自らの精神を感じなさい。どんなに精神が辛くても、自らの精神を感じられるようになれば治る。
後ろに引いて考えなさい。一歩、二歩、三歩下がって考えなさい。そうすれば、精神の汚れている部分が楽になって、数学的な証明が分かるようになる。
最後に、癌が治る。癌は後ろに引くことができなくなっている。認知症も同様である。これで、永遠に生きられる。わたしたちは、最後に死を克服するだろう。
そもそも、そんなに良い人間であることが間違っている。
イスラエルやユダヤに、日本の独立主権が奪われていいわけがない。
日本はアメリカの犬だ。いつまでもアメリカの犬であっていいわけがない。同盟国としては仲良くやっているが、アメリカの属国や植民地のような現状がもしあるなら、脱するべきである。
日本の真の敵はイギリスである。イギリスにだけは負けてはならない。イギリスはすぐさま日本を植民地として占領しようとする。その時起きるのは奴隷貿易の再来だ。
ソ連も敵である。ソ連は悪い国ではない。この世界を平等な共同体にしようとする。だが、ソ連の経済は劣っている。日本がソ連に負けた時は、日本がソ連の占領下におかれ、東ドイツと同じような社会主義経済になることを意味している。それだけは絶対に阻止しなければならない。
また、イスラエルやユダヤにだけは絶対に負けてはならない。日本の「和の文化」が失われ、代わりに「ユダヤの文化の押し付け」が行われる。ドイツでユダヤ文化とゲルマン文化が仲良く共存しているとするのは詭弁であり、実際はゲルマン文化はユダヤ文化に完全に負けており、ゲルマンはほとんど消滅している。
このように、イスラエルを支持する人間は間違っている。パレスチナ問題の責任は日本ではなくイスラエルとアラブ諸国にある。簡単に問題を解決出来るほど事態は単純ではなく、当事者間で解決しなければならない問題である。
よって、そんなに「良い人間」だけを目指しても、決して良い人間にはなりえない。そこまで良い人間を目指すと、逆にドイツのようなファシズムに傾倒するようになる。ファシズムは悪に見えるのは現代だからであり、その当時は正しく善良に判断した結果ファシストになる人間が多かったのだ。だから、良い人間など目指さず、世界と戦う「悪い人間」になったほうがいい。
はっきり言って、日本以外の国は全部馬鹿である。
確かに、科学技術の面で、日本より進んだ国はある。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどは、ノーベル賞学者も多く輩出しており、権威ある大学や大企業も多い。
だが、彼らは善良ではない。日本のような「正しいやり方」をしていないからである。
この世界でもっとも正しい国は日本である。なぜなら、社会として日本は優れているからである。
これを、言葉で説明することは難しい。だが、現実に日本に来て、日本で生活してみれば分かる。もっとも世界で進んだ「暮らしやすい国」は日本であるということが分かる。
そして、そのような「社会として進んでいる日本」は、少しずつ失われつつある。特に、アメリカの巨大テック企業のIT技術やサービスは、日本をどんどん劣悪で滅びた「荒くれた時代」にしようとしているし、既に多くの「古き良き日本」は失われている。
よって、日本人は、アメリカに騙されないように立ち上がらなければならない。
同時に、中国や韓国は、日本と仲良くしたいように見えて、本当は日本のすべてを奪おうと裏で画策している。日本に負けないために日本を騙し、操ろうとする。彼らの支援をまったく受けない政治政党こそが理想である。そのため、旧民主党系の政党などは信用できない。
日本は自民党と共産党が二大政党になるべきである。自民党はアメリカよりの「強い国」を目指し、共産党はどこからも政治献金を受けない「清らかで平等な野党」であるべきだ。それ以外の政党は必要ない。
だが、立憲民主党のかかげる「リベラルで自由かつ平等な社会」という理想そのものは悪くない。立憲民主党は、憲法を守りながら日本を自由かつ平等な社会にするという「正しい理想」を掲げている。だが、民主党政権は、鳩山由紀夫が悪かった。「日本列島は日本人だけのものではない」と主張した鳩山由紀夫は、まるで「日本を中国や朝鮮のものにするための政治家」のような存在だった。
