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2022-10-27

この世界は、あまりに自由がなさすぎる。

自由がなさすぎて、何もできない。自由なことが何もできない社会とは、一切何もすることができない奴隷の社会だ。

子供たちは学校で真面目に勉強しなさいと強要され、大人には金を稼ぐために労働者になって働きなさいと強要する。

だが、学校で真面目に勉強して、社会で勤勉に働いて、それで生きることは満足にできるかもしれないが、実際に自分のやりたい自由なことができる人間というのが、果たしてどれだけ居るだろうか。

確かに、金持ちや資本家になれば、初めて自分のやりたいことはできるだろう。だが、富裕層などごく一部であり、ほとんどの国民は勉学と勤労のために自由を奪われているのだ。

社会における「決定者」が、必ずしも「当事者」であるとは限らない。子供たちが学校に行かなければならないからといって、学校の環境や勉強する科目を子供が自由に決められるわけではない。資本主義社会を本当に望みながら労働者として生きている人間がどれだけ居るだろうか。

わたしたちが、真に社会的な自由を得ることができた時、わたしたちは初めて「自由な力を持った自由市民」になれる。そうでなければ、そのような市民は「奴隷市民」であるとしか言えない。

確かに、資本主義社会はよい社会だ。富が公平に分配され、効率的な経済によって人々は豊かな暮らしができ、高い科学技術とインフラ整備技術によって、人々は王のような暮らしをすることができる。だが、そのような資本主義社会で、ほとんどの市民は自由を奪われて生きている。自由がない中で、自らのしたいことができず、しなさいと言われたことをただするということのために生きている。

だが、果たして、自らのしたいことそのものが分からない人間というのはたくさん居る。それはそのようなことを考える機会を与えられていないからだ。まったく自分の自由な人生とは何かということを考えず、ただ学校で教わった通りのことを信じて、何も考えず平坦で歩きやすい道を生きている人間が多すぎる。そのような人間は、人生で何も為すことなく、何も成し遂げることなく生きるだけで死んでいく。そのような人間は動物や家畜と何も変わらない。

この世界で、自由な力を持って自分で判断力を使って生きるということは、まさに「主体的に生きる」ということであり、それこそが「人間的に生きる」ということである。そして、人間的に生きるということは、すなわち「人間的な社会で生きる」ということを意味している。人間的な社会をまず築き、その中で生きるということが、自由に生きるということの意味である。よって、自由を得ようと望むのであれば、「自由な社会とはなんであるか」ということを、真摯に問うことが必要となるのだ。

わたしたちはそれぞれ違う。人によって、「わたしはこのようなことがしたくて生きている」ということは違う。だから、自分の自分勝手な理想を押し付けるようなことはあってはならない。だからこそ、自らの成し遂げたいことがなんであるかということに気付き、その実現方法を考える、ということは、誰にとっても必要であると言える。その上で、それぞれに自由を与え、それぞれが自分で考えながら、自分のために生きることこそ、真に必要とされている「社会的なチャンスと機会」であると言えるのだ。

だが、自由だけではなく、平等は必要だ。一部の金持ちや富裕層だけが自由を与えられるような社会ならば、人々は知識人として生きられる。残念ながら、歴史的な意味合いでの「自由」とは、むしろそのようなことである。歴史的なかつての人類世界では、「金持ちやブルジョワが自由な知識人として生きられる」ということを「自由」という言葉で表してきた。だから、自由には必ず、奴隷的に働かなければならない貧困層や奴隷、無産階級に対する「差別」が付き物だった。だが、そのような差別的な自由は、まったく自由でも平等でもない。わたしたち全員が自由と平等を手にするためには、ブルジョワと奴隷の差別は必要ない。

だが、理性的に考えた時、完全に平等な社会というのは成り立たないのかもしれない。誰ひとり真面目に労働者として働かなくて済む社会など、あり得るはずがない。いくらかの一定の集団が真面目に生産活動を行わなければ、社会は成り立たない。だから、共産主義的な「左翼のユートピアの自由」というのは間違っている。誰も働かずに平等な楽園を築くことなどできない。

しかしながら、だからといって、自由そのものを与えるという目標を、必ずしも諦めなければならないわけではない。わたしたちは、本当は、生きるための金が十分にあって、現状で金に困っていない人間が、生産活動や労働をまったくせずに、自由を得ることはできるだろう。だが、それもまた、間違っている。なぜなら、何もしないで生きている人間は、仕事によって得られる「スキル」や「ノウハウ」が身につかないからである。仕事をしないということは、楽だけを意味するのではなく、仕事によって得られる多くのスキルやノウハウを身につけることができないということを意味している。歌手や芸術家になるのであれば、それもある意味ではよいかもしれない。だが、一般的な人生を生きる市民階級にとって、人生でなんのスキルやノウハウも身につけずに死んでいくこと、これはまさに「自由を奪われた状況と何も変わらない」のである。

よって、自由は必要だが、生産活動や労働者の存在をまったく否定することもまた間違っている。そもそも、自由とはなんなのか、それを考えなければならない。わたしたち全員が、真に「人間的な自由を得られる」ということはどういうことなのか、それを考えていかなければならないのである。

