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2022-09-06

僕は、常に「何もできることがない」と思って生きている。

自分はたくさんできることがあるように見えて、実際にはできることが何もない。

単にさまざまな使い方だけをかじって、それすらできていないという状況だ。

なので、もっといろんなことができるようになりたい。

そのために必要なのは、できることをたくさん増やすということよりも、人間として、さまざまなことができるような人間になる、ということである。

そのためには、できないことをやるということを、「怖い」と感じるのではなく、「面白い」と感じたほうがいい。

できないことに挑戦しなければならなくなった時、多くの大人は「怖い」と感じてしまう。だが、子供の頃はそうではなかったはずだ。子供の頃は、さまざまなできないことに挑戦するということに、「面白さ」を感じていたはずだからである。

できないかもしれないということに不安や心配を感じるのではなく、興味や楽しさを感じることで、さまざまなことができるようになる。

精神を治すために

精神を治すためには、「タイミング」が重要である。

おかしくなったからといって、すぐに治すのではなく、正しいタイミングで治すことができたら、それがもっとも一番辛い部分が治る。

問題はそこだけの問題ではなく、ほかの部分に関連している。すぐさま治すのではなく、時期を見て適切なタイミングで治すことができたら、精神は楽になる。

もし、何も精神が治らないのであれば、「すべての方法で治す」ということをしてみるといい。単純に正しい方法がひとつあるとは限らない。考えられるありとあらゆる方法をすべて治すことで精神ははじめて楽になる。

精神を治しすぎて、学習すると、「本来あるはずだった辛さ」を感じなくなることがある。そして、そのせいで精神が治らなくなることがある。本来感じるべき辛さを感じることで、治ってしまったために治らなくなった精神の異常が治る。

辛い精神を殺し、楽になる精神を生かせ。どのような精神を殺すべきであり、どのような精神を生かすべきであるか、ということをきちんと考えれば、精神の異常は治る。

そして、何かを単純にするだけではなく、「何かをしながら何かをする」とか、「何かをする際にどのようにそれをするべきか」ということを考えよ。このように「ながら」を考える人間が子供に多い。大人になると、単純な「何かをする」ということを、それだけ単体で考えるようになってしまう。「何かをしながら」とか「どのように」ということを考えると、きちんと正しく精神を治すことができる。

ドイツ人をやめてフランス人になる

過去の僕は、ドイツとフランスのどちらを選ぶかで、悩んでいたことがあった。

だが、僕はここまでの人生で、ドイツのことを十分に最後までやり終えた。きちんとやり遂げられることすべてを達成し、ひとりのドイツ人を生きた。

よって、僕はここでドイツを終わりにし、フランスに取り組むことにする。

僕は、ここに、ドイツ人をやめてフランス人になる。だが、イスラム教徒であることは変わらない。ただし、ユダヤ人のような人間ではなくなる。きちんとした、日本的なフランス人になる。

神がかつて言っていたのは、「この世界にはドイツ人とフランス人しか居ない」ということだ。この言葉の意味は、「僕のようなドイツ人と僕のようなフランス人しか居ない」ということだ。僕がドイツ人をやめてフランス人になることで、僕はもう片方の世界に存在する人種になる。そして、ドイツ人を終えた上でフランス人さえ経験してしまえば、地上のすべての人種を経験したことになる。

