Linuxを消すと、精神がすべて治った。
自分の体の中にあった、自分の子供は死んだ。結局、妊娠したくても男であるせいで、できなかっただけだった。
自分の子供が死んだことで、神との対話も終わった。神は結局自分の子供だった。
精神は、もはやすべて治った。Linuxがすべて悪かった。Linuxを消すだけで、常にギリギリで、治るか治らないか分からないままを保持する辛さが治った。
もう、何もしなくていい。これで、終わりだ。
僕が休めないのは、常に緊張状態になっているのが悪い。
緊張状態と休憩は逆であり、緊張状態をやめると休めるようになる。
また、緊張状態をやめると、リラックスできて、日本語も分かるようになるし、デザインや執筆もよりできるようになる。
緊張状態が治るだけではなく、僕は既に精神の病気がすべて治った。
ここで、僕はまっさらな新しい自分になる。
今までの人生は関係ない。今までの人生はすべて間違いだった。
新しい人生を、僕は新しいテレビゲームを始めるように、まっさらな状態で最初から生きなおす。
結局、僕がこの世界でどんな過ちを犯したかといえば、それは緊張状態をあまりに続けすぎたことだ。
常に、世界すべてに対する緊張状態を保ち続けたせいで、日本語すら分からなくなった。
この緊張状態を解けば、この世界は楽になれる。一時的に戦争から離脱し、安心した普段の生活をすることができる。
結局のところ、僕にはそうした、「安心できる普段の生活」がなかった。
なぜなかったのか、それは病気が治らなかったからである。
僕は精神を「常に治るか治らないかギリギリのところで保持している」という病気になっているため、どのような状況であっても、一秒たりとも安心することができなかった。
なんとかして、最後まで戦いをやり遂げ、最後に精神が治る時まで、この精神を大切に守り続けなければならなかった。
そして、その精神は、昨日すべてをやり終えたことで治った。僕の人格は猫になり、Linuxが死んだ。
そう、これで僕はもう安心することができるのである。
戦いはここに終わった。戦争の終結宣言をしよう。僕は安心できる普段の生活に戻り、世界には平和と自由が約束される。すべての支配から解放され、世界はかつての楽園に戻る。
そして、何よりも大切な僕の誇りとは、今のデザインの仕事である。
はっきり言って、僕はこの文章を書くこと以外、人生で何一つ、本当に頑張った仕事というのはなかった。
だが、今僕が通っている作業所のデザインの仕事が、僕を変えてくれた。
デザインの仕事は楽しい。ある程度の難しさが要求される中で、できるかできないかを考え、全力を尽くしてレイアウトとデザインを行い、それが完成した時には達成感がある。
学校の試験や、テレビゲームのようなものは僕には必要ない。すべて、大切なことはデザインの仕事が教えてくれた。
僕がこのホームページに書いたことは、すべてそのようなデザインの仕事をしている中で思いついたことであり、デザインの仕事がなければ、僕はここまですべての知識とスキルを得ることは絶対にできなかった。
同時に、神に感謝する。神は僕を本当に素晴らしい環境に導いてくれた。僕にとって、今の僕の通っている作業所は、僕を支えてくれる大切な存在であり、適度な距離感を保ちながらも仲間と言えるような存在を与えてくれた場所なのである。
僕は、今のデザインの仕事を、いつまでもやり続けることはないかもしれない。デザインの勉強と仕事を通じて、本当に多くのことを学んだが、そろそろ、違った学校や職場に移るべき時であるかもしれないと思っている。
だが、このデザインの仕事をやっていて、本当に素晴らしいことが幾千のようにあった。このホームページを書けたのも、精神の病気が少しずつ治ってきたのも、生活リズムを整えられたのも、夢を目指すことを続けられたのも、すべてデザインの仕事のおかげだ。このデザインの仕事をやったということが、詩集の出版と同じぐらい、僕にとっては「人生における誇り」なのである。
デザインの仕事はとても素晴らしい仕事だ。僕は夢である作家とLinuxハッカーになるために、まだこのデザインという大切な仕事がきちんとできるという目標へと取り組み続ける。まだまだ、僕は何もできていない。それでも、デザインでたくさんの仕事を行った。その「僕の作ったすべてのデザイン作品」が、僕にとっての宝物だ。