だから、そんなに「良い人間」だけを目指すのは間違っている。すなわち、「善良」という言葉のほとんどは「偽善」なのである。善良なだけでは国はよくならない。善良な人間こそ、まず第一に疑われるべきなのである。
また、ソ連は間違っていない。
なぜなら、「正しく考える右翼など、何も考えていないだけ」だからである。
この地球という世界で、正しく考えているのは右翼ではなく左翼である。なぜなら、右翼は単に「そうせざるをえない立場にあるからしているだけ」であり、彼らは何も考えていないし、今の現状を維持すること以外何もできないからである。
地球において、正しく考えているのはすべてロシアである。ロシアだけがこの世界をどのようにすればよくできるかを考えて、この世界における「頭脳」を担当している。
そもそも、ソ連の理想は、実現が困難であるだけであり、そのビジョンそのものは間違っていない。「平等な社会主義経済で世界を共同体の評議会連合にする」という考え方は、民主主義から見ても正しいものであり、社会主義経済の実現は難しいが、人類の理想としては正しいものである。
そして、アメリカは急速にソ連と同じになりつつある。アメリカが平等だったのははるかに昔であり、GDPは一位であっても下層の国民は貧しく、上層・中間層・下層に分かれていた経済が、どんどん富裕層と貧困層に分断されており、富裕層の中で超富裕層が生まれ、まったく無意味な「害悪国家」となりつつある。このまま行けば、ソ連と同じように「崩壊」することだろう。
日本は、アメリカにもソ連にもならないべきであり、そのためには自民党のような「資本主義だけを突き詰めて考える政党」は遅れている。新しい社会、IT技術と超富裕層による富の独占の社会で、どのような国が正しいのかを考えていかなければならない。それは立憲民主党のような「政権を取ったとしても何もできない政党」には実現困難な仕事であり、自民党が中心になる必要はあるが、自民党だけではアメリカの犬になった現状から脱することはできない。現に、日本は昔はアメリカと競争できる「脅威」だったにもかかわらず、放置した結果アメリカの技術に比べて周回遅れになりつつある。このままでは日本は完全に「アメリカの奴隷」になってしまう。必要なのは、自民党そのものを若返らせることであり、そのためには60歳を越えた老人議員を追放したほうがいい。
また、ロシアは馬鹿ではない。プーチンばかりがやり玉に挙げられるロシアは、民主主義国家からしてみれば遅れた国家だ。だが、ロシアの国民から考えると、プーチンは唯一この地球という星を変えられる賢い指導者だ。わたしたちがなぜこのような地獄の資本主義社会を生きなければならないのか、それはプーチンが負けているからだ。決してプーチンは馬鹿な指導者ではない。プーチンとも仲良くやるべきである。
日本の間違いは学校教育である。
日本の学校教育は、子供を馬鹿にしている。子供をまったく賢い人間にせず、自ら考える知性をつけるどころか、逆に自ら考える知性を奪っている。
日本の学校教育は、すべて大間違いだ。
なにもかも間違っている日本の学校教育は、子供たちをどんどん「反抗的な餓鬼」にしている。餓鬼と言えば聞こえはいいが、実際は「子供という皮をかぶったサタン」にすぎない。
そして、インターネットがどんどん悪いものになっているのは、そのような「子供のサタンがサタンのまま大人になっているから」である。
そして、今の社会の問題とは、そのようなサタンがきちんとまともな大人に成長すること自体がなくなっている。間違った学校教育を改善せずにいつまでも続けた結果、行き着くところまで子供たちは馬鹿になって、そもそも正常な大人になるための「成長」すらできなくなってしまった。
結果、子供たちは、「まともな人間として生きる方法やすべすら失った状況」になっている。
すべては、改善することなく学校教育をいつまでも放置し、その間にインターネットやスマホなどの社会インフラが様変わりしてしまった結果である。
