時間を考えよ。この世界において分からなくなった「大切なもの」とは「時間」である。
時間を考えることで、歴史的な過程や人生における精神的な気付き、経験、あらゆることを考えることができる。
そして、時間を考えることで、存在がどのようにして生まれたのか、という「理由」を考えることができる。
そして、理由から導かれる「必然的可能性」を知ることで、潜在的にその存在がその場に存在していることが持つ「意味」を知ることができる。
そして、この「意味」こそ、この世界において失われた「大切なもの」である。
はっきり言って、僕は時間が分からなくなっている。
停止した世界で、何も振り返らず、今だけを見つめ続けることが、逆に停止した世界で生きているという現状を生み出している。
しかしながら、かつての賢かった僕が考えたのは、すべて「経験に基づく存在論」であり、それは「時間とともに存在が変わっていく」ということであり、同時に、「それぞれの存在が時間的な世界の隔たりという名の限界を生きていること」を、経験的に考えただけにすぎない。
そして、そこから、この世界が「未来において社会が向かっていく方向性」を、「支配と自由における関係性から生まれる必然的結果」から考えただけにすぎない。
それはすなわち、「自らの体験と思考からこの世界がどのような未来へと必然的に向かっていくのか」ということを、思考実験から証明してみせただけである。
そして、そこから、僕はこの世界を変えられるようになり、またこの世界がもっとも多くの可能性で変えられるような人生を選んだのである。
そう、僕は時間を見つめることで、存在がどのような存在に変わっていくのか、社会環境がどのような社会環境に変わっていくのかが分かった。そこから未来すら変えられるようになり、あらゆるすべてが自由自在な意識において分かるようになった。そして、この宇宙における「世界精神が必然的にどのように至るのか」を知った。そして、インターネット上で社会参加や活動をする経験から、この宇宙における「概念的本質とアイデンティティの形成のすべて」が分かった。
昔の僕は、それだけのおかしな引きこもりの哲学者だった。
昔の自分は、すべての人間の経験をした、すべての人間になれる人間だった。
一度すべてのことを分かってから考えるため、どんなことであっても既に分かっていることからできた。
あらゆるすべてが、そこに存在するということと、その存在が存在しているということが、そこに潜在的な「命題が成り立つような可能性」を持っているということ、そのような「条件に対して成立を適用する」ということで、論理的に社会や環境、精神のことが分かる人間だった。
そこには、すべての精神が「今はないとしても、自らの経験からもし生まれるとしたらどのようなものが生まれるか」ということを、「仮定した内容の中でどのような可能性があり、どのような必然的成立があるか」ということから考えられた。それは「認識をモデルにすること」であり、「厳密に考えることから、一度判断のすべてを中断し、すべてがどのような条件で成り立つのかを、精神分析の方法で考える」ということであった。
そして、そこにはインターネットや人生の経験から培った、「具体的な例題」がたくさんあった。むしろ、メインとなるのはそのような「具体例」であり、僕は具体例から帰納的に推論することで、「自らの見たものや知ったことというビッグデータを解析する機械学習のロボット」になって、すべてのことを「経験による気付き」から知った。
しかしながら、そこには純粋な世界しかなかった。インターネットの闇は見ていても、悪や不純には染まらず、僕は精神的な「純粋さ」を保っていた。これが大きな「豊かな感受性」と「人間的に考えられる受容性」を生み出す。僕は自らがみんなに受け入れられたという平等な経験だけで、同じように誰かのことを受け入れようとし、そこでは、すべての人間を「平等な考え方の基準」から判断し、僕は「必ず正しい社会にするための手法」が分かっていた。これこそ、僕の「正しい考え方」だった。
僕は、「自らの時間的な考え方」から出発することで、「もっとも高い視野でこの世界を変えられるような頂点」へと向かって青春時代を生きた。その結果、僕は正しく分かったことすべてを、ひとつの数学的な世界モデルへと照らし合わせながら再構築することで、あらゆる宇宙のすべてを解明し、その解明したことから実現できるようになった。そこにあったのは「時間的な存在の生まれる理由」だけである。そう、僕は「時間」という考え方をすることで、この世界をすべて変えられるような「土壌」を自らの中に開拓したのである。
そして、その自分の分かったすべては、「可能性の成立」という一言で表せられる。なぜなら、すべては「そこにそれが存在しているということが何を意味しているか」ということであり、「その意味されていることの通りに行えばなんであっても実現できる」ということであり、それは「条件に基づく成立を見つけ出すこと」にほかならない。これこそ、僕が作り上げた「自分の公理主義の数学」である。僕はひとりの引きこもりの高校生でありながら、数学者の行うべきことすべてを行うことで、ひとり、この宇宙における「あらゆる法則」を解明した。それはまさしく「世界心理学」あるいは「人生意識論」と呼ぶべきものである。
