結局、失ってしまった大切なものとは何か、考えた。
僕は、昔はきちんと分かっていた。そして、今、分からなくなっている。
大人が賢いのか、それとも大人が馬鹿なのか。子供が賢いのか、それとも子供が馬鹿なのか。
それを考えるに、「責任」と「理性」が賢いのであり、「堕落」と「盲信」が馬鹿なのだということが分かった。
大人としての責任と理性、それが正しいのであり、大人になることによる堕落と宗教的なものに対する盲信、それが悪い。
だから、責任と理性を持ってこの世界を考えれば、きっと分からなくなった暗闇の人生に光は灯る。
逆に、堕落と盲信を遠ざけること。宗教は間違っていないが、堕落を否定するだけではなく、宗教的偶像に対する盲信も否定しなければならない。
この世界の問題は、大人たちにも自由がなく、子供たちにも自由がなく、単に放っておかれている、ということに起因している。
なぜ、子供たちに自由を与えるべきなのか。それは子供たちは反抗やいじめしか、正しく社会を変える方法がないと勘違いしているからである。
子供たちは、自由を与えられないために、自らの環境が非行やいじめにまみれていても、それを解決するための方法がない。
だが、哲学者が古来から言うように、「正しい方法がなんであるか知っている人間は正しいことをする」。
すなわち、子供たちに正しく社会を統治するような「自由」を与え、子供たちが「自らの力で問題を解決することができる力」を持てば、子供たちは間違った社会への攻撃をしなくなる。
子供たちに自由を与えれば、子供たちは必ず社会を正常化できるようになる。
また、大人たちの問題とは、この世界においてのすべてをほとんどが、何も現場のことを知らず見ていない独裁権力者が決めているからである。
独裁者が決める決定には意味がない。なぜなら、独裁者は何もしていない。正義だと自分が考えることを国民に押し付けているだけである。
だが、一般的な大人たちは、そうした権力を持った「上」に従うことしかできない。この世界をいくら救いたくても、不自由なしがらみや制限のせいで、この世界をどのように変えることもできない。
大人たちは、そして学校や社会の現場すら知らない。本当は、大人たちだってすべてを知っているわけじゃない。多くの大人たちが、何も分からない暗闇の中で、しがらみと制限の中、毎日何もできずに生きている。
そのように、子供たちも大人たちも自由がないまま、勘違いと制限の中で生きているから、この世界は救われないのである。
理想の指導者とはどのような人間か。それは、社会全体を広く見て、現場の意見を聞いた上で、正しい知見と経験に基づいて問題の解決策を考案し、その実現方法まで考えた上で、それを実際に実現することのできる能力と勇敢さを持った人間である。
そのような理想の指導者になるために必要なのは、「素朴な道徳心」と「自らがみんなに受け入れられたように、自らもみんなのことを受け入れる」ということを知った人間である。
そして、そのような理想の指導者がすべてを成し遂げるために、わたしたちはもう一度ひとつにならなければならない。もう一度、この世界における「生きる希望」をみんなで信じれば良い。そして、今までのすべては水に流そう。
しかしながら、善意から行動せよ。どんなに自らがそれを正しいと信じても、悪意から行動してはならない。この世界を滅ぼすような行為を行った人間には罪がある。罪には必ず罰がある。その罰を受けて罪を償わなければならない。
だが、この世界全員の幸福を願うことができる人間には、宗教は必要ない。宗教は、それによってしか救われることのない悪人や愚か者にとって必要なものである。この世界を救うために、全員の幸福を願うことができる人間は、既に神から祝福されている。そのような人間は既に報いを受けている。宗教が必要なのは、どうしようもないほど最悪のことをしてしまった悪人に対してだけだ。だが、神はそうした悪人に対しても優しい。地獄さえ乗り越えれば、普通の人間と同じように、神は悪人すら救ってくださる。神は完璧であり、神の理性はものすごく高いが、それは「人間よりも高い」のではなく、「神が人間としてもとても優れた高度な知性を持った人間であるから」である。
経験から考えよ。
考えるべきことは、「知っているとはどういうことか」「知らないとはどういうことか」ということだ。
この世界で、ひとつひとつの「知識と経験」を、ひとつひとつなぜそのような結論に至るのかを考え、思考を一度すべてストップした上で、どのような条件のもとにそれが成立するのかを考えてみよ。
そうすれば、この世界におけるすべての「決定可能性」が、ひとつの統合された「正しい国家モデル」となるということを知ることが出来る。