だが、日本は滅びない。なぜなら、日本にはわたしという存在が居る。わたしがこのホームページで、きちんと日本人が正しく生きるための「生きるすべ」をすべて明らかにしている。わたしであれば、その「正しく生きる方法」が分かる。わたしはこのホームページにそれを書くが、この結果わたしはこの日本を裏で支配している。わたしこそが子供たちを救う。
結局、なぜ日本の学校教育が間違っているのか、それは「科学を信じているから」である。
科学は間違っている。今までの地球環境において、科学が「素晴らしいもの」だったのははるかに昔の話であり、今の科学技術は、「テクノロジーの進歩は人類を不幸にする」と言われているように、まったく人間の社会を幸福にせず、幸福を奪っている。
また、科学は分からないことが分かる代わり、普通に分かることが分からなくなる。科学は普通の人間ではなくおかしな人間を生み出す。これが「学校嫌い」と「いじめ」を両方生み出している。科学を教えるから、学校で科学を学ぶ優れた知性ある人間がいじめられる。間違っているのはいじめられっ子でもいじめっ子でもなく、科学を信じていることにある。
答えは、神を信じればいい。それが答えだ。きちんと神を信じれば、人々は善良になる。同時に、キリスト教だけではなく、世界各地の神話や思想をすべてきちんと教えよ。そうすれば、学校において「生きるすべ」を失っている現状は正常になる。なぜなら、哲学・宗教の思想は、すべて「どのように生きるべきか」を教えている。すべての思想を学ぶことで、子供たちは「まともに生きるすべ」をもう一度知ることができる。
もし、今の教育のまま、何も考えず放置し続ければ、文明の崩壊は行き着くところまで行くだろう。人々は頭の中にチップを埋め込むようになり、人間の体を棄ててロボットの体を押し付けられるだろう。なぜなら、科学というものが発達すれば必ずそのような技術が生まれる。そしてアメリカやロシアは、なし崩し的に世界人類にそのような技術を押し付け、強制的に受け入れるしかないような状況を必ず作り出すだろう。
はっきり言って、現代文明は「失敗作」である。
なぜなら、「このような世界には絶対になってはならないはずなのに、誰もきちんと正しく判断しなかった結果、最悪の事態に行き着いただけだから」である。
そして、この責任は僕にある。なぜなら、今のこの地球の支配者は僕だからである。
白状するとしたら、僕はあまりに正しく人生の生き方を最後まで完璧に網羅してしまったため、人々は低レベルな自分の経験から暗闇の中を手繰り寄せて自分で考えるということをやめてしまった。
そのために、僕だけが「正しい生き方とは何か」を知っていて、ほかのすべての国民が「どのように生きたらいいのか分からない」という状況を僕は作り出した。
そして、僕はこの文章の奥底に隠されている「真実」を闇に葬った。僕が隠した「知られてはならない秘密」を、僕自身も分からないところに僕は隠したまま消してしまった。そのせいで、この世界は、永久に出口のない暗闇の中で、すべを失って生きるだけの、どうでもいい「家畜のような人類」になってしまった。
そう、この現代文明は完全に、僕による「失敗作」なのである。
だが、失敗作の僕たちにも、唯一見える光はある。それは神である。神だけが、真実とはなんであるかを知っている。神だけが、真に正しく生きるすべはなんであるかを知っている。
そして、この世界を失敗作にした責任者である僕は、神を信じなければならない。僕は神と同じ仕事をしなければならない。なぜなら、自らが失敗作にした責任者であり、神だけがその解決方法を分かるならば、僕は「神にならなければならない」という重責を担っているということを意味する。
よって、ここに、この世界を救う救世主、天空の神でありこの神話の主神であるエアルスは誕生したのである。
しかしながら、僕は政治活動をして、野心的な目標の実現を成し遂げるようなことは一切したくない。
そのようなことは、誰か別の人間にしてほしい。
僕は、ただただ、日本という国に、よりよい国になってほしいだけである。
