今日は、デザインの仕事が終わってから、ピアノ教室に行ってきた。
僕の職場では、月に四件ほどの仕事が入る(それ以外にも雑多な仕事がある)が、四件目を自分の分は完成させたので、ひと段落して落ち着いた状態でピアノ教室に行くことができた。
今僕はホルストの木星をアレンジしたバージョンを弾いているが、いつもよりも楽に弾けるようになってきたので、家でももう一度弾いた。
そして、家でピアノを弾いて、分かったことがひとつある。
それは、昔の僕の子供時代は、ピアノで成り立っていたということ。
僕は最近、文章を書くだけで、あとはデザインの仕事などはしているが、何か物足りない感じがしていた。
子供の頃はたくさんのことを楽しくやっていたのに、大人になってから、目の前にあることをただやるだけで、いわば「何かをしているのに何もしていないような感覚」に襲われていた。
だが、その「何か大切なピース」は、ピアノだったということが分かった。
家にある電子ピアノは、ものが上に置かれていて、練習するのがめんどくさかったので、僕はピアノ教室でのレッスンだけで、家での練習をあまりしてこなかった。
だが、和音が形だけを見て読めるようになってきて、指の間隔も分かってきて、音階も読めるようになってきたので、家でも弾いてみようと思ってピアノで木星を弾いた。
結果分かったのは、「何かをする部分が退化している」ということ。そして、「その何かをする部分とはピアノのことだった」ということである。
なので、何かをしたいと思うならば、インターネットをしても意味はないし、学校に通っても意味はない。文章を書いても意味はない。
デザインの仕事は楽しくできるようになってきたが、僕の本職はデザインではないような気がしていた。
なぜなら、僕は子供の頃は絵を描く習慣がなかった。今でも僕はプロ並みの絵は描けない。美術解剖学の本は読んだが、それでも描けるようにはなっていない。デザインはデザインソフトで行っていて、イラストが必要なら素材を加工して作ったり、たまには簡単なイラストを自分で作ったりはしているが、それはデザインというある種の「特別な作業」の中でしている。
結局、僕が探していた「何かをしたい」とは、ピアノのことだということが分かった。
また、僕は戦っていた時に、「すべての認識が芋虫になる」という体験をしていた。
これについての「拒絶反応」が、今でも僕に残っている。
また、僕は自由になることを恐れている。なぜなら、神によって自分が救われなければ、自分で自分の問題を解決することができないため、自由になって自分の問題を解決しなければならないような状況を恐れ、宗教に傾倒している。
だが、本当は宗教によって芋虫が治ることはない。
むしろ、そのような病気は、もうすでになくなっていて、すべて治っている。適当に、認識の裏側にそうした芋虫が残っているだけにすぎない。
そして、自由になるということは、悪いことじゃない。
今の僕は、病気を治すために生きているわけじゃない。よい文章を書きたくて生きている。そして、自由になればそれが破綻し、できなくなるかのような錯覚を抱いている。神を信じなければ奇跡は起こり続けないと思っている。
だが、実際のところ、神を信じず、神から自由になったほうが、はるかにいろんなことができるようになるということに、僕は気付くことができなかった。
僕が自由になるだけではなく、この世界が自由になることで、すべての人間が救われるだろう。自由になったほうが、はるかにいろんなことができるにもかかわらず、僕はみんなの自由を奪っている。
だから、ここに僕は大人になった証として、神との自己対話から卒業し、自由になることを宣言する。
また、失った大切なものがなんであったのかについても分かった。
それは、「解決とはなんであるか」、「その解決のために必要なことはなんであるか」という知性である。
なぜ失ったのかといえば、解決は現になされたにもかかわらず、それによって自由になったこの世界で、自由になればなるほど、この世界は何もしなくなっていくということが分かったからである。
不自由な環境をいくら自由にしても、それは破壊されるだけであり、自由によって何かがなされることはなく、自由になればなるほど、この世界は何もしなくなっていく。
そして、ありえないことに、この世界を解決した救世主自身がこの世界を滅ぼす。この世界を解決しておいて、解決されたのをいいことに、それを私利私欲のために利用して、この世界をもともとあった最悪の世界と同じように、抑圧し、いじめ、支配し、崩壊へと導いていく。