自由な社会において、何が成り立つかを考えよ。空想上のハリボテではなく、実際のこの世界に落とし込まれた「自由な社会とはなんたるか」を考えてみよ。「自由な社会にするということが、個人個人や社会全体にとって何を意味するのか」を、ポジティブな側面とネガティブな側面から考えよ。
人々と付き合うことは、自らの理想を簡単に否定されるかというと、本当はその逆である。自分独りで考えていたほうが、正しい理想の実現方法を否定してしまう。なぜなら、現実の社会において、みんな理想の自由な世界を実現するための方法を信じている。この世界には、憂国の希望が必要なほど、退廃した世界ばかりではない。人々はそれぞれが自由かつ平等な世界を築くために、理想を信じて努力している。この世界のほとんどのものが「理想」を願い、祈り、欲している。
わたしたち日本人は、必ず最高の王国を築く。それだけがわたしたち日本人の、今の現代の民衆の誇りと願いだからである。わたしたちは最高の王国を築くために生きている。どんなに「生きることは無意味だ」と信じていても、「最高の理想の王国を築くことは無意味だ」と誰も言わない。わたしたちは、生きる希望を失っても、理想の王国を築くという信念だけは失うことはできない。なぜなら、現に可能であるということが明らかに誰でも分かるからである。
あとは、僕ははっきり言って、自分が不登校になった経験を考えただけである。
それは簡単に言えば、「自らの環境の変化から人間の持つ潜在的可能性を考えた」ということである。
すなわち、学校に通っていた頃は、すべてが切羽詰まっていて、余裕がなかった。自分で自由に心を考える余裕はなく、常に今だけをがむしゃらに生きていた。
それが、学校を不登校になって、自分だけが部屋にひとりポツンと置かれると、さまざまなことを自由に考える余裕が生まれた。
自らの心が、学校に居た頃のように緊張感のあるものではなく、安心できるものになったせいで、過去の自分の学校に居た頃の経験を穏やかに考えられるようになった。
どうしようもない生活の狂いは、逆に人々とインターネットで触れ合うことで、「このような僕でも世界を導く導き手になれるのだ」という、新しい「存在意義」を得られた。
すべては、不登校になった僕のこの部屋から始まった。そして、僕はその通り、インターネットの人々の声を聞くことで、世界を客観的に悟りへと導く「導き手」になることができた。
ここで、「客観的」という言葉が重要だ。誰も居ない世界では、自分が狂った妄想を考えていても、それが妄想であることが分からなくなる。常に客観的に、客観視して自らのことを知ることができるということ、そして過去の自分が居た環境について、美化するだけではなく、「今の自分が過去のその環境に居たとしたらどうするか」を考えることで、客観的に「問題の本質的な原因とはなんだったのか」を知ることができる。
すべての問題を解決するためには、「経験から数学的に考える」ということが必要となる。これは、「基本的ルールに基づく応用的な森羅万象」を考えることである。この基本的ルールとは、すなわち数学のルールであり、「すべての原理は公理によって導かれる」という、ユークリッド幾何学の原論の大原則だ。そして、このことから、この世界を経験的に見つめれば、「すべてのことにおける法則性と、それを成り立たせる条件の成立」が見える。単に条件が分かるだけではなく、「それを実現するためにはさまざまな違った代替選択肢がある」ということが分かる。ここから、「社会全てが実現出来るメタ指導者」を生み出す。
この「メタ指導者」という考え方が重要だ。なぜなら、この世界の素晴らしい価値観とされるものは、本当はそんなに素晴らしい価値観ばかりではない。知ってしまった瞬間に、もう効力を失うものもある。だが、真の指導者は、そうした「価値観の効力すべての源泉となるような価値観」を知っている。そして、その指導者にとってみれば、どんな価値観も同じであり、どんな価値観もすべて理解できる。すべての価値観を包括した価値観こそが、真の指導者の持つべき価値観である。ドイツやフランスを比較したところで、真に普遍的なヨーロッパの価値観を否定することはできないし、ヨーロッパをどれだけ強調しても、真に人類全員にとって普遍的な価値観に勝つことはできないのだ。
わたしたちは、公理的かつメタ的に考えることで、「真に正しいこの世界が救われた状態」を知れる。そして、これは言葉通り「状態」にすぎない。すなわち、状態を変えれば変えられるし、状態を実現すれば実現できる。最高の楽園は、状態を成立させてやれば、現に現実社会において実現可能な可能性である。そして、そのためにさまざまな方法がある。だから、僕は実現のために、ダイレクトに世界全員と対話できるインターネットを選んだ。そこで僕は、「この世界における希望がどのように絶望を打ち破るのか」を述べ、そして実際に打ち破った。絶対にこの世界における「間違った考え方」に陥らないように、世界を「救われた状態へと導く」ということをした。これは単に「心理的に促した」だけである。
