が間違っているかという「判断基準」に基づいて、この世界を自分の力で見定めることができるようになった子供は、それまでの受動的で言われたことをただやるだけだった自分自身の殻を壊して、自らが自らのみの力によって、主体的かつ積極的に、この世界を「誰かに変えてもらうのではなく、自ら自身が変える」ということを行えるようになる。

だが、自分自身の力だけを過信するな。この世界のさまざまな存在に頼ることは必要だ。特に、神を信じることは本当は間違ったことでも嘘偽りでもない。この宇宙に存在する「大いなる神の力」に身を任せ、「自然と調和する方向」に身を任せ、「魂が導く自らの進むべき先」へと向かって一歩一歩歩いていくことは、決して無駄にはならない。

だが、覚悟せよ。甘ったるい青春時代をいつまでも永遠に生きることはできない。必ず、試練があなたを襲うことになる。その試練を乗り越えるために必要なことは、「絶対に意志を曲げない強さ」でもある。自らの意志を簡単に曲げることでも、人々との平和や共存を選ぶことはできる。だが、絶対に意志を曲げてはならないような「悪との戦い」が未来に待っていると知れ。それを乗り越えた先に、「本当の救済」が待っている。それはあなたが世界を救済するだけではなく、神があなたを救済する体験でもある。神はあなたのすべてを見て知っている。悪を為しても善を為しても必ずそれ相応の報いがある。そう、「因果応報」こそ、仏教でいう「縁起」の教えの本質なのである。

少年期の心の情動から精神現象を考えよ

考えるべきは、少年期の「心の情動」だ。

少年期の心の情動から、「精神現象」を考えよ。

いつ、自分がどのように感情を感じるかということを、いったん学校とは離れた場所で、自分の顔も名前も隠して、インターネットで経験することで、自らが感じていたそのことが、実際はどのように自分の感情的に人々との間で作用していたのか、ということを知れ。

そして、その経験を踏まえた上で、過去の学校環境における自分の間違いや過ちを思い出せ。どのように行動していれば、本当に人々との間で「価値ある友情と友愛の関係」を築けていたのか、ということを、逆説的に反省して考えよ。

そのように考えることで、「真によい関係を結ぶ方法」が見えてくる。

同時に、「心とはどのような働きを持つものなのか」ということも分かる。あえて言うならば、心は「いつどうなるか」ということをベースにして捉えることのできる、一種の機械的な装置であると考えられる。ここには「そのような時にはそのように感じる」という「心の法則」が存在する。この心の法則を明らかにしていくことで、ブッダのように「心の意味」を知ることができる。それは一種の「悟り体験」であると言える。精神分析を行うことで、自らが心の「傷」から解放され、自由になっていく。自由になるということは、決定を留保された状態に戻すということであり、逆に留保された決定を決定することで、心は「どんなものにでもなれる可能性」を示す。そしてそこには「自らが自らたりえるようなアイデンティティ」を見出すことができる。

そのように、心を考えることで、どのようにすれば正しい方法で世界と付き合えたのか、ということや、自分がどのようなものになることができるのか、どのようにすれば心の傷から解放されるのか、ということも見えてくる。これはそのまま、経験的な「正しい考え方」へと至る。そこでは、「自らが作りあげたものしか自らの心にはない」とするイギリス経験論とまったく同じ真理を、「自らが考えることでゼロから作り出す」ということができる。イギリス経験論の長い哲学上の歴史を、自分だけの力で再演することができるのである。

決して現状は正しい世界ではないが、今の世界に存在するすべてのものは価値あるものである

決して、現状のこの世界は、正しい世界ではない。なぜなら、「ほかの代替可能性はたくさんある」ということが、経験論的に考えることで明らかになる。

この世界において、やりようはひとつだけではない。そのひとつのことが標準となったのは些細な理由からであり、ほかの可能性がすべて間違っているわけでは決してない。

だが、今のこの世界に存在するすべてのものは、価値ある大切なものであると信じよ。

すべてのものには価値がある。ものだけではなく、すべての経験には意味がある。それはものではなく「体験」に価値があるからである。ものそのものに価値があるのではなく、ものが可能とする、ものを使ったり作りあげたりする「体験」にこそ価値があるのである。