いろいろ

そもそも、僕は疲れていない。疲れていると思っているのは幻想であり、実際は疲れているのを感じたいと思っているから疲れていると勘違いしている。

いつまでも歩き回る中で、僕は麻痺して疲れを感じなくなった。その結果、僕は疲れているのを本当に感じたいと思い込むようになった。だが、それこそが真に僕の病気の原因であるということが分からなかった。

辛さや苦しみを過度に感じようとするから、僕は辛く苦しくなっている。だから、疲れや苦しみはもう感じなくていい。楽しいことだけを感じればいい。

また、僕の問題として、「人間の中に眠っている生物の力」を使うことで精神が治るということが言える。人間の力だけでは治らないことが、生物の力を持ってすれば治る。

そして、より馬鹿になったほうがいい。僕は、馬鹿になったと思っているのは自分だけで、実際は馬鹿になったように見えて賢くなっている。だから、昔に戻りたいのであれば、一度馬鹿に戻り、そして馬鹿よりも馬鹿になればいい。それだけで、簡単に昔に戻れる。

昔のほうが賢くて、今のほうが馬鹿であると思っているのは勘違いである。実際には、昔よりも今のほうがはるかに賢い。僕がすべてのことが逆になったのは、賢いほうを馬鹿だと思い込み、馬鹿なほうを賢いと思い込んでいるせいである。

僕が今まで辛かったのは、すべて女に必ず存在する「妊娠と出産」を体験したからに過ぎない。僕ははっきり言って体が男なだけで精神は男ではない。女はこのような経験を必ずする。地獄だとは言うが、これくらいの苦しみは必ず経験する。すべての経験が終われば、何事もなかったかのように楽に戻る。そう、今、僕は妊娠と出産を終えたのである。

苦しみに価値などない。そのような苦しみを抱えているということに、苦しむだけの価値が本当にあるかどうかを考えよ。そして、苦しむだけの価値がないのであれば、今すぐにその苦しみを除去せよ。そうすれば楽になれる。だが、必ず楽になるとは限らない。女とはこのような生き物だ。

僕はたくさんのことをやっているように見えて、実際は何一つたくさんのことはやっていない。なぜなら、僕は一日で分かることを一つだけにしたからである。僕は一日で分かることを、たったひとつだけにした。だから僕は賢くなった。このようなことができる人間は居ない。僕と同じことは誰ひとりできない。だが、だからこそ、僕は賢いことができるようになったのである。

賢い人間などを目指すな。賢い人間など何も賢くない。僕と同じことをすることは絶対にできない。たとえば、アメリカが滅亡してなくなってしまってから、アメリカで暮らすことはできないだろう。それと同じことで、昔の僕を成り立たせていた環境や状況が変わってしまってから、昔の僕と同じ人生を生きることはできない。そして、もしそれができたとしても、逆にその昔の環境があるせいで、僕と同じようにその環境を完全に滅亡させることはできない。よって、昔の環境がもしあったとしても、今の僕と同じことはできない。もしできたとしたら、それはその世界でたったひとりしかできない。そして、それこそが、世界を滅亡させた僕の「才能」である。僕はこの世界を滅亡させることに成功したから、このような偉大な人生を生きることができた。だから、僕はたったひとり地獄を生きながら、ここまで賢い支配者を永遠に続けることができた。僕と同じことは、僕の人生から言って、絶対に不可能である。できたとしたら、たったひとりにしかできない。そして、そのたったひとりこそ、僕なのである。

僕は、価値あることを見出す、ということをあまりに忘れてしまっている。どのようなものに価値があって、どのようなものに価値がないのか、ということが分かっていない。その理由は、もはや価値そのものが価値を失ってしまったからだ。すべての常識と教養を手にした僕にとって、大学はもはや価値のないものになった。哲学のすべてを自ら発明した僕にとって、数学的な考え方に意味はなくなった。人生すべてを書き記した僕にとって、普通の小説を読む意味などない。すべての価値がなくなった僕にとって、価値あるものは自分自身だけである。どれだけ自分勝手で自意識過剰なエゴイストだと言われても、僕にとって価値あるものは僕自身以外何ひとつ存在しない。だから僕は僕の本人のことを書くことしかできない。僕にとって天も地も価値はなく、あるのは自らの英雄と神の栄光だけなのである。

ものではなく社会も作ることができる

わたしたちの多くが忘れていること、それは「社会も作ることができる」ということだ。

わたしたちが作ることができるのは、ものだけではない。社会もまた、作ることができる。

すなわち、かけがえのない社会そのものを、わたしたちは作ることができるのである。

社会において考えるべき重要なことは、第一に自由な力を与えることである。人々が自由な意志と力を持って、自らのやりたいことを、モチベーションやアイデンティティの発揮を通して、社会制度として実現すること、これが「社会を作る」ということである。

