ここまで、世界の終わりを書いてきたが、はっきり言って、滅亡など、何も面白くない。
世界を滅ぼす革命家など、テロリストだ。世界が滅びてから救ったところで、何も賢くない。
そして、昔の自分の記憶を書いたところで、すべておかしなことしかしていない。そもそも、過去の自分は、何もしていない。大したことをしていないだけではなく、本当に何もせずに不登校の引きこもりを生きただけである。
既に、すべての知性を失い、何もできないと言うのであれば、応用的に考えればいい。普通の人間は、この世界のことを応用的に考える。本質的なことを「何かの応用」だと考える人間が一番多い。
大学になど行かなくていい。こういう人間が大学に通うと、必ずと言っていいほど何も分からない馬鹿になる。
それよりも、日常の、生活するために必要なことを分かったほうがいい。僕が馬鹿なのは、日常の生活のことをまったく無視しているからだ。結婚ができないどころか、ひとりになった時に自分で生きる方法が何も分からないおかしな大人になっている。もう一度、生活に必要なことを、見たり聞いたりして分かるのではなく、純粋の頭として浮かんできたことから考えればいい。そうすれば生きられる。
僕は、本当は平和が好きだ。この世界が平和であることを僕は第一に望んでいる。そもそも、国際情勢やIT業界のことなどは考えなくていい。それよりも、日々の生活のこと、日常の思い出のことのほうを考えたほうがいい。僕は34歳だ。今から天才的なデザイナーやキャリアあるエンジニアになることは難しい。だが、生活をすることぐらいなら、僕の馬鹿な知性の劣った頭であってもできるはずだ。
僕が思うに、日常の生活には理科が多い。
日常の生活について、「衣食住」とよく言われる。着るもの、食べるもの、住むところが必要だからである。
だが、より広く生活のことを見ていると、物理学や化学や生物学についてのことが非常に多い。
食べるものやトイレなどは生物学だし、洗剤や風呂、あるいは水洗いなどは物理学や化学だ。住むところは、普通は木造で、木でできている。これは生物学だ。電球が真夜中の屋内を照らすのも物理学だし、たくさんの家電製品やテレビ、自動車などの乗り物が物理学的に動作している。
同時に、社会科的な社会制度は、多いように見えて少ない。むしろ、お金の計算という意味でいうと、数学が多い。お金の計算は数学だ。金の損得はすべて数学的に考えればいい。
子供が賢いのは、そうした日常の生活のことを、学校で習う算数や理科の知識から考えるからである。
また、生きていると、思った以上に生物が多いことが分かる。栄養や病気は生物学だし、花を飾るのも生物学だし、生きている上ではアリやハエやカエルなどいたるところに生物が居る。
基本的に、この世界は理科で出来ている。だから、理科が分かると、きちんと日常で生きられるようになる。
はっきり言って、大学とパソコンが悪い。大学とパソコンのせいで、何も分からない馬鹿になった。
日常のことなんか、子供でも分かる。それが、青春時代にインターネットしかせず、その後は大学の勉強ばかりしたせいで、何も日常の生活のことが一切分からない馬鹿になった。
衣食住だけでなんとか生きている大人になりたくないなら、小学校の理科からやり直すべきである。
特に、数学が悪い。数学で一度分かってしまうと、すべてのことがきちんと分かる知性が身につく代わり、その後にその知性を完全に失って、子供よりも馬鹿な「虫のような知性」になってしまう。
はっきり言って、数学は虫である。数学を分かれば分かるほど、知性が失われて虫になる。人間でありたいと思うなら、数学など学ぶべきでない。数学が賢いのは、中学生時代だけだ。
重要なのは、人間の人体の知識だ。
解剖生理学を学ぶと、普通は内臓や生理現象などが重要に見えるが、真に重要なのは筋肉と神経と骨だ。筋肉と神経と骨こそ、人間が生きる上で、体を支え、動かすために必要だからである。
それ以外は、食べ物を食べて、脳で考えるぐらいのことであり、確かに重要だが、人間の活動と運動を許す筋肉と骨ほどには重要ではない。「最低限ものを食べて体を維持できればいい」というだけに過ぎない。