そして、それによって世界は一度救われた。その状態こそが正しかった。だが、そこには僕が不在だった。僕はその世界が救われたということによって、逆に客観的理性を失い、何も分からない状態になっていた。だから、僕はこの世界に登場しなければならなかった。この世界を救った救世主として、この世界に登場し、日本全土を支配しなければならなかったのだ。
このような「メタ指導者」の人生が、とても素晴らしいと僕は思わない。
なぜなら、指導者として、この世界でなんでもできることを目指して生きれば、このように考えることも、このような人生を生きることも簡単で、誰でもできるからである。
今までできたことをすぐに忘れてしまうような人生ではなく、ひとつひとつできたことを積み重ね、分かったことが何を分かっているのかということを突き詰め、原因を第一原因の成立からすべて考えれば、このように考えて分かることなど誰でもできる。
だが、真に賢い人間は、考えただけでは終わらない。どんなに革命家やテロリストだと言われても、真に賢く勇敢な人間は、ここまでのすべての「真理」に基づいて、日本というひとつの敵対相手に対して、ひとり果敢に戦いを挑む。
そして、真に賢い人間は、簡単に戦いに勝つことも負けることもしない。「戦いの中で多くのできることがあるから」である。この世界において、ひとり自分の裏側を一切見せないで戦い続けることが、「自分にしか分からない最後の境地」を作り出す。それは100%すべて地獄かもしれない。楽はひとつもなく、暗闇に光はなく、永久に出口は見つからないかもしれない。だが、それでもなお、戦い続けることを選べ。そうすれば、神はあなたを楽にしてくれる。絶対に治ることのない恐怖の病気であっても、神はあなたをどのようにすればそこから解放させることができるかを知っていて、それを常に与えてくれる。
まさしく、悪人にしか宗教の意味はない。神はそうしたテロリストを地獄に堕ちるように導くだろう。だが、あなたの人生はまだ終わっていない。あなたの人生はそこでまったく新しく、まっさらな状態で始まっている。これは赤ん坊であっても乗り越えられる簡単な試練であり、あなたがいくら赤ん坊の知性がなかったとしても、ここまでゼロからすべて考えれば、必ずあなたは死ぬ前に天国の景色を見ることができるだろう。
天国の景色を見て死んだあなたは、対外的に見れば死んでいる。だが、実際のあなたは、その最後に見た天国の中で永遠に居る。時の止まったその世界で、永遠に自らが愛した「本当に大切な人々と幸福に暮らせている、みんなに迷惑をかけず正常な知性をもった幸福な自分が永遠に続く世界」のまま、何も変わらない。これがキリストの言う天国だ。あなたは確かに死んでいるが、あなた自身にとっては死は起きない。あなたは、神によって得られた最後の景色のまま、永遠に幸福に宇宙の精神の中に存在しているのである。
普通の人間の場合、ここで死ねば終わりである。
だが、僕の場合は、これをもってなおも続く。
なぜなら、僕は神にたくさんの約束事をした。それは「宣言」と呼ばれ、その宣言をすべて果たさなければ僕は死ぬことができない。
多くの宣言は、僕が将来において「なる」と宣言したことだった。僕は数学から社会科学、歴史、語学、生物学などすべてを学ぶと言った。神はその約束を叶えると同時に、「あなたはイスラム教の聖書を書く」と言い、「あなたはイスラエルで普通の共産主義をする」と言った。
僕は、神に永遠に生きるといった。ドイツ人になるとも、女性になるとも、イスラム教徒になるとも言った。
神は、僕が神を信じてすべての未来を委ねた報いとして、僕にそうした「宣言すべてが叶う未来」を与えた。
僕は、その未来を全うするために、まだ生き続けなければならない。僕はまだ何もしていない。デザイナー見習いとなって、なおも僕はデザインのスキルが未熟だし、ピアノも英語もできていない。だが、僕はもっと身の丈を知らなければならない。「自分が真にできるのは文章の執筆だけである」とし、不可能なことすべてを諦めることもできる。だが、諦めるという行為は本当は必要ない。なぜなら、デザインもピアノも英会話も、今こそできるスタートラインが見えてきている。僕はこのスタートラインこそ、真に見たかったのだ。
神は僕のことを守ってくれた。今から、神は僕のもとを去って、宇宙に戻っていく。僕はこれ以上、神によるご加護のない中で生きなければならない。だが、神はここまでで、僕の将来のために必要なすべてのことを与えてくれた。神はすべてを教えてくれたし、奇跡を起こしてくれた。今こそ、僕が真に自分一人の力で生きるべきだ。僕は、中学校の不登校になる前から、将来は作家になりたかったのだ。