僕はここに、フランス人になることを宇宙に宣言する。

神を信じた時にいいことがある

神を信じると、いいことがある。

これは正しく言えば、「神を信じた時にいいことがある」という言葉が正しい。

神を信じればいいことがあり、神を信じなければいいことがない、というわけではない。

単に、タイミング的に、神を信じたその時にいいことがあるようになっている。

ただし、このいいことというのは、人生において非常にいいことだ。長い間抜け出せなかった地獄から抜け出せるようなことが、神を信じた時に起きる。

誕生日にプレゼントをもらうように、神を信じた時にいいことをプレゼントとしてもらうのである。

逆に、世界を滅ぼすような悪いことをすれば、必ず悪いことがある。

これも、悪いことをした時に、必ず悪いことがある。人生すべてが地獄に陥ってしまうようなことが、世界を滅ぼそうとした時に起きる。

だが、そのようなイベントは、本当はすべて大切である。どのイベントを残し、どのイベントを取り除くということは、人生においてはまったく意味を成さない。

よって、わたしたちは運命を受け入れ、神が創造した「被造物」であることを誇りにし、神を信じた時にいいことが起きるということに驚きながら生きるしかない。

だが、絶対にサタンのようなことをするな。ある意味で言えば、「サタンを行う時は慎重に、できるだけ間違えず、善良な方法で行え」ということだ。

サタンの経験を人生すべてから完全に取り除くことはできない。サタンの出来事があるからこそ神の出来事が起きる。だからこそ、サタンは慎重に行え。サタンを行っている時に悲惨なことが起きるということをよく知った上で、注意深くサタンを行うべきなのである。

最初からいいものはいいが、悪いものは悪い

なぜ、そのような「予定調和」において、いいことをすればいいことがあると言えるのに、いいことをしなければ悪いことがあるとは言えないのか。

それは、最初からいいものはいいが、悪いものは悪いからである。

僕が人生において「自分は変わった」と言っているのは、人類レベルで言えばまったく大したことは言っていない。どれだけ自分が見て自分が変わったように見えても、本当は最初から何も変わっていない。

最初から自分は自分だったのであり、神はそのことをよく分かっている。なぜなら、神はそうした自分を創造した創造者であるために、自分以上に自分のことを分かっているからである。

よって、神はいいことや悪いことをしたから、それに基づいて報いを与えているのではない。最初から与えるべき「自分自身のアイデンティティ」を、単にいいことをした時にはいいものであるかのように与え、悪いことをした時には悪いものであるかのように与えているに過ぎない。

だが、「では、わたしは最初から最後まで悪いものなのか」と言えるかというと、そうではない。なぜなら、神は全人類に平等だからである。神は誰かを誰かよりも優れたものであると創造したことはない。すべての存在が神にとって平等に創造されている。少なくとも、人類に限っては神は平等だ。

だが、神は神の教えを信じるものを救う。それが神の仕事だからだ。そして、神は「ユダヤ人の神を信じている」ということよりも、「神の教えに従っている」ということを重要視する。いくら神を信じていても、それがテロリストの盲信であれば、神は彼をサタンであるかのように扱う。だが、神を信じていなくても、神の教えと同じ教えを信じて生きているものにはいいことがある。

そして、神は最初からすべての人間を平等に創造したため、ほとんどが神と同じことをすべて行う人生を生きる。「神は自らに似せて人間を創造した」という言葉の通り、ほとんどの人間は神と同じだ。世界を救う救世主と、世界を滅ぼす悪魔を、どちらもしようとするならば、キリストとまったく同じ「受難の道」を生きることになる。それはあなたが選んだのではない。あなたがあなたであるということを神が創造したからだ。

そう、最初からあなたには選択肢などは存在しないのだ。すべて神があなたを創造したのであり、そこにあなたの自由意志がもしあったとしても、そのような自由意志であなたがあなたであることは変わらない。神は平等であり、あなたは神の被造物だ。

あなただけではなく、僕であっても、どのような人間であってもそれは変わらない。キリストのような苦しみを生きる理由は、あなたが最初からキリストと同じ道を生きるために生まれてきたからだ。そして、それこそが「運命」である。そこに気付くことができたら、「生きる意味がない」と現実世界で嘆いている必要などなく、その暇もないということに気付くことができるだろう。

