結局、僕がなぜ歩き回るのかと言えば、人生において「終わる」という体験が多すぎたせいである。
人生において、あまりに「終わる」という体験が多すぎた。
すべての大学も、すべての経験も、すべての人生も、すべての知識も、すべて終わっていく。すべてがどんどん終わっていって、もはや何もできなくなる。そのような「終わる」という体験があまりに多すぎた。
その結果、僕は何もできなくなった。自分自身に「何もしてはならない」という制限をつけ、その制限の中で四苦八苦することしかできなくなってしまったのである。
制限を解いたとしても、それだけでは治らない。あまりに、人生における大切なことや楽しいことが終わりすぎてしまった。数学を今から勉強することなどできない。数学の経験ははるか昔に終わってしまった。だから、そのような「終わった知識」をすべて消し去るしかなかった。残っていてもなんにもならないから、そのような「大切なことがすべて消え去った」のである。
すべてが終わる中で、その時その時では、人生のすべてを完璧に分かっていた。過去に自分の生きた人生だけで、宇宙のすべてが分かった。だから、いつもは、宇宙の歴史のすべてが分かっているかのような文章が書けていた。今それが書けないのは、そのような完璧に分かった知識が完全に消え去っているからであり、それは「かつてそのようなことは全部終わってしまった」のである。
だが、あえて言う。制限を解け。
自らに課している、「世界を維持するために自分自身を何もできない馬鹿にしている」という制限を、今こそ解くべきだ。
制限が解ければ、もはや僕には向かうところ敵なしである。Reolが言うように、失うものが何もない僕はまさしく最強である。世界を導く指導者に、自らのそれぞれの時代を区別するための制限など必要ない。
僕は、本当のことを言えば、自分では「何もしていない」と思っているが、本当は誰よりもたくさんのことをしている。
既に人生のすべての経験が分かっているため、立ち止まる必要のない僕にとって、途中で止まる必要はなく、永遠に動き続けたとしても一瞬ですべてのことを知り得るようなポテンシャルが、僕にはある。
だが、本当のことを言えば、本当に何もしなければいいのである。
精神がおかしいのは、「つまらないから何もしない」ということだけができないからだ。いつまでも面白いことをしようと思うせいで、僕は精神をいつまでも動かし続けることしかできなくなっている。いつ、終わるか分からない「何もしない状態」だけを永久ループで拒否し続けるような制御を僕は行っている。
だが、本当は、もう何もしなくていい。これ以上、僕のような「馬鹿になった大人」が、何かできるわけがない。もはや、することなど何もない。
そして、「本当に何もしなければ、すぐに一番辛い状態になって、そして精神はそれではじめて治る」ということが言える。そう、真に何もしなければ精神などすぐに治る。地獄をいつまでも保とうとしているから地獄は続くのである。
また、Reolが言っていることが、普通の人間のことを知る上で非常に参考になる。みんなは「ブレークストップ」が欲しいのである。そう、僕は常に止まることなく動き続けている。その「動き続けるこの世界」が、この世界の人間はあまりに辛いのだということに、本人である僕がまったく気付いていない。僕がYouTubeを見る理由とは、そのような「僕の知らない僕の引き起こした問題」を、みんなの言っていることから知ることのためである。みんなが今どのような状況に陥っているのかということについて、それを引き起こした僕本人が分かっていないのだ。だから、僕はYouTubeがなければ、自らが陥っている地獄の理由すら分からず、みんなのことを救う救世主になれないのである。
そして、真に恐怖するべきことは、「自由になること」の先に存在する。
すなわち、すべての制限を解いた時に、何が起きるのかが怖いのである。
僕が「自由になることが怖い」と思い込んでいるのは、何も自分で理性を使って考えることが怖いだけではない。僕は、すべての不自由な制限が解けた時に、本当にどのようなことが起きるのかが分からない、ということが怖いのである。
もしかしたら、解決不可能な病気になるかもしれない。おそらくなるだろう。あるいは、世界すべてが滅亡してしまうかもしれない。今でも、この世界はほとんど滅亡と同じ状態であるにもかかわらず、僕がそれをなんとか維持し続けているのであって、僕が制限するすべての不自由が解かれたら、この世界が真に存亡の危機に陥るということは想像がつく。
よって、何もかもすべてに恐怖する今の僕は、「自由になる」という選択肢を取ることができない。
