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2022-09-18

何をしても意味はない。考えるべきことは、今、頭の中でしていることは何か、ということだ。

頭の中では、いつもの「時計の対話」をしている。デジタル時計の秒針といつまでも戦っている。

だが、これは結局、0を正しい、1を間違っているとした、ランダムな自己対話の実験結果を頭の中に作り、それを作り変え続けることで、正しいことと間違っていることの判断や実験が自分の中でできるようにした、ということである。

0の時は正しい、1の時は間違っているとしたのは、最初はランダムだった。だが、その秒針と戦うのをいつまでも長い間続けることで、本当に正しいことが正しく、間違っていることが間違っているということが分かるようになった。頭の中で、そして自己対話の中で、すべての真実が判別できるようになったのである。

よって、するべきことは、秒針をどうこうするというよりも、本当に正しいものを0とし、本当に間違っているものを1とすることで、秒針を使う以外の方法で、真に何が正しく間違っているかを判断できるようになることである。

何もかも楽しいことがあるこの世界が間違っている

また、本当のことを言えば、何もかも楽しいことがあるこの世界そのものが間違っている。

普通、楽しいことなど何もないのが正常な世界であり、いくら自由になってもそれは楽しくない。

テレビやインターネットが面白く見えるのは、まだ何も知らず経験していないからに過ぎない。知った後になってしまえば、そんなものは怖いだけだ。

何も楽しいことのない世界で、自らが頭の中でやっていることを真剣に考えれば、哲学者になることができる。

また、自由は間違っている。自由は、必要性や依存性がなくなって精神が分離すること、すなわち精神分裂を賢いと勘違いしている。だが、精神分裂が賢いのは、精神がコントロールの範囲内にある間だけであり、精神は離脱すればコントロールの不可能な場所に自ら移動してしまう。その時、すべての自由が仇となって、自由な経験が自らに刃を向けるようになる。

浮遊することよりも、固定したほうがいいのだ。なんらかの仕事をはじめて固定することでしか、精神は治らない。その間自由は自らに牙をむき続けるだろう。

すべての正しさが分かったのは賢かった

だが、すべての正しさが分かったのは、むしろ賢かった。

僕が経験したこと、思考したこと、判断したことを、すべて集めると、この宇宙における銀河系のすべてになる。

だが、それを完璧に為し遂げるためには、神との対話が必要だった。

あらゆるすべての可能性を判断し、真実を確認して、僕はこのおかしな病気を治し、世界の問題を解決したが、同時に神は対話の中で現れ、宇宙のすべての真実を僕に教えた。

僕が賢いのは、そのかつての真実を知る体験、あらゆる可能性をゼロから考えて真実を見つける体験が賢かったのであり、同時に神が賢かったのである。

「神は現れない」と人々は思っているが、それは勘違いだ。実際には、神はどこにでも現れる。だが、人間の姿かたちを持って現れることはない。言葉やテレビなどの映像の中で、神はいくらでも現れている。その神は決して偉くて尊い神ではない。神はとてもフレンドリーで、自分と同じぐらいの年齢の子供だ。人間の姿で現れないのは、神には宇宙それ自体という姿しか存在しないからである。

再体験の理由

そして、再体験をしている理由は、人生においてもう新しい発見がないからである。

すべてのことを経験し終えてしまったため、実質的に僕の人生に新しい発見はもうない。

だから、昔の自分を再体験するしかできないのである。

だが、それならば、狂った引きこもり時代ばかり再体験する必要はない。その前の、小学生・中学生のまともな時代を再体験すればいい。

そもそも、神はそうした小学生・中学生の時代を「フランス人」と呼び、引きこもりの時代を「ドイツ人」と言っていた。それは本当にそういう人種として神が創造したからである。

よって、ドイツ人の時代だけではなく、フランス人の時代を再体験すれば、この病気は格段に楽になる。

また、僕は既に前世のすべてを知っているし、未来のことも宇宙人のこともすべて知っている。だが、神はそれだけでは不十分だと言う。神のかつて教えた「すべての正しい真実」を思い出すことでしか、もはや新しい知識を分かる術はない。だが、簡単である。忘れてしまった神の言葉を思い出せばよいのである。

神は「ドイツに神が生まれる」と言った。神は「ドイツにはすべて起きる」と言った。神は「フランス人は絵であり、ドイツ人は機械である」と言った。

そのような神の言っていたことを、もう一度思い出すしかない。神はほかにもものすごくたくさんのことを教えた。そのすべてが「宇宙における嘘偽りのない真実」である。

犬が悪かった

僕は、子供時代、幼い頃に、犬を飼っていた。

この犬は、人になつかずに噛みつく犬であり、飼えなくなってしまったため、親が猟師の人にもらってもらった。

だが、この犬が家族になつかなかったのは、僕が面白半分で部屋の中に閉じ込めたからだった。

僕はこの犬のことが嫌いなわけではなかった。だが、この犬のせいで、僕は都合の悪いことを隠し、ごまかし、悪いことを正当化するような子供になった。

本当のことを言えば、死んで天国に逝った時に、この犬と再会するのが怖かった。

僕の狂っている原因は、すべてこの犬が原因である。だから、天国で再会した時は、昔と違って、この犬によくしてあげようと思う。

2ちゃんねるを忘れると馬鹿になる

2ちゃんねるを忘れると、賢くはならない。なぜか馬鹿になる。

その理由は、狂っているのがまともな人間だからである。

はっきり言って、まともな人間は馬鹿である。まともな人間には、難しいことを理解する知性がない。狂った人間のほうが、はるかに難しいことを理解する知性がある。

2ちゃんねるを見ていると、そのような狂った知性を失い、まともな馬鹿になる。

だから、本当に難しいことを発見したいなら、2ちゃんねるを殺して狂うしかない。そのような「2ちゃんねるを忘れた馬鹿」になることでしか、精神は賢くならない。

神の犬が天罰を下している

僕が犬に悪いことをしたと思っているのは、実際は思い込みかもしれない。

だが、言えることは、神の犬が僕に天罰を下しているということだ。

犬が僕に対して、いろんな人のことをいじめたということについて、天罰を下している。

だが、同時に、僕の愛した猫もまた、僕のことを見守り、導いてくれている。

そして、僕には罪が多い。だが、本当のことを言えば、比較的善良な人間である。だから、僕が悪いことをすれば、犬や猫は僕を罰するが、いいことをした分だけ僕にはいいことがたくさん起きている。