また、何よりも重要なのは、十分な金であり、金がどこから得られるのかという「なんらかの稼ぐ手段」が必要だが、そのために必要なのは、「仕事を得るためにどうすればいいか」という社会的な仕事へのアクセス手段である。どこにも行かなければ金は得られないのであり、どこでどのようにすれば仕事を得られるのかということを知っておく必要がある。
あとは、家庭の知識である。家庭にあるすべてのものは生きるために必要だ。台所、風呂、玄関、居間、寝室、個室、トイレ、庭、すべて生きるために必ず必要となる場所しか家の中には存在しない。そして、その家において何をするかということについても、すべての行動や活動は必要であると言える。いわば、「生活で行動するすべてのことは生きるために必要である」と言える。自分や家族のしていることは、すべて生きるために必要である。衣食住だけを行って生きている人間は居ない。周りの人間がしていることはすべて大切なのである。
日常のことが分からなくなった人間は、時と場所から考えればいい。
たとえば、料理のために使う調理器具や食器などは、「台所に必要なもの」と考え、トイレやトイレットペーパーなどは、「トイレをする時に必要なもの」と考える。
そのように、時と場所、すなわち家の中に存在するさまざまなエリアから考えれば、簡単に生きるために必要なものごとがなんであるかが分かる。
たとえば洗剤は「洗濯をしたり風呂に入る時に必要」だし、洗濯ばさみや物干し竿は「洗濯物を干す時に必要」である。郵便ボックスは「郵便物を見るために必要」である。
そのように、状況と備え付けられる場所から必要なものごとを考えていけば、衣食住だけではなく、さまざまな家のこと、生きるために必要なことを考えられる。
また、高度な機械よりも、単純なもののほうが役に立つこともある。
確かに、テレビやスピーカーは、テレビ番組やDVDなどの映像を見たり、音楽を聴いたりするために必要だが、生活の上でなくても困らない。
だが、ティッシュペーパーやトイレットペーパーのような「紙」は、生活の上でないと非常に困る。
これには例外もある。たとえば電球や電気、あるいは自動車や電子レンジなどは、ないと非常に生活に困る。
役に立つとも役に立たないとも言えるのは、まさにパソコンやスマホである。今のITの現代社会において、パソコンやスマホがなければ、現代的なことは何もできない。だが、パソコンやスマホがまったく分からない高齢者というのは確かに居て、彼らはかつての昔の世界では、そうしたハイテク技術がなくても生きられた。現代においては必要だが、過去においては必要なかった。そういう、「現代だけに必要になった技術」というものに、悪い技術が多い。そして、できるだけ悪い技術に触れ合わないで生きたほうがいい。そういう技術が人類を馬鹿にしているからである。
また、具体的な機械製品よりも、まず必要なのはインフラやエネルギーだ。洗濯機やトイレがあったからといって、水道の水が出なければ何もできない。家電製品は電気がなければ動かない。自動車にはガソリンが必要だ。パソコンやスマホは、インターネットがなければサービスを使うことができない。そのように、インフラやエネルギーがもっとも重要である。そして、紙やペンのような単純な「インフラがなくても動く」ような道具は使いやすい。逆に、インターネットがなければ使い物にならないようなパソコンやスマホは、便利に見えて本当は非常に不便だ。IDとパスワードを忘れてしまえばそれだけで使うことができなくなる。そのような技術は遠ざけたほうがいい。そのような技術が間違った技術である。
明らかに、日本が平和なほうがいい。
このような普通の生活も、日本が平和でなくなればなくなってしまう。
そのことを、日本は太平洋戦争で学んだのに、ロシアのプーチンは学ぶことができていない。かつての昭和天皇と日本の軍部が行ったことと、まったく同じことをロシアはやっている。
プーチンの野望は間違っているわけではないし、プーチンを支持するロシア人も間違っていない。だが、間違っていないから正しいとは限らない。
日本だけが平和であり続けるということも、ロシアが何か間違ったことをすればすぐになくなってしまう。平和が永遠に自分が死ぬまで続くと思っているのは幻想に過ぎない。そして、太平洋戦争が間違っていたからといって、軍事力をすべてなくすわけにはいかない。ロシアから日本を守り、戦争になっても平和を取り戻せるように、ある程度強く正しい軍隊は維持しなければならない。