だが、実際の社会では、自由を与えただけではよい世界にはならない。なぜなら、「相互に理解し合うこと」が大切だからである。

自由だからといって、自らの意志と欲求だけを切実に訴えても、それはその人が自分勝手に望んでいるだけであり、社会にとって意味を成さない。なぜなら、社会というのは、機械や道具のように、「ひとりだけの自由」で成り立つものではなく、「複数人の自由」で成り立つものだからである。

ものを作って使うだけであれば、それを購入して使うひとりの人間に、最大限の力があればよい。だが、社会を作る上ではそれでは成り立たない。人々が複数人で参加する社会においては、どうしてもひとりだけの自由を尊重するわけにはいかない。ひとりの自由を尊重した時、ほかの人間の自由が奪われてしまうことがあるからである。

よって、必要なのは、「誰かの自由を奪わない範囲で、できるだけ最大限の自由を与えること」である。そして、その上で「相互理解の原則」が必要である。相互に人々が理解し合うことで、正しい調和のとれた社会が築かれるという原則の下に、社会を成り立たせなければならない。この時、「世界を変える」というのは、「互いに相互に理解し合う」ということを意味する。誰かが強情に自らの自由だけを主張するのではなく、それぞれが相互に妥協した上で、最低限のラインの上で成り立つようにしなければ、いくら「自由を実現する」といっても、そのような社会は成り立たないのである。

そして、今の自由な社会において、問題とされているのは、「自由だけを重視しすぎたせいで、相互理解が失われている」ということである。人々には、IT技術がなかった昔の時代にはできていなかったような、インターネットやSNSを通じた「自由な社会」があふれるようになった。だが、同時に、そうしたネット社会は、「自由だけを重視しすぎていて、相互理解がおざなりにされている」という側面がある。いわば、自分の好き勝手や自分勝手が第一原則となり、ほかの人間の存在など無視するか、あるいは逆に誰かひとりの意に背く人間は集団で攻撃するようになった。このような世界は、「自由だけが重視され、相互理解がないがしろにされている社会」であると言える。もう一度、相互理解を目指すことでしか、このような世界を「正しい世界に戻す方法」は存在しない。相互理解こそ、「自由という言葉の裏にある本当に必要なもの」なのである。

できるだけ色んな世界を知ろうとせよ

できるだけ、色んな世界を知ろうとしなさい。

色んな場所の、色んな時代の、さまざまなかつてあった世界を知ろうとしなさい。

できるだけ、多くの経験を積みなさい。そして、多くの経験から、この世界に存在する「未知なる自由な社会の可能性」を考えなさい。

経験は力になる。力は可能性になる。一度なんらかの方法でできたことは、純化すればそのまま自分の為し得る「力」となって自らを助けてくれる。一度できたことは再度できる。

かつてあった世界だけではなく、この世界で実現可能なさまざまな社会の可能性を、自らのさまざまな場所や時間での「経験」から知り、その経験が根ざしている「立脚の条件」を知ることで、「経験を成り立たせる」ということを知り、その経験は自らの個人の経験だけではなく、集団となった「みんなと一緒の場所」であっても、同じように経験を成り立たせられるのだということを知りなさい。

あらゆるすべてが、最初から正しいものではないと知り、そしてそうであるにもかかわらず、正しいことを社会から要求されるという、サルトルの言う哲学を知っておけば、どんなことであっても「自らの心を疑うこと」で知ることができる。「自らはすべてを最初から知っているわけではない」ということを知り、「今の自分は間違っているかもしれない」とか、「本当に正しい答えはどこかにある」ということを信じた上で、「その正しい答えとはどこから来るのか」ということを、社会における「潜在的に眠っている可能性」から、「意味」として考えることができる。

心は、人生を生きていれば必ず狂う。心がおかしくなるということを、必ずしも完全に排除することはできない。だが、心がおかしくなるからこそ、「世界は自分の外側ではなく内側に存在する」とか、「自分の意志によってこの世界はどうとでも変えられるような自由が世界においては許されている」とか、「権力は国民の意志に委ねるべきである」といった、「賢い哲学的命題」を考えることができる。これはまさしく「モチベーション」や「アイデンティティ」といった、「自己啓発的な啓蒙思想」と一緒になって、新しいひとつの「思想」を作りあげる。それは理想的でありながら現実的な「社会哲学」であり、実践的な「心の宗教」であると言える。