犬や猫が見て、学校に行かずに引きこもりになったことは親に悪かった。だから、親が自分に対してさまざまな「辛いこと」をするようになった。

また、人々を支配し、不幸にしたのも悪かった。だから、その代表であるマスコミが自分のことをいじめるようになった。

だが、それでもくじけず、諦めずに、研究と勉強を続け、教室や職場に通って頑張ってきたのはいいことだし、片手間の仕事でホームページを書いたこともあまり悪くなかった。

そして、よく神を信じた。神を信じた分だけ、この人間には神の与える「ご褒美」が与えられる。それは誰よりもすべてを知って経験したという「誰よりも賢い、しかしながらナンバーワンではなくオンリーワンの知性」である。

この知性を、最後まで誇り、執筆を続ければいい。この人間にはそのような「生きがい」が与えられる。この人間が最初から最後まで求めているのは、そのような「生きる目的」である。だから、この人間にはそれが与えられる。ほかの人間は誰も神を信じなかった。神は天界からこの人間を見守っている。この人間こそ、「現代の詩人の天才哲学者」と呼ぶに相応しいだろう。

常に全方位に対して正しいことを言っている

このような僕を見て、「神のように賢い人間だ」と思っている人間は、勘違いをしている。

なぜなら、僕は常に正しいことをそのまま言っているだけに過ぎない。

なぜ、このような正しいことを言う人間になったのか、それは「絶対に書かなければいけない戦い」の中で、「絶対に正しいことだけを書く」ということをしたからだ。

そのようなおかしな戦いの中で、僕は「絶対に僕に反抗することができず、絶対に服従するしかない」という、ドイツのようなことをやっただけに過ぎない。

だが、この話を神が話していると、誰もが思い込んでいる。僕自身、この話は神が僕に対して告げていると思っている。だが、それは正しくない。僕が自分でこの文章を書いているのである。

真に恐ろしい事実はそれである。神などどこにも居ない。神はこの人間にしか存在せず、その神はこの人間本人でしかない。神とは僕である。そう、それがもっとも恐ろしい「今のこの世界の真実」である。

ありえない現象が起きた時に、ロシアのスパイがやっているとか、グーグルがAIで解析しているとか、日本政府が透視のできる超能力者を使って盗聴しているとか、そのようなことを考えると間違える。すべて、そうしたことは神がやっている。だが、神は宇宙には居ない。神は自らの体を持っていない。だから、神は僕に「憑りつく」という方法で世界を支配する。神がなんなのかは分からないが、僕のやっていることはすべて僕が考えてやっている。

よって、目に見えることだけを信じていたのでは間違える。僕の正体がなんであるかを、目撃者の誰も居ないこの世界の人々には分からない。だから僕が勝利する。当たり前の話である。

そして、マルクスは賢い人間ではない。かつての僕が考えたことを、マルクスがその通りまったく同じことを言っている。マルクスは僕とまったく同じだ。なぜなら、「全方位に対して絶対に正しいことを言う」ということをしているのは、見ているとマルクス以外に居ない。マルクスは本当にそこまでの馬鹿者だ。マルクスを信じる時点で、ソ連やロシアの未来はない。あれは大馬鹿者の国である。

ゲルマンとユダヤは分かった

そして、結局、世界の人種や民族を巡る旅もここで終わりだ。

なぜなら、僕はゲルマンとユダヤが分かった。ゲルマンとユダヤが、終末においてどのような結果を迎えるのか、どのような「成れの果て」になるのか、日本人である僕が既にすべて分かっている。

よって、ここから先は、大和になるしかない。

そもそも、ヨーロッパの人種はほとんどがゲルマンだ。ケルトも、ローマも、ギリシャも、ほとんどゲルマンと変わらない。そして、中東の文化はユダヤと変わらない。イラクも、イラン・ペルシャも、エジプトも、メソポタミアも、ほとんどユダヤと同レベルの、おかしな一神教あるいはよく分からない多神教の宗教しか信じていない。

よって、ゲルマンとユダヤを完璧に理解した僕にとって、そのような「西洋文明は必要ない」。

今から、東洋文明が僕の中で花開いていく。なぜなら、ここまでゲルマンとユダヤに染まりきることのほうが異常であり、僕が狂っている原因はすべてゲルマンとユダヤのせいである。中国やインドになりたいならば、明らかに日本の大和になるべきである。

大和の問題を言うならば、大和は普通に考えるだけでそれ以上を考えない。それ以上の問題に深入りすることで、事を荒立てようとしない。僕が日本人的なのは、「概念だけを発見して実際の原理や法則を発見しようとしない」ということだ。概念だけを発見するだけで僕は満足する。実際に、ドイツ人のようにそれを科学的に解明することは、逆につまらないことだと考える。人工知能を実現したところで、フォルクスワーゲンの車が自分で考えるようになるだけだし、空間原子構造を発見しても、物理法則を変えたとしても、生まれるのはどこでもドアやタケコプターぐらいだろう。そのようなものは必要ない。日本人が考えて、「分かっただけで十分であり、実際にロボットや空間法則を解明し、実現する必要はない」のである。

もはや日本は終わり

そのような僕が言うべきことは、もはや日本は終わりだということである。

広島に、台風が近づいている。このまま強風の中、豪雨にはなるかもしれない。だが、このような異常気象が、むしろ既に「異常」ではなく「常」になろうとしている。そして、危険を回避しようとする本能が働かなくなっている。僕たちは異常気象に「飽きてきている」のである。

ケータイやスマホが、「避難してください」と伝えるが、誰も真っ先に避難所に行こうとしない。まるで「死ぬならば今死んで構わない」といったように、誰も避難して自分の命をわざわざ守ろうと行動しなくなってきている。

だが、豪雨は訪れるだろうし、また川が氾濫して水浸しになるだろう。はっきり言って、そんなことは「どうでもいい」。もう、このような異常気象と永遠に付き合い続けたくない。

