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2022-03-22

わたしたち国民が、社民党や共産党を信頼することができないのは、資本主義を理解しているように見えないからである。

社民党や共産党の政治家は、平等を目指すせいで、利便性を高めるということに理解が至っていない。

何か、利便性というものが、社会的な平等をおろそかにしているように感じているのではないかと思う。

だが、一般的な国民は、どの国民も、利便性のために平等を犠牲にして生きている。国民にとっては、利便性こそを平等に与えてほしいのである。

利便性が嫌いな社民党や共産党の政治家が、平等な社会の実現を目指しているとはいえ、国民に対して利便性を与えてくれるように見えない。

また、社民党や共産党の政治家は、「経営によって小さな資本を大きな資本に拡大する」という、資本主義の基本が分かっているように見えない。

資本がもしあったとしても、社民党や共産党の政治家は、その資本を小さな資本から大きな資本にすることができるだろうか。おそらく、できないだろう。

資本主義の常識がある一般的な国民からすると、社民党や共産党は信用できない。だから、左翼政党はまったく支持を得られない。

国家に奉仕なんかしたくない

僕は、国家に奉仕なんかしたくない。

今の日本の政治が、上手くいっているとは思わないし、最初から国に奉仕するために生きて、命を棄てることさえ強制されるなど、耐えられない。

僕が自由を信じているのは、僕はほかの人間と違うからだ。性格も、価値観も、すべて、ほかの人間とまったく違う。いじめられたり、からかわれたり、笑われたりする理由が、みんなとまったく違う自分の人格や考え方にあることには気付いている。だからこそ、僕は他人と関わらずに生きる。だからこそ、僕は自由を信じている。

国家への奉仕などしたくない。政府など大嫌いだ。この世界で、真に自由に自分のために生きられるような、そのような人生と社会を僕は好む。そう、僕に自由を許してくれるなら、僕はその自由でこの世界を救うために精一杯の努力をするかもしれない。だが、そのためには、僕に自由を与えてほしい。

わたしの名はラファエル。三大天使のうち最後に現れる、この世界を最後に再び自由にするために生きる大天使だ。

この世界をたったひとりで支配するな

この世界をたったひとりで支配するな。

支配者は、部下や国民を支配するだけではなく、それぞれがきちんとできるようにした上で、自由なことができるように許し、自由に任せるべきだ。

支配などではこの世界は平和にはならない。支配すればするほど、争い合いだけが増えていく。

この世界をたったひとりで支配して、最高の完璧な世界になるなどというのは幻想だ。

支配者になろうとするな。支配して戦うもののすべては愚か者だ。どんなに努力して恐怖を耐え忍んでも、正しい目的のために力を使わないものは最悪の人間だ。自分が倒し、傷つけ、奪った人間の分だけ地獄に堕ちるべきだ。

必要なのは支配じゃない。必要なのは自由と愛である。愛とは、相手の自由を尊重しながら、自分のできるすべてのことを行うことだ。決して、心を奪い、支配し、人々を操り人形にすることではない。自らに従順に従うロボットを愛するならば、パソコンでも愛していればいい。

いじめは悪い

いじめは悪い。弱いものいじめをして、何が楽しいのか分からない。

「仲良くできないのは自分のせいだ」とか、「普通の人と違うから気持ち悪い」とか、そういう発想があることは認めよう。

だが、それならば、仲良くできないのがわたしのせいであるとすれば、いじめを逆にすべてわたしのせいであるとして、わたしが、いじめをなくすために、そうした経験や個性を超越して、「いじめをなくせるほどに成熟した人間」になることで、いじめをなくせないだろうか。

いじめられるのが自分のせいであるとするなら、いじめられないのも自分のせいであり、それが分かっているならば、みんなを治める長となっていじめのない平和な世界にすることだって、わたしひとりによって実現できるはずである。

子供の経験や大人の経験を全部知り、同じ人間の意見も違う人間の意見も知り、常識や人間性を持っている人間も持っていない人間も知り、世界を広く知って、「どのようにすればいじめのない世界で生きられるのか」という真理を追究した上で、実際のこの世界で「平安なる世界」を作り出すこと、それこそが、いじめられっ子だった僕の使命なのである。

だから、わたしはテレビやマスコミを滅ぼした。彼らがいじめの元凶だからである。だが、それだけでは子供たちを救うことはできない。自らが考える、「真に理想の世界において、自らの自尊心を守られ、アイデンティティを発揮できるような社会とはどのような社会か」ということを、僕はすべて書いて記した。それはまさしく「新しい幸福論」と言えるものであった。

自由な理想

結局のところ、僕は最初に、「自由」という理想を考えた。それは、「自由意志に任せる」ということであり、「自由においても正しい社会は実現できる」という理想だった。

それぞれの自由意志を尊重し、それぞれの可能性を制限せず、それぞれが自然に行動し、そこからそれぞれが経験し、学び、成熟することで、「自由でも正しい行動をするようになる」と考え、「社会や大人たちに攻撃するのは自由がないからだ」とし、自由な経験において自らの自我を形成すれば、自然に攻撃しなくなり、自我を形成するという喜びを知り、それが経験的な愛を形成する、と考えた。