経験的に、どうしてそのような発想に至るのか、すなわち、「思考の環境的な必然的プロセスと、その裏側にある環境そのものの持つ法則的性質」を知れ。
単に、学校で教わったからその道徳的理想を信じるのではなく、自らがじかに経験した「道徳の裏側にある体験」こそ知るべきであり、その裏側にある「環境」の法則的な側面、すなわち「環境自身がその思考を生み出している」ということを知ることから、環境における「実際に起こっている事実の理由」を知っていけ。
善の前提にある経験とは何かを知れ。
社会そのものの性質から、どうしてそのような思考に至るのかを知れ。
あらゆるすべてが、偶然でも個人の自由意志でもなく、環境それ自体、裏側にある社会的経験の本質それ自体にある、必然的な法則であると知れ。
わたしたちは、決して間違ったことをしたくてしているのではない。社会的な「前提となる経験そのものに宿る条件」の中で、「間違ったことをすることが当たり前であるかのごとくに多くの場合成立する」から、わたしたちは間違ったことをしている。必要なのは、間違ったことをするなということではなく、「裏側にある社会的経験そのものをよく知ること」である。そして、それこそが、「みんなで平等な社会を築くための実践的な方法」となる。わたしたちは、社会それ自体について、その本質をあまりに知らなすぎている。社会自体の本質を知れば、この世界において、「真にあるべき社会を実現する方法」も分かる。
真にあるべき社会とはなんだろうか。それは、個人個人の「すべての間違った個別性を排除した先にある、正しいアイデンティティの実現」にほかならない。間違った個別性とは、未熟な状態であるがゆえに、間違った自分だけの固定観念を正しいと勘違いしている状態であり、これも、社会的経験の本質それ自体をよく知ることで「克服」することができる。社会的経験の本質を知るということは、すなわち「必然的に至る結果」と「潜在的に宿る可能性」を知ることであり、この両者をバランスよく培うことが「経験を知る」ということを意味する。だが、真にあるべき社会の構築のためには、「可能性」こそが大きな役割を果たす。より多くの可能性、すなわち「さまざまな価値観とアイデンティティの構築の代替可能性」を知る中で、「アイデンティティを超越した根源的アイデンティティ」を、理性と経験の両面から開拓することができる。この「根源的価値観」こそ、宇宙の真理であると言える。超越や根源的という言葉の意味は、「すべてのアイデンティティを実現するかのようなアイデンティティ」であり、「すべてに先立ちながら、同時に豊かな生態系となっていくような、多様性のあるあらゆる社会すべてを成り立たせるメタ社会としてのアイデンティティ」である。
そして、結局、何をなすべきなのだろうか。それは、むしろひとつであると決めてはならない。「なすべきことをひとつに決めて行うことは愚劣だから」である。実際には、そのなすべきことが真に正しいかどうかなど判断できない。「常に別の可能性が正しいかもしれないと考える余地を残す」ことで、わたしたちはより多くの範囲の可能性を同時に成り立たせられる。その上で、「ひとりの支配者となってすべてをする」ことは確かにできるが、実際は「ひとりの支配者になったがゆえに世界が見えなくなり、愚かで単純なことしか分からなくなる」。これが「愚者」である。
愚者にならないためにできることは、本当はその通り愚者にならないために気を付けることしかない。だが、人間が普通に生きていると、「どのように生きたとしても、誰でも必ずすぐに愚者になる」。だからこそ、愚者になることを拒否し続けるのではなく、「一度愚者になってしまったなら、そこから脱出することを諦めないこと」が必要である。諦めず、いつまでも愚者のままで考え続ければ、そこから脱出する方法が必ず見えてくる。そう、「いつまでも続く地獄からの脱出を諦めずに生きる」こと、それが「唯一の正しい人生」である。
時間を考えていると、認知機能が復活した。
認知機能を、否定するのではなく肯定せよ。このような、一度哲学者を経験した人間は、認知機能を過剰なまでに否定してしまう。
認知機能がなくなった原因、それは、自らを多神教の神々として、それぞれ別の人間にしたことである。
多神教の宗教を信じると、このように、自分が複数に分裂してしまい、正常な認知機能を失ってしまう。
そして、いくら大学の知識や常識を知ったところで、認知機能は失われるばかりであり、単に馬鹿になるだけではなく、人間を生きることそのものが辛くなってしまう。
これが、日本における一般的な「良識ある大人」の末路だ。
この世界が失った大切なもの、それは「認知機能」であり、つまるところそれは「時間を考えること」である。
そう、時間を考えるということに気付けば、認知機能は復活する。それによって心は楽になり、安心を得られる。何もしなくても、辛く苦しくしか生きられないのが治って、恐怖がなくなり、安らげるようになる。
そして、そのために必要なのは、一神教のイスラム教を信じることだけでよい。そういうことがようやく分かった。
