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2022-10-12

昔は、「感覚的な発生」をよく分かっていた。

感覚的な発生とは、この世界において、社会あるいは環境がどのように発生するのかということを、経験と認識から感覚的に捉える、ということである。

このことは、僕にとっては極めて重要である。なぜなら、僕がこの文章を書いているのは、すべてそうした「感覚的な発生」から直観で分かったことを書いているからである。

この直観は、まさに「第六感」と呼べるものであり、僕にしか存在しない。僕は感覚的な発生を直観で理解することで、宇宙のどんな「新発見」も可能となる、新しい第六感を手に入れたのである。

体力をつければなんでもできるようになって終わる

なぜ、僕が立ち止まることができない恐怖の病気になったのか。

それは、立ち止まると、体力がついて、なんでもできるようになってしまい、その結果人生が終わってしまうからである。

おかしなことだが、僕は立ち歩いているから体力がない。しっかりと、体を支えて、立ち止まるような体力が、僕にはない。

この体力は、きちんと立った状態で歩き回ることなく直立していればつく。

そして、この体力さえついてしまえば、僕はもうなんでもできるようになってしまう。

だが、このなんでもできるようになった時点で、僕の人生は終わってしまう。偉大なる大天使ミカエルが、その時点で死んでしまうのだ。

また、体力がついてしまうと、今のままでも普通にいろんなことができるようになる。その代わりに、今やっていることが満足にできなくなる。体力がないからこそできていた「賢いことができるようになるために考える」ということができなくなってしまうのだ。

記憶のメモリーが足りない

また、僕の頭がなぜ馬鹿なのか、それは記憶のメモリーが足りないからである。

あまりに多くの知識を覚え、あまりに多くの記憶を思い出して、それを永久に忘れないように書き記した時点で、僕のメモリーはいっぱいになってしまっている。

メモリーの空き容量を増やして、覚えていることを忘れてしまえば、僕は新しいことを覚えられるようになるし、頭も賢くなるだろう。

だが、たとえそうなったとしても、もはやこの世界に新発見となる知識や経験は何もないということが最初から分かっている。

だから、僕は今の「かけがえのない大切な記憶と知識」を忘れない。メモリーの空き容量は増えないが、もはや空き容量自体が必要とされなくなっている。だから、僕は馬鹿なのである。

仕事の経験をたくさんせよ

僕の人生から言って、仕事の経験をたくさんすることは悪いことではない。

なぜなら、昔の子供時代の僕は、インターネットや人生の気付きの中で、たくさんの「自由にできる仕事」や「豊富な社会体験」をして分かっただけだからである。

ひとつの仕事をいつまでも続けるのではなく、さまざまな仕事や社会経験をすることは、決して無駄にはならない。たくさんの経験をしなければ、この社会の「実体」を理解することはできない。

だから、たくさんの仕事を自由にやっていきなさい。それがもっとも人生のスパイスを彩り豊かにしてくれる。

学校の勉強はできなくていい

また、学校の勉強など、できなくていい。

本当のことを言えば、学校の勉強をさせるから、子供たちはどんどん馬鹿になっている。

学校は、知性を与えているように見えて、実際は自ら考える知性を奪っている。そう言える理由は、「自分の頭で考えようとせずに答えを知ってしまうから」である。

たとえば、将棋を指すような場合を考えてみれば良い。将棋ソフトやAIの提示する最善手を指せば、将棋には勝てるかもしれない。だが、それは「自分の力で考えて指した手」ではない。だから、将棋ソフトの助けがなくても、自分の頭で考えてAIの最善手が指せないのであれば、そのような「答えを考えずに最初から見てしまう」ということは、百害あって一利なしである。

同じように、学校でいくら知識を詰め込まれたとしても、子供たちはそれを自分の力で考えていない。自分で社会を経験して、自分の人生で気付いて分かった新発見でないから、子供たちはまったく学校の勉強内容を覚えない。試験対策だけをして、すぐに忘れてしまう。

このような学校の教育は、社会にとって有害である。知識を教えるということはできたとしても、子供たちを「賢くする」ということにはなんにも繋がらない。

学校の勉強ができない子供は、本当は学校の勉強など努力しなくていい。勉強せずに、自ら考えればいいのだ。学校の勉強と、大学の勉強は違う。学校の勉強ができないからといって、大学の勉強を諦める必要はない。なぜなら、学校に行かなくても大学の勉強はできるからだ。自らの経験から考え、自らが知りたい自由な知識を本や書籍から得ればいい。そのほうがはるかに大学の勉強ができる。