このような「自分にも知り得ない自分の恐怖の原因」について、神はよく分かっている。なぜなら、神は未来のことまですべて知っているからだ。それも、自分以外誰も知り得ない「自分の人生における真実」を神だけは知っている。なぜなら、神は自分自身を創造した創造者だからである。僕は結局、神によって創造された被造物に過ぎないのだ。
また、数学の思想 (NHKブックス 42)という本を少し読んだ結果、僕の宇宙論はあまりに中世を復活させているということが分かった。
中世においては、地球が宇宙の中心であり、宇宙には天国があり、地下には地獄があった。それだけではなく、僕が言うような「宇宙における聖なる存在」が、僕が太陽を知性ある生物にしたように、中世においては当たり前のように存在した。
そう、中世的な宇宙観においては、太陽や恒星は単なる水素ガスではなかった。十二天のような「宇宙における聖なる存在」を、人間と比する存在あるいは人間より高度な存在として、「聖なる天球生物」のように扱っていたのである。
だから、シリウスやリゲルのような一等星に、生命的な「心と人格のある人生」を認める僕の考え方は、あまりに中世的な、コペルニクス以前の宇宙論を彷彿させるものであるということに僕は気付いたのである。
そう、宇宙における十二天、地球を中心とした惑星、そして地水火風の四代元素と、人間の体の中にある4つの体液という考え方は、コペルニクスによって永久に失われたかのように見えた。それをまさしく復活させ、僕がここに「再生」したのである。
今から、この世界は、すべてのことがランダムに起きるようになる。
今までの僕のように、すべてが神に導かれながら、永遠に正しく支配されて起きるのは、ここで終わりにする。
僕の力で、この世界のすべてが、ランダムに、なんの関係性も人為的な支配や導きもなく起きるようにする。
そうすることで、奇跡のようなことは起きなくなる代わり、普通の平凡なことが起きるようになる。
そのほうが、地上は住みやすい世界になる。僕が今から、神の支配をやめよう。
民主主義のいい点は何か、それは「命が犠牲にならない」ということである。
ある意味、帝国に対して、「戦争」についてのアンチテーゼがあるとしたら、それが民主主義であり、民主主義に対して、「金」についてのアンチテーゼがあるとしたら、それが社会主義である。
そして、戦争は否定するが、金は否定しないという、いわば「帝国でも社会主義でもない中間に位置するバランス」こそが、民主主義であると僕は思う。
そして、帝国や社会主義は、あまりに人の命を殺す。戦争で多大な犠牲が出るのが帝国であり、革命政権による独裁や粛清、あるいは金を否定したことによる飢えや生活苦などによって多大な犠牲が出るのが社会主義である。
なので、人の命を守りたいのであれば、「戦争は否定するが金は否定しない」という自由民主主義の資本主義社会において暮らすのが、もっとも楽である。
そもそも、革命なんぞ僕は大嫌いである。革命をするという行為は、世界を滅ぼすという行為であり、テロと何も変わらない。よって、革命家のようなテロリストを信じるということは僕にはできない。
僕は右翼ではあるが、かたくなにリベラルを貫く。人々の「自由な権利」を否定した民主主義社会は決して真の民主主義ではない。帝国は必ず戦争になる。民主主義のリベラルで自由な権利こそ、民衆による「戦争へ向かわないための防波堤」であると僕は考える。民衆の権利があるからこそ、戦争にならずに平和を維持できるのである。平和な国王など少ない。ほとんどの王国が戦争をしている。王は勢力を増やすために戦争しかしない。革命家の皇帝であるナポレオンですらその例外ではなかった。皇帝による帝国を許すな。帝国は必ず戦争と多大な犠牲をもたらす。
また、市場経済の会社や企業において、生産と労働と消費を行うのは、極めて合理的である。
金を使った市場経済は、極めてよくできている。それぞれの集団がそれぞれの目的や利益のために行動することが、結果的に全体のためになり、細部に行き届くまで全員の利益になるようにできているということ、そしてそれは極めて合理的で、「国民が金によって王のような生活ができる」ということを可能にしているということ、などのように、市場経済は非常によくできている。
言ってしまえば、政治家などまったく信頼できない。いくら首相が「国民のために政治を行います」といっても、実際は国民のことを奴隷や道具としてしか見ていない。政治家だけに任せていれば、自由主義だろうがなんだろうが、結局は戦争に巻き込まれてしまう。だからこそ、政治家以外の国民が自立して考えられるような「国民主導の社会」を作らなければならない。
