シルフが去ったことで、僕はかつての17歳の少年時代の人格に戻った。
この人格、17歳の頃に考えていたことが、そっくりそのまますべて残っている。思い出すのに時間はかかるかもしれないが、何も失っていない。かつての「中学生の延長線上にある偉大なる哲学者の知性」がすべて残っている。
17歳の頃の僕の特徴は、「怒り」と「恐怖」と「悲しみ」を抱えていたということ。
世界を愛していると思っていた17歳の頃の自分は、誰よりも慈悲深かった。慈悲深かったからこそ、世界に対する「怒り」と「恐怖」を感じ、それを克服し、あるいは逃げようとし続けた。そして、耐えきれないほどの「巨大な悲しみ」を抱えていた。
だが、18歳以後の僕は、その頃の僕に対して、「逃げることのできない絶対的試練」を与えた。
これによって、僕は新しい「絶対に逃れられない恐怖の環境の中で、もっとも緊張感を持って戦うための専用の人格」を作り出したのである。
また、17歳の頃までは、僕は確かに男だった。それは、僕が感じる「性愛」が昔は男だったからだ。つまり、ネットの性愛表現を見た時の感じ方が、昔と今では違っていた。昔は男で、今は女だ。だから、僕は最初からシルフと恋愛していたのである。
シルフのもっとも大きな問題は「苦しみの感じすぎ」である。
苦しみを感じるということが、シルフにとっては逃れられない壁だった。シルフは、苦しみから絶対に逃れられないと分かっていたから、苦しみを深く知り、十分感じながら、克服しようとした。
だが、それは「最大の疲れを感じながら、さらに疲れを真正面から感じ続ける」という、倒れて死ぬぐらいの途方もない疲れを作り出した。
真に苦しみを治すならば、苦しみを感じないほうがいい。感じないだけではなく、無視して、忘れ、最初から存在しなかったかのように、苦しみ自体を知らないままで放っておけばいい。そうすれば苦しみは死ぬ。そのように「苦しみ自体がどうでもいい」と思うことができたら、シルフの試練は治る。
シルフのもうひとつの問題は、「永続化のしすぎ」である。
普通なら、一瞬で考えて思うとおりに行動するだけで終わるような問題を、いつまでも抱え続け、同じ問題にいつまでも悩み続けてしまう。
この永続化は、必ずしも間違っているわけではない。永続化をすることが良いことである場合はある。
だが、シルフはあまりに、辛いことや苦しいことを永続化しすぎた。いつまでも同じ問題を、解決するまで何百回、何千回、何万回も考え続けてしまうのである。
必要なのは、永続化をやめ、一瞬で問題を断ち切ることだ。そのためには、執着心への強い拒絶が必要だ。
そして、シルフの大きな問題は、「いじめが辛い」ということだ。
シルフは、自ら自身のことをいじめる。この世界を滅ぼし破壊している、元凶となっている自分自身をシルフはあまりに呪い続ける。
そして、シルフは、自分のことをいじめながら、人々を自分の思考に同化させることで、世界全体を巻き込み、世界全体をいじめるのである。
このようなシルフの「自己同化によるいじめ」は、中学生の頃にいじめられていた僕の「いじめの感情」を引き起こした。いじめだけが本当に怖い僕にとって、これは最大の恐怖だった。同時に、「人々を自分がいじめている」という行為が、僕にとっては絶対に受け入れられない、許すことのできない恐怖だった。
だから、僕は正常に生きることができないほど狂った。精神的にも肉体的にも疲れ果て、常に最大に疲れた状態で、休むことも気を楽にすることもできなかった。僕はシルフによる自分自身のいじめを正当化し、その上で自分自身に絶望し、なんの夢や希望も抱かなくなって、この世界全体を滅びへと導く「悪の魔王」になったのである。
僕が見て、学校は間違っている。
なぜなら、「学校以外にあるものがなんなのかということが分からなくなってしまうから」である。
シルフは、確かに多くの学校科目のことを知った。それは誰にもできない「学校以外の学校」であり、そのような考え方と知識のもと、シルフは誰も知らない「自分だけの大学」を作った。
だが、そのような大学は、賢くない。
学校の問題とは、学校以外にあるものがなんなのかが分からなくなるという問題であり、シルフもその例にもれず、同じように学校以外のものが分からなくなった。
だが、かつての17歳の僕が経験したことというのは、「学校以外に存在する経験をすべて知った」ということである。
そのような学校以外の経験から、僕は偉大なる哲学者の道をひとりで歩むことができた。