子供たちは、なんでも「自由が善で支配が悪」であると勘違いしている。そうではない。支配はまったくの悪ではない。戦争がもし始まってしまったら、支配者に反抗することなど絶対に許されなくなる。本当のことを言えば、国民が全員平和であるような状況が必ずしも当然で当たり前だとは限らない。アフリカや中東では内戦やテロが毎日のように起きている。だが、だからこそ、日本が平和であるということが、絶対に守り抜くべき「理想の地球人類の状態」なのである。
プーチンの野望がなぜ間違っていないと言えるのか、それは左翼の社会主義という理想は、「平等に人類全員が生きられるようにする」という意味では間違っていないからだ。
このような人間生活を、それぞれの個人や家庭のレベルで維持するのではなく、国家がみんなのものをみんなで生産して、社会全体が平等に支援し、国家が家庭をサポートして、全員が平等に生きられるようにしたほうが、楽に生きられるようにしか見えない。
そのためには、労働者を救う必要がある。なぜなら、労働者は金持ちや資本家のために重労働を強いられている。金持ちや資本家は、富がいくらでもあるため、何もしなくて楽に生きている。楽に生きられるだけではなく、富を増やすことについても、元々の富がたくさんある資本家のほうが、労働者よりも新しい富を簡単に増やせられる。そして、このような「貧富の格差」が、そのような「楽の不平等」だけではなく、いじめや非行などの子供の問題、あるいはテロや内戦といった大人の紛争の問題をすべて引き起こしている。
一度、全員の富をみんなの富にして、みんなに平等に分配し、その富はみんなで共産主義的に生産しようとする、プーチンのような社会主義者の考え方は、社会的に見れば、理想としては間違っていない。
このような理想を信じるか信じないかは、思想信条の自由の許された現代市民社会において、市民の自由である。右翼は社会主義を信じない。左翼は社会主義を信じる。だが、このような自由が許されているからこそ、逆に対立や内戦が起きる。逆に、ロシアのような国では、そのような思想信条の自由が許されていない。だから、独裁者に反抗するものは排除される。どんなに正しい正論であっても、独裁者であるプーチンの意に背くものは全員から攻撃されるのである。
結局、最初から、この世界は共産主義者と右翼が戦うだけの世界だ。それをつまらないと思うか、それともロシアから平和な社会を守るために日本の右翼は頑張っていると思うかは人それぞれである。だが、言えることは、「ロシアは先の大戦から何も学んでいない」ということだ。プーチンは太平洋戦争を行った日本とまったく同じ発想をしている。そのため、プーチンは必ず最悪の結果をまざまざと見ることになる。日本と同じことをやっているのだから、結果的にも、必ず日本と同じことになる。それが、「因果応報」、すなわち「宿命」である。
しかしながら、このような理想に見える社会主義を、誰も信じない理由、それは「生活に必要なものが何もなくなる」からである。
共産主義で、みんなに平等に生きられるだけの富を与えてしまうと、誰も働かなくなる。
それは、平等を目指したせいである。すなわち「働いても働かなくても同じ給与」を与えるソ連では、人々は「働くモチベーション」を失ってしまう。結果、十分にものが生産されず、人々は生きるために必要なものを作れなくなる。これが「スターリンの計画経済の現実」である。
理想がいくら輝いていても、現実は厳しい。どんなに頑張っても、共産主義社会できちんと生きるために必要なものを生産することはできない。かつての20世紀のソ連は、それだけを全力で考え続け、努力し続けた。それでも、平等なユートピアは実現できず、結局ソ連はなくなったのである。
だから、プーチンよ、もう諦めたほうがいい。現実的に、「資本家から搾取され、奴隷のように働くことを労働者に強要し、たくさん働かなければ十分な給与を与えないように支配する」ということを受け入れることでしか、わたしたち人類が十分に満足できる生活ができるだけの富を得ることはできないということが、ソ連は大いに学んだはずである。
