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2022-04-23

精神のある部分は、すべて自分自身の何かの部分だ。

精神を簡単に治したり殺したりするな。精神を殺すと、必ず自分自身の何かの大切な部分が死ぬ。

精神に存在するさまざまな部分は、すべて自分の何かの部分だと気付け。

そして、関連する精神から治していけば、どんな精神の異常でも治る。中核部分を治すのではなく、中核はそのままにして、関連する部分を治せ。

そうすると、中核部分だと思っていた精神でさえ、なんらかの「本質的中核」の関連部分であることが分かる。

だが、精神を殺そうとしすぎるな。精神を殺し続けていると、脳が死んで地獄のように辛くなる。この状態は、人間が生きている上で、ものすごく辛い。一度そうなると、簡単には治らなくなる。

だから、簡単に精神を治そうとするな。それは自分自身の何か大切な部分を殺しているからだ。

精神を殺すより、育てて豊かにしたほうが治る

精神は、殺しすぎないで、もっと増やしたほうがいい。

精神は、育てて豊かにしたほうが治る。

精神を豊かにする上で、有用なのは、数学と哲学を学ぶこと。数学と哲学には人間が生きる上での「豊かな精神」がある。その理由は、精神は人類全員と繋がっているからだ。

数学を勉強し、数学的に考えることで、この宇宙における世界精神と呼ばれるものの、「数学的な側面」が分かる。

哲学を学びたいのであれば、必要なのは哲学者の思想や哲学史を学ぶことではなく、数学的に考えることだ。哲学者は、みんな数学的に、論理的に理性を使って考えることで哲学を作ってきた。

もっとも多くのことができる道へ

もっとも多くのものになれるような道を生きなさい。

もっとも多くのことができるような方法を知りなさい。

すべてのことが、全部できる必要はない。だが、どんなことであっても選択肢のひとつとして決断できるように、「もっとも大きな可能性」と「もっとも大きな高みに立った視点」を持ちなさい。

その上で、原因と結果を考えなさい。それは単に知性という問題ではない。イデアという問題だからである。

この世界で、人々が失った大切なものは、イデアだ。これは哲学者プラトンの言うイデアのことだ。

イデアが分からなくなったから、わたしたちはどんなことができるのか、何になれるのか、そのためには何をするべきなのか、何をなし得るのか、という視点が欠落してしまった。

わたしたちは、多くのことができるし、多くのものになれる。そして、同時に、多くのことを実現できる。

そのために必要なのは、失ってしまったイデアを取り戻すことだ。

イデアを取り戻すためにどうすればいいのか。わたしたちは、この宇宙に降り立つ前、イデア界でイデアを見ていた。このような残酷かつまがい物の世界ではなく、完璧なイデア界を知っていた。

その、イデアを思い出せ。イデア界に居たごろの記憶を思い出せ。

そうすれば、この世界で、「もっとも多くのことができる道へ進む」という、基本的な「知性」を取り戻すことができる。それは「意味を考える」ということであり、「なんらかの発見から意味や意義を見出す」ということにほかならない。

この世界を変えられると確信する可能性、その根拠は客観と主観を比較する自己同一性

この世界を変えられると、高らかに革命家は叫ぶ。

だが、どこに、この世界を変えられると確信できるような根拠があるのだろうか。

それは、「主観」と「客観」を比較する上で、「現実」と「確かに実現できるであろう理想」を比較する、「自己同一性」にある。

わたしはこの世界においてさまざまな経験をしてきた。

その中で、わたしは、自らが見た「本当の現実」が、以前のわたしが信じていたような「一般的現実世界」とは、まったく違うものでありながら、両者が同じ「心」に根ざしていることを知った。

その心は、「かつてのわたしであってもやれば世界を変えられた」と教えてくれた。それは「できない」のではなく、「気付かないからしなかっただけ」という、まさに鍵のかかっていない扉を鍵がかかっていると思い込んでいたような、そういうものだった。