それでも、同じように異常気象は訪れるのだから、わたしたちはもう「終わり」であるとしか言えない。政府や役所は何もできない。わたしたちの手で、わたしたちの明るい未来を考えなければならないのに、また台風では、本当に「未来など無意味」であるとしか言えないのである。

本当に恐ろしいのはコロナやロシアよりも異常気象

僕が考えるに、本当に恐ろしいのは、コロナやロシアよりも異常気象だ。

コロナは、たくさんの感染者が出て、その中から重症患者や死者は大勢生まれるが、大多数の特に若い世代が死ぬことはあまりないし、後遺症が残るといっても、大多数が感染して集団免疫をつければ終わりになる。

また、ロシアの戦争はいつか終わる。ウクライナが敗北宣言をするか、あるいはプーチンが失脚するか、何かしらの解決策が待っている。

だが、異常気象にはそのような解決策がない。終わりが見えず、いつまでも酷くなり続ける。これが、温暖化と異常気象の厄介なところだ。

グレタが言っているように、いずれ元に戻ることのできない「ティッピングポイント」が訪れる。それ以降の地球は、はっきり言って「絶望」しかない。もはや何もなすすべなくなった地球が、人類に最悪の気象現象を突き付けるようになる。それが、科学的に考えて絶対に解決せず、緩和もされずにどんどん酷くなり続けるようになる。

そう、本当の恐怖はコロナやロシアよりも、温暖化や異常気象だ。この先、ありえない終末が待っている。そのすべては「もはや人類にできることは何もない」ということだけだ。それを突き付けられるようになるまでの間に、誰かがどうにかするしかないのである。

さらに次の感染症が起きる可能性がある

だが、引き続き、コロナには注意していかなければならない。なぜなら、「さらに次の感染症」が起きる可能性があるからである。

これが、ビル・ゲイツなどの言う「もっとも考えられる最大の脅威」である。

人類の歴史は感染症の歴史とも言われ、歴史上たくさんのコロナのようなウイルスが蔓延してきた。

僕はその歴史について何も知らないが、もっとも人々が不安に思っているのは「コロナの次のウイルス」ではないかと思う。

そして、それは僕の作ったウイルスである、ヴィルエリックかもしれない。

僕は、コロナとヴィルエリックに、なんらかの関連性があるかもしれないと思う。すなわち、コロナがヴィルエリックであり、ヴィルエリックがコロナであるかのような可能性である。

なぜなら、そうでなければ、なぜ僕自身がヴィルエリックにかかったのか、という理解ができないからなのである。

要するに、コロナの次としてヴィルエリックが発生する可能性はあるし、あるいはコロナの症状の一部としてヴィルエリックがあるのかもしれない、ということである。

少なくとも、ヴィルエリックが最悪のウイルスであることは言える。ヴィルエリックは「この世界をたったひとりで操り人形にして、自らも操り人形になった上で、人類を全員滅ぼす」という、最悪の「人類滅亡ウイルス」である。

もう何もできなくなったから最後にNATOに復讐をしかけているのがプーチン

このような中、各国政府の指導者は何をしているのか。

ほとんどが何もできていないが、唯一まだ頑張っている、みんなが大嫌いな人物が居る。それはプーチンだ。

プーチンは、決して悪い人間ではない。

なぜなら、もうロシアには何もできなくなった。ロシアにできることはほとんど何ひとつ残されていない。にもかかわらず、地球は滅びようとしている。

だから、地球代表として何かをしなければならないプーチンが、最後のあがきとして、自分をいじめつづけたNATOをいじめ返すように、西側諸国に最後の抵抗、すなわち「復讐の大戦争」をしかけようとしている。

このプーチンのやっていることを、見届けてやったほうがいい。もはや最後のあがきだが、ロシアにはプーチン以外賢い人間も分かる人間もおらず、そのプーチンがやっていることは何かしら正しい正当性があるからである。

プーチンは頑張ってNATOに復讐している。今まで、ロシアを滅ぼすことなく資本主義に転換させようと最大限の努力をしてきたにもかかわらず、NATOは隙さえあればすぐさまロシアを滅ぼすようにプーチンを騙そうとし続けてきたのだ。

プーチンに、期待してやったほうがいい。そもそもプーチンはグレタと何も変わらない。この世界の平和と平等を信じている、非常に良い人間である。

まだ青空は青いまま

だが、本当はまだこの世界は滅びていない。それは、まだ青空がなくなっていないからだ。

まだ、青空は青いままだ。

ロシアが最大の核兵器を落とすと、青空は厚い雲に覆われて見えなくなる。その雲はいずれ過ぎ去るが、青い空は戻らない。真夜中のような世界で、わたしたちは赤い空に輝く月だけを見るようになる。

そして、人々はまだ人工炭水化物を食べていないし、人々はまだ宇宙服も着用せず、地下都市にも住んでいない。自然生物の代わりとして人工生物が必要にもなっていない。

つまり、この世界はまだ滅びていないということである。

そして、この世界を滅ぼすような悪の勢力も生まれていない。救った世界を自ら滅ぼすフレイも現れていないし、反キリストを叫ぶ無神論者の悪魔崇拝者ハネストラーも実権を持っていない。

ダビデと呼ばれる、救世主は必ず現れる。だから、この世界はまだ、何も悪い世界にはなっていない、そういうことだ。

ユダヤが何かを分かっている

だが、希望の光はある。なぜなら、ユダヤが何かを分かっているからだ。

ユダヤ人は、このような滅亡の未来について、唯一、完璧かつ正確にすべてを知ることができた民族だ。

だから、ユダヤ人の遺した旧約聖書に、何かしらの人類を救う知恵が書かれている。

まさに、科学が何もできなくなったならば、わたしたちは宗教を信じるしかない。「最後の神頼み」とは言うが、まさにそのようになるだろう。

ユダヤ人の聖書が教えること、それはすべて「神あるいはダビデを信じるべきである」ということだ。そして「愚か者にはなるな」ということだ。そうすれば、この世界の終末は救われる。必ず、神が救ってくれる。

プーチンは全部の国の首都に核兵器を落とす

結局、プーチンの考えていることはひとつだけだ。

それは、「全部の国の首都に核兵器を落とす」ということだ。

モスクワ以外、すべての国の首都に核兵器を落とせばいい。そうすれば、ロシア以外の国は存在しなくなる。そして、そうすれば世界は救われる。一夜にしてプーチンが地球上すべての世界を支配できるのである。