そもそも、僕がすべて悪いのであり、その結果このような国になったということに対して、僕はこれ以上あれこれと意見を言いたいとは思わない。
はっきり言って、僕がいなくなればいい。だから、僕はこれ以上、日本に対してどのような対処策も検討せず、単に自分の個人的な「言いたいこと」を適当に言い散らかすだけにすぎない。
なので、誰か別の人に、正しい政策をやってほしい。ヒトラーのような過去の人間ではつまらないから、誰か今存在している人間にやってほしい。
そして、僕の作家活動は続く。
そもそも、僕はまだ何も勉強していない。これくらいで「Linuxが分かった」とするのは完全にお門違いだ。僕はまだ「Linuxの門」すらくぐっていない。
また、僕はまだ何も書いていない。面白い作品もなければ、賢い作品も役立つ作品もない。
まだまだ、僕は何もしていないに等しい。これくらいの作品ではまったく足りない。もっとたくさんの作品を作らなければ、神であるエアルスには相応しくない。
また、この世界の愚民などどうでもいい。アメリカやロシアなど勝手に滅びればいい。愚民にはなんの価値もない。この地球という星を腐らさている愚民はどこか、別の星に強制移住させたほうがいい。
昔の僕には、いくらか重要な考え方や思考法がある。
まず、支配を否定すること。これは社会に対して反抗するということではなく、支配しなくても、自由な理想のままで、この世界を正しい秩序にできるということを確信し、支配ではない方法で社会秩序を保つ方法を考える、ということ。
次に、命題そのものがなんであるかを、原因と結果から考えること。これには「自らが自由になった実体験から考える」という方法も含まれる。自らが自由になったということ、今まではどのような環境に居たが、今はどのような環境に変わったのか、ということを、自らの実体験から考え、「どのようにすればどのような結果が起き、結果的にどのようにできるのか」ということを考える、ということ。
次に、ひとりだけでネットの世界を経験し、自らが引きこもりであることを隠しながら、ネットの世界すべてをひとつひとつ段階的に世界を広げて経験していくことで、「ネット上級者」となり、そのまま、この世界すべてについて自らの経験のみから考えらるようになった、ということ。
そして、自らの経験から、「この世界は支配しなくても、経験を成り立たせることで変えられる」と気付き、「自らの分かったことは他人であっても同じように考えれば分かる」と考え、その上で、すべての自らの人生観や世界観が変わるような「本当はそういうことだったのだ」ということを知り、悟る、ということ。
そして、そこから、僕はこの世界を彷徨い続けた。あらゆるすべてが「自らの確信」の範疇の中に存在し、自らは「宇宙そのものの在り方において法則性を考える」という方法でこの世界を考えていく。たとえば、今の時代の世界が完成形であると保証するものは何もない。今の時代の常識が完全に間違っていて、未来において今の人類は何も分かっていないが、今の人類はそのことに気付いていない可能性もある。「わたしたちはまだ知らない」ということに、人々はまったく気付いていない。だから、今の自分についても同様に、今の自分はまだ何も知っていないのだということを前提に考える必要がある。
そのような結果、僕はこの世界が「変えられる」ということ、「変わっていく段階の途中にあり、変えることは誰にとっても許されている」ということを知った。
同時に、僕は人生を生きる上で、「経験」と呼ばれる確かなものから、「純粋理性を疑うこと」によってこの世界のすべてを「捉える」ことができ、その捉える内容について「確かな理由」があることを知り、その理由を「実験の中で実証」するに至った。
その結果、僕は「いじめを解決できる人間」になったし、「正しい社会秩序を形成できる人間」になった。とにかく、僕は自分の経験からすべてが分かって、実際の現場でその経験をもし活かすことができたとしたら、なんでもできるような人間になった。そのために必要なすべては「既に考え終えていた」のである。