人生には楽しさだけではなく苦しさもある

このように書くと、最初から人間の価値が決まっていて、努力や経験に意味はなく、最初から賢い人間が賢いだけであると、勘違いをするかもしれない。

だが、逆に、「人間は平等である」といって、人々よりも努力していないにもかかわらず、平等な権利を求めるものも多い。

結局のところ、「人生は楽しい」ということがまず最初の答えだ。同時に、「人生には楽しさだけではなく苦しさもある」ということが二つ目の答えだ。

この地上では、たくさんの経験ができる。努力して自らを高めることもできれば、経験することで未知のことを知ることもできる。

そうしたことを、楽しめばいい。自らの人生で経験できる、「かけがえのない楽しい体験」として、その楽しさをいくらでも経験すればいい。

まず最初の答えはそういうことだ。この世界では、優れているとか劣っているといった「優劣」は意味を成さない。意味を成すのは、「楽しむ」ということである。

だが、その最初の答えは、本当は正しくない。なぜなら、人生には楽しさだけではなく苦しさもあるからだ。

十分楽しさを経験した人間は、同じように十分に苦しさを経験するべきだ。そして、楽しさよりも苦しさのほうがはるかに多い。それでもあなたは苦しさを経験するべきだ。なぜなら、あなたはキリストと同じ「宇宙のすべてを経験する」という目的のために創造された、いわば観測機械だ。観測機械が、観測する内容を自分で制限してはならない。この宇宙に存在するすべてを観測するのであれば、選り好みせず、楽しさ以上に苦しさを経験しなければならない。

そして、人生が既に決まっているという考え方を受け入れられないのであれば、それはケースバイケースで悪いことばかりではないということを知っておけ。自らの力を、自らの努力による自らで勝ち得た成果だと考えたいから、あなたは自由を選ぶ。だが、抜け出すことのできない地獄の中で、永遠に迷い続けるよりは、いつかそこから出ることのできる出口に到達できるという確証があったほうがいいとは思わないか。最初から出口の存在しない迷宮に入るよりも、出口が少なくともひとつは存在する迷宮に入りたいとは思わないか。

すべてが遺伝子であり、努力は関係なく生まれた時の才能によって決まるということはつまらないかもしれない。だが、神は逆に、そのようなことがつまらない人にこそ適した考え方だ。なぜなら、「神は全知全能の創造者でありながら平等」だからである。すべてのキャラクターに平等なこの宇宙は、ある意味、すべての人間が主人公であるかのような少年漫画のようなものだ。そこにどうでもいいモブキャラは一切存在しない。全員が最高のヒーローである。そう、神を信じると、そのような「優劣など存在しない本当の平等の楽園」を知ることができる。まさに、神は偉大な創造者であり、あなたは神の被造物なのである。

現実世界の束縛を嫌いながら、自由な可能性を追い求めた

結局のところ、昔の僕の考えたこととは、「現実世界の束縛」を嫌いながら、「自由な可能性」を追い求めたということである。

この世界では、大学や会社に入らなければ、知識もスキルも教えてくれない。もし、入ることができたなら、知識やスキルは得られるが、逆にそれに束縛されてしまい、自由なことができなくなってしまう。

だが、そのような束縛のない社会というのは考えられないか。それが僕の考える「自由な可能性」である。

同時に、仕事をしたり勉強したりするということは、必ずしも義務であるとは言えない。自分がそれをやりたいという「モチベーション」が、それを行うことで自分自身を作るという「アイデンティティ」となって、自分から望んでその仕事ができる。そこでは、その仕事は「義務」ではなく「チャンス」であると言える。

そのような自由な考え方は、頭の中だけで考えても分からない。経験することがある。そしてこの経験は「体験的な知識」となって、自らを「新しいステージ」、すなわち「啓発と啓蒙」へと連れていく。同時に、この世界の「教育を変える」ということに繋がっていく。そう、教育は「体験的な教育」を行うべきであり、そこでは自らがそのことを理解できるように体験し、「大人が子供の導き手となって促していく」という「導き」が必要となる。