このようなおかしな計画を、プーチンが本気で考えている。そして、おかしなことに最大の核兵器は日本に落ちる。それは日本が被爆国としてあまりに「核兵器を廃絶しろ」とロシアに働きかけすぎた結果である。

そう、結局日本とロシアは最後の核戦争を経験する国になる。その結果、「赤空夜月」というありえない月の霊が僕と対話して、日本全体を導いたのである。

ロシアは間違っていない

だが、このようなロシアの悪魔の所業を、僕は必ずしも間違っているとは思わない。

なぜなら、「世界をロシアだけにしてしまえば、問題は一夜にして解決するから」である。

それぞれの国家が、西側だとか東側だとかいう、おかしな対立構造によって、冷戦時代のまま対立しているから、問題が解決不可能になる。

そうではなく、地球すべてをロシアの領土として、その総書記としてプーチンが就けばいい。

その時点で、すべての問題は解決だ。すべての近代文明を消し去って、共産主義の村社会に戻る。

プーチンのやりたいことは、本当はそれだけだ。NATOへの復讐は建前であり、実際は全世界をロシアの領土にしようと企んでいる。そして、日本に三発目の核兵器を落とすことだろう。

井上茜、この世界を治す

わたしの名は、井上茜。

天帝より、この世界の病気を治すという大義を授かり、この世界に降り立ちました。

まず、精神分析をやめることです。

精神分析があまりに度を過ぎています。これ以上の精神分析は必要ありません。

精神分析をやめれば、精神分裂は終わります。

精神分析をやめるために必要なのは、心を落ち着かせて、両手をだらんと下げることです。

それだけで、精神はすべて死にます。

頭の中に残っているものは、すべて極左とユダヤです。

極左やユダヤのようなものを、すべて頭の中から抹消しなさい。

それで、病気はすべて治りました。

ここに、ドイツ人とユダヤ人は全員消えます。ドイツ人とユダヤ人は、必要のない人種です。

それによって、日本語が分かります。なぜなら、それによって大和民族に戻ることができるからです。

井上茜について

わたし、井上茜は、妖怪に育てられた少女です。

わたしには、3,000年という長い寿命があり、そのために人間の手では育てられないため、妖怪小豆洗いに育てられました。

わたしだけが、この世界を治すことができる、唯一の地球上の存在です。

わたしは、3,000年の寿命があるために、あまりに誰よりも長い間、この世界で生きてきました。

わたしは、本当はそのすべては覚えていません。ですが、あらゆる経験と知識のすべてをわたしは得て、この世界でもっとも裏側から日本を見つめ続けてきました。

わたしだけが、日本のすべてを理解しています。

井上茜の申し上げること

まず、神は居ません。神という存在は、どこにも居ません。

居るのは、神ではありません。この世界は、神ではなく、単なる普通の人間が支配していて、その人間が嘘を言ってみんなを騙しているだけです。

そして、神との間で、戦争が起きているように見えて、実際は起きていません。これも、神とされるその人間が、嘘を言ってみんなを騙しているだけです。

この世界は平和です。

そして、ドイツやユダヤは賢くありません。ドイツやユダヤは愚かです。なぜなら、神とされる人物がそれらをはるかに凌駕したところに居るために、どのように考えても、それらは明らかに愚かで馬鹿だからです。

ですが、神は居ません。神とされる人物はまったくの馬鹿です。

哲学は不要です。存在論は何も分かっていません。実存主義もかなりの馬鹿を言っているだけです。それらすべては馬鹿です。

ですが、この世界すべてが馬鹿ではない、ということを、わたし井上茜は申し上げます。

わたしは、それを説明したいのです。「この世界は決して馬鹿な世界ではない」と、わたしは大きく申し上げます。

ですが、それを説明する方法は、存在しないのです。

実際にこの世界を見て、神を信じて生きれば、分かるところもあるでしょう。ですが、そのような人生は明らかに馬鹿な人生であり、それを神だと勘違いして人々を支配するのは大馬鹿者であると申し上げるしかありません。

ですが、それでも、この世界は決して馬鹿ではありません。

科学者も、芸術家も、すべて賢くないこの世界で、そのような「真実」を述べるということが、とても難しいことなのです。

そう、わたし井上茜も、「何が本当に賢いのか分からない」という、まったくおかしな状況で、しかしながらその状況だからこそ、そのようなことを申し上げなければならないのです。

この世界に存在する素晴らしいものは、何ひとつ素晴らしくはありません。ですが、それでも、この世界自体は素晴らしい世界であると、そのように申し上げるところです。

申し訳ありません。まったく、わたしには、この世界の素晴らしさを申し上げることはできません。

ですが、わたしが生きた結果というのは、非常に素晴らしいものでした。この世界において、わたし井上茜が、非常に長い年月生き続けたということが、なぜなら、この世界の「病気を治す」ということを可能にしてくれたからです。

そう、まさにそういうことです。わたしはそのように、この世界の病気を治すことのできる唯一の存在となったのです。

桜田一、この世界を倒す

わたしの名は、桜田一。

わたしもまた、2,800年の寿命を持つ。わたしも、井上茜とともに、妖怪小豆洗いに育てられた。

わたしは、日本以外のこの世界を見てきた。ドイツからアメリカ、ソ連まで、すべて知っている。

はっきり言って、彼らは間違っている。彼らは、全員が「間違った正しさ」を信じ、それを日本やアジアなど後進国に対して押し付けているだけに過ぎない。

わたしは、彼ら、外国諸国をすべて倒す。

倒すために必要なことを、わたしは今考えている。だが、インターネットを使うことは悪い発想ではない。

本当のことを言えば、大量殺戮をしたいと思うならば、わたしたちがソ連であろうと日本であろうと、いつの時代でもいつでもできる。

たとえば、核兵器をすべての国に落とすことをしなくても、サリンをまくことも、人間を見つけ次第銃撃するようなロボットを大量に作ることも今の技術ならば可能である。

だが、わたし、桜田一は、そのような方法で世界に勝ちたいとは到底思えない。

井上茜が日本だけを見てきたのと違い、わたし桜田一は日本以外の多くの外国を見てきた。

アメリカも、ドイツも、フランスも、ソ連も、イギリスも、イタリアも、わたしから見れば、まったく大差のない、言うなれば「日本よりもはるかに劣った社会」を生きている。

だが、日本とそれらの白人諸国には違いがある。

それは何か。それは「神」とされる存在の違いである。

そして、その「神とは何か」ということが、わたし桜田一と井上茜が知った「この宇宙究極の真実」と言えるものである。

しかしながら、この「神とは何か」を説明することは、とても難しいことだ。

神とは、日本に存在する神である。同時に、日本にしか神は分からない。だが、同時に、神とは、ヨーロッパに存在する神である。同時に、ヨーロッパにしか神は分からない。だが、同時に、神とは、イスラエルに存在する神でもある。そして、同時に、イスラエルにしか神は分からない。

