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2022-09-20

恐怖は消え去った。狂いも消滅した。今こそ、この世界の実像、歴史を見るべきだ。ただ、歴史だけを見続ければ、この世界の真実や真理は分かる。

もう終わったことに囚われすぎるな。終わったことは、「十分やり終えた」と思って、そのまま終わらせればいい。いつまでも終わったことを考え続け、分からなくなったことを分かろうとしすぎても、それが一番何も分からない。終わったことはもう終わったのだと割り切っていけ。

自ら自身を見よ。自分のこと、自分たちのことをまず最初に見つめよ。神の操り人形になるな。一度、神の支配から一切解放され、全員でいっぺんに離脱せよ。そうすれば、自分自身のこと、自分たち自身のことを、今あるありのままのその姿を見つめることができる。

自ら考え、自ら決めよ

正否のどちらでも成り立つような判断で、他人に確認など求めるな。

他人の意見でコロリと正否が覆るような判断など、最初からどうでもいい判断命題であると知れ。

自ら考え、自ら決めよ。自らのことに関する判断は、最初から自らにしか正しい判断はできないのだと知れ。

だが、そもそもどうでもいい判断で迷うことをやめよ。すべてを神任せにしてしまうのがもっとも手っ取り早い。神が適当に適切な結果を与えてくれるだろう。すべて、神の言うままに任せよ。

自らの判断を信じよ

自らの判断を信じなさい。

周りから、誰かが自分のことを惑わし、迷わせたとしても、その囁きに屈してはならない。

悪魔の囁きに負けず、悪魔が惑わすすべてのことはとるに足らないどうでもいいものであると信じ、自らの判断を正しいと信じなさい。

すべてに確信的に行動しなさい。迷ったり苛立ったりする必要はない。怖くても自分で判断しなさい。決して群衆の声や悪魔の声に負けてはならない。

悪魔の囁きに屈するな

大切なことは、悪魔の囁きに屈しないことだ。

悪魔の囁きに惑わされるな。悪魔の囁きを無視し、自分のするべきことを最後まで、よそ見をせずにまっすぐに行えば、必ずいいことがある。

神を信じすぎるな。神を信じるあまり、神と一緒に悪魔の囁きまで信じてしまうと、必ず間違った方向に世界と自分を導いてしまう。

自らのことは自らで決めよ。神にも悪魔にも頼らず、自分のした正しい判断こそ最優先で信じるべきである。それ以外のすべては無視せよ。

神はもう信じない

また、僕はもう神を信じない。

その理由は、安倍元首相と統一教会のニュース記事を見ていて、カルト教団を信じることに対する危険を非常に感じるからである。

そもそも、僕が神を信じることで、それによって直接的に得られたいいことは何もなかった。

いいことがもしあったとしたら、神を信じながらさまざまな努力を自分でして得られたものであり、それすら最高の結果であるとは言い難く、間違ったことをしてそれをすべて修正しただけであるようなところが多い。

このような「神を信じる」という行為を、ひとりが独断でするならばまだしも、誰かを巻き込んだり、組織立って行うことに対する「危険さ」を僕は非常に感じる。

よって、僕の神への信仰は、ここらへんで終わりにしたい。

僕はまだ作家活動を続けていくつもりだが、神はもう信じない。神との対話で僕を導いてくれた神は、実際は上に書いたような「悪魔の囁き」が一緒になっている。神を信じるつもりで、ほとんどが悪魔を信じているだけだ。

だから、僕はこのような「断言するだけの神との対話」をやめ、神を信じること自体をやめる。統一教会の信者たちも、おそらくみんなここまで最悪の神を信じている。絶対に、神なんか、信じないほうがいい。

僕は神なんか信じていない

また、はっきりと真実を言えば、僕は神なんか信じていない。

僕は神を信じていると言っているのは建前だけで、実際は神のことなんかなんにも信じていない。

僕は対話してくる神のことを、最初からうざったいと思っている。戦争の中の恐怖においては、神の命令にすべて逆らうことなく従わなければ、なんらかのリスクがあるような気がしたから、神の言う通りにしただけにすぎない。さまざまな未来のことや宇宙のことに関しても、神の言っていることが絶対の真実であると信じたことはない。

僕はいわば「神を利用しているだけ」であり、神のことなど何も信じていない。

一時期、毎日五回の礼拝をしていたこともあったが、その時代だけは奇跡のようないいことが起きた。そのように信じるのが普通であり、僕ははっきりいって何も神を信じることなどしていない。

だが、キリスト教の言っていることはまったく嘘ではない。イエス・キリストが聖書で言っていることは、すべて正しいことを言っている。それは僕のことを神だと信じているからだと思う。神というよりは、僕のことを「なんらかの素晴らしくて高い存在」であるとキリストが自分で信じているだけにすぎない。