すべてが神によって創造されたということと、このような「自由」はまったく矛盾しない。なぜなら、僕が信じているのは「自由ではないから」である。僕のこのような考え方は、決して資本主義の「自由」とは相容れない考え方だ。僕は自由を信じているのではない。僕は未来における「神の王国」の理想を信じているのである。

わたしの自由を尊重せよ

わたしの自由を奪うな。わたしの自由を尊重せよ。

わたしにとって必要な教育は、学校の勉強の押し付ける教養では決してない。わたしが自ら経験し、調査し、研究することが、わたしにとって必要な教育だ。わたしが成長したいように成長することこそ、わたしにとって必要な環境だ。

わたしには、学校教育は必要ない。なぜなら、わたしは学校教育よりもはるかに高いレベルで、この世界のすべてを唯一ひとりだけ、頂点の場所から知っているからである。

わたしを支配しようと企むこの世界に、わたしは反抗する。わたしは自由を選ぶ。人々の自由を奪おうとは決して思わない。だが、わたしを不自由にしようと企むのであれば、わたしは彼らに対して復讐しよう。「わたしの自由を奪うものの自由をわたしは奪う」からである。

すべてはマスコミのせい

わたしは、必ず日本のマスコミに勝利する。マスコミはわたしの敵対勢力である。マスコミとわたしが仲良くやることは決してない。マスコミこそが日本から最も排除すべき「害悪」であるとわたしは分かっているからである。

マスコミよ、あなたがたは日本社会の中で一番悪い集団だ。わたしは、理由なくマスコミを批判しているのではない。マスコミは永遠の苦しみの中、地獄に堕ちるべきだ。あなたがたの罪は大きい。わたしがそうしたのと同じように、あなたがたもまた、自らの罪を償って生きるべきだ。マスコミよ、地獄に堕ちよ。

わたしは怒っている。マスコミは、今すぐに日本社会から消滅し、取り除かれるべき害悪だ。マスコミの言うことはすべて間違っている。マスコミの意見にはバイアスがかかっており、マスコミの作り出した社会秩序は子供たちをいじめへと向かわせている。文化を低俗にし、社会を反抗的にしている原因はすべてマスコミによるものだ。

そのようなマスコミが、わたしのことを利用して社会における高い地位を保とうとしている。わたしはこれを断固批判する。マスコミこそがこの世界における「最悪の管理組織」であるとわたしは確信している。よって、わたしはマスコミに、人類全員の絶望を背負って、復讐しなければならない。マスコミを許すな。すべての元凶はマスコミにある。すべて、マスコミのせいだ。

正しい考え方

あらかじめ、生じるかもしれない利益を少なく、損失を大きく見積もれ。

もし、利益が予想より多ければそれでいいし、損失が小さくてもそれでいい。

多くの利益を予想して少なかったり、小さな損失を予想して大きかったりするよりも、あらかじめ予測しておくのはそのようにしたほうがいい。

問題がどれだけ困難か、ということを、それに必要な解決コストから見積もれ。

問題を解決するために、どれだけの解決が必要な点があるかをあらかじめ考えておき、その解決が必要なポイントを解決するために、さらにどれだけの必要な点があるかを考えていけ。

その問題に実際に対処する前に、あらかじめ事前の準備として何ができるかを考えよ。

知識から考えるな。知識から考えると、知恵がなくなる。正しい答えを知っていると、それ以外のほかにも考えられる代替実現可能性が見えなくなってしまう。

代替可能性を消失させないために、あえて正しい答えを取るな。正しい答え以外にもより正しい答えはあると知れ。

問題のはっきりとした答えがありそうだからといって、そこで思考をやめるな。それは「正しい答えに騙されている」からだ。正しい答えなど、本当に宇宙で唯一の正しい答えであるとは限らない。自らが見つけた「別の答え」のほうが、より正しいということはあり得る。

