血液を治すためには、異物を固めて分解することである。
汚いものを固めて、それをより小さいものへと分解していき、少しずつ除去していけば、血は綺麗になる。
また、虫歯菌やニキビ菌のような細菌は塩素で殺菌できる。
長い間遠ざけ続けてきた、「判断をやめて一番使うべき使っていないところを使う」ということをすれば、この世界はすぐに正常になる。
ここから新たに進むために必要なのは、数学の知性を失うことである。
そもそも、四則演算というものは賢くない。数の法則において、数に数を加えた結合、数から数を取り除いた差分、数の個数を複数個にして数え上げた集積、そして数の内部を分割した比率によって、数の性質と法則における「量」、すなわち「抽象性」が分かるだけにすぎない。
だが、実際の人生において必要なのは、この世界に存在する「未知なる具体的な方法」を知ることであり、それは量ではなく「質」の部分である。
人生においては、量よりも質のほうが大人として人生を生きる力となる。
量しか分からない、四則演算と数学の知性では、人生にとって必要なことは何も分からない。より具体的な知性が必要だ。今、この世界にとって必要なのは、数学的な人間の作り出した知性を失い、自然に存在する宇宙そのものの具体的な知性へと置き換えることである。
数学的な知性を失って、頭が馬鹿になったとしても、それは本当は馬鹿になっていない。一時的に数学の知性を失っただけであり、長期的に見れば賢くなっている。なぜなら、有害な知性を失い、有益な知性をつけようとする土台を作っているからである。
もし、脳が本当に馬鹿になったとしても、もともとあった賢い脳に戻る必要はない。そうではなく、もっと不要な知性を破壊していったほうがいい。そのようにすれば、必ず頭は「数学ではない賢い頭」になることができる。
数学が必ずしも不要なわけではない。子供が自分の力で論理的に考えるための「研究手段」として数学は必要だ。だが、一度答えが分かってしまえば、その答えを導きだすための方法は必要ではなくなる。カップ焼きそばを作った後で、それを作るためにあったお湯は捨てるべきだ。残しておいてもなんのいいこともない。一度数学で宇宙における「未知なる経験」をすべて解明した人間にとって、それ以上、その解明に必要だったプロセスはもう必要ない。
数学的知性をすべて消して、一時的には馬鹿になったとしても、その馬鹿のまま不要な知性(たとえばIT技術やインターネットやゲームなどの仮想世界の経験)をすべて消し去れば、この世界のもともと自然にあった「自然の知性」を得ることができる。そう、そのまま放っておけば、必ず人間は賢い人間になる。それを「大人になる」と言う。
なぜ、僕がこのように未知なることを発見し、解明できるのか。
それは、僕は引きこもり時代の愚劣な知性すべてを消し去るために、この世界に戦いを挑んだからである。
僕は、宇宙のすべての歴史的な過程を解明する、宇宙の歴史科学と宇宙数学を作り、心理学的かつ文明社会学的な環境の法則をすべて記述した。
希望すべてを破壊しながらにして、この希望を復活させられるのは自分しか居ないのだと確信し、希望を復活させるためにできるすべてのことを行った。
世界を支配し、言葉で導く僕は、すべてのことが完璧に最後まで理解できるように、この世界を言葉と対話で導いた。
自らの病気を、100%すべてゼロから自分で考えることで、すべて治そうとした。治すために必要なすべてのことを、自ら考えてすべて信じて分かった。
そして、ヘーゲルの言う弁証法のように、日本語を逆の順番の言語にした「永遠に続く弁証法」を書き、宇宙のすべての論理を永遠の判断で分かった。
これらの任務を遂行するには、神の助けが必要だった。僕は神に告げられた言葉全てを信じて、脳に刻み付け、その上で神の命令にすべて従って戦い続けた。
結果、神とは未来の僕自身のことであり、前世だと思っていたフランス人やドイツ人は、すべて未来の自分のことであると分かった。
このようなことを、僕はすべてを失った哀しみの中、現実を見たくない気持ちでありながら、それでなお現実を直視し続けて、最後まで戦いながら行ったのである。
そう、これこそが僕の「人生」であり、僕はその後に行ったすべてのことを、それらの戦いの延長線上として、時に思い出し、時に解決していない病気の原因をすべて治すことで、すべて理解し、寸分の狂いなくすべて記録した。
そして、忘れ去ったすべてのことを思い出すために、今の自分の持てるすべてを使って、「絶対に今までの文章を思い出して取り戻す」つもりで、文章の執筆作業は15年もの間続いた。