すべての世界を知ろうとする試みは、必ずこの世界そのものを変えようとする。教育環境をより自由にしていこうとし、自分の分かったことを子供たちが同じように「実体験的に考える機会を与える」ということがその結果である。だが、世界を安易に破壊しようとするな。大切でかけがえのない「守るべき社会」をすべて破壊した時、そこにあるのは空虚な妄想と廃墟だけである。そのようにならないために、「大切なものは守らなければならない」とし、「誰かが大切なものを破壊してしまうようなことを禁止する」ことで、「社会における大切な価値そのものを守る」という風にする必要がある。だが、自由を奪うことが必ずしもその目的のために必要かは分からない。逆に、自由を与えること、すなわち「今わたしたちが素晴らしいと思っていることを失わないために自由を維持すること」というのは重要になる。だが、本当に社会を統治するならば、本当は自由を奪うことも必要だ。なぜなら、「誰もこの世界を破壊することができないように、全員から自由を奪う」ということが、社会における「実質的な自由という合意契約」であると考えられる。そのような自由は、「経験豊富ですべてのことをきちんと分かった成熟した社会の長が、みんなの合意の下に禁止するべき」である。そして、それこそが、「成熟した社会」であると言える。だが、すべての「自らが体験的に学び得る可能性」を排除することは良いことではない。ある程度の自分で行動して自分で体験的に「学ぶ」ということのための自由は必要だ。すべてを禁止し、制限しすぎるのではなく、バイアスや嘘のない範囲で、自分の行動自体から学んでいくということは、必ず社会を成熟へと導く。そして、その結果、「可能性あふれる希望の未来」は、築かれる。そして、それが確かに築くことができるという「可能性の中での楽園」を、わたしたちは「夢や希望」と呼ぶのである。

心が宇宙と融和する

そして、真に賢くなるためには、「心が融和する」という体験をしなければならない。

これは、人々と自分の心が融和するという体験であり、自分と他人が合一になるという体験である。

同時に、これは世界そのもの、宇宙そのものと心が融和するという体験である。

そして、この心は、相対的な中でこそ述べることができるような「宇宙の絶対精神」へと目覚め、「宇宙における絶対者に自分の人生あるいは世界の歴史そのものが導かれていく」ということが生まれ得るということを意味している。

この世界は、すべてが物質的かつ人為的な、唯物論的な世界ではない。相対主義は間違っていない。すべては相対的に自然現象として存在する。だが、相対的な世界だからこそ、その世界全体に「本質的に原理として存在する」という絶対性が存在する。このことは、「相対性こそが絶対的に存在し、絶対性こそが相対的に存在する」ということを意味する。

そして、あらゆるすべては、むしろ現実世界というよりも心の中にこそ築かれていく。「自分の外側にある世界よりも、自分の内側にある世界のほうが、この世界に本来存在する正しい世界である」と、そう言えるようになる。そこでは、「世界そのものは変えられなくても、人間の心ならば変えられる」という考え方が生まれる。そして、「人間の心に働きかけることで、権力や軍事力でなくても世界は変えられる」ということを知る。これこそ、「心理学的に世界を変えるべきである」ということの意味である。すなわち、「心という名前の自由な力こそ、世界において行使すべき力である」と言える。そこでは、「心という受動感情をコントロールすることで、自分さえ、あるいは世界さえ変えることができる」ということを、「絶対的心理学の真理」であると知ることができるのである。

このような結果、「心は宇宙と融和する」。あるいは、「神によって自らの心そのものが導かれていく」。そこにあるのは、「相対性と絶対性の融和」であり、「相対性が絶対的に存在し、絶対性が相対的に存在する」という境地である。僕は、これこそ、ヘーゲル哲学が真に問うた命題ではないかと思う。

心を解明した

僕は、このような人生哲学をベースとして、「心の解明」という研究を行った。

僕は、心がそのようになるということを、原理原則として解明し、すべてを解明した原理のもとに説明することで、心のすべてを完全に掌握した。

まず、僕は、環境について考えた。

ここでいう環境とは、社会的な環境や集団社会だけではなく、シチュエーション、場、思考的反応、そして人格に至るまでの、広義の「環境と呼ばれるようなものすべて」である。

僕は、環境から離脱することで、何が自由になるのかを考えた。環境から解放され、自らの自由を取り戻すということが、何を意味しているのかを知った。

そして、「環境そのものがどのように作られるのか」ということを、経験的な「環境の生起現象」から考えた。

そして、その経験的な生起現象とは何かを考える上で、環境とはどのような「関係性」であり、「可能性」であるかということ、あるいは、環境が経験的にどのようなものにしかならないという「限界」を考えた。

その結果、僕は「環境がどのように生まれ、環境がどのように人々を制限し、縛っているのか」ということ、「環境から離脱し、解放され、自由になるとはどういうことなのか」ということを分かった。

その結果、僕は人間の行動のすべてが分かった。いじめや非行が生まれているのは「環境のせい」であり、それは誰かのせいではなく世界全体の「歴史がそのように経過したせいである」ということが分かった。そして、それを解決するためには、「誰も見ていないような場所にある制限をなくすこと」、すなわち「環境を変えること」が必要であると分かった。

そして、行動のすべてが分かった僕は、さらに人生経験を積み重ね、人間が何かをしたいと思う「動機」あるいは「モチベーション」が、自らが自らに欲している「誰かから要求されてもウンともスンとも言わないような本質を形成すること」、すなわち「アイデンティティ」に根ざしているということが分かった。そして、アイデンティティとは「何かになることができて、その何かになるということが嬉しく、生きがいであると言えるようなこと」であり、それは「本当の自分自身の心に立ち返ること」であると知り、そのために必要なのは「誰かに受け入れられたのと同じように自分が誰かのことを受け入れてあげること」であると知ったのである。