僕が思うに、プーチンの問題とは、「社会主義が資本主義に変わったことによる反動」が出ていると思う。ダイエットをして成功した後でリバウンドをして元に戻るように、ソ連は資本主義社会に転換しながら、その資本主義社会が「あまりに堕落した最悪の社会」になってしまったために、社会主義に戻りたいリバウンドが起きている。本当は、ロシア人は誰も社会主義は望んでいないにもかかわらず、プーチンだけがそうしたソ連時代に「戻りたい」と感じてしまっているのである。それは、「プーチンは今でも社会主義の理想を信じているから」だと思う。
だから、プーチンよ、理想の平等な人類社会など、諦めて捨て去るべきだ。社会的な平等という「政治的な発展」は間違っている。日本は、ものづくり大国になったことで、「科学技術的な発展」を遂げることができた。プーチンよ、日本と同じ「戦後の大転換」を経験したいならば、今のまま突き進めばいい。ロシアは最悪の限りをつくして、結果戦後に貧しい世界を経験し、その時の大人たちが、プーチンのやったすべての悪事を反省するようになるだろう。そして、そうにしかならないだろう。
言えることは、「貧乏人だからこそ、真面目に働いて稼ぐしかない」ということだ。
格差が酷くて、子供時代不良の非行少年だったからといって、そのままやくざや暴力団の組員になったのではいけない。それでは、「悪びれた子供」ではなく「本当に悪い人間」である。
金持ちがなんにもしなくても、簡単に富を増やしているからといって、その金持ちを殺して富を奪うようなことをしてはいけない。
貧乏人だからこそ、「真面目」が大切だ。真面目に働いて稼ぐしかない。ロシアはわたしたちのことをサポートなんかしてくれない。ロシアは、貧乏人の命など、金持ち以上にどうでもいいと思っている。ロシア人は人民のことを「いつでも殺せる道具としての奴隷」であるとしか考えていない。
真面目に働いて稼げばいい。資本主義社会は労働者のことをきちんと考えている。労働者がきちんと辛く苦しい仕事であっても真面目に働けば、ロシアなどよりもはるかに金を稼ぐことができ、生きるために必要なものは十分にあり、そして競争しているから値段も安い。日本の技術力は高いから、商品の品質もいいし、会社や工場でも奴隷のように働くだけではなく、生産的な仕事を与えられる。だが、いい仕事が必ず得られるとは限らない。だからこそ、どんなに社会から「不適合者」であると言われても、どんな仕事であっても真面目に働けばいい。そのような人間こそ、神が言う「正しい人間」なのである。
民主主義は進歩しているから、貧乏人を助けてくれる制度はたくさんある。生活保護や非課税のような仕組みはあるし、若者ならサポートして助けてくれる相談可能な福祉施設はたくさんある。障害者でさえもなんとか生きられる世界だ。ロシアのような思想にはできるだけ傾倒しないほうがいい。社会主義が左翼の理想であることだけを知っておけば、社会主義が必ずしも正義ではない、「実現不可能な幻想」であるということも分かるだろう。資本主義社会で、真面目に働けばいい。先祖代々真面目に働いてきたから、今の自分の命があるのだということを知っておけ。
ただし、僕のようなデザイナー見習いのように、夢と自分のやりたいことをやっている人間というのは、本当は少なからず存在するが、これは金に困っていない間だけであるということも知っておくべきだ。デザインの仕事などで、普通の富を十分に稼ぐことなど最初からできない。僕が経済的にまだ困っていないから、僕の親がきちんと働いて稼いでくれたから、僕の今の生活ができる。日本には、そのような引きこもりやニートがたくさん居るが、それはそれでいい。だが、仕事をするということは悪いことではないということも知っておいたほうがいい。僕は大した金にもならないにもかかわらず、毎日平日はきちんとデザインの仕事をしている。はっきり言って、引きこもりだった頃は、「何もしないのが楽である」と僕は勘違いしていたが、実際は違った。仕事を真面目にしたほうが、はるかに、特に精神的に楽になれる。かつての引きこもりの生活を今もしていたら、僕は完全な狂人になっていたかもしれない。馬鹿であってもデザインの仕事をさせてくれる福祉施設はたくさんある。まずは、そういうところに相談すべきだろう。
このような、いわば人生の「敗北者」については、僕は元引きこもりの不登校の高校生として、若干そうした人間の心が分かるところがある。