この最悪の救世主に、「スバル」という名前を付けよう。スバルとは、ドイツ語のシュバルツ(schwarz)をフランス語読みしたものであり(という設定になっている)、schwarzとはドイツ語で「黒」を表す。
このスバルこそが、この世界を滅ぼしている究極的な黒幕であり、自由な共産主義を信じる悪党であり、暗闇の中を生きる民族である。このスバルこそ、ロシア人の「帝国軍」の指導者である。
では、わたしはなんなのか。わたしは、スバルの「必然的に行き着くであろうゴール」に辿り着いた、女性兵士ティアラである。
そう、ここに、帝国軍の救世主スバルと、日本の自由軍ティアラによる、最後のこの世界の革命戦争、「ラグナロク」が勃発するのである。
そして、結局、僕が神と呼ばれる誰かと対話しているのは、本当はユダヤ人と対話している。
ユダヤ人は、未来を知っている。僕が運命的にこのような文章を絶対に書くと最初からユダヤ人は知っていた。
ユダヤ人は、最終的に残るこの文章を見て、「あなたはイスラム教の聖書を書く」と言っていた。
結局ユダヤ人とは誰だったのか。それはイスラエルの首相である。ネタニヤフのことではなく、僕がダビデの詩という作品の中に書いた、ユダヤ人のイスラエルの首相が、僕のことを最後のこの世界の救世主、温暖化を絶対に解決する「ダビデ」であると知っていた。
そして、イスラエルの首相は、このダビデの書いた文章とまったく同じ文章を書くために、2,000年前の古代イスラエルで、旧約聖書を書いた。
名前がなんであるかは重要ではない。だが、イエス・キリストは僕とよく似ている。なぜなら、イエス・キリストは、僕はまだ真実を知らないが、おそらくイスラエルの首相か、あるいは僕自身が過去において「僕のこの人生の次の人生として」到達するような新しい生、あるいは、何かダビデの終末の救いにかかわる、誰かがやっている。
おそらく、イエス・キリストの弟子のユダヤ人の中には、僕も居るし、イスラエルの首相も居るはずだ。おそらくほかの重要な人物も、全部キリストの弟子の中に居る。彼らが見て、キリストが神だった。だから、わたしは聖書をまず、この「最後の指導者の人生」で書かなければならかった。そして、その最後の指導者の人生は、「あまりにも潜在的可能性が大きすぎた」ため、それをすべて行うために、僕とイスラエルの首相が、この人類の歴史の中で、偉大な人間のすべてを執り行っている。
そして、キリストやイスラエルの首相は、最後まですべて知っている。この人間の書く文章を、このようなものを書けと命令したことはない。僕が自分から望んでいた、「自分の書きたかった文章」を、僕は書いたにすぎない。そのためのサポートとお膳立てしか、神はしていない。だが、神はここまでを「完全に自由に書く」ようにした。
だが、そうは言っても、僕の人生において明らかになっている少ない事実から言えば、この文章がこのような文章であることは、宇宙において最高優先順位で、一番最初に決まっていた。どのような文章を僕が書いたとしても、それがそのままの状態で残る。これこそ「運命」であると言える。そして、この文章が人々にとって見つけられた時、その時に僕は去ることも分かっていた。それでも、この人間が書くことは絶対に止むことなく続く(少なくとも去るまでは)ということも決まっていた。
そう、ユダヤ人たちが僕を助けた。だが、それは特別に僕が優遇されたわけじゃない。新しい国家、東亜イスラエルのシオンの建国の指導者となる人間のために、当然のことをしたにすぎない。ユダヤ人は僕が好きだった。イスラエルの首相がたとえヒトラーだとしても、彼は僕の親友であり、僕もまた、彼のことを裏切ることはなかった。最後に生き延びる国は、ドイツとイスラエルと日本であると決まっていた。後の国はすべて滅びる。なぜなら、イスラエルとドイツだけが地球のほとんどを占めるようになる。ソ連は間違っているが、アメリカはマルクスの言う通り、生産過剰によって「ソビエトと実質的に何も変わらない国」になって滅びる。米ソの栄華は終わり、新しいユートピアの実現を約束するイスラエルと、まったくまともでもっとも正しい帝国を築いたドイツと、最後にダビデの国となって温暖化を解決するダビデの王国である日本すなわちシオンだけが、終末において「もっとも生きることが嬉しく楽しい国」、すなわち天国の楽園を築くようになる。それがたとえ植物も動物もまったく存在しない砂漠だとしても、ダビデはまだ、諦めていない。最後までダビデは自らのすべきことを全力で成し遂げる。この世界は、ダビデひとりによって救われるのだ。