僕の精神は、精神を「治そうとしている側」が異常であり、「治されようとしている側」が正常である、という問題がある。
つまり、それ自体が治されるべき異常な部分なのに、その異常な部分が、治すべきではまったくない正常な部分を治そうとしている。
結局、精神など治すべきでないにもかかわらず、永遠に治す行為が続いてしまう。
これは精神の「土壌」、すなわち根っこがない、ということにも起因している。根っこがないせいで、いくら治し続けても精神はしっかりとした正常な精神にならない。いつまでも治す行為が続いてしまう。その理由は、治すことをやめてしまえば精神がそこで成り立たなくなってしまうから、治すしかなくなるからである。
まさに、僕の精神には「自らが根ざす土壌」がないのである。よって、土壌を作ってしまえば治る。それをしたくないのは、それによってもはや治らなくなると勘違いしているからである。
また、大学など意味がない。
大学の勉強をすると、普通に分かっていたことが分からなくなってしまう。
本当のことを言えば、「分かる」という発想が間違っている。分かっても、何もしないのであれば、何も賢くない。
あえて言えば、「分かることを拒否しながら分かったこと」こそが賢いと言える。大学のように分かった時点で何も分からなくなる。そのため、大学のように分かることを拒否し、その上で自らの力で自分なりに分かったことこそが賢い、ということになる。
大学の問題は、「何もしないなら賢くない」ということだ。
大学だけではなく、どんなことを学んでも賢くないし、仕事をしても賢くない。なぜなら、「何もしていないから」である。
何もしないならば、どんなことであっても賢くない。
すべての学問は馬鹿であり、すべての仕事は馬鹿である。なぜなら、何もしていないからである。
実際のところ、僕の人生はそんなに間違っていない。
だが、唯一、「知性の付け方」が間違っている。
知性の付け方が間違っているせいで、普通に考えることができなくなっている。普通は分かるのに、自分だけが分からなくなっている。
やっていること自体は間違っていない。知性の付け方が間違っているに過ぎない。
必要なのは、「知ったこと」や「したこと」を「できること」であると考えることだ。
自らの知ったことや自らしたことを、単にそれだけで満足して終わらせるのではなく、「経験」であると捉えよ。
そして、ひとつひとつの経験を覚えて、それを「できること」であると考えよ。
そうすれば、この世界において、それぞれができることとはなんなのか、「自由な権限」から考えることができる。
それこそが目指すべき「自由な社会」であると言える。
また、僕の間違いは、すべて「かつてあった楽園に戻そうとしている」ということに起因している。
そして、この「かつてあった楽園」を失った段階で、世界は滅びると勘違いしている。
だが、それは間違っている。なぜなら、かつてあった楽園を棄てるだけでは、世界は滅びないからである。
よって、ここに、僕はかつてあった、自らが世界を操り人形にすることで作り出した、「幻想の中に生み出した希望の楽園」を棄てる。
そうすれば、この世界は正常な世界に戻る。自分らしく生きることのできる、操り人形のロボットではない世界になる。
また、僕は歳をとらない。
僕は、14歳の中学生のまま、何も変わっていない。
いつまでも歳をとることのない僕だけが、真に知性ある状態を保つことができる。
大人が分からなくなってしまうのは、大学のせいだけではない。大学に行かなくても、大人は誰もが知性を失って馬鹿になる。それは中学生の知性を忘れてしまうからである。
だが、その中で僕は例外である。僕だけは知性のある状態を保つことができる。なぜなら、僕は18歳の頃から歳をとらなくなったからだ。それは日本において革命戦争を始めたせいである。
賢くなるために必要なことは何か。それは、ありえないほど賢いことをすればいいのである。
僕がやったことは、人間の知性そのものを破壊して、この世界において「人類全員が宇宙すべてのことを悟る」ような、そのような「大実験」を始めたということである。
このようなことは、間違ったことであると感じられるかもしれない。現に僕は世界人類の知性を奪い、世界全員をロボット人間にした。