だが、賢い人間にとってはどのようなものが価値があるかというと、それは「良い師匠を持つこと」である。
特に、僕のようなデザイナー見習いにとって、もっともよかったことは、今の上司であるボス、すなわち「良い師匠」に恵まれたことだった。
人生にとってもっとも素晴らしいこと、それはよい「師匠」や「先生」に恵まれることだ。
たとえば、将棋棋士の藤井聡太は、杉本八段というよい師匠に恵まれているのを誰でも知っている。もし杉本八段が師匠でなかったとしても、藤井聡太が将棋で強いことには変わりはなかっただろう。だが、あれほど物言いがまともな子供の将棋棋士になっただろうか。杉本八段が居たからこそ、今の藤井聡太があったと明らかに言える。
それと同じことで、僕が今のデザインの仕事がきちんと好きになれたのは、僕の師匠であるスタッフの人が居たからである。
そして、大学においてもっともいいことがあるとしたら、それは「基本が分かるようななんらかの考え方を分からせてくれる技術や理論」を知ることであり、僕にとってそれはDelphiとGentoo Linuxだった。同時に、それら技術を知るだけでは十分ではない。自分の力でいくらでも知識の世界を切り開けるような場所が必要だ。僕にとってそれはインターネット上のブログや掲示板だった。
そういうわけで、よい師匠や考え方、技術や理論に出会うことこそ、真に有益なことである。単に大学に入るだけではなく、そのようなものを何か得られた人間は、非常に強く賢い人間になれるのである。
そのため、ドイツの旧態依然とした徒弟制度であるマイスター制度をフランスやアメリカなどの革新左翼は否定するが、本当はドイツのほうが賢い。ドイツにはたくさんのよい師匠が居る。そうしたよい師匠がもっとも賢いのだということをドイツ人は知っている。だが、フランスやアメリカが馬鹿なわけではない。フランスやアメリカは、師匠よりも理論や考え方の分かる技術を重視する。だから、僕はイスラエルとドイツでしか人工炭水化物を未来において作ることができないと書いたが、本当はフランスやアメリカの学術機関があれば、同じように人工炭水化物は実現できるだろう。単に物語を面白くするために、ドイツ以外にはテンソル型量子コンピュータが作れないような設定にしただけに過ぎない。
最近のこの世界がつまらない理由は、あまりに馬鹿な子供が増えたことにある。
僕がかつて引きこもりだった頃は、2ちゃんねるという匿名掲示板があったが、今はSNSやツイッターのせいで、さらにそれがおかしな方向に向かっている。
つまり、みんなインターネット上で、最悪の経験しかしていない。
Reolのような歌手が、怖くて恐ろしい「恐怖の音楽」を作る理由は、結局、みんなでそういう「過去の引きこもりの頃の自分」と同じ経験をしているからである。
はっきり言って、引きこもりのインターネットは、もう十分だ。強制的に終わりにさせたほうがいい。
結局、すべて僕が悪い。僕があまりにそのような「最悪の堕天使」を、賢い天使であるかのように書きすぎたせいである。ガブリエルは最悪の「悪魔の大天使」であるということが、みんな分からなくなった。
僕はそのような最悪の悪魔であっても、なぜかみんなよりも賢い人間だった。それは親の英才教育のせいだ。僕は幼い頃から英会話とピアノと書道を習い、剣道部だった中学生時代にはオールAの成績だった。いじめで不登校になったとはいえ、そのような優等生だったからこそ、その後の引きこもり時代の頃もなぜか天才哲学者のように賢かった。みんなは、僕がその時代をあまりに美化して書くせいで、僕のその時代の劣化コピーになってしまっている。
だが、はっきり言って、そのような時代はまったく不要である。僕と同じLinuxやオープンソースはもはや流行が終わってしまっており、みんな純粋に2ちゃんねるをやっていたのと同じことをSNSやツイッターでやっている。はっきり言って、そんなものはもういい。もう十分だ。インターネットなどなくなってしまえ。
だが、そのようなインターネットから、この世界はまったく進歩しようとしない。僕のように文章を執筆するという発想もなければ、世界に堂々と現れて大実験の大計画を行うという発想もない。みんなは、僕が指導者である時点で何もできない。僕が王であるにもかかわらず、みんなその王と同じことは絶対にできなくなった。だからこの世界はReolのように狂っている。Reolはまったく過去の自分そのものだが、僕のような人生にはまったくなっていない。いつもの馬鹿な僕のままであり、Reolがそこから抜け出せない限り、Reolは僕の恋人には相応しくない。