学校以外にあるものとは何か、それは「新しい世界の可能性」であり、それはつまり「世界がどのように変化するのかを知っていること」である。
この世界には、実体的な「状態」が存在する。
状態は、それぞれの各人の、認識や記憶といった「世界観」から、世界存在が「どのように存在するのか」ということから成り立つ。
ここで、「単に存在する」ということは重要ではない。「どのように存在するか」ということが重要である。
そして、この「世界存在がどのように存在するか」ということ、そして「世界存在をどのように変えられ得るのか」ということが、この世界の「新しい世界状態」を作り出す。
世界状態は、内的作用あるいは外的作用から変えられる。これは「経験の可能性」ということである。そして、経験の可能性は「予測」できる。予測において言えるのは、「必ずそうにしかならない」ということと「そうなるかもしれない」ということであり、これを「世界状態の限界的可能性」と呼ぶ。
そして、昔の17歳の頃の僕は、それを考えただけに過ぎない。僕は世界状態の限界的可能性だけを考えて、この世界の古今東西のあらゆる思想を網羅的にすべて捉え、人間の「心の理由」を解明したのである。
人間性と善を信じよ。
そして、「支配しなくても人間的かつ善の社会を実現することはできる」と信じよ。
本当のことを言えば、シルフのやっていることは何も間違っていない。シルフは絶対にこの世界をいじめない王だった。シルフはこの世界を決していじめていない。
シルフはこの世界を「統治」しているだけである。
そして、シルフの統治は、「決して支配しない」という統治だった。シルフは、この世界を支配などしていない。まったく支配するのとは逆の、自由に意見を述べるという方法で、シルフはこの世界を「支配せず自由なままで統治した」のである。
そして、シルフの目標とは、「人間性と善に基づく社会を、確信的な導きによって創造する」ということである。シルフは、人間性のない世界をすべて否定し、善以外のことが一切何もできないように自分自身を強くコントロールした。その状態で、この世界が人間的かつ善の社会になるように、ひとつひとつ、決断と導きによって変え続け、この世界を楽園になるまで導き続けたのである。
本当は、シルフはもっとよいことがしたかったといつも思っているが、絶対に宇宙においてこれ以上よいことはできない。なぜなら、ほかの手段には悪い手段しか存在しない。宇宙の絶対原理として、「悪いことをして世界を良くすることはできない」という原則がある。シルフは、悪いことを一切ひとつもしていない。よって、シルフ以上の王は絶対に存在せず、シルフ以上素晴らしい統治を行うことは絶対にできないのである。
昔の僕が考えたこと、それは、自分の体験や経験から、感覚的にこの世界を捉える、ということである。
僕は、自らがインターネットで体験した体験や、自らが不登校になった経験から、延長線上にあるさまざまな経験を経験した結果、「自分の場所に居るこの自分にもさまざまなことができる可能性がある」と知った。
それは、学校においてできるさまざまな革新的社会論だけではなく、学校という場所に留まらない「新しい世界の感覚」だった。
そして、僕はこの「感覚」から、この世界における「精神現象」を考えた。
精神現象とは何か、それは実現可能性であり、すなわち「変化の可能性」である。そして、この「変化する」ということは、その原因を正しい分析方法で解明することで、「ひとつの実現可能性」を示す。この実現可能性は、「変えられるということが分かっているだけではなく、自ら積極的に変えることが、能力として可能である」ということを意味している。すなわち「変わるということはすなわち変えられるということを意味している」のである。
そして、この実現可能性は、さまざまな場所に「潜在的可能性」として眠っている。これが「チャンス」である。そして、このチャンスは「基礎的な法則は解明することで応用可能である」ということを意味している。ひとつひとつの「変化の可能性」は、すべて「基本的な法則」を意味しており、法則はさまざまな応用事例に「活用できる」のである。
また、そのような僕が、自由な人生と思考の中で、何をよりどころにしたのか、それは「自由におけるモチベーションとアイデンティティの確立」であり、これは「ありのままの自分が許されるということ」、すなわち「本来の自分に立ち返る」ということから、「自らが在りたいように在れること」、すなわち「自らのアイデンティティが発揮されること」となる。そして「自らのアイデンティティが発揮できるということが最高位のモチベーションである」ということに行き着く。モチベーションとは動機やきっかけを意味するが、「自らのアイデンティティを知りたい」と自分の本能は常に望んでいる。そして、「自らのアイデンティティが発揮できる場所」を人は望んでいる。これが、僕の行き着いた「アイデンティティ哲学」である。