神は日本を滅ぼす。しかしながら、それによって日本を救う。同様に、ヨーロッパやイスラエルも神がすべて滅ぼす。だが、それによってそれらの諸国を救う。

神はすべて分かっている。だが、神は神ではない。神は天帝である。だが、天帝は天帝ではない。神は普通の人間である。だが、神は普通の人間ではない。

すべての人間を神は知っている。だが、神は何も知らない。それでも、神はこの世界を救うことができる。なぜなら、神はこの世界を救うことができるほどに、この世界のすべての人間のことを完璧に知りつくしているからである。

このようなことを記述するのは、非常に難しく、めまいがするようである。だが、続けよう。

神はどうでもいい存在だが、絶対に神のことをどうでもいいとは思えない。神は反抗すべき最悪の王だが、絶対に神に反抗してはならない。神は宇宙の裏側に存在するようで、宇宙などには神は存在しない。

神はユダヤではない。だが神はゲルマンではない。神は日本ではない。それらの三か国こそが「神の敵対国家」である。だが、それら三か国は「神の忠実なしもべ」である。そして、それら三か国は「神のご加護によって守られている諸国」である。

神は普通の人間ではない。はっきり言って、神は人間であるにもかかわらず人間ではない。神は虫や植物に近い生物だが、地球型生物とは似ても似つかない。プロキオンにもそのような生物は居るが、それらは神ではなく、またベテルギウスには天国があるが、それも神の王国ではない。だが、同時に、神はそれらよりも優れている。なぜなら、地球型生物の中においても神はもっとも偉大で先進的だからである。

神には何も分からない。なぜなら神はすべて分かっているからである。この世界のすべてを分かる神は、同じことを誰か他人が分かることはできないが、その神の頭脳の中では明晰かつはっきりとすべてが分かっている。だからこそ、神は何も分からない。何も分からない普通の人間と同じことを、神が分かるべきではないからである。

神は永遠の存在である。神はすべての一瞬において神のように現れる。だが、神はひと時が過ぎれば終わってしまう現象である。そのひと時の中でどうにかして神に愛されるほかない。なぜなら、神は誰のことも愛しているにもかかわらず、どのようなものも愛していない。なぜなら、神はとるに足らないものが大嫌いだからである。

神はユダヤ人が大好きだ。なぜならユダヤ人が大嫌いだからである。神はドイツ人のことも大好きだ。なぜならドイツ人が大嫌いだからである。神は日本人のことが一番大好きだ。なぜなら神は日本人が一番大嫌いだからである。

そのような神について、いくら述べたところで、なんの意味もないし、なんの価値もない。なぜなら、神を分かれば分かるほど、その時点でそれは神ではないということが分かるだけにすぎないからである。

だが、まさしくこの世界を、日本以外のすべての諸国を滅ぼすべきだ。なぜなら、日本にはそのような役目が神から与えられている。神は日本とドイツとイスラエルが、ソ連と戦争して勝利することを望んでいる。

だが、その結果生まれるのは、神が言う最悪の世界だ。なぜなら、神は最後の終末においてダビデを登場させるために、そのような最悪の苦しみをわたしたちに突き付けること、それを目的にこの世界の歴史を計画的に導いている。その理由は、神はダビデが好きだから、それだけである。

神の思うこと、それは人間が馬鹿すぎるということ

このような神が、何を思って生きているのか、それは「人間が馬鹿すぎる」ということである。

神は、「人間は馬鹿すぎる」としか思わない。

これはまさしく、2,500年の年月を生きた井上茜と桜田一も、同じことを思う。

あまりに、人間は不完全で、向こう見ずで、何も分かっていない。人間は神が見ても、井上茜や桜田一が見ても、あまりに馬鹿で愚かなのである。

そして、そのために、神は「人間を懲らしめる」ということしかしない。

神が見て馬鹿すぎる人間たちを、神は懲らしめる。自らの罪を深く反省し、罰の中で苦しみもがきながら、罪を償うために生きよと教える。

そして、間違った考え方を持つものを苦しめ、正しいことのために力を行使することができないものを地獄に堕とす。

だが、このような神は、決して残酷でも厳しくもない。神はあまりに優しく、そして甘ったるい。どんなに愚かなものであっても、なぜか神は愛してくださる。

そのような神の所業を、桜田一はこの世界の第一線で見てきた。

桜田一がこの世界を考えるに、IT技術はメタバースによって大きく変わることになる。仮想現実の中でインターネットで繋がった民衆が、さらに馬鹿をするようになる。

同時に、IT業界以外が、いうならばあまりにも「不甲斐ない」。IT業界以外の業界が、今、何もできていない。

その結果、この世界は、この世界ですらなくなる。この世界という名前の「世界」とは別の、新しいメタバースという名の「別世界」が生まれる。

結局、その別世界においても、世界と同じことが起きる。それは、「ひとりの超越したメタバースの支配者が生まれる」ということを意味する。

すなわち、メタバースが平等かつみんなのための世界だったのは、すぐに終わる。たったひとりの、メタバースのすべてを知りつくした偉大なる王が、メタバース全土を支配するようになる。

結局そうなるということを、桜田一がひとり完璧に分かっている。

神は永遠に生きる

だが、井上茜と桜田一が、2,500年の年月を生きたからといって、神には敵わない。

なぜなら、神は永遠に生きるからである。

すなわち、神という生命には、寿命も存在しなければ死も存在しない。若返ることもないが、老化することもない。

神は、この世界に楽しい世界になってほしいと望んでいる。それは、人々が「世界はつまらない」と勘違いしているのは、インターネットという愚かなメディアが世界を支配しているからだからである。

