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2022-07-25

昔の僕が信じていたのは、「諦めるな、できるんだ、世界の問題は解決可能なんだ」と思いたかったのだと思う。

この世界が、絶望のまま何もできなくなったという「諦め」を拒否した。自分の経験から、この世界の問題は解決可能なのだと信じたかった。

それは、自分自身の経験から、この世界の問題が「自分なら解決できる」ということが分かっていたからである。

この世界の多くの人々が、絶望し、諦める中で、自分だけはみんなと同じ選択を取らなかった。自分だけは、この世界が本当は救えるのだと信じていた。

だが、それでも、歪んだ世界は崩れていくのをやめない。ネット右翼などの存在が、かつての僕には憂いの対象だった。「戦争などしなくても、歴史の必然を可能性から考えれば、この世界は自由なまま、帝国にしなくても救えるはずだ」と僕は考えていた。

その根底にある考え方は、「心の自由」だった。すなわち、誰かから強制されたり、不自由を押し付けられて平和な環境の社会秩序を形成するのではなく、心が自由であるままに、自由を与えられれば、その自由を正しく行使するための経験を積めば、自由においても平和な社会は築くことができるのだと、僕は考えていた。

僕の考え方は、決して論理的でないとは言えなかった。なぜなら、思弁哲学から培われた僕の考え方は、「基礎と応用」と「実証に基づく説明」に基づいていた。すなわち、ひとつの確実に実証された基礎は、それを発見すると同時に応用することができる。ひとつの解はいつでも成り立つ。ひとつの基本となる法則を発見すれば、それは別の場合にも応用できる。その上で、僕は基本や基礎を実証して解明することを疎かにしなかった。すなわち、「心とはどのような働きを持っているのか」という基礎を解明し、それを応用することで、社会のすべてが分かった。

そのようなかつての僕にとって、「社会を支えるような社会的制度や存在の役割の意味を知る」ことで、この世界のすべては「同じことを別の方法でできる」ということから、「自由自在に変える可能性がある」ということを発見できた。それは、「自由に任されている」という潜在的可能性とマッチングして、「この世界のすべてはそこにある役割と可能性を知ればどうにだって変えられる」ということが分かった。

そして、僕はその上で、「この世界を救うことはできる」と確信した。そこには、「経験から生まれる歴史の意味」があった。それはすなわち「意識」だった。すなわち、「意識は場に宿る」という考え方から、「意識は成長して変化し、環境を変えていく」という新しい「現象学的な歴史観」を生み出したのである。これは「文明を観察する」ということにほかならなかった。

このような考え方を、僕は単に考えるだけで分かったのではない。誰も知らない場所で、自分だけの人生経験から、さまざまな行動を経験して分かったのである。それは自らの本当の姿をネット上で隠しながら、人々の声を聞き、自らがその声と「一体になるかのような絆を培う経験」をすることで、僕はさまざまな人間の経験を「吸収」した。同時に、「世界を変える経験」を、たとえばキリスト教の教会で修道士がさまざまな善の活動をするように、僕も同じように「さまざまな下積みのようなたくさんの社会的経験」を経験した。それはいわば「考えられうるようなすべての社会経験を自由に行う」ということであり、僕はインターネットの中で修道士のような経験をすべて行い、「この世界を変えるためのすべての経験」をたったひとりで得ることに成功したのである。

そして、僕はそこから、この宇宙の存在について考えた。あらゆるすべてが、「保留された可能性を決定すること」により、「かつて自分が行ったように自由自在に実現する」ということができるようになった。それは「意識のレベルで宇宙のすべてが分かっている」という経験であり、「自らの人生体験だけでブッダと同じレベルの悟りを啓く」ということがまさしく僕だけはできたのである。

そこにあったのは、「すべての人間によって築かれたものに対する愛」だった。そう、僕は人間が「築く」と呼ぶことができるようなものは、すべて自分自身で築いていた経験があった。この世界のすべての築き方を、特許庁の職員だったアインシュタインのように、かつて一度すべて作り方を学んだことがあった。そのすべての経験が、自らの「自由モデル」の中で前提条件と方法を成立させるということ、そして「発想を実現する」ということに繋がる。すなわち、人間関係であっても、あるいは社会的な施設や制度であっても、すべて、自分が一度その構築方法や手段を一度考え、再構築し続けることで分かっていた。同時に、その手段を社会的に成り立たせる方法を考えることで、僕は自由主義者でありながら共産主義者となった。なぜ、どちらかを選ばないのか、それはどちらも僕にとっては矛盾しないからである。僕にとっては、自由経済や民主主義の制度や資本主義の先進的科学技術の世界と、共産主義の平等で共同体による善良かつ正しい世界は、矛盾しない。僕の頭の中では、両者は同じ前提に基づく矛盾しない社会システムであり、「両方同時に成り立たせることができる」のである。よって、僕は自由主義者でありながら共産主義者だ。どちらも同じであり、アメリカとソ連が対立するのは間違っている。単純に考えて矛盾するかのように勘違いをしているだけであり、その勘違いも罪ではないにしろ、きちんとよく考えれば、両者は同時に成り立たせられるような、矛盾のしない思想だと、かつての僕は考えた。

そのように、みんなとまったく違う考え方をしていた僕ではあるが、だからといってみんなを責めることはしなかった。それぞれが矛盾し合うように見えて、争い合うのは、誰が考えても仕方ないことであり、表層だけを見れば当然のことである。だが、なぜ、それをそのまま対立へと向かわせようとするのか。僕だけは、全員の考え方を自分のことのように理解することができる。全員が正しく、真に超越的な立場から考えれば、人々は「あえてしているのではなく、仕方がないからせざるをえない」のであり、もし全員が自由になったとしたら、僕の考えることが正しいはずなのである。そう、全員は誰一人として間違っていない。だが、真に正しい考え方は人々の持つような考え方ではなく、僕自身の考え方である。この世界の全員を愛するならば、「間違っている人間は誰も居ない」ということを信じなければならない。そこから、「真に向かうべき正しいすべてが解決された未来」の展望を見ることができるのである。