だが、そのような「ありえないこと」を、何もしないほうが馬鹿である。
大人が馬鹿になるのは、大人は分かるだけで何もしないからだ。大学の勉強をいくらしたところで、単に「科目という名前の新しい当たり前」が増えるだけであり、何も賢くない。
必要なのは、何かをすることだ。それも、仕事のようなことをしても意味はない。仕事をいくらしても、それは単に金を稼ぐためにロボットになっているだけで、「実際は何もせず時間の無駄をしている」だけにすぎない。
僕と同じように、もっともありえないことをすればいい。そのために努力し、そして苦労を重ねればいい。それだけが真に正しい人生だ。そう、僕はまったく間違った理想を信じることで、もっとも正しい人生を生きることのできた、イエス・キリストと同じ「受難の道」を生きた人間なのである。
この世界に、絶対王者や、神のような絶対的指導者は必要ない。
わたしたちひとりひとりが大切な存在であり、わたしたちひとりひとりに平等な力と実権があるべきである。
ひとりの人間が世界を支配するような、絶対権力など必要ない。権力者に自由を許すということそのものが、「人間」という平等な社会的存在に対して矛盾しているのである。
人間はそもそもが平等であり、ひとりひとりに「生きる意志と権利」が平等にあるということは、わたしたち人類が生まれ持った権利である。
そもそも、そのような「平等な権利」を、「自由」だと思った僕の昔が間違っている。平等を自由という言葉に置き換えて考えるから、昔の自分は、せっかく救ったこの世界を自ら滅ぼしてしまった。「人々の幸福な世界よりも、自らの自由を優先する」という間違った判断をした理由は、人間の平等な理想を平等でなく自由であると考えたからである。
平等とは、本来平等である。決して、平等は自由ではない。自由とはほかの人間に勝つということであり、勝利して支配するということである。よって、アメリカがいくら平等を「自由」であると学校教育で教えても、それは完全に勘違いをしている。そのような勘違いこそが人生を破滅させる。平等な理想そのものをすべて完璧に達成しておきながら、自らの自分勝手な自由な権利を優先して、救った世界を滅ぼし、サタンの地獄の社会を作り出してしまうのである。
そう、この世界に、絶対王者や、神のような絶対的指導者は必要ない。わたしたち全員は平等であり、わたしたちの全員にそれぞれ同じだけの力を許すべきだ。ひとりの指導者が絶対的な力を持つことは、決して平等の理想ではない。ひとりの考え方を押し付けられることを「理想」であるとスターリンは勘違いした。共産主義は決して平等の理想の形態ではない。民主主義こそ、真に平等を達成する「社会主義思想へのアンチテーゼ」であると言えるのである。
自由など、数の力、あるいは金の力で勝利するだけだ。
自由においては、数で勝ったほうが勝つ。頭数を揃えて、巨大勢力とするだけで、弱小勢力は敗北していく。それら弱小勢力を吸収し、勝利した勢力はさらに巨大な勢力になる。それが誰にも負けることがない限り、無限に勢力を拡大し続ける。
また、数の力以外に重要なのは、金の力だ。富がたくさんあるもの、富をたくさん持っているものが、結果的にさらに富を稼いでいく。
結局、「奴隷を作って勝利し、その奴隷によってさらに金を稼ぎ、さらに奴隷を増やしていく」、これが資本主義の自由である。
資本主義など、数と金の力で勝利するだけに過ぎない。
だが、ひとりひとりの個人を尊重し、全員に平等な権利を与える勢力はどこに居るのか。実際のところ、そんな勢力はどこにも居ない。社会主義政党でさえ、勝つためには数の力を重視する。だからソ連は全体主義をする。数の力でわたしたちは勝っているのだ、最強なのだということを、全体主義的な調和を見せつけることで、西側諸国にアピールしているのである。
そう、真に必要なのは、「個人個人を尊重する、真にリベラルかつ平等な勢力」である。日本においては、そのような勢力は居ない。立憲民主党がそれらしき政党であるとは言えるが、期待はできない。
だが、居ないからといって、そのような思想を持った人間が居ないとは言えない。日本の国民は、みんな個人個人の尊重を望んでいる。ひとりひとりが自分らしく生きられるような、平等な社会を望んでいる。