言ってしまえば、この世界のすべては「体験を可能にする場所」ということである。体験を可能にすることこそ、経験論的に行き着く「正しい真理」である。この世界は体験を可能とするために存在するのである。

体験とは、喜び、悲しみ、辛さ、苦しみ、達成、喪失、そして愛や友情など、たくさんの「感情の複合体」である。そして、今までに自分が感じたすべての感情を融和した感情こそが「愛」なのである。

すべては愛のためにある。なぜなら、「愛になるために人生はあるから」である。この世界におけるすべての人生は、「愛」と呼ばれる状態になるために存在する。それはいわば「花が咲く」ような状態であり、花が咲いて実が生ることこそ、わたしたちの生きている目的、すなわち「愛になる」ということなのである。

昔の僕は、人生すべてを環境と考えた

結局、昔の僕は、「人生すべてを環境である」と考えただけにすぎない。

僕は、「環境が自分自身を形作る」と考える。

すなわち、遺伝子が人格を決めるわけではなく、環境的な要因が人格を決める。これは単なる環境に世界が制限されるというだけではなく、環境における「関係」が人生における多くを決めていくということを意味する。

同時に、僕は記憶や人生経験、自らの選んだ選択や学校・職場の違いであっても、「環境と同等のもの」であると考える。

そして、記憶や人生経験は、生きる上でひとつひとつが「決定化」されていく。この「決定」が「環境的な因果」となる。すなわち、なんらかの決定が、環境となり、その環境的因果によってさらに環境が積み重なり、人生経験となってひとりの人間となる。

この決定は「決定可能性」として通常「留保」される。すなわち、すべての決定可能性は「保留」の中にある。この時点では、「未知なる状態」であり、決定可能性が実際に決定される中で、環境となっていく。

そして、この決定と環境の因果性は、「現実世界での人々との関わり合い」によって作用される。時に、「友人や世の中からそのような人間であるだろうことを期待される」ということが、ここで大きく働く。

そう、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言うように、なんらかの本質が決まる前の段階から、その本質を持っているかのように世の中から要求されてしまうのである。

そして、この決定と環境の因果性は、「集団化」することでさらに複雑になる。集団の中で生きるということは、このような環境的因果からすれば「非常事態」である。集団の中で生きる上で、環境的因果は暴風雨の中に晒されてしまう。

だが、独りになった時に、そのようなことをよく考えてみてほしい。人生すべてを「環境」という視点から考えつつ、先に述べた「心の法則」ということを考えれば、この世界のあらゆる営みはすべてすっきりと理解することができる。これこそが、ブッダの到達したのと同じ「悟りの境地」である。本当に、真の意味で「すべてが分かった」と言えるようになる。あらゆる心の現象のすべてを「捉える」ことができ、また心の法則を「仮定と説明」から解明することができる。すべてのことを経験し終えた上で、経験していなかった経験の前の状態がどのような状態であったということまで思い出せるようになる。

そして、すべてが分かった段階で、そのすべてを消し去りなさい。すべてを一度ゼロに戻し、もう一度、今度は楽ではなく辛く苦しい地獄の中で、最初から考えてみなさい。その結果、あなたは「宇宙で最高の存在」になることができる。ひとつひとつの可能性をすべて考慮し、あらゆるすべての問題を解決し、諦めることも神を疑うこともなく、まっすぐに最後の状態を目指して考え続けるあなたは、まさに「キリスト」であると言える。まさに、そのようなキリストこそが神である。そして、神を信じるすべてのものは救われる。なぜなら、新約聖書でキリストが言うように、「既に報いを受けている」からである。すべての人間は、自分の善行や悪行の報いを、常に受け続けて生きている。何かしら苦しく辛いことがあるなら、それは自分が何か悪行をしている証拠なのである。