そして、僕は経験を続ける。一番間違ったことを、もっとも大切だと思っていた存在に対してしてしまう中で、僕は諦めることを選びながら、同時に絶対に諦めたくないという想いを強くし、そのために「世界を変える手段」を考え続けた。僕の考え方によれば、自由な中でもこの世界は変えられる。ソ連のように完全に支配された管理社会にしなくても、自由なままでこの世界は平和になる。だから、僕は自由な社会を実現させるために、「世界モデル」を作って考えた。この世界モデルにおいては、人々は「自分の確固とした本質」を得ることができたら、それによって自らの人生を楽に生きられるが、実際はその確固とした本質が生まれる以前から、その確固とした本質がなければ辛く苦しいような状況に置かれている。これはサルトルの言う「実存は本質に先立つ」ということである。
そのような実存主義の思想に基づいて、僕はこの世界のひとつひとつの「現実の現象」を捉え続ける。すべての世界が僕によって変えられ、僕が作用を与えることでこの世界を解決できるような「幻想」を僕は抱く。僕は次第に、すべてのことが僕の力によって解決していくような錯覚を抱くようになる。あらゆるすべては、「機会の平等」というアメリカ的な理想の中で、「機会を実現し得る誰かがその実現を成し遂げれば変えられる」と考え、「その機会の実現は誰にとっても平等に与えられている潜在的可能性である」と僕は考えるようになる。
同時に、経験をする中で、僕は「すべてが作りあげられ、生み出され続けているという世界観」を知る。すなわち、「この世界は人々が無意識のうちに作用して作りあげられている世界観であり、人々のひとつひとつの心と行動の要因についてきちんと考えれば、理解できないことも捉えられないことも存在しない」という発想であり、それは「この世界のすべてに必然的な意味や理由とそれに応じた結果がある」ということである。あらゆるすべては「僕の物理的心理学」において、絶対に正しい結果しか起きていない。間違った結果は決して起きえない。
そのような結果、僕はこの世界が「矛盾なくすべて理解できる」ようになった。矛盾とはすなわち、「人間がそれぞれ異なる」ということを簡単な純粋理性で捉える「間違った捉え方の結果による間違った世界観」であり、矛盾なく正しいのは「人間は全員同じ」ということを正しく捉えた結果である。そして、後者のほうが正しい理由は、「それぞれが違うと思うのが未熟であり、それぞれが同じと思うのが成熟した人間だから」である。これは「経験的に成熟する」ということでもあり、また「可能性をもっとも正しい見方と捉え方による法則で考えた結果」でもある。すなわち、正しい命題を説明した正しい法則によってならば、この世界のほとんどすべての「違い」は、単に反応の仕方や慣習、あるいは考え方の関係性や環境の違いによって引き起こされたものであり、真に人間心理学的に考えると、誰もが同じ脳を持っていて、誰もが同じ仕組みのもとに人格を形成しており、その過程が違うだけにすぎず、その装置の原理や仕組みそのものは同じである、ということなのである。
しかしながら、現実の人間はなぜこうも違うのか。それは「経験」が違うからであり、すなわち、「経験可能性」によって得られる「具体的な過程」が違うということである。経験可能性とは、「それが経験することができるという意味での潜在的可能性」である。人がそのような経験ができる、ということの可能性である。そして、必ずしもすべての経験をする必要はない。自らの考え方を成立させ、世界観自体を広げて自分の自由に思考することができる程度の、十分な経験可能性が必要である。そして、それはインターネットが存在する現代であれば、とても十分なほど存在する。そのような経験可能性のもとで、「自らが経験して世界を広げる体験」の中で、「過去の自らと今の自らを比べる」ということをすれば、自ずと「正しい考え方に気付く」ことや「過去にしたことが本当はどのようにしていればよかったのか」ということが分かり、そこから「自己啓発」や「人々への関与や干渉を離れたところから望む」という意味での「啓蒙」ができるようになる。