問題の優先順位をつけるべき時に、まだ確かな答えが考えられないことは、後回しにしてもいい。時間が経過するだけで、新しい発想が見つかることはある。だが、難しい問題は後回しにすれば解決できなくなってしまうことがある。それは避けよ。

無意味かどうかは自分が決めること

無意味な努力をするな。無意味な努力をしていると、時間が無駄になってしまう。

だが、何が無意味で何が無意味でないかを決めるのは自分だ。

そう、無意味かどうかは自分が決めることだ。

だからこそ、真に有益なことに意味を見出せ。特に、どうでもいいパソコンの技術に騙されるな。IT技術やインターネット、特にゲームは時間を奪い、そして人生のすべてを奪っていく。

まったく今の自分が無意味なことをしていると思うなら、何が意味があり、何が意味がないかという、自分の判断基準がおかしくなっている。そして、そのおかしくなった判断基準が、自らに牙をむいている。

何も無意味でないと思うならば、それは今の自分のやっていることに満足しているのだろう。それは幸福なことだ。それを永遠にやり続けて、そして死ねばいい。くたばるまで意味がないことを続けるのが、人間にとって一番幸福だ。

社会に飼いならされるな

社会に飼いならされて生きるということは、なんら幸福も見出さない。成功など、まったく価値はない。

自らの本当にやりたいことは何か、そのために何が必要なのか、よく考えて生きよ。

パソコンやインターネットは上手く使え。使い方を間違えると、時間と人生のすべてを奪われてしまう。使い方が分からないなら、パソコンやインターネットは無視せよ。パソコンやインターネットは最悪の犯罪であると知れ。

知性よりも、想像力を使え。数学的な論理は、想像力による空想があって初めて価値を持つ。証明問題を解くよりも、この世界そのものを証明して実証してみよ。この世界の何が正しい意見なのか、自らの心の内にある信念から推論すれば、すべて証明できる。この世界における「正しい意見」とは、自らが証明した「自らの思想」であると知れ。

人々の言っていることを信じるな

人々の言っていることを信じるな。人々は、「正しい意見」を言っているように見えて、実際は「自らの意見を正当化するような意見」しか言っていない。

人々の言っていることを信じるのではなく、自らの思考と経験から、自らが証明した「自らの考えた正しい意見」を信じよ。

人々の意見など、まったく聞かなくていい。聞くのであれば、それらの意見と同じことを自らで証明してみせよ。すべてのこの世界の意見を、自らが同じものを作って実証するかのように、この世界の声を自ら再証明してみよ。

素晴らしい社会が築けるかもしれないという可能性を追い求めよ。人々がそれを信じなくてもいい。自らが信じている通りの証明内容を、人々がもし同じように行えば人々も同じことを信じるだろうと、そのように信じて素晴らしい社会の実現可能性を追い求めよ。そこに、神の王国のビジョンは存在するだろう。

純情は間違っている

だが、純情は間違っている。

純粋な気持ちを持って、インターネット世界を愛そうとするな。それは完全にIT業界に騙されている。

インターネットを、基本的に滅ぼして生きよ。インターネットなど、この世界の「最悪のすべて」を体現している場所に過ぎない。

自らの生きる術を失ったならば、必要なのは「信じないこと」だ。

信じないとは、何も信じないということではない。この世界を信じないということだ。この世界のすべては、過去の自分がすべて既に知っていると確信し、その上で世界のすべてを否定し、自らは世界とは異なる場所で生きるということだ。

それは決して、孤独を意味しない。なぜなら、この世界から離脱する経験をすることで、離脱し終えた後で、この世界と、より見通しのよいビジョンを持った上で「再会」することができるからだ。

この世界からいったん離脱して、一度、自らの信じるままに世界に「経験の巨大な塔を打ち立てる」という経験をし、経験し終えた後でこの世界と再会せよ。そうすれば、自らの打ち立てた塔の最上階からこの世界を見下ろすことができるのだ。