そして、行動や理由について、正しく、そして「自由」という側面から考えた。それは「できるということを自由化する」という哲学であり、社会において不自由な側面を自由化するというものだった。なぜなら、この世界の学校教育や会社組織は、あまりに不自由にレールの上を進むようになっている。道から外れて、別の場所から考えることで、「もし学校や社会が自由だったとしたら」と考えられる。それは単に制度だけではなく、システムとして「社会全体が自由化」されるものであり、それはそれぞれの相互作用によって、「相互に理解し合う」ことから、「自由な人生における成熟」、すなわち、自由にすることで、それぞれが間違ったことをするのを「無意味」であると理解し、それぞれが「善」へと目覚め、「覚醒」と「成熟」をすることで、それぞれが「社会秩序を守るということの意義」を知る。これによって、自由においても秩序は保たれる。

自由は、それぞれを安心させる作用を持っている。なぜなら、人々と同じ管理社会で、同じ意見を持つことを強要されない。そして、自由は単なる「攻撃」を意味しない。なぜなら、よく考えられた自由は「破壊」ではなく「構築」の方向に向かう。なぜなら、経験することで可能性を正しく理解することで、自由において「このようにできる可能性がある」ということを知る。それを人々と共有することで、「世界はまだまだやりようがある」ということを知る。ここから、世界を救う「正しい可能性」が見えてくる。これこそ、自由における「無限の代替可能性」である。

そして、さらにあるのは、自由な社会経験である。すなわち、「社会や世界におけるすべての経験を自由に行う」ということである。たとえば、さまざまな社会の制度や理念を、自らの実体験から実地的に理解する。子供たちが分かり合うこと、絆を培うということ、誰かひとりが受け入れられ、またみんなが受け入れるということが、何を意味しているのかを知った子供は、もはや青年であり、自分の力で主体的にこの世界を変えるために行動できる。そして、オープンソースのような社会的理想を志すことで、自らがそのために活動できるようになる。それは次第に倫理的な「宗教的道徳」となる。それは自らの行った失敗と、過去の自分の行いが「本当はどうすることができたのか」という反省から生まれる。すべての宇宙における経験を知るために、社会経験をすべて自由に行い、すべての世界を救う「正しい考え方」を身につける。

最後に、考えるということはどういうことか。それは「経験の想定から問題の解決方法を知る」ということである。つまり、問題がある時に、経験から原因とその解決方法を考えて解決する。この時、「何がかりそめの存在で、何が宇宙に本当に存在する事物か」ということを、表側にある「知覚」の世界と、裏側にある「真実」の世界から考えられる。すべての法則はすべての場合や条件に有効だが、そこでさまざまな変化を再現することで、真に実験的に解決することもできる。だが、社会的な解決は、むしろ「自由化する時にどのようにすれば実質的に自由になるか」と、考えることができる。たとえば、何も許されない中で問題を解決しろと子供たちが言われたら、「解決するのを許せ」と言い、もし許可が与えられなければ社会を攻撃するだろう。だが、解決することが許された中であれば、そのような攻撃は行われず、単に自分の力で解決する方向に向かうはずである。このような「当人に問題の解決をできることを許す」ということが、まさに「自由化」である。社会における問題を解決するもっともよい手段は、解決する努力を行うことをその当事者に許すことである。

よって、この世界においては、まずすべてのことを当人に任せるために「自由化」することである。同時に、ひとりの指導者がすべての問題を見ることはできないため、たくさんの現場の指導者に権限を与え、現場で解決が可能であるようにするべきである。同時に、この世界にはさまざまな可能性が想定できる。その可能性の実現を、それぞれに許すべきである。そのようにすれば、問題は放置されることもなく、反抗や非行が起こることもなく、当人や当事者によって問題は解決される。

また、それぞれが自由において正しいことをする、ということは必ずしも言えないかもしれない。だが、自由とは、単に許す自由だけではなく、合意のもとに禁止する自由もあると考えられる。それは自由ではなく不自由だと思われるかもしれないが、実際のところ、民主主義の法治国家のように、不自由な法律をみんなで自由に決めることで、「自由なままで社会秩序を構築する」ということができる。これを自由において実現することは可能である。だが、これには注意しなければならない。なぜなら、勢力争いや権力闘争になる可能性がある。ここで、僕は、「数による勢力争いをできるだけ個々人の自由に変えていく」必要があると考える。すなわち、個人と個人の争いにすべきであり、決して数の勢力で戦うようにしないことである。このために、自由には「個人個人のそれぞれが自由を持つという平等な前提条件」がある。そう、自由において自由を実現するためには、必ず「個人の平等」が必要となるのである。