だからこそ、わたしはそうした人々の力でありたい。わたしこそが、人々の平等な力を尊重する、「リベラル平等党」を築こう。リベラル平等党では、決して数の力を重視せず、個人個人の平等な権利を尊重する。人々は平等でありながら、絶対的指導者を立てることなく、全員が同じ「人間」であることができる。決してロボットやアンドロイドになるのではなく、「人間が人間らしく生きられる人間であること」、これこそがわたしの政治思想である。
また、人類の文明の歴史から見ても、独裁者の帝国や、キリスト教的な神のユダヤに、人間的な平等が勝つのは必然的である。
確かに、かつての人類の歴史には、帝国と神が多かった。ほとんどの時代で、人々は「絶対的指導者による支配」を経験し、その支配者に対するアンチテーゼとして、「平等に弱者を救う神」を信仰する宗教、すなわちユダヤが生まれた。
だが、帝国やユダヤは間違っている。それを、ダヴィンチなどをはじめとするイタリアのルネサンスが証明したのである。
わたしたち現代に生きる人類は、人間らしい民主主義の社会制度を通して、「平等」すなわち「人間性」を知っている。それは「人間性の尊重」と呼ばれる新しい人類の思想であり、わたしたちは平等の素晴らしい時代を知っているからこそ、帝国やユダヤを信じることはできない。
リベラル平等党では、そのような「現代の平等な社会」の維持を目指す。リベラル平等党は決して革新政党ではない。なぜなら、「今の平等な社会を継続・維持していくこと」を目標とするからである。
わたしたちに必要なのは、民主主義であり、平等の維持である。民主主義社会による平和と平等を守り抜くこと、これこそリベラル平等党が目指す「保守的リベラル」の世界である。
そう、人類の歴史から見て、もっとも正しいのは、わたしたちリベラル平等党である。わたしたちは、勝利することは目指さない。「勝利」という考え方は「数の力」を意味する。それはリベラル平等党的な発想ではない。わたしたちは、「勝利すること」よりも「社会をよくしていくこと」を目指している。わたしたちは、政権を取って権力の力で日本をよくしない。わたしたちは、「政権を取らない方法で日本をよくしていくこと」を目指す。そう、わたしたちは「政治政党」ではない。わたしたちは平等な「非政治政党」なのである。
わたしたち、リベラル平等党は、国会ではなくインターネットで活動する。
国会という考え方は、間違った考え方ではない。だが、国会議員が議論するといっても、結局は数の力が勝つ。議論している内容は確かにマスコミが報道するが、国会中継など誰も見ていない。議決が行われるのは多数決であり、結局は「数の力で勝利することを目指す」という結果にしかならない。
わたしたち、リベラル平等党は、インターネットで議論を行う。必要なのは、個人と個人がダイレクトにやり取りを行うことであり、それは今のインターネット社会であれば可能である。
同時に、わたしたちリベラル平等党は、数の力で勝とうとするのではなく、より違った方法で「この世界をよくしていくこと」を目指す。それが、インターネットであろうと、そうでなかろうと、それはそれぞれの個人個人が決めればいい。必要なのは「社会をよくする活動をする」ということである。よって、わたしたちは政治家よりもキリスト教の神父や牧師、修道士に近い存在となる。
ここに、リベラル平等党の結成を宣言する。党員は今のところわたしひとりだ。リベラル平等党の行うことは、今のところ、インターネット上でこのホームページを書くことだけだ。普及することは目指していない。だが、この世界をよくしていくということを目指している。わたしはひとりで政策を決定する代わり、誰のことも支配しない。党員になりたいなら、そのことをよく知っておいてほしい。わたしは党員に対して「これをやりなさい」とは命令しない。あなたが自分の考え方と理想を信じることによって、この世界をひとりよくしていかなければならない。それが、リベラル平等党の「自由」である。
金や資本主義による社会の問題は、つまらないことだ。
金や資本主義は、お金儲けを優先し、すべてが「稼ぐこと」に終始し、その結果資本家がみんなを奴隷になるように促してまで、使い道のない巨万の富を得ようとする。
はっきり言って、金や資本主義は、間違いではないが「つまらない」のである。