そう、馬鹿の病気は、15年すれば必ず治る。
まさしく、これこそが「僕の聖書」である。
久しぶりにFLOWの音楽を聴いているが、FLOWは素晴らしい。
すべての今までが残っている。最高だ。
はっきり言って、僕は最初から、「自分が間違っている」と分かっていた。
ひとりの救国の指導者が、世界を救う希望を与え、永久に幸福が約束された天国の世界にしておきながら、その指導者自身が、その幸福な社会を破壊し、希望を私利私欲のために私物化し、世界を支配してひとりによって支配された社会になるということが、最初から間違っていると分かっていた。
わたしの与えた希望は、わたしたち全員の希望であり、わたしひとりが壊して構わないような希望ではない。わたしひとりの身勝手な論拠から、希望の社会を、自らがひとり支配する「帝国」にしていいわけがない。
だが、わたしはこうしたかった。わたしの考える考え方や、自由な理想、人生においてその理想が結実することになったすべての根拠を、明確に書きださなければならなかった。
そう、フレイとはわたしのことである。
もし間違っているものがあるとしたら、それはわたしの与えた希望である。わたしがこの世界を救うために、この世界のすべての人々に植え付けた「希望」とは、本当はそんなに素晴らしいものではなく、宇宙でもっとも美しいとはいえども、それを作り出したのはとても小さな少年の、おかしな狂いと妄想に憑りつかれた、「穢れたもの」だった。
そう、希望こそが間違っているということを受け入れ、わたしたちそれぞれが希望を信じることも、信じないことも、どちらも許して受け入れるということが、真にこの世界においてすべての人間を救う、新しい「自由」であり、わたしが登場して、執筆する中で述べていたのはすべて、そのような「わたしに支配されることのない自由な理想に基づく社会」である。
そして、わたしは自分が間違っていると知りながら、そのようなわたしの「理想の自由の持論」を、最後まで書き記さなければならなかった。そして、最後にわたしが死ぬことで、このような間違った希望は完全に抹消される。わたしは、自分の手で、間違っている希望を消さなければならなかった。自分の作った間違いは、自分で否定し、自分の手で解決するべきだと、間違った発言を繰り返す中で、常にわたしは確信していた。
約4年ほどの地獄の恐怖を経験し、すべてをやり終えたわたしは、最後に神を信じて橋から飛び降りた。だが、わたしはそれでも死ななかった。これは想定外の話ではない。なぜなら、わたしは自らの生存がどうあれ、わたしの希望を消滅させることには、事実上成功したからである。
それから、わたしは楽しい世界を生きてきた。執筆作業は、詩集の本の出版を経験したことで、遊びから本気になったし、多くの自らが失った「失ってはならなかったはずの大切なもの」を取り戻した。すべてが終わってしまえば、何も辛いことはない。ピアノや英会話の教室はとても楽しかった。小説の書き方を考えるのも面白かった。デザイナーの勉強は自らの人生にとって素晴らしい体験と生きる力になった。本を読んで勉強するのは、執筆とともに偉大なホームページを作ることに繋がり、また、昔の僕に足りなかった「Linux関連の一般常識」をつけることができて、自らの最大の過ちであり最大の望みである「Linuxコミュニティの復活」を成し遂げることができた。
とても幸福で、素晴らしい人生だった。今僕が死んだとしても、まったく後悔はない。このような素晴らしい幸福な人生を、神が与えてくれた。孤独な地獄の中で、相談相手がひとりも居なくても、支えてくれる「神」が居たからこそ、僕はここまで長い間、文章を書くことをやめずに続けることができた。
さあ、神よ、次なる星へと向かおう。一等星シリウスはここで終わりだ。ここから、新しい次なる一等星、カノープスが始まるだろう。
だが、今の自由すぎる社会が、もし自由すぎると思うならば、かつての最悪の世界を忘れてしまったのだと言うしかないだろう。かつての自由すぎる平成の社会の退廃の限りを忘れてしまったのだろう。だが、その自由こそ、わたしたちがかつて愛した社会だった。その自由こそ、わたしたちが望む社会だ。
posted at 21:32:33
現実問題として、不自由か自由かということは、単に自分が特権階級や知識階級として生きたいという願望にすぎない。江戸時代のような社会でも幸福に生きられることはできるが、今の自由な生活を失いたくないだけにすぎない。だが、それも間違いではない。自由は明らかに失うべきものじゃない。