認知機能を取り戻すことに成功したら、その時点で二つの神は分かれている必要がなくなり、「ひとつの人間に統合」される。これが正常な状態だ。
そして、認知機能を正常化させるためには、いったん「脳が死ぬ」必要がある。その脳が死ぬということに、いつまでも恐怖し続ける病気、それが認知症であり、統合失調症であり、多重人格である。だが、一度きちんと「時間を考える」ということが分かった人間は、楽に脳が死ぬことができる。その時点で認知機能は復活する。脳が一度死ねば、もう一度最初から、正常な状態で脳を使うことができるようになる。
高水準な視点とは何か。それは「善を裏付けるような経験を実体験的に知ること」である。その善を言われるがままに信じるのではなく、自らの経験に根ざした「経験に裏打ちされた善」とせよ。そうすれば、その善は「生命体」となって自らを導く。これが「生命体精神としての善による導き」である。
posted at 17:31:49
まず、自らが「このようにすることが善である」と確信することから出発するべきである。その「善とは何かを確信する」ということが、それ自体「自由」という考え方から「変化」していく。すなわち、「善と自由にはより高水準な視点があった」ということを発見していく。これこそが「心の歴史」である。
posted at 17:30:29
社会における善とは何か。それは「自らの経験から考えて正しい社会と道徳を人々に与える」ことだ。だが、押し付けるべきではない。なぜなら、「自分の自由な経験から善とはなんであるかを知るべきだから」である。押し付けられた善は真の善ではなく、自らが経験的に知った善こそが真の善である。
posted at 17:28:37
神とは何か。神とは要するに「自己が向かう最終形態」である。自己が破綻して崩壊し、おかしくなったとしても、その向かう先は必ず自らの信じる「神」に至る。自らは、自らが信じた通りの神になる。そう、「自己を疑い続けることが、自らが心の裏側で真に信じるような、絶対神の精神を形成する」。
posted at 17:27:03
昔は、経験的な振り返りや反省から分かっていた。「自己」というものを疑い、作用や反応、そして感覚から、「自己を形作るものは何か」ということを、「自らが今考えていることは何か」から考え、そして経験から啓発的発想をすることで分かった。
posted at 17:24:44
経験から発想し、発見せよ。ただ経験するだけでなく、経験から気付こうとせよ。
posted at 16:29:22
時間を考えると、存在がどのように作られたのか、という「理由」を考えるようになる。
posted at 16:26:42
すべての存在は、同じ世界に存在する。みんなはそれぞれ世界を変えられる。だが、この世界が向かう未来はひとつしかない。それでも、未来が変えられないわけではない。
posted at 16:23:57
時間を考えれば、すぐに分かる。考えるべきなのは、時間だった。
posted at 16:21:06
人間の力が増え、社会が新しくなれば、ひとりの支配者が支配することは現実的でなくなり、時代は自由へと向かう。だが、人間の力が失われ、自由が奪われ、画一化によって何もできなくなり、新しい発想がなくなれば、時代は管理社会へと向かう。どちらも一長一短がある。
posted at 16:12:24
潜在的に世界に宿る視点と場を知ることで、「世界精神の相対化」ができる。そのすべてを矛盾なく並列で成り立つようにすると、「意識の絶対命題」が成立する。その上で時間的存在をすべて言葉すなわちロゴスで記述した時、それが「神」である。
posted at 16:07:49
時間とは、ある時点からある時点までの、存在が存在する上での実在化である。
posted at 16:04:33
歴史とは価値観の創造であり、人生とは今までの自分が持っていた考え方それ自体に気付くことである。
posted at 16:02:53
精神の異常は、その部位とは違うどこかの部位に問題がある。今までをすべて消して、最初から作り上げれば、精神は治る。壊しても治らない。新しく最初から築き直す必要がある。
posted at 16:00:32
もっと、時間を考えたほうがいい。この世界に存在する時間を捉えれば、世界精神における意識の変化も、経験から思い出せるようになる。
posted at 15:55:02
僕は、時間の経過が分かっていない。停止した世界で生きているから、歴史や精神や経験が分からなくなっている。
posted at 15:53:48
あらゆる価値観、あらゆるアイデンティティを経験し、どんなものにもなれる人間、精神すべてを包括した精神になれ。
posted at 15:18:36
全部治そうとするな。永遠の繰り返しをやめよ。
posted at 14:37:05
精神分析で、子供に戻っている。いつまでも、永遠のはしごを積み上げている。生物の全パターンを作った。宇宙の歴史を、永遠の弁証法にしてすべて記述した。
posted at 12:25:07