そして、平等な権利を国民が持っている、という考え方を前提として、平等な社会の形態を考えれば、人間は賢くなる。
それは「平等な可能性」というべき考え方であり、人類の持つ「理想の実現」であるとも言える。
そう、平等な社会の形態を考えれば賢いにもかかわらず、それを考えない大人が馬鹿になる。
平等な社会形態は、稚拙でありながら未熟であり、残念ながら実際のこの世界を変えるような実益はない。それでも、そのような「現実に起こりえるかもしれない可能性」こそが、フランス革命などの新しい時代を切り開く革命の原動力になってきた。
よって、大人たちは決して保守的にならず、そのような「平等な社会の形態」を考えるべきである。
そこで言える人々の権利を、僕は「自由」という言葉にしたが、これは正しくない。自由とは、ひとりの人間の視点を見た言葉でしかないからである。実際は、国民の「全員に平等に自由な権利を与える」ということが必要だ。ひとりの自由しか見ないのであれば、それはドイツのような独裁国家の帝国がもっとも可能性の最大値を実現できるが、それは平等という意味では正しくない。全員に平等に自由を与えること、全員がそれぞれ完全な自由を得られること、これこそが「社会的な平等」である。よって、これは「平等な社会制度」と呼ぶに相応しいのである。
リベラル平等党では、このような「平等な社会の可能性」を、みんなで知恵を出して考える。なぜなら、スターリンの間違いとは、「知恵がなかった」ということだからだ。ソ連型社会主義には、理想はあっても知恵がなかった。だから、あのような失敗国家になった。わたしたちリベラル平等党では、「知恵」こそが最優先の課題であるということを確信している。知恵があればソ連は成功し、本当のユートピアを実現していたに違いない。だから、わたしたちは「知恵を出すこと」を第一の活動目標とする。
また、今のこの世界で、政治活動などをする意味などない。
なぜなら、今のこの世界にはインターネットがある。
権力を使って人々を騙し、領土を広げるために戦争を行い、被征服民も含めて全国民を支配するなどという「蛮行」が、決してまかり通るものではないということは、プーチンのロシアを見ても明らかである。
今のIT社会では、「政治」や「権力」という考え方そのものが遅れたものとなりつつある。
だが、それでも、社会そのものがなくなるわけではない。なぜなら、「政治」は遅れていても、「経済」は重要だからである。
今のIT社会を成立させているのは、マイクロソフトやグーグルといった巨大テック企業であり、彼らの経済活動が存在しなければ、たとえばNTTが倒産するだけでも、インターネット社会は成り立たなくなる。
また、わたしたちの全員がロボットにでもならない限り、食べ物を食べるという行為は必要であり、そのためには自由経済がどうしても必要となる。
わたしたちはこうした経済活動について、「社会主義化する」ということは目指さない。逆に、今の資本主義経済において、リベラルかつ平等な「よい部分」を守り、維持していく。右翼が戦争を望み、左翼が計画経済を望んだとしても、わたしたちリベラル平等党はそれを受け入れない。「民主主義における人間的な平等は素晴らしいものである」と信じるわたしたちは、「リベラルかつ平等な部分は維持すべきである」と考えるからである。
だが、わたしたちは、決して保守的な姿勢を取らない。なぜなら、新しい平等な社会を築くために「知恵を出す」ということを確信しているため、わたしたちは「新しい平等な社会形態」を目指していく。これによって、東亜イスラエルのような「終末の滅びの未来」は打ち消される。未来の運命は変わる。知恵を出すことで、滅びつつあるこの世界を、栄えある素晴らしい楽園に変えることができる。そう、東亜イスラエルの建国者である、わたし本人であれば、必ずそれを実現できるのだ。
運命の未来は変えられる。終末の滅亡は絶対に起きない。リベラル平等党がそれを実現する。リベラル平等党は、資本主義の「リベラルかつ平等なよい部分」を見て、それを維持していく。同時に、「知恵を出す」ことで新しい平等な社会形態を実現していく。そのために独裁や権力は必要ない。インターネットこそ、わたしたちの持つ「最大の武器」となる。