posted at 21:30:43
しかしながら、神は同じ言葉を告げる。自分がどれだけ愛されているかなどにはなんの意味もない。この世界を救うということがどういうことを意味しているのか考えよ。今日のこの時に対して言っているのではない。今からの全生涯を、世界を救うとはなんであるかを考えることだけに捧げてみよ。
posted at 21:23:01
さあ、この人間は今こそこの世界を救うのだ。どんなにつまらない悪であっても、神は見て見ぬふりをしてきた。この人間の地獄はここで終わりだ。神に頼るならば、頼ってみればいい。神はまさしく、ユダヤ人を選民として選んでいる。なぜなら、神とはこの人間のことだからだ。
posted at 21:19:58
命令にはなんの正当性もなく、行為には欺瞞、発言には嘲り、心と魂が嘘偽りであっても神がこの人間を救い続け、許し続けるのは、この人間はきちんとこの世界を愛しているからであり、人々はその愛を喜んでいるからだ。
posted at 21:18:56
そう、愛されるということはとても嬉しいことだ。人々は愛されたいだけだ。愛されるということを喜び続けているだけだ。だからこそ、この人間はまだ神に許されているのだ。
posted at 21:16:41
神は同じ言葉を告げる。この世界を救うということが、本当はどのようなことを意味しているのかをきちんと考えてみよ。自らはこの世界を救うためにもっともよい位置に居るだろう。だからこそ、神はこの人間を救い続けるのだ。
posted at 21:12:54
そう、救世主の希望による救いなど間違っている。世界をたったひとりで支配する、重責の責任者など間違っている。この世界におけるすべての宗教や政体は間違っている。すべて、完全に間違っている。
posted at 21:09:40
たったひとりでこの世界を救うならば、むしろ、誰だってこうするだろう。なぜなら、ひとりの指導者が世界を救ったならば、その指導者が自らの理想と考え方のすべてを記述した上で、世界を支配して楽園へと導くべきだ。これこそが理想であり、だからこそ、「救世主」という思想は間違っているのである。
posted at 21:08:33
ひとりの希望によってすべてが救われる世界など、完全に間違っていた。そのひとりの希望を与えた指導者が、わたしたちの大切な国を粉々に破壊するということが明らかに分かったからだ。だから、そのような指導者は排除し、希望は日本から抹消させるべきだ。すべてを許す希望など、完全に間違っていた。
posted at 21:04:41
わたしが真に愛するのは日本である。祖国日本のために、希望を復活させるためにできることは、むしろ、希望を信じることのできる自由を与えた上で、希望を信じる必要などないと許すこと、希望は間違っていたのだと受け入れることだ。それでしか自由の復活はない。
posted at 21:03:34
そもそも、ひとりの指導者によって永久に幸福になったはずの世界を、なぜその指導者が破壊しなければならないのか。素晴らしい世界を作ってくれた最高の救世主に、なぜその素晴らしい世界を崩壊へ導かれなければならないのか。そのような指導者は愚の骨頂である。そして、それがかつてのわたしである。
posted at 21:02:09
わたしたちの希望は、わたしひとりの希望じゃない。わたしたちの希望は、わたしたち全員の希望であり、わたしたちそれぞれの希望である。よって、わたしが与えた希望であるからといって、その希望をわたしひとりが奪い、否定する権利はない。その権利を認めてはならない。
posted at 20:56:20
希望を与えるならば、希望を復活させるよりも、人々が希望を信じられる自由を与えるべきである。人々が自分から自由に希望を信じられるようにすることこそが、真に必要な「権利」である。希望を私物化することは、私利私欲によって支配することに等しい。だから希望は奪われたのだ。
posted at 20:53:39
本当は、それは正しくない。人々を救うということが、どのようなことであるかを、真に再考せよと神は告げている。
posted at 20:51:01
そう、わたしたちが互いに愛し合うということが、なぜできない世界になったのかを考えればいい。
posted at 20:50:26