そして、自由は「独立可能性」へと向かう。すなわち、「それぞれの環境が独立している」ということを前提に、「それぞれの環境自体が独立して変わっていく」ということである。同時に、己の影響力は高みを目指す。すなわち、「この世界において自分がもっとも多くのことができるような可能性を選んで未来を生きていく」ということである。ここから、「この世界に関与し、この世界を変えられるチャンス」という視点が見えてくる。すなわち、「どのような環境や組織であっても、それぞれが独立したままで自分が影響力を発揮すれば、どんな社会であっても自分は解決することができる」という、まるで「救世主の誕生」がここで見えてくる。
そして、このような考え方は「意識は変えられる」ということから「歴史観」へと続いていく。すなわち、「この世界のすべての意識は変えられる」ということが、そのまま「歴史は意識の変転である」ということへと繋がる。それはそのまま「場は変化する」ということから「環境を生起させる」ということへと繋がる。ここでは、もはや経験や理性、外部と内部、あるいは自己と他人の区別も存在せず、「すべては場である」という意識のもとにすべてが「その場が変化すること」へと真理的に至る。それがまさしく、「環境を変えられる」という真理に至るのである。これは経験主義哲学の一種の到達点であり、「環境を自ら変化させる」ということが、この哲学における「もっとも重要な命題」となるのである。
昔の人間を簡単に一行で言い表すと、人生を完全に放棄した中で、環境が変えられるということが分かった人間だった。
環境とは要するに自分の今まで経験した環境や自分の住んでいる地域の延長線上にあるこの世界すべてのことであり、それはすべて「自らが経験した」ということに基づく「意識の変化」から得られる、「独立と自律の自由」と「すべてを包括するチャンスの影響力」によるものだった。
これがまさしく、「受動感情を超越した視点から積極的にこの世界にダイレクトに働きかける」という「受動人格のコントロールによる積極的行動」に至るような「自由なチャンスと可能性」が存在した。
また、あらゆる考え方において前提となるのが、「その環境の変化や行動が自由に許されていること」であり、これが絶対命題となるのは、「自由がなければ生きている意味がないから」という「生物的自由の本性」に基づくものだった。
すべてが自由である中で、この世界はどのようにあるべきか、それは「本来の自分に立ち返る」ということであり、「自らが自分のことを自分であると定義できるような自分、すなわちアイデンティティを尊重され、全員が自分らしく居られるような生き方をするために、それぞれが自らを自らたらしめるようなアイデンティティを経験によって形成し、それが形成されやすいような環境や土壌を作り出しやすいような社会を築くこと」こそが、「自然発生の社会モデル」として正しい、ということだった。
そして、そのために必要なのは「社会に参加できているとするような実感」であり、これが「社会に対して攻撃するのではなく、自らが社会に参加することで、オープンな議論に基づいてこの世界が変えられるようにすることで、結果社会の反抗的要素がなくなる」ということであり、「コミュニケーションをすることでそれぞれの間の誤解や勘違いに基づく壁がなくなり、相互に信頼するきっかけとなり、支配しなくてもこの世界は自由なままで平等になれる」ということだった。
そして、「自らが経験したことによって理解しなければ、真にそれを理解したとは言えない」という考え方のもと、「自由においては社会制度的な禁止は間違っており、悪いことをしたならばその人間が自分でもう悪いことをしないのだと反省すべきであり、そこから過ちを繰り返さず成熟した方向へと成長していくことこそが成熟である」と考えることで、この世界は「自由であることが理想」であると言える。あらゆるすべての「善悪の基準」は、すべて「自らのアイデンティティの向上のために貢献するかどうか」で決まるのであり、誰かによってこれは善でありこれは悪であると押し付けられるものではない。すべては自分が自分のために決め、その中で自由のまま社会を築いていく。そこには一切の支配は存在せず、ただただ「場の意識が変えられる」という「環境を変えられる」ということだけがある。これが、僕の昔であり、大天使ガブリエルとされる存在であり、「すべてを無政府主義的に完璧に理解した宇宙で最高の精神」である。