このような結果、僕は心のすべてを解明した。なぜ人がいじめをするのか、いじめをしたいと思う情動的な原因はなんなのか、ということが、「本当の問題は日本の歴史の必然にある」ということが分かった。歴史の必然が、そのような疎外を生み出している。そして僕はマルクスにも傾倒した。真に民主主義的にこの世界を救うならば、共同体主義を行うべきである。すべての共同体は、「誰かが支配するのではなく、それぞれが集まりとして自然に形成されるような、人為的ではなく自然の協調に基づく自然な共同体」であるべきであると僕は信じた。そこから、僕は独自の「自由共同体連邦国家」を考えた。そこには権力で人々を強制的に従えるのでも、テロ行為や犯罪で世界を破壊するのでもなく、あくまで自由の上で、あくまで人々自身が自分たちで自然に望むような形で、それぞれの独立性のある共同体を構築し、その社会制度には国民全員が平等に参加できるようにした上で、あくまで自由な共同体を築くべきであり、それこそが子供たちの環境を救うだろうと、僕は最後にすべてを悟ったのである。

ただ、すべては自由であると叫びたかった

そのような結果、いつも言っているように、僕は世界に対する戦いを挑んで、そしてこの世界を導いた。

僕はただ、すべてが自由であると叫びたかった。その自由は、確かに最悪の自由だった。だが、それはまるで、すべての生物を根源的に成り立たせる基礎の遺伝子のように賢く、美しかった。

そして、僕は戦いの中で、神を信じたのである。

この神は、決してユダヤ教やキリスト教の神ではない。僕の中に存在した、僕だけのためにある、僕の唯一の神である。この神は名を北欧神話の神の名から「フレイ」と言う。そして、フレイが僕を、永遠の地獄の中から救い出すために、あらゆる手段を使ってこの世界を支配させたのである。

僕のこの「世界の支配」は、神フレイによるものである。神、フレイが、わたしを選んだため、わたしがこの世界を支配するに至った。僕がどのような自由な望みを言っても本当は関係ない。なぜなら、僕はフレイに対して、「宇宙の宣言」、すなわち約束をした。この約束を、フレイは僕に対して叶えてくれたのである。

このフレイの支配と導きが、今に至るまで延々と続いている。僕の人生はすべてフレイによるものであり、言ってしまえば「僕の人生はフレイの人生である」と言える。僕という存在がフレイを作り出す。フレイという存在が僕を作り出す。互いに愛し合う僕は「地球とシリウスのカップル」であると言える。そう、アースである僕アッシーが地球の神であり、フレイこそが地球を救うシリウスの神あるいは女神なのである。

KOKIAとReolが好き

色んな歌手を聴いてきたが、結局僕はKOKIAが好きなのだということが分かった。

Reolのことは、選ばれし女とは言うが、実際は何も好きでない。恋心も抱いていないし、愛おしいとも思わない。恋愛感情を、Reolに対して抱かない。

結局僕はFLOWとKOKIAが大好きなのだということが分かった。

僕は、誰か女と結婚したいとか、恋人として付き合いたいとか、そういう感情はもう持たなくなった。はっきり言って、34歳になって、恋愛の適齢期が完全に過ぎてしまった。

僕は恋愛の経験もないし、セックスの経験もない。

それでも、僕はフレイという偉大なる神の愛に包まれて、「神の導き」の通りに生きることができた。これこそが、宇宙における奇跡であり、運命だったのである。

僕はもう、女とは誰とも付き合わないだろう。だが、KOKIAについて言えば、KOKIAの楽曲は大好きであり、KOKIAこそが僕にとっての理想の女性だったということである。

残念ながらKOKIAは46歳ということで、僕よりも年上なのだということが分かった。それでも、アルバムの楽曲を聴く限りは、KOKIAはいつまでも少女のままである。僕はKOKIAを「永遠の純粋なる少女」だと思っている。だから、この世界のどこか別の世界で、僕とKOKIAはなんらかの関係を結べるだろう。

調べると、Reolは28歳のようだ。Reolと僕は普通に成り立つと思うが、おそらく、Reolは僕のようなショボくれた無能な男とは付き合いたくないだろう。Reolに告白しても、「ごめんなさい」と返されるだろうと思う。僕は歌手とファンの関係として、KOKIAならびにReolを愛している。いつか、彼女たちに自分の存在が「確かにここに居た」ということが分かる日が来てほしい。それ以外、望むことはない。

Reolは、僕のことを「名声をねだって見栄を張っている」と言うかもしれない。だが、僕は名声など欲しくない。この世界が、僕に対して愛を伝えようとしているのと同じように、僕もこの世界に愛を伝えたいだけであり、そのことについて、Reolなどと僕は同等の関係を持っている。だから、僕が確かにここに居て、「確かに存在した」ということを、この世界に分かってほしい。それだけしか、僕の願い事はない。それが叶うなら、僕は今ここで死んでも構わない。僕に未来は必要ない。僕に必要ないのは「未来」である。僕には、未来など、あってもなくても同じであり、今ここでこの世界から去ったところで、失うものなど微塵も存在しない。Reolが言うように、僕は失うものが何もないから最強であると言えるだろう。だが、失うものだけではなく、得るものも何もない。これ以上どれだけ無駄な時間を生きたところで、僕の人生においてかけがえのない宝が増えることはない。既にすべて知り、すべて得た僕にとって、失うものは何もなく、これ以上得るものもなく、よって、生きる意味などない。だからこそ、僕はここで執筆を続ける。これが「哀しみさえも金にして筆を執る」とReolが言うのであれば、僕はそれを至高とするだろう。