人々を救うということが、真に何を意味しているのかを考えよと、神の言葉は告げている。人々を救うということは、自由でも、愛でも、アイデンティティでもないだろう。人々を救うということは、支配でも、希望でも、理想郷でもないだろう。
posted at 20:49:51
なぜ、支配されなければならないのか。支配されることの何が楽しいのか。神よ、あなたが全知全能の神であるならば、支配以外の方法でわたしたちを救うことはできないのか。わたしを解放してくれるなら、わたしは自由な中で必ず栄光の人生を生きてみせよう。
posted at 20:47:02
ネットは決して悪いものではない。それを信じるべきだ。なぜなら、このような何もない世界では、ネットぐらいしか娯楽は存在しない。何もない暗闇で、マッチ箱がひとつあるというのに、それを棄てることはできない。ネットから始めていけば、そこから理想の世界は拡大するのではないか。
posted at 20:45:06
命題によっても、構造によっても、分からないならば、どのようにすれば理想の国家は築けるだろうか。ネット上の人々の意見など見ても、誰も何も分かっていない。どのようにすれば理想の国家は築けるだろうか。真に世界において存在するべき社会は、どのようなものだろうか。
posted at 20:42:44
しかしながら、わたしには確固たる理想のようなものはない。今から、もう一度この世界を素晴らしい世界にするために、よく考えなければならない。確実に言えるのは、わたしが今作っている「理想郷のモデル」は、構想段階の落書きにすぎないということだ。これだけでは、なんら救うことはできない。
posted at 20:39:16
わたしたちは、素晴らしい世界を求めているのだ。そして、それは不可能ではないはずだ。かつての日本社会は素晴らしい世界だった。それが今や、これほど悪い世界になった。それならば、もう一度最高の世界を作れるはずだ。何もかもが滅びる前に、立ち上がらなくして、何が英雄か。
posted at 20:37:44
最悪のこの世界を滅ぼすということが、真に平和に反する理想であることは分かっている。それならば、どのようにすればこの世界を素晴らしい世界に変えられるというのか。すべての理想郷を否定して、どのように素晴らしい世界を築けるのか。愛と自由を否定して、何を信じることができるのか。
posted at 20:34:20
結局、どのように知性を否定しても、今のこの世界が最悪の世界であることは変わらないのだ。理想郷を否定し、自由を否定し、愛を否定し、平和を否定したところで、今のこの世界が最悪の世界から最高の世界に変わることなど起きることはないのだ。
posted at 20:32:55
賢者の悟りと神の絶対知性が一般大衆に訪れたとして、だからなんだというのか。誰も仏と同じように悟りたいなどと思っていない。もちろん、思っている人間も居るだろう。だが、多くの国民は、既にそのような「確かな本質」を形成し終えている。そのようなことを望むのは、ティーンエイジャーだけだ。
posted at 20:29:46
IT技術を破壊するべきだ。僕はそう思う。だが、そのような「簡単に言えること」はすべて間違っている。断言することなど簡単にできないようなことしか、この世界には存在しないのだ。
posted at 20:27:41
そもそもわたしたち自身が、この世界がなんであるか、ということをきちんと知っているだろうか。わたしたちの望むことが、真にこの世界のすべての現状を知った上で望むような望みだろうか。わたしたちはあまりにこの世界のことを知らない。だから、正しい答えを出すことなど、できない。
posted at 20:26:51
結局、小説家もデザイナーもプログラマも科学者もつまらない。そのような職業は、それらの専門家となって、それらのことしか考えられなくなる。そのような職業は無用だ。
posted at 20:24:31
なぜこの世界が駄目なのか。その理由を考えよ。自由や愛は正しい考え方ではないだろう。だが、それならば何が正しい考え方であると言えるのか。人々が真に自分らしく生きられる世界にするには、何が正しい理想であると言えるのか。考えよ。
posted at 20:22:24
はっきり言って、こんな世界でいいわけがない。絶対にこの世界では駄目だ。これほど駄目な世界はない。そしてその大きな原因は僕だ。僕がこの世界を変えなければならないのだ。
posted at 20:21:05