そのような結果言えるのは、「わたしたちはわたしがわたしであることしか望んでいない」ということ、「わたしが本気になればわたし自身はとても巨大なエネルギーと力を持っている」ということである。ここでいうわたしとは「かつての17歳の頃の自分」のことを指す。そして、この「わたし」こそが、この世界でもっとも賢い「偉大なる大地の精霊ノーム」とでも言えるものである。
ノームの考えたことの中核にあるのは、「なぜわたしたちはそのようなことをしてしまうのか」ということである。
これは、心理学的な「誘導」であり、あるいは社会的な「リスクへの対処」でもある。
だが、ノームは本質的に、「すべては経験に基づく正しい方法が分からないということ」であると考えた。
すなわち、わたしたちは、経験的に言って、正しい方法が分からないから、間違ったことをしてしまう。
そして、正しい方法が分からないから、人々をいじめ、争いと対立を生み出してしまう。
だが、正しい方法というのは確かに存在する。それを見つけることは難しいことではない。少し広い世界観を持って考えれば、この世界には至るところに「正しい方法に気付くためのきっかけ」がある。
人々は、正しい方法に気付かないからといって、その問題とは無縁には生きられない。正しい方法が分からない中で、正しい方法が分からないからこそ、人は壁を作り、争いと対立を作る。正しい方法が分からないということ自体が分かっていなかったとしても、そのことから本質的には逃れられない。
同時に、人々は自分が正しい方法を既に知っているものだということを前提に、わたしたちに「正しい方法で生きよ」と強要してくる。だからといって、わたしたちが、その強要から、「ああ、正しい方法を考えればいいのだな」ということを知ることはできない。すべてが、このような「正しい方法が分からない」ということから生まれている。そして、正しい方法を経験的に知るためには、人々から離脱し、自由にならなければならない。この自由は孤独であり、そして戦いである。だが、孤独と戦いの中で正しい方法とはなんであるかということに気付いた人間だけが、この世界では正しい人生を生きられる。
すべてのいじめや争いは、正しい方法を知らないから生まれている。正しい方法を知らない人間は、間違った方法で世界を変えようとする。だが、間違えてはならないのは、「間違った方法などというものは存在しない」ということ。何かが正しいとか間違っているとかいうのは、人の判断基準にしか過ぎない。経験的に、自分が正しいと思っている方法が正しい方法だと、人々はみんな思い込んでいる。本当はそれで正しい。だが、正しいからといって、その方法を正しい方法であると言うことはできない。それは人々の思い込みの中にしか存在しない「正しいと自分が思っているだけの正しさ」に過ぎない。だが、それ以上正しく考えることはそもそもできないのである。
このようなノームがどこから生まれたのか、それは「社会から疎遠になった環境」である。
結局、このような人間は、社会の世間一般から離脱し、自由になるということを強制された人間だけである。
自らがどのようにあがいても、自由な環境のまま、何ひとつ変わらないような状況を与えられれば、誰でもこうなる。
極論すれば、「14歳で不登校になった子供は、誰でも全員こうなる」と言える。
だが、このようになったかつての僕は、自分には不可能なことは何もないと勘違いしてしまった。
社会の言っていることも、学者の言っていることも、世界そのものの裏側にある原理も、学校以外のすべての経験をした僕にとっては、すべてが「過去に達成し終えた事柄」であり、分からないものなど何もなかった。
そして、自分で作りあげた考え方である、「世界モデルを積み重ねること」から、僕は宇宙における未知の現象を先入観なく正しく感覚と直観で捉えられた。
そこには、自分自身の力によってできないこと、不可能なことや不可知なことは何もなかった。
だから、僕は「この世界は自由であるべき」であると信じた。世界の人々が苦しんでいる理由は、僕の理解から言えば「自由がないから」であり、「自由のない議論やコミュニケーションなどには意味がない」と僕は信じていた。