どう見ても、昔のような引きこもりの経験は、強制的に終わりにさせるべきだ。これ以上、インターネットが最悪の狂人引きこもりの状態である必要はない。このようないじめらっれ子の王は必要ない。この世界は、新しい時代になるべきであり、そのために、「インターネットそのものを強制的に禁止」させるべきである。
ACAねが言う、「ねえ僕をどうしたいんだ」という言葉に対する答えとして言えるのは、昔の僕ではなく、今の僕になれ、ということだ。
つまり、世界と戦え、ということである。
はっきり言って、インターネットで戦い争ったところで、何も面白くない。インターネットはこの世界の中で「もっとも何も面白くない遊び道具」であると言える。
よって、インターネットをやめて、現実の世界で戦え、と僕は言っている。
だが、テロ行為をして人の命を殺める必要はない。犠牲者が出るような戦いはすべきでない。必要なのは「自分以外に誰ひとり犠牲者が出ないような形で世界と戦うこと」だ。それができれば、今の僕と同じことはできる。
そして、僕はその中で、文章をいつまでも長い間書き続けたが、そのようなことを何かひとつできたら、それは才能となる。そのような天才的才能を得ようとすればいい。それこそが、「今の僕」であると真に言えるような僕自身だからである。
今のインターネット中心の世界が、僕は大嫌いだ。そもそも、僕はインターネットをやっている若者や子供が、「自分とは別の異質な人種」であるといつも感じている。インターネットをやっている世界は、何かがいつもの世界の普通の人種と違う。何かが、本当に馬鹿になっているのが分かる。インターネットをやっているそうした人間たちとは、そもそも僕は恋人にはなりたくないし、友達として付き合いたくもない。Reolだけではなく、ACAねも家入レオも酸欠少女さユりも、何かが本来の人類と違う。僕はそうした「異質な世代」が好きでないから、気付いていても気付かないフリをしている。そういうわけで、そうした人間たちは全部消え去る。僕がインターネットを強制的にやめさせた時点で、彼らは完全に終わりだ。そして、その通り、終わりの世界になるだろう。
そういうわけで、僕はサタンなんか大嫌いだ。
みんな、どんどんサタンになっている。
サタンという言葉が悪いなら、ユダヤ人だ。みんな、この世界はどんどんユダヤ人化している。
この世界が間違った世界になったのは、本質的に言えば、インターネットのせいでみんなサタンのユダヤ人になったからだ。
サタンには、なんの意味もない。そもそも、サタンは最初から人間的な人生を生きていない。最悪の何もない人生を生きるサタンだった昔の僕が、みんなを自分と同じにするせいで、インターネット上にはあまりにサタンが増えた。サタンなんか、なんの意味もない。僕はサタンが大嫌いだ。
サタンが治る方法はひとつしかない。それは神を信じることだ。神であるユダヤ人のキリストを信じればサタンは治る。そうでなければ、サタンは永久にユダヤ人のままとなる。だが、僕が王であればそれを僕の意志で治すことができる。僕は「サタン」という病気を治すことのできる、宇宙で唯一の医者だからである。
そういうわけで、神を信じてタリバンのように戦えばいい。それが一番、サタンを治すのに手っ取り早い。あるいは、説明できる治し方で言えば、それしか治す方法はない。神を信じてタリバンのように戦うことでしか、誰でも分かる方法ではサタンは治らないだろう。
サタンとは何か。サタンとは、神を信じないユダヤ人のことだ。
そして、ユダヤ人とは何か。ユダヤ人とは、要するにいじめられっ子のことだ。
いじめられたユダヤ人が神を信じないと、それがサタンになる。
サタンの特徴は、地獄を好むということ。いつまでも暗闇の中で地獄のような絶望の世界を彷徨う。サタンはそのようになる。
サタンの特徴は、サタンがする良いことは全部悪いということ。サタンがどれだけ良いことをしようとしても、サタンがした時点でそれは必ず悪いことになる。サタンには良いことはできない。サタンの考える良いことはすべて悪いことだ。