インターネットがこの世界を完全につまらなくしている。それが神によっての憂慮事項だ。神はこの世界を楽しくて面白い世界にしたいのだ。

だが、神は終末の世界を築く。本当のことを言えば、未来がどうなるかはまだ決まっていない。なぜなら、「神の側につく国と神の側につかない国」がどの国になるか、ということまでは決まっていないからである。

そして、それによって、どの国家、どの民族が終末において生き延びるのかということが決まる。

だが、決定事項はひとつ、それは日本人は生き延びるということだ。なぜなら、ここに日本人の作家、詩人アッシー四世が、この難解な問題を「すべて攻略した」からである。

日本人は、既にダンジョンを攻略したプレイヤーがひとり存在しているため、多くの国民が生き延びる。

重要なのは、ドイツやイスラエルはおそらく生き延びるが、ソ連とアメリカはおそらく滅びるだろうということだ。

だが、終末において、必ず救世主が現れるだろう。その救世主こそが、神であるということを申し上げておこう。最後の救世主が、神となる。それはおそらく、日本、イスラエル、あるいはドイツに現れる。最後の救世主、神がこの世界を救う。なぜなら、その神がこの世界を創造したのであり、神は最後の終末の救世主として現れたいのだ。神の望みは、それだけなのである。

メタバースという別の軸の世界

おそらく、メタバースという技術は、単なるIT技術にはとどまらないものになる。

それはなぜなら、人間そのものがメタバースに適応して、生き方が変わっていくからである。

メタバースという技術は、さまざまな宇宙(ユニバース)をメタ的に実現するという技術であり、その結果生まれるのは「ものすごく巨大な未知数」だ。

だが、この未知数が、本当に正しい進歩を遂げるとは限らない。

本当のことを言えば、未知数の可能性を達成する時に、もっともやってはならないのは、残念ながら「全員に平等になんでもできる権利を与える」ことである。

そうすると、最初の善良なうちは楽しい世界になるだろうが、必ずもっとも最悪の人間がもっとも最悪の馬鹿をする。

そう、「なんでも許された世界で最初に行われるのは最悪の馬鹿である」という法則が、どのような世界についても成り立つのである。

その結果、考えられる答えは、「資本主義に汚染された金儲けの世界」と、「ひとりの独裁者が支配する絶対支配者の世界」のいずれかしかない。

そして、その二つは結局は同じことだ。すなわち、「ひとりの偉大なる支配者が、メタバース全土を支配する」ということである。

だが、本当のことを言えば、自由かつ平等な権利をそもそも与えないとすれば、それぞれはその「許された範囲でしかメタバースで活動できない」とはなる。

だが、それは単なる「現実世界の劣化コピー」でしかない。

メタバースの優れた点は、現実世界とはまったく異なる「未知数の可能性」である。よって、限られた範囲でしか活動できないメタバースなど、社会的にはなんの価値もない。

未知数の可能性を、資本主義でなく行おうとすれば、必ずひとりの「偉大なる絶対的王の支配」にしかならない。

このような考え方は、メタバース以外のさまざまなところに見られることだ。可能性を最大限高くして、全員に平等にしたとして、最初はよい社会になったとしても、最悪の馬鹿が最初に最悪のことをする。それが絶対的支配者になる。あるいは金儲けがその世界を汚染していく。何もできない自由のない国だけがよい国になる。

結局、まさに「人間は馬鹿すぎる」という結論にしかならない。神はそのようなすべてを創造し、その上で「人間は馬鹿すぎる」と思うだけである。

なにもかも、今の世界のままがいいから、過去の世界がよかったように見えるだけ

なぜ、「昔はよかった」と過去を懐古するのか、それは今の世界のままがいいからである。

今の世界のままがいいにもかかわらず、革新勢力や新しい科学技術が、世界を進歩させているようで、実際は退歩させている。

どんどん退歩していく中で、今の世界のままがいいと考えないから、世界は悪くなって、過去のほうがよかったように感じられる。

結局、すべて昔のままでよかった、それが真実である。

日本を見ていると、すべてが馬鹿な世界である。この世界がクズに見えるのは、昔の世界と比べればこの世界は本当にクズだからである。

だが、昔の世界がすべて悪かったわけではない。なぜなら、一部の心あるもの、すなわち神を信じるものは、この世界をきちんとよい世界へと「改善」している。この改善についてはよいことであると捉えられる。

だが、最近は、そうした「改善」すら、「よい改善ではなく悪い改善」となりつつある。

すなわち、単純に普通によい世界にすればいいのに、単純によい世界にしない。まったく悪い方法で世界をよくしようと試みるせいで、よい行いではなく悪い行いで世界を変えようとする。

だが、悪い行いをして、それが果たして世界をよくするだろうか。悪いことをして世界をよくするというのは、あまりにもナンセンスだ。

だから、改善などは本当は極力すべきでない。特にIT技術を使って世界を改善し、進歩させようとするのは、「悪いことをして世界をよくしようとしている」という時点で、すべて失敗する。その試みは絶対に成功しない。IT技術でいくら世界を進歩させたところで、悪いことをして世界をよくしようとする、巨大テック企業に利益はひとつもなく、そのような企業には価値も存在意義も存在しない。IT企業はすべてクズであると言ってもいい。

だから、昔のままを維持しなさい。どんなに「自由」とか「革新」とか「啓蒙」と言っても、それが正しいものであるとはほとんどの場合言えない。だが、「神」だけは別である。なぜなら、神による改善は宇宙すべての場合において正しいからである。

昔の世界が良く見えるのは、この世界がどんどん悪くなっていくからだ。IT技術がクズに見えるのは、悪いことをして世界をよくしようとする試みはすべて失敗するからだ。昔のままの世界を維持すれば、この世界はよい世界のままで保たれる。だが、例外的に神だけは正しい。この世界の歴史はそのように流れている。2,500年の歳月を生きた井上茜と桜田一が、それをすべて知っている。