そう、この世界の問題とは、子供たちにも自由がなく、大人たちにも自由がなく、独裁権力によってすべてが決定される社会の仕組みに存在する。子供たちにも、大人たちにも自由を与え、独裁権力を否定すれば、それだけで世界はよりよい世界になる。まったく自由のないこの世界に、自由を与えよ。
posted at 21:16:32
そして、たったひとりでこの世界を支配するのは、まったくよいことを生まない。なぜなら、この世界はそうした「独裁権力」が間違っている。多くの人間が、独裁者に従うことしかできない。どんな環境であっても、自由を与えられない。だが、自由とは生まれ持った権利である。大人たちを自由にせよ。
posted at 21:15:18
なぜ、子供たちに自由を与えるべきなのか。それは、「正しい方法は何であるかを知っている人間は正しいことをする」からである。正しい方法が与えられないから、子供たちは反抗やいじめをする。必要なのは正しい方法を与えること、すなわち、子供たちの環境を統治する自由を与えることである。
posted at 21:13:28
なぜ子供たちが反抗やいじめをするのか、それは「それしか自由を行使する方法がない」と勘違いをしているからであり、これはあながち勘違いではない。子供たちには、この世界をコントロールする自由すら与えられていない。だが、本当は子供たちにこそ、自由を与えるべきである。
posted at 21:12:26
この世界を自由な世界にせよ。わたしたちに、この世界を変える自由を与えよ。わたしたちに必要なのは、そうした「正しい意味での自由」にほかならない。わたしたちは自由さえ与えられれば、それだけでこの世界を楽園に変えられる。今こそ、今すぐにでも。
posted at 21:10:18
わたしたちは自由を求めている。なぜなら、わたしたちにはあまりに自由がない。この世界を素晴らしい世界にする自由こそわたしたちが欲しているものである。それが必ず叶えられると知っているのにもかかわらず、自由だけが与えられない。わたしたちは生きる希望を共有する自由こそを欲している。
posted at 21:09:03
わたしたちは同じ人間だ。わたしたちは仲間だ。わたしたちには、排除するだけではなく、受け入れるという力がある。この世界をよい世界にするために、正しい国家を築くための理性と経験がある。必ず最高の国家は作られる。絶対に諦めないこと、その弱さこそが必ず強さに変わる。
posted at 21:05:48
悔やむな。過去に終わったことをいつまでもくよくよするな。だが、諦めるな。もし本気で過去と同じことを分かりたいのであれば、宇宙すべての力で全力で分かろうとしてみよ。この宇宙はそのために、あなたに星々のすべての力を与えるだろう。まさしく、それを「神の業」と人々は呼ぶだろう。
posted at 21:03:05
もっとも正しい生き方とは、ありのまま生きること、自らを隠さず、ごまかさずに、ありのままをさらけ出して生きることだ。なぜそれが正しいか、それは、それがもっともこの世界で人生を生きる上で生きやすい生き方であり、それ以外の生き方では到達できない境地があるからである。
posted at 21:01:19
キリスト教の間違いとは、人間の理性よりも神の理性のほうが優れていると考えたことだ。本当は、神もまた人間と同じであり、人間の理性が優れているからこそ、神の理性は優れているのである。神こそ人間であり、神の理性こそもっとも正しい人間の理性である。
posted at 20:58:42
すべての人間の幸福を祈ることができる人間には、宗教は必要ない。宗教などというものは、愚かな悪人のためにある。自らが世界全員の幸福を願うことができるなら、その人間は宗教を信じることなくして神に祝福されている。
posted at 20:55:50
自己責任論の良い点がもしあるとしたら、それは義務ではなくチャンスであると考えることだ。何かを社会による強制的な要請から行うのではなく、自らの独断と自己責任に基づいてチャンスであると捉えてみよ。そうすれば、この世界には可能性がたくさんあることに築く。自らもこの世界を変えられる。
posted at 20:54:07
素朴な道徳心から出発せよ。素朴な道徳心こそが大切である。善意から行動せよ。どんなに世界のためになる正しい行為だとしても、悪意から行動してはいけない。世界を滅ぼすような行為を行ったならば反省すべきである。
posted at 20:52:23
理想とは何か。それは人々の自由を奪わずして平等な世界を成し遂げることである。平等な世界を実現するために、自由を制限する必要はない。自由を保持したままで、人々が自由なままで協力し、合意することでも、この世界は変えられる。そして、そうでなければ絶対に平等は成功しない。