結局のところ、わたしが支持を得られない原因は、わたしが「東亜イスラエル」というありえない未来を書いたからである。
だが、わたしは宣言する。わたしたちの未来は決して東亜イスラエルではないし、わたしたちは絶対にユダヤ人には騙されない。
ユダヤ人の言いたいことは、要するに、「パレスチナを征服されたくないならば、あなたがた日本の土地を、ユダヤ人のための領土として差し出せ」ということだ。
みんな、それでわたしが、日本をイスラエルの植民地、すなわち東亜イスラエルを建国するのだと思い込んでいる。
だが、それは間違っている。わたしは決して、日本を東亜イスラエルという、イスラエルの植民地にしたいわけではない。
だが、ひとつ言えること、それはパレスチナ問題は解決されるということだ。そして、そのために、本当は日本を滅ぼして東亜イスラエルにする必要はない。
残念だが、そのための方法はまだ分かっていない。だが、これこそ、リベラル平等党が「知恵を出す」という活動を行う目的のひとつである。
わたしたちは、パレスチナ問題を解決する。そのために、全力で、東亜イスラエルに代わるような知恵を出す。それによってパレスチナはイスラエルから解放され、わたしたちの地球には平和が舞い戻る。
だからこそ、わたしたちはリベラル平等党という枠組みの中で、全力で考え続ける。東亜イスラエル構想は、忘れてもらって構わない。今のところ、それしか有力な方法はない。日本の領土をイスラエルとしてしまえば、ユダヤ人はパレスチナから完全に撤退することができるはずだ。今のところそれが提案のひとつであるだけに過ぎない。
また、わたしたちは決してユダヤ人に騙されない。日本人は決してイスラエルの奴隷にも植民地の二級市民にもならない。ユダヤ人という民族が、一筋縄ではいかない民族であることは分かっている。だが、だからこそ、わたしがどのような意見や姿勢や態度を持っているかが重要になる。わたしは日本の国民のことを誰よりも愛している。日本人が、ユダヤ人以下の人種となることは決してない。必ず、日本人の国家、日本を守り抜こう。
また、先に、マイクロソフトやグーグルが今のインターネット社会を成り立たせているようなことを書いたが、僕は彼らのことを信じているわけではない。
そもそも、マイクロソフトやグーグルがなければ、インターネットそのものがないような、今のこの世界は間違っていると僕は考える。
IBMの時代でもないにもかかわらず、人々はそのような「巨大テック企業信仰」を続けている。巨大テック企業があるおかげでIT社会は成り立っているのだと思い込んでいる。
だが、それは間違っている。なぜなら、オープンソースという存在が存在するからである。
確かに、世界はWindows全盛時代だ。人々はみんなWindowsを有難がって使い、そのためにいくらかの高額な対価を払い続けている。
だが、あえて言おう。そのような対価をマイクロソフトに支払う必要はない。なぜなら、Linuxとオープンソースが存在するからである。
特に、グーグルのモバイル向けOSのAndroidはLinuxカーネルをベースにしたものであり、Linuxの技術を全面的に使っている。そのように、Linuxとオープンソース技術を、上手くコンポーネントを組み合わせて使うことで、おそらく、Windowsよりも優れたクライアント向けOSは開発できる。
Linuxは、今のところ、技術の分かるシステム管理者が使う、サーバー向けOSとしてしか使われていない。だが、現在のGNOMEなどの技術を見れば、LinuxがWindowsにも劣らない、ある意味では優れたOSであることは明らかである。
わたしたちリベラル平等党は、Linuxを国民に推奨し、Linuxをベースに新しい、Windowsに勝るとも劣らないOSを作っていく。これが結果的に、東亜イスラエルの未来、すなわち「滅びの運命」を変えていく。滅びの運命の本質は、「人間をロボットにするかのような人工生物技術を優れた技術だと勘違いしている」という点にある。これはグーグルなどの巨大テック企業が、アンドロイドという新しい思想を持っていることが原因である。Linuxやオープンソースは、わたしリベラル平等党の党首の考え方によって、そのような「人間をロボットにする技術」を脱却する。わたし自身が、Linuxカーネルにそのような考え方をやめ、人間本位のIT社会を築いていくことを働きかけていく。