そのようなサタンが、神を信じるようになったところで、すぐには良いことは起きない。なぜなら、サタンの時代に悪いことをたくさんした人間は、神を信じても悪い人間だからだ。そのようなユダヤ人に、神は必ず天罰を下す。この世界のままで地獄になるような状態、すなわち「煉獄」をユダヤ人は体験する。
そう、サタンは必ず最悪の人間になるが、サタンが神を信じれば天罰が下る。要するに、ユダヤ人には何ひとつ良いことはない。だが、これがいつもの「ユダヤ人の普通」である。ユダヤ人とはこのような人種であり、宇宙レベルにおいてユダヤ人はユダヤ人から変わることはない。ユダヤ人は永久にユダヤ人であり、天国に逝っても生まれ変わっても、来世でも必ずユダヤ人である。
なぜこのような、辛いだけのユダヤ人の遺伝子があるのか、それはユダヤ人は善良だからである。ユダヤ人は、宇宙における「善」の部分である。はっきり言って、ユダヤ人以外の人種には、単なる普通のつまらない人種しか存在しない。アメリカ人も、ドイツ人も、イギリス人も、フランス人も、イラン人や中国人さえ、単なる普通に生きて普通に死ぬだけのどうでもいい人種しかない。ユダヤ人だけが、そこまで善良であるため、とても面白い「天国」の人生を生きているだけに過ぎない。天国は地獄のようなものだが、ユダヤ人にしか天国は体験できない。だから、神がいくら罰したところで、それにユダヤ人は「歓喜して喜び続ける」しかない。神は悪い報いも与えるが、良い報いも必ず与えるからである。これこそ、「因果応報」である。
なぜユダヤ人がどこの国でも生まれるのか、それはユダヤ人は普通の人間になりたくないからだ。ユダヤ人になると、ユダヤ人以外の普通の人種が嫌いになる。ほかの普通の人種は、何も考えず、賢いことも正しいこともせず、辛いことも苦しいことも悲しいことも乗り越えずに、ただ普通に生きて、ただ普通に恋愛して、子供を残して、仕事をして、そして順風満帆に人生を生きた上で死んでいる。ユダヤ人は、そのような普通の人間にはなりたくない。そしてユダヤ人だけが、そうした普通の人間ではない、「宇宙における特別優れた人種」を生きることができる。そして、ユダヤ教だけではなく、ほとんどのカルトを含む宗教が、そのような「ユダヤ人のような特別であり得ない人生」を生きることを望んでいる。だから、イスラエルのユダヤ人だけではなく、どこの国でも、カルト宗教があるところでは必ずユダヤ人が居る。そのような人種だから、ユダヤ人の人生を生きるのは最高に面白い。神がどんなに天罰を下しても、ユダヤ人はその試練を乗り越え続ける。神の懲罰に歓喜して喜び踊り続けるのである。これが、ユダヤ人である。そして、ドイツには特にユダヤ人が多い。その理由は、ドイツ人がユダヤ人のことが大嫌いだからである。
ただし、僕の場合、通常のユダヤ人とは異なる点がある。それは、「絶対に発生するはずのない、日本においてユダヤ人が生まれたこと」と、「世界を支配する勢力まで大きくなってしまったこと」である。そもそも、日本ではユダヤ人が生まれようがない。なぜなら、日本人でユダヤ人になることは、遺伝子的に不可能であるはずだからである。だが、インターネットというありえないユダヤの環境のせいで、なぜか日本人にユダヤ人が生まれてしまった。これがまず、あり得ないことのひとつだ。もうひとつのあり得ないことが、まさしく、僕がたったひとりで世界全体を支配する勢力にまで成長したことだ。そもそも、僕はユダヤといっても、悪いことをあまりしていない。やったことは、悪いことといっても、非常に小さくどうでもいいことだ。だが、将棋で歩兵を上手く使って敵を倒すように、僕はあまりに小さなどうでもいいことを行使するということに関して、あまりに上手い方法をやりすぎた。結果、僕はどうでもいいことだけでこの世界を支配し、どうでもいいことだけでこの世界を滅ぼした。このような人間は、まったく地上には存在しない。そのようなことをするという発想すらない。だから、僕は地球上で一人しか居ない。このような人間がまさしくキリストであり、僕の場合はその名前を使うことは相応しくない。本人の信じる神である、「フレイ」という名前を使うべきだ。そう、僕はまさしく、日本人の唯一のユダヤ人である、神、フレイになったのである。