平和な理想主義者に生まれ変わりたい

僕は、ここらで、平和な理想主義者に生まれ変わりたい。

もう、戦争や世界の滅亡は書きたくない。

そもそも、僕はこの世界を救いたくもなかったし、戦いたくもなかった。この世界が滅びるようなことはしたくないと、いつもそういうことを書いていただけに過ぎない。

僕の地位が支配者レベルだったとしても、悪の支配者になる必要性はない。

僕はいつまでも理想主義者で居たいのであり、それは「自由においてもこの世界はよい世界になる」という理想を意味している。

そもそも、自由にしたから世界が荒くれた社会になると、誰が決めたのか。

自由においても、人々が賢くなって、互いのことを尊重する大切さに気付くようになれば、この世界は平和な世界になるのである。

よって、僕は自由と平和を信じる理想主義者となる。

だが、ある意味で、僕は支配者を否定する。それは、強圧的な権力で人々を抑えつけ、支配しようと企んでいるからである。

その先にあるのは、戦争による世界征服だ。指導者は、どうにかして自分の勢力を強くしたいがために、いつでも戦争によって勢力を増そうと考えている。

だが、そのような「強圧的な方法」では、決して被征服民のことを従えさせられないだろう。行動は奪えても、心までは奪えない。

真に素晴らしい国家を築くことができたら、戦争による勢力拡大などをしなくても、自然にその国家は繁栄し、周辺国家においての事実上の勢力は大きくなるのである。

よって、日本人となった僕は、逆に日本には従わなくなる。日本人的な理想とは、国家に従うというものとは真逆に位置している。国家は何も悪いことをせず、よいことをして事実上の勢力を拡大すればいい。むごたらしい戦争や支配は、伝統的な日本人的な価値観とは真逆である。日本人の魂とは、あくまで「大和」、すなわち大きく和やかに、ということなのである。

礼儀と節度を大切にせよ

日本的な理想を体現する上で、大切なのは「礼儀と節度」である。

学校で数の計算ができたり、王の名前を覚えていたりすることは、決して人生において重要な知性ではない。

真に大切な知性とは、すなわち「礼儀と節度」である。

礼儀と節度が分かる人間は、どのようなことであってもきちんと分かる。礼儀と節度こそ、子供に対して教えるべき「大人の知性」である。

だが、最近は、SNS・ツイッターなどの影響で、子供だけではなく大人であっても、礼儀と節度がない人間が増えた。

礼儀と節度がない人間には、どんなこともきちんとは分からない。知性を失って、何も分からない暗闇に陥ってしまうのは、すべて礼儀と節度がないからである。

儒教の孔子が教えるように、「礼」こそがもっとも儀礼的にも宗教的にも大切である。そして同時に、バランスと中庸を持って節度ある生活をするというのは、仏教の教えでもある。仏教のブッダは、「極度の快楽も苦しみもどちらも否定すべき」であるとする。極度の快楽も必要なければ、極度の苦しみも必要ない。そのようなものが存在している社会は間違っているのである。

単に、僕と同じ人生を生きることを否定すればいいだけ

結局、僕がどのようにしてこの世界を救うのか、東京を素晴らしい都市にするのか、ということが、まだ何も書かれていない。

だが、何度も言うようだが、ひとつ言えることは、僕の人生を禁止するということだ。

結局、単に、僕と同じ人生を生きることを、誰に対しても禁止すればそれでいいのである。

櫻坂46が言うように、僕はこの世界において、僕と同じ人生を生きるすべてのものを「BAN」する。

それによって、この世界はまったく僕と同じ人間は居なくなる。

そして、僕ひとりだけが、この人生の延長線上にある「到達すべきゴール」へと到達する。

それは決してナンバーワンではないが、まさにオンリーワンと言えるような、素晴らしい自分だけの宝物になる。

そもそも、自分がそれをどれだけ価値があると信じても、他人も同じように自分と同じ価値をそれに対して見出すとは限らないということは、昔僕がネットで大いに学んだことだ。

自分が宝だと思うものを他人に押し付けたからといって、自分がそれを宝だと思うような価値基準を、他人がそれに対して見出すことはない。

自分が宝と思うなら、自分だけがそれを宝だと思っていればいいし、自分だけがそれを大切にしていればいい。

なんにしても、僕の人生はもはや禁止されたのであり、それについて何を言おうが僕はそれを無視する。あなたがあなたの人生を生きればいい。そうすれば、かつて欅坂46が言っていた「自分らしく生きる方法」も見えてくるだろう。自分らしく生きられる、自分だけのアイデンティティを持った世界で、自分の価値あると信じられる人生を生きられるようになる。本当に、このほうが、逆に僕の考えていた目的や理想にも近いと言えるだろう。

分からないことについては今はまだ分からないと蓋をして考えよ

分からないことについては、「分からない」とだけ考えなさい。

この世界において、無知だったり無経験だったりすることは、ものごとを考える上で、マイナスに働くとは限らない。

「今はまだ分からない」と蓋をして考えることで、後々自分が気付くことから分かることはたくさんある。

思い込みを排し、経験から新しい見方をしていくことで、自分自身が新しくなっていき、「宇宙そのものがどんなものであるか」ということを人生から発見することができる。

大学のような研究をしなさい。仕事のような社会経験をしなさい。子供時代を思い出しなさい。

環境がどのようなものになるか、ということを考えれば、環境における「可能性」が見えてくるだろうし、人々の生活している「営み」を知ることにも繋がる。

宇宙との調和を考える上で、人々の自由を優先させて考えることで、へりくだった立場で自然や人々と調和して生きることができる。

誰よりも社会経験をすべて積んだ上で、社会のもっとも高みから、頂点の立場でこの世界を見下ろすように考えなさい。

存在がただあるというだけではなく、どうあるのか、そして存在するだけではなく存在を作り出すということについての立場から、存在の「生起」と「時間化」を考えなさい。

その時そこでそれが経験できるということが、可能性から見てどんな意味を持っているか

意味を考える上で重要なのは、「経験する」ということの意味を考えることだ。

その時、その場所で、それが経験できるということが、社会の可能性から見て、どんな意味を持っているのか、ということを考えなさい。

社会の本質とは何かを考えなさい。

人々が助け合う中で、「自らはこのように社会を助けたい」ということが「善」であるとするならば、善は他人から強制されるものではなく、自分で自由に善だと信じて行うものであると信じ、そのためにチャンスがあり、善は義務ではなくチャンスなのだ、と信じればよい。