そして、この世界においてインフラを構築する際に、この世界そのものが「自由度が向上する」ようになるべきである。たとえば、大学ではなくても研究機関をたくさん作るとか、研究のために情報・書籍・研究手段・インターネットなどを自由かつ安価に提供するとか、人々の意見や発想、あるいは努力や労働結果そのものを、インターネット上で共有するとか、そういう「生産手段の共有」をすることで、この世界はさらに自由度の高い世界へと進歩できる。

そして、マルクスの言う「疎外」の解決が重要である。人々が社会全体に疎外され、どうでもいい「もの扱い」をされることをどのように解決すべきか。これは、ひとりの平等な指導者が、全員のことを思いやった上で、どんなに絶望の世界になっても諦めず、この世界の解決を目指して、自らの希望を信じて、この世界を救う、つまり「救世主」になるということである。これこそ、マルクス主義的なキリスト教終末・救済論である。社会において疎外されないために、社会そのものの「何を信じて何を守り何を愛するか」ということを考える。真にこの世界のことを救えるような、希望のある解決方法とはなんであるかを考える。そのようにすることで、この世界は必ず、ひとりの勇気だけで変えることができる。そこにあるのは、世界に対する「愛」だけである。

最後に、この世界の「歴史」をよく見ることである。これは教科書通りの歴史ではなく、「想像で考えるような歴史観」が必要である。人間がどこから来て、どこに向かうのか。この世界の時間軸の中で、それぞれの人々はいつの時代どのような世界を生きてきたのか。今のこの世界と、昔のこの世界では、何が違っていて、何が同じだったのか。そのようなことを「想像」から考えることで、この世界を「体験的に予測」することができる。これを「未来学」と名付けられる。そして、この世界の未来はどこに向かっていくのかを考えることで、「どのようにしたらこの世界を自由なまま救うことができるのか」を考えられる。ここに、「環境は生起する」という偉大な哲学を考えられる。なぜなら、社会や自然に存在する場所は「環境」であると考えられるし、それは常に「変化」されながら維持され、「今のこの世界に繋がる」、そして「未来へと残されていく」と考えられる。これを、ある意味で、表の世界と裏の世界、すなわち「知覚と真実」の世界から考えられる。すなわち、「主観から生まれる客観的事実」という、「現象学」として、この宇宙すべての現象を、理由と客観的行動をもって「捉える」ことができるのである。

経験

あとは、とにかく経験が豊富だった。引きこもりになって、ひとりネットを見ながらさまざまな人とネット上で触れ合い、経験した。

誰よりも多くの青春の経験をし、ITの仮想世界の経験を知り尽くした上でオープンソース活動をやっていた。

ほかの誰よりも経験が豊富であるかのような、そのような高校生だった。

ツイッターより @linux691

すべての知識を持つということは、学校の中に閉じこもって教科書を覚えることではなく、さまざまな場所にある広い世界を知って、その知識や経験を知るものと知らないものの架け橋となり、その上でこの世界を統治するためのすべての発想を知り、自らが主体的にこの世界を導く「王」となることである。
posted at 15:59:27

自らが知らなかったことを知って、それがそのまま自分自身を守る「誰しもが持っている常識」であるとするなら、その常識は経験から自らを成長させ、そこにこの世界の「常識を知るもの」と「常識を知らないもの」の架け橋となれるような、「王」が生まれる。
posted at 15:57:12

復讐はすべきではないが、自衛はすべきである。自分自身を守るために、もっともよい方法は、さまざまな経験をし、事前に戦うすべをよく知っておくことである。
posted at 15:56:00

いつまでも人々に迫害され続けるならば、その世界を統治することのできる長となれ。それこそが、王である。
posted at 15:54:54

互いに認め合うことで、争いごとは解決する。そのためには、自分から相手のことを認めること。自分が相手のことを認めることで、相手も自分のことを認めてくれる。これが、相互の信頼関係を作り出す。
posted at 15:54:01

愛を信じれば、世界は平和になる。すべての人間が自由に生きられるということが、正しい社会秩序を築く。全員に自由を許すべきだ。できるだけ、誰かの大切な自由が失われない限り、どんな自由も否定しないべきだ。
posted at 15:52:23

自由で何が悪い。僕は他の人間と関わりたくない。みんなと違う自分が悪いのは分かっている。だからこそ、僕は自由を選ぶ。
posted at 15:11:23

受け入れ続けるのが辛い。
posted at 14:56:05

ストレスを発散し、辛いことを考えないようにせよ。書かなければ発散できないストレスや、過剰に詰め込まれたストレスを、なんらかの別の方法で発散せよ。
posted at 14:43:41

ストレスは、抑え込むだけでなく、発散も必要だ。それで気分がよくなって精神が治る。
posted at 14:34:31

具体的な精神を、抽象的な精神、「超精神」とせよ。文章を書くように、女から子が産まれるように、超精神を作れ。
posted at 11:55:22

僕に関わってくるな。僕とみんなの距離感を大切にしよう。
posted at 10:42:06