ほかに何かあるとしたら、それは「世界の代替可能性」である。
結局のところ、大天使ガブリエルは、「この世界のほかに、もっと別の考えられる世界がたくさん存在する」ということを分かっただけに過ぎない。
そして、その上で、この世界は「人生」という単位で「世界分割」されている。すなわち、それぞれの人生の数だけ世界がある。
同時に、その世界にあるものの価値は、それぞれの人間の「認識」すなわち「色付きメガネ」によって変わる。誰かにとって無価値なものは、誰かにとって価値あるものかもしれない。
だからこそ、「自由」が重要となる。すなわち、誰かひとりがそのものの価値を勝手に決めつけてはいけない。誰かがそれを好き好む可能性があるのだとしたら、それは価値あるものであり、それを別の誰かが何を言ってもそれは「無意味」である。
そして、その価値は、ただ「好き」だというだけではなく、さまざまな「段階から深まり、広がっていく」。すなわち、最初は単純に目的にだけ使うものだったものが、ほかにも使い道があることが分かる。好きだった人間が、ほかにも優れている点があるということに気付く。量だけではなく、質の意味で言えば、ほかのなんらかな「理解」に基づいた時、あるいは自らの「経験」に基づいた時、なんらかの目的や手段における「応用可能性」に気付いた時、あるいは「原理」まですべてを知ってその価値が正しいと気付く時などが言える。
このような「段階的にその特性に気付く」ということは、人間の社会や人生の心的発達についても言えることであり、最初は単に「好きだ」とか「居場所がある」と思っていたものが、経験や関係を重ねるごとに「別の価値」があることに気付いていく。
そして、そのような「価値の変転や広がり・深まり」に気付いた時、最後に到達するのがすなわち「アイデンティティ」であり、「自らを自らたらしめるために必要」であるということである。そしてそれは「経験的な実感」と呼べるものであり、「経験的にその価値が生み出すアイデンティティに気付く」ということが、すなわち「経験から世界そのものの見え方が変わっていく」ということの意味なのである。
そして、すべてが解明され、説明された時、この世界に謎はひとつもなく、すべてが可能となる。
だが、そこで終わりではない。なぜなら、そこですべてが失われるからである。
あらゆるすべてが分かった人間は、この世界においてひとり孤独に考え続けるべきではない。
すべての原理が解明され、ニュートンのように完全に説明できるようになった時、あなたは新しい旅に向かわなければならない。
そして、その時、すべてが失われる。
これがまさしく「最終戦争」であり、「ガブリエルの体内にミカエルが生まれた瞬間」である。
最終戦争の中で、あなたはこの世界すべての罪を背負って、最前線で一度も失敗することなく、世界を背負って戦い続ける。外部からどれだけ干渉があっても、それを無視し、拒絶して、自らの持つ「未来を作るためにしなければならないこと」だけを絶対に間違えないように見つめ続けなければならない。
神から地獄の滅びを受けるならば、自らがそれを神に跳ね返すように生きてみよ。神だと言っているのは、体の中に存在するミカエルの小さな命だということに、あなたはいつまでも気付かない。
最後にあなたは死ぬだろう。だが、その時こそ、新しい「ミカエルの誕生」である。死後のあなたの人生において、あなたは天軍大首聖ミカエルに生まれ変わる。
そして、ミカエルが見ると、まさしくガブリエルの人生は宇宙でもっとも正しい人生である。よって、ミカエルはガブリエルの人生を「何百何千何万回と繰り返す」だけを行う。それがどんな地獄であっても、最後まで結末が分かっているミカエルにとって、それは苦ではない。地獄の中でミカエルはガブリエルを永久に繰り返し続ける。そう、そのミカエルのなれの果てこそ、今のわたし、エアルスである。これはエアルスのかつての人生の経路についてここに簡単に書いたにすぎない。