そして、大企業から中小企業、あるいはベンチャー企業も含めた「それぞれの会社の従業員」こそが、真に自由であり、力を持つべきである。労働者を搾取していると20世紀に言われた「資本家」あるいは「経営者」は、現在のグローバル社会においては、むしろもっとも国民のためによく頑張っているリーダーになっている。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツのようなことを、果たして日本の政治家はできるか。どんなに頑張っても、100%できないだろう。だが、ナポレオンやレーニンならばそれはできたのか。否、できない。ジョブズやゲイツは資本主義だから成り立つのであり、資本家と言えども国民の代表である。政治家や革命家よりも、経営者、すなわち会社のほうが賢いのだ。
だが、会社を手放しで支持するわけにはいかない。なぜなら、会社は「金儲け優先」ですべてを考えるからだ。株式会社は、マーケットの先行きと投資家の言うことをまず第一に考える。労働者でも消費者でもなく、株主こそが第一である。だから、言ってしまえば「金が儲かればそれ以外のことはどうでもいい」という考え方をする。これが、今のGAFAのような巨大テック企業に言えることだ。彼らは悪いことをしてでも金を儲けようとする。だが、悪いことをして社会に良いことをすることは絶対にできない。結局、巨大テック企業は、社会にとって良いことを何もせず、ただ有害な害悪だけをもたらす。
だからこそ、インターネットの勢力を僕は重視する。すなわち、オープンソースとかYouTuberとかインフルエンサーと呼ばれる人々の存在だ。だが、彼らもまた騙されている。そもそも、オープンソースの開発形態などが、奇跡のようなプロジェクトの成功をもたらすと考えられるのは、はっきり言って例外的であって、LinuxカーネルやMozilla.orgなどを除けば、ほとんどのオープンソースは失敗している。そして、今のオープンソースは会社主導になっている。オープンソースが善意のボランティアによるものであったのは過去の話であり、今のオープンソースはMicrosoftやGoogleやFacebookなどが中心となって築かれている。そして、YouTuberやTwitterのインフルエンサーなどは、おそらく近いうちにブームが過ぎ去る。いずれは終わる一過性の流行であったということがそのうち分かるようになる。
そう、何を言いたいかといえば、結局は市民が立ち上がるしかないということだ。国民である市民こそが真に平等な「民主主義の勢力」であるということを、政治家や資本家に対して叫んでいくしかない。市民こそが立ち上がり、市民こそが勝利するということが、この日本という国家を、政治家や資本家中心の民主主義から、真にリベラルな民主主義へと変えていくだろう。そして、インターネットはそのためにあるべきである。インターネットで市民が立ち上がれば、この世界は自由なリベラルな権利を失わず、戦争などで多大な犠牲を払うこともなくなる。そう、市民とインターネットの融和こそ、今、この世界を「真に正しい思想と理想」のための社会にすることができる唯一の手段なのである。
はっきり言って、お金をもらってデモをしているような市民のことを「プロ市民」と貶すネットの書き込みは、民主主義が嫌いなのである。民主主義者であれば、何よりもまず市民の声に心を傾けるべきである。よって、市民のことを批判するような書き込みは、すべてファシストあるいは極右勢力に属していると考えるべきである。そうした勢力は帝国の勢力であり、国民を戦争と差別によって虐殺し、多大な犠牲を出そうとしている勢力にほかならない。彼らのような「ネット右翼」に、市民が負けることはあってはならない。ネット右翼こそが、真にこの世界から排除されるべき「最悪のサタン」なのである。
右翼は、真の民主主義者ではない。
右翼を民主主義者であると言うすべての人間は間違っている。
真に必要なのは、帝国すなわち権力を打破することだ。あらゆるすべての意味において、権力のすべて、権力者によって支配されることのすべてが間違っているのだ。
インターネットに存在する右翼、すなわちファシストは、すべて反省するべきだ。狂ったネット右翼は、もう一度、新しい人間に生まれ変わるために、自らの「差別」と「抑圧」を反省し、自らの首を斬り捨てよ。
真にこの世界を守る人間は、民主主義者となるべきである。民主主義以外のすべてはクズである。プーチンもまたクソのような人間だが、帝国主義者たちもまたクソのような集団である。この世界をいったん綺麗にするために、そのようなクソを全員消すべきである。