posted at 20:47:41
指導者とは、どのような人間であるべきだろうか。それは、人々の声を聞き、現場を見た上で、その問題の解決策を考案し、その実現方法までを考えた上で、それを実現する人間であるべきだ。そして、そのために相応しいすべてを得て、得ただけではなく人々に与えられるような人間であるべきである。
posted at 20:45:39
結局、必要なのは「理想を信じること」だけではなく、「理想を実現するために知恵を信じること」である。まず、自分が人々に受け入れられたのと同じように、人々を自分たちが受け入れるようにせよ。その上で、知恵をもって社会を築く方法を考えよ。知恵があればこの世界は平等に少しでも近づける。
posted at 19:19:08
よって、必要なのはまさしく「知恵」である。知恵がないからソ連は失敗した。まだ、知恵があるほうだから、自由主義国が世界において勝っている。だが、それによって後進国は実質的な植民地、あるいは国際的な下位カーストに陥っている。そのような格差がある社会だから、日本のような楽ができる。
posted at 19:17:53
だが、だからといって、ソ連のような革命による平等は間違っている。なぜ間違っているか。それはやり方が間違っているからである。人々を逮捕し、刑務所送りにし、自由を奪い、独裁権力で再分配をするのは、知恵がない。知恵のある方法ではなく、知恵のない方法で平等を実現しようとしたのである。
posted at 19:16:40
だが、この「自分のための努力」が行き過ぎると、アメリカの既得権益者のように、「まったく無意味で不要であるほどの莫大な富を儲ける」ようになる。これは間違っている。なぜなら、そうした社会の歪みは、社会全体に格差をもたらす。この格差が、少年の非行や貧困層の犯罪を生み出す。
posted at 19:15:24
だが、だからといって、資本主義のすべてが間違っているわけではない。金を稼いで、その金を自分で使うことができるということは、人々が「自由な中で命令されなくても自分のために努力することはできる」ということを意味している。支配者が居なくても、人々は自分のために利益になるなら、努力する。
posted at 19:14:05
だが、資本主義が正しいとするのは、世界の一面しか見えていない。日本は中国や東南アジアなどの後進国に、農業や工場の労働など、劣悪な仕事をしてもらっている。これはある意味、日本が中国や東南アジアを国際的な「下位カースト」に置いているということである。
posted at 19:12:55
資本主義は間違っていない。たとえば、IT技術やWebサービスなどの最先端技術は、資本主義だからこそ実現出来る。役人や政府が同じ製品を開発できるわけがない。
posted at 19:12:08
平等のために何ができるか。それは、みんなに受け入れてほしいと思っている子供たちを、みんなで受け入れてあげることである。そして、相手のことを信頼することである。これは指導者を信じるのとは逆である。支配者ではなく、自らと同じ立場にある民衆の力と可能性を信じるのである。
posted at 19:09:52
みんなで平等な世界を築くことは、とても難しい。地上のすべてからカーストをなくすためには、世界全体をグローバル資本主義から改めなければならない。だが、小さなところからこの世界を変えていくことはできる。小さな理想を信じて実質的な「社会」を築ければ、それこそが理想の正しい実現である。
posted at 19:08:18
もっと、理想主義者になったほうがいい。そもそも、支配への従属や自己責任論が正義だとされる世界は間違っている。自由かつ平等なままでも、きちんと責任と理性あるリーダーが指導すれば、この世界はよい世界になる。自由と平等をなぜ諦める必要があるのか。
posted at 19:06:27
はっきり言って、僕には「理想」が足りない。特に、みんなに受け入れてほしい人間を、みんなで受け入れてあげるという視点が足りない。
posted at 19:05:20
僕たちが信じる必要があるのは、責任と理性である。そして、僕たちが信じてはならないのは、堕落と盲信である。
posted at 17:35:13
僕たちは、なぜ分からなくなったのか。かつての僕たちが持っていて、今僕たちが失ったものは何か。大人としての何が正しく、何が間違っているのか。その答えは、正しいものは責任と理性であり、間違ったものは堕落と盲信である。
posted at 17:33:52
僕たちが失った大切なものは何か。それは大人としての責任と理性だ。そして、堕落と盲信が間違っている。
posted at 17:32:40