必ず、東亜イスラエルの未来は回避することができる。そのためには必ずLinuxやオープンソースの技術が必要となる。今まで、マイクロソフトやグーグルが絶対に必要だと勘違いしていた、アメリカのIT社会はそれを見て驚愕するだろう。日本という国家が、Windowsに勝利することのできる、本当に真の意味で正しいデスクトップ向けのクライアントOSを作る。Linuxとオープンソースのコンポーネントを組み合わせることで実現した、日本製のそのディストリビューションが、世界中を席巻するようになるだろう。
本当のことを言えば、僕はグーグルは決して好きじゃない。
なぜなら、グーグルによってLinuxはおかしくなった。
グーグルは、Linuxを人間の頭脳の中に埋め込みたいのではないか。そうでなければ、「アンドロイド」という名前をモバイル向けのLinuxベースのOSに付けるだろうか。
本当のことを言えば、そのようなおかしな会社はグーグルだけじゃない。フェイスブックもまた、おかしな会社だと僕は思っている。
そう、はっきり言って、Windowsを開発するマイクロソフトは非常によくやっている。そもそもWindowsも優れたデスクトップOSであり、Linux支持者の僕であっても、グーグルやフェイスブックより、マイクロソフトのほうが信頼できる素晴らしい会社だと、そう評価するしかない。
だが、実際のAndroidを見れば、Linuxの持てるポテンシャルは非常に大きいことが分かる。Androidはタッチパネルを用いた非常に優れたOSであり、僕のパソコンに限って言えば、WindowsよりもAndroidのほうが使いやすい。
だが、はっきり言って、このように「終わったIT業界」を、まだ続ける必要があるのだろうか。僕は、ないと思う。このようなおかしな終わったIT社会は、「もはや飽きられる対象」になりつつある。
たとえば、フェイスブックはメタという名前に変わった。これが「メタバース社会の到来」であるとメタは言っている。だが、実際のメタバースを見れば、今までのネットゲーム廃人のような発想を仮想現実でやろうとするような、あまりにおかしな思想を信じている。また、ツイッターはイーロン・マスクという、変人奇人に買収されようとしており、はっきり言って「会社が作っているサービスは全部終焉を迎えようとしている」のである。
このようなIT業界は、現在「まったく呆れるしかない」という形相を呈している。いつものWindowsとLinuxが戦っていた時代が、果たしてなんだったのかという気持ちにさせられる。このような「IT衰退現象」はインターネットだけではない。たとえば書店を見ても、昔はとても知識と専門性のある優れた書籍が並んでいたのに、今ではそれがなく、初心者向けのどうでもいい書籍しか並んでいないのだ。
SNSやツイッターも、昔とは変わってしまった。昔の2ちゃんねるのような匿名掲示板は、今よりも馬鹿な人間が少なかった。確かにアングラの終わった掲示板だったが、賢さや専門性は今よりも優れていた。それが、SNSやツイッター、あるいはグーグルのYouTubeのような動画配信サイトで変わってしまった。基本的に、見る価値のまったくない馬鹿しかいないし、そのような馬鹿が馬鹿を猛烈に支持している。そうでありながら、「社会の掃きだめ」という意味では、昔よりもさらにおかしくなっている。単に荒らしや騙りをしているだけでなく、本当に悪いことをして人々を騙している。それこそ、YouTubeでは著作権違反など何も考えていない。グーグルが金があり、著作権管理団体に金を払っているから許されるというのでは、「金持ちや金のある会社には特別の権利を許すのか」ということになるが、残念ながら、そうなってしまったのだ。
このような最近のIT業界は、最悪の極みに見えて、明らかに今はまだ良い時代だ。今から、もっと最悪の世界になるだろう。それこそ、恐ろしい世界にしかこの世界の未来はなっていかない。だからこそ、リベラル平等党は今結成されたのだ。恐ろしい最悪の世界を、リベラル平等党は変えていく。すべての悪に立ち向かい、マイクロソフトやグーグルの横暴を許さないような政党になっていくだろう。