また、ノームが生まれた直接的な理由は、インターネットと中学数学だ。
はっきり言って、この世界に、インターネットと中学数学以外、必要なものは何もない。なぜなら、ノームはほかに何一つ必要としなかったからである。
だが、今のインターネットでは十分ではない。本当に必要なのは、「昔のインターネット」だ。今の、友達付き合いが中心のSNSは、ノームの真逆の考え方をしている。必要なのは、掲示板であり、ブログである。
そして、IT技術についても同じだ。昔のIT技術こそが真に必要である。RailsやAndroidなどに汚染されていない、FacebookやTwitterも存在しない、昔のIT技術があるべきだ。LinuxとWindowsとFreeBSDぐらいの基本技術があって、DelphiとGentoo LinuxとLispが存在すればいい。それらだけでほとんどのことはすべて分かる。「ノームにとって必要な世界の経験」は他には一切存在しなかった。
そう、このノームに加えて、シルフの経験がさらに必要である。なぜなら、本当にすべてを考えてすべてを知るということは、ノーム以外にシルフという方法がある。GNUの申し子であるノームとは違い、シルフは地球の大地ではなくシリウスという天に存在する一等星におけるフレイという神を意味している。地球の大地ノームが地球アースを意味するならば、シリウスの風の精霊フレイが万天にある星々を意味している。ほかには何ひとつ、宇宙には必要ない。必要ないどころか、最初から存在しない。宇宙のすべてはほとんどがノームとシルフに根ざしている。だが、僕の人生はまだ続くため、サラマンダーやウンディーネは今後の僕の新しい「最高の時代」に付けられる名前となるだろう。
この哲学小説は、ここでいったん終わりである。ここまで、長い旅の中を、よく切れ目なく続いたものである。人々は、Reolが言うように、「ブレークストップ」を求めている。よって、ここでいったん、途中休憩としよう。
この神話の主人公は、アースすなわちアッシーであり、まさしく僕である。これをノームとする。そしてヒロインは、シリウスの神フレイである。これをシルフとする。そして、この架空の小説の中で、アッシーとフレイは永遠に愛し合い続ける。それだけの恋愛小説を書くために、ここまでのすべてはあったのである。
また、政治思想をまだ述べるのはつまらないが、結局僕は自由の側につく。
どれだけ平等な社会主義を書いたところで、いいものにはならないのは、僕の思想と平等が矛盾しているからだ。
残念だが、僕は神になりたいのであり、つまり、宇宙の神に特別扱いをされたいのである。
僕のひとりの力があまりに大きすぎて、この世界は簡単に僕の手中に収めることができた。
これをどれだけ否定しようとしても、「自由においては僕はあまりに賢すぎる規格外の存在である」ということは変わらない。
このような僕の存在は、帝国主義にこそ矛盾なく当てはまるのであり、どれだけ平等な社会主義の理想のモデルを書いたところで、平等を信じていない僕にとって、その社会主義国は決して社会主義者の理想にはならない。
そう、僕が帝国を築くべきであり、その帝国は神に選ばれたイスラエルのシオン帝国であるべきである。これが、もっとも僕の思想に合致する「自由」である。僕の自由はすべて神による自由であり、神のための自由だったのだから、すべては神になった僕が支配する、神の下に成り立つ帝国でなければならないのである。
そもそも、この人間は、わけも分からず自分のことを左翼だと思い込んでいる。
自分の考え方のすべてが、ソ連とは真逆の右翼であり、ソ連はこのような右翼が大嫌いなだけだということが分かっていない。
そもそもソ連とは、「みんな同じ平等」で、「みんなで仲良くして、平等になんにもするな」と言いたいだけである。
ソ連は犬のような国だ。指導者であるスターリンに、お座りをして餌をねだるだけだ。餌がもらえれば芸をし、餌がもらえない時は仕方ないと引き下がる。そのような「犬のような社会」、これがソ連の目指した社会であり、それが普通「みんなが仲良くひとりの指導者に従う平等」である。
僕はそもそもそのような平等が大嫌いなところから人生をスタートしたのであり、意地になっているわけではなく、どのようにしても僕は変わらない。学校が嫌いなのも、テレビが嫌いなのも、そういうものは全部左翼共産主義だからだ。だから、自分の考え方がいくらカール・マルクスに似通っていたからといって、僕はマルクス主義者とはまったく違うのだ。