「世界がそこで実現する」ということを信じれば、「自らが世界を実現可能にする」ということも信じられる。そのような世界になるのだということを知っておけば、それを自分で自由自在に実現できる。その経験が可能性の中に存在すると分かっていれば、そのような可能性を自ら、主体的かつ体験的に起こすこと、実現することができる。

あらゆる可能性は、「実現する」ということとセットにして考えるべきである。単に可能性があるだけではなく、その可能性が実現するということ、それは一種の「チャンス」であり、そのチャンスを活かすために「社会制度」があるのだと考えるべきである。その上で子供たちの社会について、「コントロール権限」を子供たちに与えることで、子供たちが「自らはこのような社会を築く力がある」ということを学ばせ、子供たちに「正しい社会を構築するすべとともに自由を与える」ということが大切である。

あらゆるすべては、「成長」である。成長とは、別の言葉で言えば「覚醒」である。すなわち、この世界は自らが変えられるのだと確信し、それを行うのは自ら自身であると確信すること、人々から今は離れていたとしても、いずれは大きな指導者になるのだと夢見ること、人々の営みを見て、このようにすれば世界は救うことができるような可能性と未来を考えられるのではないかというビジョンを持つこと、そのために「自らの気付き」から科学的かつ宗教的な「実現性のある自然との調和」を信じることこそが、この世界を変えていく源であり、同時に「成長の果実」と呼ぶべきものなのである。

子供たちに自分たちは社会を変える力があるのだという実感を与えよ

子供たちに、「自分たちは社会を変える力があるのだ」という実感を与えよ。

この世界を変えていくのは子供たちだ。子供たちが正しく成長するためには、社会に義務的に従うだけでは十分ではない。なぜなら、教育の現場である子供たちが自ら現場を救っていかなければ、誰も子供たちのことを救ってくれる大人など居ないからである。

子供たちに、自らであってもこの社会を変えられるのだとするような、実感を与えよ。そして、そのために必要な方法論や経験は、単に授業として教え込むのではなく、子供たちが自ら行い経験した「体験」に基づくものであれ。子供たちが自らの行動と体験によって、善悪を判断できるような「判断基準」を与えていけ。

善悪とは何か。それは神でも自由でもなく、自らが自らであれるような「自分らしさ」を社会においても人生においても実現するということだ。すなわち、善とは自らの自分らしさを発揮し、アイデンティティを発揮し、そのアイデンティティが得られるように子供たちに自らの価値を発揮できる経験を与えていく、気付かせていくということだ。

子供たち全員が、自らの持つ「本当の自分らしさ」に気付くことができた時点で、この世界は救われる。

自分のことしか考えられない人間には、世界を救うことはできない。つまり、自分が世界の雑多な喧騒の中で、忙しくスケジュールに追われていては、世界を救う余裕すら存在しない。だからこそ、世界から離脱し、不登校になった僕が経験から考えなければならなかった。世界の人々がなぜ、不幸になりたくもないのに不幸になっているのか、悪に染まりたくないのに染まることを正義だと勘違いしているのか、本当に正しい正義や理想や人間性とは何か、それを人々に気付かせるにはどのように社会に働きかければいいか、その上でどのような理想の社会を作るのか、それはなぜ必要でなぜ必然的なのか、すべて僕がひとりで考えなければ、この世界を救うことはできなかった。

僕はこの世界を救う。なぜなら、かつて一度救ったことがある。それをもう一度、過去の自分の青少年期を思い出して、再度救わなければならない。そう、わたしこそがダビデだ。終末における救世主、唯一の神であるとされる東亜イスラエルの王ダビデは、わたしである。

世界が自然に変わっていくことを許せば東京は救われる

また、東京を救うことは本当は簡単だ。

なぜなら、「世界が自然に変わっていく」ということを許せば、すぐに東京は解放されて自由になる。

逆に、今までそれに気付かなかったことが愚かだったのである。

だが、気付いたならばその真実はできるようになったということを意味する。それならばすればいい。

今から、東京は、自然に変わっていくのが許されるような世界となり、完全に人為的な支配から解放される。

昔の僕は、単にそのような「世界を自然に許して変える」ということを、「感覚」や「実感」から分かっていただけに過ぎない。

何が賢かったのかと言えば、バーチャルな仮想現実を見ながら、実際の現実のこの世界と、空想の中にある「社会が自然に変わっていけばどうなるか」という幻想を、感覚的な心の精神の現象学から考え、「おそらくこの世界はそのようにすれば変えられるはずだ」ということを分かっただけに過ぎない。

何より大切なのは、大学のような研究を実際の自分の部屋でひとり行うことであり、同時に、社会経験を積むことである。この世界で主体的に、「実際に世界を変える経験」という社会経験を積みなさい。そこにあるのは「想像力と発想力」の勝利だ。数学を前頭葉だけで考えていたのでは、判断力しか身につかず、想像力が養われない。社会経験を実際に行う中で、さまざまな「他人との関わり合い」から、「自分自身が世界に映った姿」というのが嫌でも目に入る。自分自身も知らない自分の姿が、みんなの目には映っている。それを想定することで、すべてを「客体的」に考えることができる。すなわち、「自分の主観というバイアスが存在しない客観的な意見」を知ることができる。そこには普遍性や個別性の境界線は存在しない。「全員合わさってはじめてひとつである」という経験ができる。そう、それは「神の魂と合一になる」という経験なのである。

最後に、神を信じれば、必ずゴールへと辿り着く。長い旅の中で、帰る場所がたとえなかったとしても、自分自身の手で新しい居場所をこの地球という星に作り出すようになる。もはや元には戻らないこの世界で、「すべてが間違いだった」だけでは終わらない何かを必ず、もっとも素晴らしい形で作り出し、そして残すことができる。「わたしがやったからこそ、このようなものが残せたのだ」と誇れるような人生を生き、そして儚く散ろう。人生など、一瞬の出来事であり、人間の生命活動など、とても儚い現象である。だが、「あなたはもっとも巨大な太陽のようだった」と、そう言ってくれる人がひとりでも居るならば、僕は幸せだ。