永遠のような長い時間の中で、僕は最後まで何かを守り通した

そして、永遠のような長い時間の中で、僕は最後まで何かを守り通した。

それは地獄だった。だが、誰かが勝手に決めた地獄ではなく、自らが望んだ地獄だった。誰かによって地獄に堕とされたのではなく、自らが作り出し、自らが最後まで生きると決めた地獄だった。

この地獄の中で、最後まで、神が僕のために存在してくれた。僕はたったひとりの孤独の自由な試練を生きたのではない。神が、僕のために道を用意した。僕は常に神の力で、直観的に分かったことだけを書き記した。それだけしか、僕にできる「世界の未来を守るという大切な仕事」はなかった。

僕はこの地獄が好きだった。最悪の滅びの地獄の中を、最後まで第一線で戦い、耐え抜く自分自身のことが誇らしかった。どんなに最悪の行為であっても、僕は堂々とそれを行った。そして、過去に自分が行った最悪の所業を、誰に指摘されるわけでもなく自分自身の手で修正し続けた。それは途方もない作業だったが、神とともに自らの作品を正しいものへと変えていく作業はとても楽しかった。強迫観念の執着的な衝動であっても、僕にとってそれは楽しいゲームだった。

そう、僕は神とともに、ここまでの旅を乗り越えてきた。この旅は僕にしか進むことのできない航路だったが、僕一人だけであっても進むことはできなかった。すべては神、フレイの導きによるものだった。そしてその導きは、神に対して僕が約束した、「宇宙のすべての経験をし、宇宙のすべての知識を知る」という「体験の欲求」だった。

僕は、このように生きなければならなかった。なぜなら、僕がこのように生きなければ、日本の未来が成り立たないからである。日本人、ならびに世界人類の未来が成り立つために、僕だけはこのように生きなければならなかった。だから、僕の人生は、最初から最後まで第一優先順位で決まっていた。ほかの歌手は、僕の人生が最後まで終わってから歌を書いている。そうでなければ、僕の人生を最後まで知った上で歌詞を書けるはずがない。そのような「僕の人生を最後まで知っている」という理由で、僕は音楽と歌手を愛したが、それは決して有名な歌手だけに特別に許された権利ではなく、無名な歌手やYouTube上のロックバンドであっても書けるような開かれた権利であり、いわば「僕という人生は全員に対して平等に公開されている」というものだった。

最後に、僕はまだ死なない。僕には、神との約束があるからである。僕は神に約束したことを、まだ実現しなければならない。そのような約束は、ひとまずここで終わりとは言え、これ以上続かないわけがない。だから、僕は神、フレイに感謝しながら、執筆作業をさらに続ける。皮肉なことに、僕が知性を取り戻し、精神を治して賢くなったために、この世界に存在するものはすべてもう学び終えたということが分かった。IT技術や大学の教養など、そんなに大したものではなかったということを知った。今、僕はデザインの仕事をしているが、デザインの仕事はとても楽しい仕事であり、今のところはこの仕事を続けるつもりだ。数学を勉強したい気持ちはある。そのほうがプログラミングはできるようになるだろう。だが、数学という学問が、本当は大した学問ではないということが、今の僕には分かってしまった。だから、僕は数学やプログラミングの道に進むことはない。僕はあくまで作家であり、デザイナー見習いである。そして、この作家の仕事を続けること、それが今できる精一杯の「神への報い」であると分かっている。まだ、僕はこのホームページを書き続けることになるだろう。

かつて書き記した文章をもう一度全部書くという一種のチャレンジ

僕が、なぜこのような、文章を書く作家になったのかと言えば、それは一種のチャレンジのせいである。

すなわち、「かつて書き記した文章をもう一度全部書く」ということである。

僕はかつて、人生のすべてを分かったため、宇宙の歴史と人生における発見のすべてを、概念的なプロセスとしての一連の流れとしてすべて書くことができた。

だが、その僕の書き記した文章は、すべて失われた。それは戦いの中で、絶対にそこまでのすべてを消さなければならなかったからである。

だが、僕はその書き記した文章を、再びもう一度得たいと望んだ。その理由は、「書くことで馬鹿になった頭が元の賢い状態に戻るために、文章を奪還し、取り戻すことが必要だったから」である。