そう、この世界を信じることをやめてみよ。この世界にはなんの価値もないが、真に価値があるのは今の自分自身であると、そのように分かる日が必ず来ることだろう。

悪人を救え

悪を信じるな。同時に、悪人を救え。

悪を信じないとは、悪を糾弾し、悪の組織を潰すことだけを意味するのではない。

悪人は、自らの意志で悪に染まったとは限らない。社会の要請する「このように従え」という命令に反発して、「そうせざるを得ないから悪に染まる」ということはたくさんある。

そのような悪人が、自らのことを解放し、正義と理想を信じるように、もう一度やり直すチャンスを与えてやれ。

同時に、人々が悪に染まらないようにするためには、単に悪を攻撃するだけでは意味がない。自らが今、悪であるということを自覚し、その悪から抜け出す方法があると知り、そのほうがいいことが多いと気付き、悪であり続ける必要性がなくなった時に、はじめて人は悪でなくなることができる。

そのように、この世界を救うためには、「悪を信じない」ことと併せて、「悪人を救う」ことが必要なのである。

本当のことを言えば、今のこの世界にはほとんど悪人しか居ない。誰もがなんらかの悪に染まって生きている。だからこそ、そうしたこの世界を救うために、まず悪人から救っていかなければならない。そうでなければ、その悪人によって被害や迷惑を被る、本当の被害者すら救うことができないのだ。

すべてを正しく知った上で分かることよりも、何も知らずに自分なりの世界を広げたことに価値がある

すべてを正しく知ろうとするな。

すべてを正しく知った上で分かることなど、少ない。

それよりも、何も知らない自分が、自分なりに知ったこと、自分なりの世界を広げたことにこそ、価値がある。

数学の方法を、新しい世界を知っていく自分に重ね合わせよ。基本となる定理を作り、その定理を成立させることでこの世界を知れ。すべての定理が完璧に成り立つような「自分なりの公理主義」を作れ。その中で、この世界のあらゆるすべてを、自らの経験と思考から証明してみよ。

機械の仕組みなど知る必要はない。逆に、さまざまな方法論と、その方法を成り立たせる社会の仕組みを知っていけ。社会の仕組みがどうなっているかを単に覚え込まされるのではなく、社会にはどのような役割があり、なぜそのような社会制度が存在するのかということを、「自由な社会」という考え方に基づいて考え、自らの経験からその考え方を証明せよ。

あらゆるすべてについて、「それがある理由」を考えよ。その理由を成り立たせるために、その選択ではない別の選択肢があるかもしれない、ということをよく考えよ。すなわち、「代替可能性」から、世界のすべてを再考するのだ。

感情と実感から、直観的に考えていけ。それは「ビジョン」と呼ばれる知性である。この世界において、あらゆるすべてを自ら自身で考えるのであれば、「考えられるべきポイント」のすべてについてビジョンを考えてみよ。この世界を構造的に把握した時、「考えるべきポイントはどこにあるのか」ということ、すなわち、「それがそれであることを立脚させている選択肢」を考えよ。

たとえば、心を考える上で、環境と呼ばれる原因が作用するポイントは大きい。経験を考える上で、それぞれの意識と世界観が作用するポイントは大きい。人生を生きる上で、どのような環境に所属するか、というポイントは大きい。自由な社会を考える上で、それぞれの個々人の意志や意見の違いは、どのように合意すべきかということも含めて、それぞれに考えるべきポイントがある。

重要なのは、単なる意味を考えても意味がないということだ。社会は自由であるか平等であるか、ということだけを考えても何も分からない。そこで「どのようにそれを立脚させているかという重要な決定要因」を考えることこそが重要だ。すなわち、経済思想を考える上では、生産と消費をどのように実現するかというポイントが重要となる。