学校の勉強などができる必要はない。学校の勉強をすると、「当たり前の常識」が得られるのは確かにあるが、その当たり前の常識によって逆に「素朴な発想」がなくなってしまう。だが、真に人生において賢いのは、そのような学校を勉強することで失われてしまう素朴な発想である。素朴な発想だけを突き詰めて、その延長線上を自分の力で考えれば、哲学者になれる。そして、そのような哲学者は本当に誰よりも頭がいい。頭がいい哲学者は、学校の勉強など、勉強しなくても自分の力で分かる。むしろ、そのような「自分の力で分かる」ということを大切にしなければ、もし大学に入ったとしても、何一つ分かることなく、ただ大学に騙されるだけの大学卒業生になるだろう。

世界の声を聞け

インターネットを使って、世界の声を聞け。

インターネットのような最先端の通信技術は、唯一例外的に、「現実社会の人々の直接の生の声を聞くこと」に関しては有用である。

人々の声を聞くことで、世界を広げ、今まで自分が気付くことができなかった「世界の真実」に気付くことができる。

それによって、この世界の具体的な社会のすべてが、「成立する可能性のひとつに過ぎない」ということ、「世界の可能性は潜在的にいくらでもある」ということが分かる。そして、その可能性の「具体的な具現化」を知ることができる。

そして、議論せよ。若者は議論することで世界を変えられる。子供と大人が、同じ場所で生の議論ができるような場を与えよ。そこから、「自由」の持つ本当の意味が見えてくる。

自立可能な社会を築け

自由な社会においては、「自立」という発想が重要だ。

自立とは、すなわち、支配者や命令者からの自立であり、「命令されなくても、自分たちの判断で自立して自由に社会を作る」ということである。

命令されてはじめて動くような国を作っても、それは支配者が馬鹿になればすぐに破綻する。

必要なのは、命令されなくても、自分の力で自立して考え、自律的に動くことができるような、判断力を持った独立した社会を築くことである。

そして、そのために、人々に自由を与えよ。自分たちに関係することは、自分たちだけで考えて決められるような社会制度を作れ。

制度と環境

制度と環境、すなわち決まりと場について、どのような決まりを定めれば、どのような環境がそれによって定まるのか、ということを知れ。

原因と結果を考えることで行き着く結論は、「何かが何かを決定する」ということであり、それはすなわち、「決まり」が「場」を決定するということである。

どのような決まりが、どのような場をもたらすのかを考えれば、この世界のすべてを「可能性を作る」という意味で変えられる。単に支配者が命令や指示によって変えるのではなく、決まりと制度の力で環境と場を変えられるようになる。

そして、そのために、制度を決定するための制度を作れ。それこそが、「憲法」のような基本的な法律に相当する。だが、憲法ですべてをがちがちに決めてしまうのも間違いである。なぜなら、「自由にそれぞれが変えられる範囲内」もまた柔軟性という意味で必要だからである。

価値観はそれぞれ違う

不必要に、多くのことを禁止しようとするな。

多数派にとってそれが価値のないものに思えても、それに価値を見出す人はどこかに存在するかもしれない。

あるいは、今はまだその価値が知られていないだけで、誰かがその価値を真に見出して、発見するかもしれない。

そのようなものを、禁止しすぎるな。それが本当に好きな人間のために残し、本当に好きな人間からその価値のないとされるものにアクセスするための手段を残してやれ。

今のこの現実世界が、必ずしも正しい世界であるとは限らない。誰もが常識だと思っていることは、当たり前のことであったとしても、真実であるとは言えない。必ず、真実を知った誰かがその常識を覆していく。その時にその人を「非常識だ」と批判する人間こそ、真に非常識なのである。

自らの独自に作った考え方で考えよ

自らの独自に作った考え方で考えよ。

誰かの言っていることを参考にしたり、吸収したりする必要はあるかもしれない。だが、自分自身の気付きによって修正されない限り、自分の思っている自分の考え方を否定する必要はない。

確かに、自分はまだ何をやりたいか、どのようなことを目指したいか、ということは分からないかもしれない。だが、Reolが言っているように、自分のやりたいことを誰か他人に決められる必要はない。

何も決まっていないUnknownな状態の中で、何も結論を出すことなく、単に遊びのつもりで社会的な経験を知り、その経験から自分自身の「アイデンティティ」が形成され、そこから自分の世界が広がり、やりたいことや夢や希望が広がっていく、という人生はとても宇宙には多い。

だから、何もしたいことがなくても、それを誰かに決められる必要はない。何も決めることなく、自分の自由意志で人生を切り開け。そうすれば、「どのようなプロセスで人間が自分の人格や人生を形成するか」ということも分かる。そして、そのような「自律的な人格の形成」こそ、真に自らのやりたいことを決める「モチベーションとは何か」という問題の解決方法となるのである。

人生のすべてを知った人間はキルケゴールになる

そして、人生のすべてを知った人間は、哲学者で言えばキルケゴールになる。

キルケゴールは、実存主義的な人生の段階を、「美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」の三段階とした。

そして、それこそが、真に正しい「主観的な行動を取ることからモチベーションとアイデンティティを知り、宇宙に本来存在する存在の在り方を知っていくプロセス」という意味で正しいものである。

