昨日は大魔王ハネストラーの言葉として反キリスト的なことを書いてしまったが、僕は神を信じているし、イエス・キリストを敵だと思ったこともないため、反キリスト的な言説を削除した。
反キリスト勢力だったハネストラーのことは、もうできるだけ反キリストとしては書かないようにしたい。
僕は神を誰よりも信じている。キリストを否定することはない。
(後日注記:反キリストの内容は復活させました。)
今まで、社会主義的な言説を多く書いてきたが、僕は社会所有だけは間違っていると考える。
すべてのものには、「所有者」が存在する。そして、その所有物について、どのようにコントロールすることも、所有者の自由であるべきである。
もし、社会所有をやったとしたら、所有物に対して所有者が誰なのかはっきりしなくなる。その結果、所有物をどのようにコントロールしていいか分からなくなる。
結果、誰も所有者が居ないものについては「社会のもの」ということになるが、この「社会のもの」は最悪であり、「すべてを独裁者のもののして、平等に配給しようと思うあまり十分にものを与えない」ということになる。
そう、社会所有は、権力と独裁者による全体主義の極みであり、権力を否定する社会主義者にとって、社会所有を肯定するということは矛盾なのである。
そして、ソ連では、「すべてのものはスターリンのもの」ということになった。そして、馬鹿で無能なスターリンが、強制ノルマを人民に課すことで、みんなのものを計画経済・社会所有・平等分配で作ろうとした。だが、働いても働かなくても同じ給与のノルマ生産では、誰も積極的に働こうとせず、十分に生活に必要なものを生産することができず、社会全体が貧しくなり、西側諸国に対して後れを取った。社会所有は、現実的に見ても間違いだった。
だが、「では、オープンソースはどうなのか」と言う人も居るかもしれない。だが、Linuxカーネルはリーナス・トーバルズの所有物だ。確かにオープンな共同開発を許すことで、Linuxカーネルは発展し、進歩したが、Linuxカーネルをどのように開発するかという「方針」は、「優しい終身の独裁者」であるリーナス・トーバルズが決めている。そう、人々は単に善意でLinuxカーネルにボランティアとして貢献しているだけにすぎず、LinuxカーネルはGPLではあるものの、みんなのものではなく、永久にリーナス・トーバルズひとりの所有物なのである。
そして、僕はGPLを考える時に必要なのは、むしろ社会所有的な「みんなのもの」というだけではなく、逆にコンピュータを自らの所有物であるとした時に、その所有物を「自由にコントロールできる」ということではないかと思う。GPLは決して、単なる「社会所有のライセンス」ではなく、「(コンピュータの)個人所有を守るライセンス」でもあると僕は思う。GPLはソフトウェアをみんなのものにしていると人々は言うだろう。だが、実際はソフトウェアに「ライセンスを継承させている」と言ったほうが正しい。それぞれのソフトウェアはそれぞれの作者のものであり、「コードが継承される限りライセンスも継承され、そこにある自由な権利や義務もすべて継承される」ということである。そして、その結果、「ソフトウェアのユーザーには永遠に自由な権利が与えられるが、代わりに開発者には永遠にそのためのソースコードの公開義務が発生する」ということなのである。
確かに、GPLは「ソフトウェアをみんなのものにしている」とは言えるだろう。だが、それは単なる社会所有ではまったくない。なぜなら、GPLはそれぞれのコンピュータを自分のものにするためのライセンスだからだ。そう、真に社会主義的な社会所有、すなわち「独裁者のものにしている」と言えるのは、コンピュータの内部の仕組みをMicrosoftが独占している、Windowsのほうなのである。
GPLは、コンピュータ所有者の自由を守るライセンスだ。コンピュータ所有者が、自らのコンピュータを自由に使い、プログラムを実行し、ソースコードの内容を閲覧し、改造し、再配布するような、「コンピュータを自由に使うためのソフトウェアユーザーの権利」を万人に与えるライセンスだ。これに対して、MicrosoftのWindowsがやっていることは、「コンピュータの内部の仕組みの隠蔽」であり、「本来オープンに公開されるべきであるはずのコンピュータ内部のクローズド化」にほかならない。そう、MicrosoftのWindowsは、みんなのコンピュータそのものを独占している。確かにGPLソフトウェアは、インターネット上で公開され、共有されるため、一見「みんなのもの」には見えるし、共産主義的な「コミュニティの良さ」は存在する。だが、本当は自由なのはGPLのほうであり、ソ連体制に近いのはMicrosoftのほうである。
ただし、GPLソフトウェアが決してみんなのものではないということではない。GPLソフトウェアはインターネット上における、事実上の「みんなのソフトウェア」である。このみんなのソフトウェアは、誰かがひとり奪うことはできない。GPLソフトウェアはみんなで発展させ進歩させてきたソフトウェアであり、誰かが独占的にそれを所有することはできない。実際のところ、このモデルは、「ソ連の実現できなかったことをデジタル世界でやっている」ということを意味している。真の「共産主義の理想」は、GPLによってLinuxとオープンソースの世界で実現している。
だが、これはLinuxやオープンソースの世界が、ユートピアであるということは意味しない。なぜなら、Linuxとオープンソースは、劣悪で使いづらい製品しか提供していない。かつてアメリカとソ連がそうだったように、LinuxはWindowsよりも劣悪で、遅れたソフトウェア形態を保っている。結局、進歩するのはWindowsや資本主義の側である。共産主義陣営はいつでも資本主義陣営よりも遅れていて、LinuxはほとんどがWindowsのパクリであるにもかかわらず、GNOMEとKDEが分裂し、「デスクトップではまったく使い物にならない」と言っていいほど劣悪な製品になっている。いくらみんなのものという理想を達成していても、そのみんなのものが劣悪で著しく劣っているのならばまったく意味がない。そう、共産主義と社会所有は、結局のところすべての意味で間違っているのである。
僕は、国家や会社の利益ではなく、人類の利益になることをした人に、相応の報酬を与えるべきではないかと思います。
今の日本は、すぐに使えて儲かる応用研究ばかりに予算をつけ、基礎研究にお金を与えようとしません。
ですが、人類にとって真にためになる発見というのは、基礎研究にこそ多いのではないかと思います。
ヨーロッパやアメリカは、基礎研究を重視します。それは「国家に対する貢献」だけではなく、「人類に対する貢献」を重視しているからだと思います。
この世界を正しく捉えるために必要なのは、「行動」を考えることです。
そのことをきちんとやるためには、何が必要なのかを、行動から考えることで、この世界の実像は見えてきます。
必要なのは、失敗や二律背反を恐れないことです。失敗や二律背反の矛盾を恐れていては、真に問題を知ることはできません。「矛盾を恐れないこと」こそ、思考する上でもっとも重要なのです。