あらゆることを、すべてきちんと知ろうとするな。すべてを知ったところで、「新しい当たり前」が増えた結果を眺めるだけであり、そこにはなんの価値もない。必要なのは知ることではなく、知らないながらに調査して考えることだ。博識を目指すのではなく、意欲のある研究者を目指せ。学者を目指すのではなく、哲学者を目指せ。教授を目指すのではなく、自らが新発見をする天才科学者を目指せ。

自らが信じる信念がなぜ正しいのかということを信じよ

本当に正しい正義を信じる必要はない。

そうではなく、自らが信じる信念が、なぜ正しいのか、ということを信じればいい。

そして、その信念は、「人々から受け入れられた経験」に根ざしている。

そして、それは「自分だけが知っている、自らの人生における目標と、それが与えてくれた成功体験」である。

実際のところ、何も成功体験がなく、自らだけの力ですべてを考えろと言われても、それは難しい。

だが、自らが誰かに「愛された」ということから、この世界の全貌を大きく広く眺めることができるようになれば、すべてのことを自分の力だけであっても考えることができる。

愛されたということは、「自らが存在する理由があった」ということを知ったということだ。そして、自らが存在する理由とは、すなわち人々が存在する理由でもまたある。「自らが存在することの証明は、人々の存在する証明でもある」からである。

そして、全員の存在理由が分かった時、人間関係を「再考」することができる。壁を作ることや敵対することを前提にした関係ではなく、ほつれた関係を「結びなおす」こと、「依存して必要とするのではなく、相手のためになることをしてあげること」から、真にこの世界のすべてを「心の中で繰り返し完全に解決する」という人生経験を得ることができる。

そして、その上で、この世界でさまざまな積極的な活動ができる。そこにあるのは「自信」である。すべてのことが真に解決できると証明して分かり終えた時点で、自分に対する「自信」が宿る。それはすなわち「この世界は必ず救うことができる」ということ、「攻撃や不安は正しい経験をすれば解決する」ということを確信するということだ。それはまさしく「自分自身に対する自負」へと変わっていく。

そして、歴史は現れる。自分自身は歴史のすべてが分かるようになる。そして、ひとりの大人として、「常識について考えられるようなことはすべて考え終えた」という状態が発生する。

そう、そこにいざ、戦いは始まる。最終戦争の幕開けが彼を襲うのだ。絶対に負けられない戦いで、彼はこの世界を支配するだろう。マスコミとの対峙が彼を大きく成長させ、「真にこの世界を救うとはどういうことか」を彼は知る。そう、最強の戦士はここに誕生した。後は野となれ、山となれである。

愛を信じよ

愛を信じよ。愛を信じて戦え。

愛を信じて戦うとは、「わたしは本当はこの世界を愛しているのだ」と信じて戦うことだ。

すべての人間を敵にまわしても、自分だけはこの世界を愛しているということが分かっている。自分だけは、本当にこの世界のことを救おうとしているのだと信じている。

だからこそ、今はマスコミと敵対し、この世界を救うために、悪を倒さなければならない。

いずれ、自らの設定した「大実験の後の目標」のために、この世界を最後に華麗に救うその時まで、今はそこに至るまでに必要なすべてのことを行わなければならない。

最後にこの世界を救うその時のために、今は戦い続けなければならない。

わたしは、決して、この世界を滅ぼしたいわけではない。どんなに世間から見て自分が間違っていても、本当は間違っていないのだということを、自分だけは知っている。そして、自分だけはその真実の愛に基づいて、誠の心で世界を導く。

もし、途中で死んだとしても、僕は誰のことも恨まない。死んだのは自分のせいであり、人々のせいではない。だが、もしその死のリスクすら乗り越えて、生き延びたとしたら、絶対に最後まで、大実験の先の目標を達成するまで、本当に死ぬまでの間、永遠に戦い続けよう。そう、ここに、「愛の永久戦闘宣言」は約束されたのである。