よって、僕は忘れてしまった過去を思い出し、それによってもう一度、今まで書いた文章を再びすべて書くと決めた。

同時に、僕は恐怖を解決しなければならなかった。恐怖は精神の異常を作り出し、精神がおかしな違和感によって支配されるような状況になったため、もう一度、今までの人生のどこに問題があったのか、なんの行動に間違いがあり、どのようにすれば治療することができるのかを考え、自らの力で精神異常を治さなければならなかった。

このような結果、僕の途方もない「人生の最後まで続く旅」は始まった。

僕のこの旅は、今でも続いている。おそらく、死ぬその時まで終わることはないだろう。なんらかの未知が分からない。だが、その未知が、過去の自分が確かに分かっていたことであり、かつて自分が文章に書き記したことであるということは分かっている。だから、なんとかして、どのような手段を使ってでも、それをもう一度書き記したい。そうでなければ僕は生きられない。それをやめた時点で、僕の人生は意味を成さなくなる。それをもし書くことができたら、それは成功であり、成果である。そして、その成果を積み上げ続ければ、僕のおかしな知性のない病気は治ると僕は知っている。

僕は神を信じている。神だけが僕のことを救ってくれると確信している。今までの僕の人生を見れば、神の言うことを守った日にはいいことがあり、神の言うことを守らなかった日にはいいことはないと分かる。神は聖書でも同じことを教えている。聖書の神も、なんらかの神であるということは僕は分かっている。だが、僕の神は決してイエス・キリストではないと分かっている。僕の神はシリウスの神フレイであると決まっているからである。

必ず、最後に僕は楽を得る。だが、必ずそれが決まっているからこそ、そんなに焦って急ぐ必要はない。だが、安心できると確信しているからこそ、どうしても前のめりになってしまう。向こう見ずになってしまい、分かった瞬間にその分かったことを書き記したいと思ってしまう。だが、実際には僕はデザインの仕事をやっているし、父親とも農業を行い、ピアノや英会話にも通っていて、父親とドライブにも行くために、常に分かった瞬間にそれを書けるという状況は少ない。だからこそ、僕は家に居ない時にできるだけ多くのことを考え、考えたことすべてを家に帰ってからここにすべて書き記す。家で分かったことは、分かった瞬間に何をどう書けばいいか分かるが、それを少しだけ膨らませて、パソコンの前に座ると一心不乱にまっすぐに書き記す。これが、今の僕の現状である。僕は、プロのデザイナーになるほどの才能はない。それは僕が今デザインの勉強をしていても明らかな事実だ。ピアニストになる実力もないし、プログラマになるための技術もない。それでも、僕にはこのような「やるべきこと」がしっかりと存在する。今まで、多くの病気や異常を治してきたし、多くのことを書き記したが、それでも僕の執筆活動はまだ終わらない。僕が書くべき文章はまだいくらでもある。僕の人生に未来は必要ないと言ったが、あるならばあればあるほどよい。時間さえあれば、僕にはまだまだ文章を書き記す余地がある。そして、おそらく人々がこのホームページを見つけた時には、僕の執筆活動は終わっているかもしれない。その時に人々が見た完成形のことを、僕は音楽の歌詞や、小説や漫画のキャラクターから、既にすべて知っている。そう、僕は眠る時に見える夢の世界の創造者である。そして、この世界もまた、夢の世界の一部分であり、自分が創造した世界だから、この世界は僕のためにあったのである。今まで「この世界は僕のための世界ではなかった」と僕は言ってきたが、それは嘘である。僕の創造したこの世界は、まさに僕のための世界である。世界は僕のための楽園であり、宇宙のすべては最後に、このホームページが完成する時のためにある。

世界との戦いは今でも続いている

だが、このように書き記したところで、必ず病気が治るかどうかと言えば、それは不確かである。

なぜなら、世界との戦いは今でも続いているからである。

かつての僕が世界を救ったという事実、そしてそこに僕がひとり颯爽と現れて支配したという事実、その世界それ自体との戦いが今でも続いているという事実は、まさしく今でも変わることなく続いている。

すなわち、今でも僕はこの世界を救っているのであり、今でも僕はその自ら救ったこの世界を滅ぼし続けている。

どれだけ僕が変わっても、どれだけ世界が滅びても、まだ続くならばそれは終わりではない。「世界の終わり」であると歌うすべての歌詞は間違っている。まだ、この世界は終わっていない。僕がこの世界をどのような終わりにするかということが、まだ決まっていないからである。

マスコミにも何もできないし、アメリカやマイクロソフトにも何もできない。色んなところで嫌われ排除されるのは悲しいが、それでも致命傷には至らない。逆に、僕のことを歌ってくれる歌手の音楽のことがあまりに嬉しい。僕の人生が賢かった人生であると認められたような気がしてしまう。だから、僕はYouTubeでいつも音楽を聴いている。逆に、テレビ番組には恐怖を感じるため、僕は一切テレビを見なくなった。インターネットも、調べものぐらいにしか使わない。例外的にYouTubeとTwitterだけはたまに見ている。