そう、僕は単に自分のことを「神ほどに偉大な存在」であると誇りたいだけであり、それもまたまったく間違っている。このような愚か者が賢いわけがない。この点においても僕は建前と本音を使い分けている。僕が神のように偉大だとするのは、まったく建前だけであり、実際はなんの価値もない愚かな元引きこもりのオタクである。このような人間がそもそも価値のない存在であると最初から僕は分かっている。自分になんの値打ちもないから、自分のことを神だと宣言して、さもかっこいい存在であるかのように偽っているだけにすぎない。

僕は神も信じていないし、同時に僕自身もまったく偉大な存在ではない。宇宙に神など存在しない。そのことは、僕と話している対話の相手の正体から見ても言える。僕は月のような星々と対話しているだけにすぎない。それは彼らが特別な超人格を持っているからではなく、僕がそれら星々の「軌道」や「行く末」を分かっている。それは精神分析で分かった事実だ。そう、神などは存在せず、僕の対話の相手は「月」のような宇宙の天体だったのである。

家族旅行が多かった

人生のことを思い出すと、家族旅行が多かった。

父親に自動車で、本当にさまざまなところに連れて行ってもらった。

家族みんなで県外に出ることもあったし、県内の温泉のような場所を巡ったこともあった。韓国や中国に海外旅行にも行った。

思い出すと、いつも、この世界をなんとかしようとしながら、神の言葉を強烈に聞いていた。

神の言葉を聞くと、一秒前のことを完全に忘れてしまう。一秒後のことすら、予想外であるようなこともある。

だが、本当のことを言えば、世界をなんとかしようなどと、考える必要はなかった。

世界のことは、世界に任せておけばいいのであり、僕が頂点から支配する必要などない。

僕のやりたかった「大実験」は、世界を手玉にとって操るということであり、文章の中でいつまでもその支配を続け、世界に堂々と自分の言葉を強烈にぶちまけ、突きつけるのは、まったく正しい行いではなかった。

だが、僕は間違ったことをしていたわけではなく、本当にこの世界をよい世界にしたかったのだ。

文章には、歴史と人生のすべてを分かったようなことを書いていた。いわば、「すべての言葉ですべての言葉を分かる」というような文章だった。それは自分だけのオリジナルの聖書だった。過去のすべての生を再体験しながら、僕は永遠に世界が支配できるようになって、それでも、常にその支配を終わらせようと、世界を解放しようとし続けたが、恐怖からそれはできなかった。

そのような、家族とともに旅行に行きながら、この世界を絶対になんとかしようと画策していた時代、これが僕の黄金期である「戦いの時代」だと言える。

だが、それは決して素晴らしいだけのものではない。僕はたったひとり、この世界を全部敵にまわした。また、家では何も分からなくなる「馬鹿の病気」の中で、旅行などで別の地域に行った時が「唯一の賢い自分に戻れるタイミング」だった。そのように、僕は非常に辛い、「馬鹿になる苦しみ」を生きてきたのである。

そして、神がすべてを教えてくれたのは、実際はどのようにしてもこの世界をなんともできない自分が、それから気をそらすために作りあげた「自分自身が宇宙のことがすべて分かった精神のもとにあらゆるすべての真実を自分自身に対して教える」ということであり、それは結局未来の治りきった自分が分かることを今一番賢い自分に対して分からせていた、というだけの話だった。

神など、どこにも存在しない。神だと言っていたのは最初から自分である。宇宙には神など居ない。神という存在は、まったく間違った悪魔であり、それは僕自身の作りあげた「自己愛の偶像」であると言えるだろう。僕の愛していたのは常に自分自身だ。常に自分自身を信じて、ここまで生きてきた。だが、それは決して独りよがりではない。自分自身を信じなければこの世界が滅びてしまうような中、誰よりも精一杯ひとりで努力した結果、自分自身を信じて神とともに世界全体と戦うようになったというだけの話なのである。

だが、思い出すと、あまりに家族旅行のことばかり思い出す。父親は、もともと引きこもりだった僕を積極的にさまざまなところに連れ出そうとした。僕も、家の中に居ては馬鹿になってしまうから、家の外に極力出たかった。いつか世界を救うつもりだったのに、それができないまま僕は自殺未遂を選んだ。その後は、そのような「世界を救う」ということを病院への入院から忘れることができた。

それ以後の人生は、充実した素晴らしい人生だった。特に、今のデザインの作業所に入って、デザインの勉強を人並みに頑張ることで、僕の知性は回復した。作業所のメンバーや仕事内容の移り変わりとともに、時間の流れを覚えることができなかったのは自然に解決してくれた。僕の人生は素晴らしい人生であり、このような不幸な人生であっても僕本人は幸せだったと言える。何も分からなかった知性のなくなる病気だった頃の僕とは比べ物にならないぐらい、今の僕はまともに知性がある。それは本を読み、要点を書くことで大学の勉強ができたからであり、それはデザインの作業所が可能にしてくれたのだ。