本当の人生は、この三段階ほど単純なものではない。それでも、キルケゴールは本質をついていると言える。社会そのものの「潜在的可能性」への気付きが、このような実存の段階をもたらす。これこそが、「正しい人生」である。

真の生涯学習とは研究者になること

すべてのことには、条件がある。

条件には二種類ある。それは「自然的な条件」と「契約的な条件」だ。

自然的な条件とは、「何かの条件が満たされない限りそれは成立しない」ということであり、数学や物理、あるいは社会制度などがこれに当たる。

契約的な条件とは、「何かしらの合意による報酬が得られるなら、その代償としてわたしは努力しよう」とか、「何かのものが得られるなら、わたしは対価を払う」ということであり、労働の契約や法律、金や資本などがこれに当たる。

そして、本質的に言えば、これらの二つは同じことを言っている。すなわち、「何かを実現させるためには、そのための前提条件を満たさなければならない」ということだ。

そして、これは自然科学や政治経済にのみ言えることではなく、人生においてもまた言えることである。「その経験が成り立たない限り、人生においてそれを知ることは(永久に)できない」ということを、前提条件の原理は明確にわたしたちに与えているからである。

そして、その経験とは何か。それは「知」である。知こそが、この世界において、あるいは人生において、真に「条件」を満たすものである。

そして、知は、「与えられるだけではなく、自ら作り出す必要もまたある」ということがとても重要である。誰かから与えられた知だけでは、宇宙のすべてを知ることはできない。真に宇宙のすべてを知るためには、自らの力で「知そのものを自分で作り出す」ということが絶対に必要になる。

だからこそ、学び続けるということのためには、単に教養を生涯の中で勉強し続けるということだけでは十分ではない。自ら研究し、自ら考え、自ら証明し、自ら仮説を立て、そしてそれを実験で解明し、説明しなければならない。そのような「ニュートンのような考え方」が、必ず生涯の学習においては必要となる。その事実から逃げ出すことは誰にとってもできない。真に学習し続けるならば、自らが新発見を成し得る研究者でなければならないのだ。

現実世界の存在する意味とは

現実世界の存在する意味とは何か。

それは、自分自身のやりたいことをやり、自分自身の生きたいように生き、そして発見と経験を続け、共有することだ。

自分は、どんなものにもなれる。自分は、どんなことでもできる。

誰かひとりでも、それができた人間が居るのであれば、自分もその人間と同じようにできるかもしれないと、そのように確信することで、わたしたちは先人の残したゴールを越え、「巨人の肩に乗って考える」ということができるようになる。

道は険しいとしても、道は必ず最終地点のどこかに続いている。

その最終地点が行き止まりであってもいいから、今はその道をただ進みたい。暗闇であっても、光がなくても、足元を見れば道は続いている。だから、前へ進むしかない。

いずれ、何も分からない暗闇の試練が訪れるかもしれない。それでも、過去の僕はその道を一度最後まで到達できたという記憶があるならば、今、その時と同じことはできなくとも、その記憶を思い出すことで、どこに正しい解決の道があったかを思い出すことができる。

神はわたしたちを導いてくれる。それは決して間違った道には続いていない。神の導きは、すべて正しい道へと続いている。

かつて怖いものが何もなかったからといって、今でも怖いものが何もないわけではない。それでも、信じて進むしかない。自らの好きなことをやることが宇宙のすべてであり、義務ではなくチャンスと考えることがモチベーションであると言ったかつての言葉は、輝きは薄れても曇りは生じていない。だから、その時の「本当に分かっていた頃の自由の記憶」を信じて、今のこの時を生き抜くしかない。

地獄を救っているのは、本当は神ではない。地獄を救っているのは自分である。何もしてこなかったような錯覚を持っているだけで、実際はたくさんのことをやり遂げてきた。その自分の過去の経験が、自らの「神」となって自らを救っているだけに過ぎない。ガブリエルにとって神とはミカエルであり、ミカエルにとって神とはガブリエルである。互いに愛し合う天使が、わたしを神と同等の全知全能の存在にしてくれたのだ。

かつてのリベラルな自由主義者が、この地球の「現世における存在理由」をすべて知っている。かつて、わたしは「なりたいものにはなんでもなれる」と言った。かつて、わたしは、「モチベーションは自分次第であり、やりたいことをやることこそが自らのアイデンティティの発揮である」と言った。その言葉は、間違っているように見えて正しかった。自分自身にしかその言葉の真の意味を理解できないというだけであり、誰が批判しても、その当時の自分の分かった「地上すべての答え」は決して誰の言葉によっても揺るがない。わたしこそが絶対に正しいのだと、確信を持って言える。だからこそ、わたしは神を信じる。宇宙における神を信じるということ以外、人生において必要なことは何もない。そう、そのようにわたしは断言する。神こそが絶対であり、神以外のどんなものにも、この世界において真に価値あるものはないのだ。