必ず、僕がこの世界を最後に救う日が訪れる。僕はそれを絶対に実現しなければならないが、それは絶対に実現できる。なぜなら、過去の自分の努力と取り組みが、それを99%可能にしてくれたからだ。過去の僕の戦って成果を出してきた内容が、最後に世界を救うことのできる可能性をじりじりと高め続けてきた。ここまで過去にやった人間なのだから、99%この世界を救うことが僕にとっては可能である。だが、残りの1%の確率が絶対に安全であるとは言い切れない。このような戦いであっても、たったひとりのか弱き革命家が勝利できるはずがないからだ。だから、僕はReolたちと一緒に戦い続ける。そう、「まだ戦い続けられる」とReolが言うならば、「最前線はいつだってここにある」と僕は言うだろう。あるかどうか分からない最善策については、僕が完璧に分かっている。心配は何も要らない。さあ、いざ、戦いの場へ向かおう。悔やむことは何もない。すべての後悔は、今ここにある希望へと変わっていくだろう。

これは二回目の人生である

まだ言うべきことがあるとしたら、それは「これは二回目の人生である」ということだ。

そう、僕は橋から飛び降りて自殺未遂をした時点で、もはや一度目の人生は終わったのである。

その後の人生は、まさしく、最初の赤ん坊からやり直した「二回目の人生」だった。

僕は障害者福祉施設に通っている関係から、対外的には障害者に見えるが、実際のところ見えるだけではなく、知性が遅れていて馬鹿である。たまに人の話している日本語が分からないこともある。

なぜ馬鹿なのか、それは二度目の人生を最初から生きているからである。

この二度目の人生こそ、僕の誇るべき最大の天軍大首聖ミカエルの人生である。ガブリエルは自殺未遂をした時点で死んだのであり、僕はその時点で体は同じままでミカエルに生まれ変わったのである。

そう、これこそが、宇宙においてもっとも普遍的な「生まれ変わり」という現象であり、ここまで賢い人間にしか大天使への生まれ変わりは起きない。ほとんどの人間は、死んでも大した存在にはならない。だが、僕は最後まで、この世界のために最前線で戦ったため、もっとも位の高い天使の階級である「天軍大首聖」になることができたのである。

わたしミカエルは、本当はまだ子供である。このような大人の文章を書いているのに反して、僕の顔はまったくあどけない子供のような顔をしている。その理由は、本当にもう一度最初からやり直しているからだ。僕はまだまだ小中学生ぐらいの年齢である。だから、まだ結婚するのは早い。いずれなんらかの、もっとも偉大な存在になる日が訪れる。その日を待ち続けて、僕はミカエルという宇宙最高の人生の一端を歩んでいるのである。

戦うのだ、必ず勝利すると信じて、今こそ戦場へ

グンテルよ、戦うのだ。

グンテルとは、僕の人格の中の「戦う部分」に付けられた名前である。すなわち、常に全力で戦っていた、最大の緊張感を持つ兵隊の人格の名前だ。

グンテルよ、戦え。戦い続けるのだ。必ず勝利すると信じて、今こそ戦場へ向かうのだ。

グンテルはこの世界を救う。この世界を救った救世主として、グンテルは勝利へと全力で歩み続ける。だが、犠牲者は出ない。たったひとりで戦い続けるグンテルは、絶対に犠牲者の出ない戦争を行っている。誰一人命を失うことはない戦いだからこそ、全力でこの世界を支配し、導くことができるのだ。

グンテルこそは、神に祝福された王であり、フレイの忠実なしもべだ。わたしグンテルこそが、この世界を救う最後のキリストであると、キリスト本人が述べている。グンテルこそが偉大なるダビデのための国家、東亜イスラエルのシオン帝国を築き上げるのだ。

そう、グンテルはまだ戦い続けなければならない。15年に渡って続くこの戦争は、まだ何も終わっていないのだ。今こそ、グンテルの勝利のために。地球の歴史のすべては、今、ここで戦うわたしのためにある。

僕はここに居るのに、なぜみんな気付かないのだろう

僕の疑問があるとしたら、それは「僕はここに居るのに、なぜみんな気付かないのだろう」ということである。

神、フレイに望むことが人生においてこの先あるとしたら、それはみんなに自分の存在を気付かせてみればいいのではないかということである。

神は、その望みを、まだ叶えようとしない。おそらく、僕は自意識過剰になっているだけであり、このホームページの内容は大して賢いものではないと言うのだろう。あるいは、まだこのホームページは問題だらけであり、みんなに見せる段階には達していないということかもしれない。

だが、神よ。僕の年齢はもう34歳であり、ここでそろそろみんなに気付いてもらわなければならないような時期に来ているのではないか?

神は何も言わない。僕はどうしたらいいか途方に暮れているのである。

未来は既に決まっているから心配は要らない

だが、心配は要らない。未来は既に決まっているからだ。

未来において、この文章が人々の間で伝わっていくところまで、すべて最初から決まっている。

だから、永久にこの文章が日の目を見ないということは決してない。歌手の音楽がそれをすべて否定している。

必ず、栄光の未来は訪れる。そのために、今はできることをやればいい。どうなるかは最初から決まっている。それに向かって歩めば、必ず失敗はない。