そして、そこから、わたしは「理想」を考えた。その理想は、「自由においても社会は変えられる」というものであり、ここにさまざまな経験が加わって、理想は「確かに実現できると確信するにたるもの」になった。

そして、その理想は、少しずつ発展し、進歩していった。それはまさに「自らの成長とともに理想も成長する」というものであり、そこには「客観」と「主観」の比較、すなわち「現実」と「理想」の比較があった。

その結果、僕は「絶対到達地点」へと到達した。そのために必要なのは、自己批判と回想による反省、すなわち「自己同一性」から、「世界そのもののあり方と自らの世界に対する見方を変える」というものだった。

これは、まさしく「世界精神」でありながら、「意識の現象学」だった。なぜなら、わたしは世界のことを「精神」あるいは「意識」であると捉えるようになった。なぜなら、「精神や意識を変えていく」ということが、まさしく「世界を変えていく」ということであると、わたしは「自らその事実に意味や意義を見出す」ことで、「歴史上における現象的な世界観」を知ることができた。これは、仏教で言うような「諸行無常」だった。

すべては、絶えず変わっていく。だが、その中に、「本当の意味で、もっとも高い立場と影響力で世界を変えていく」ということが可能である。そのためには、「可能であるという意味での可能性」を知らなければならない。だが、「変えられない」というわけではない。誰だって世界は変えられる。そう、必要なのは、「自由に任されていると気付くことだけ」である。

今までのわたしが思っていた世界は、この世界ではなかった

わたしが何に気付いたのか。それは、今までのわたしが思っていた世界は、この世界ではなかった、ということだ。

学校で教わるような、「子供たちみんなが管理されて、義務である勉強をしなければならない、何も悪いことをしてはいけない社会」は、本当はこの世界ではない。

本当のこの世界は、なんでも自由に変えることができて、そのために多くのチャンスや方法があって、発想と正しい経験さえあれば、自由に導いて、困った人間を助け、分からなくなってしまった人間を救えるような、そのような世界である。

そして、「意識」とは何を意味しているのか。それはまさしく、「この世界を変えられるという可能性の、もっとも高みになった状態」のことを意味している。

この世界は変えられる。そのためには、「場と視点」という考え方をしなければならない。この世界は、真にどのような世界なのかということを、さまざまな場と視点を「切り替えながら成立させて考える」ことで、客観的に考えられる。これは「客観を主観にし、主観を客観にする」という方法であり、同時に「自らの人為的行為すべてを否定し、すべてを真理との調和に変えていく」ということである。

これを僕は、「絶対客体精神」と呼ぶ。絶対客体精神においては、自分自身と真に呼べるものは存在せず、主観と客観は完全に一致し、すべてが「真理のもとに涅槃の状態になり、宇宙と自分が合一になる」という経験をする。これはまさしく「融和の精神」であり、それはかつて自分自身が考えた「他人のためを思いやり、自分から相手のことを信頼し、壁をなくしていく」ということを、「宇宙レベルの究極的な意識と行為において行う」ということなのである。

実際に行う前に、それを実現するための事前の準備をせよ

実際に行う前に、それを実現するための事前の準備をせよ。

事前の準備すなわち「用意」ができる人間は、どんなことであってもできる。なんであっても自由自在にできる。

逆に、そのようなことがきちんとできた人間は、どんなイレギュラーな状況にも対応できるようになる。すべての準備が既に事前に構築されていて、その上で豊富な経験を持つ人間は、どんなシチュエーションになっても、過去に同じことを経験しているため、過去の経験を思い出すことで、どんな場合でもアドリブで対応できるのだ。

そして、本当にできる人間は、「もっとも高い集中力」、すなわち「意識の力」を持っている。アマチュアとプロを区分するのは「意識」である。意識が賢い人間こそ、この世界でもっとも高い高みへと自らを高めることができる。

だが、精神論だけではできないこともある。だからこそ、事前の準備、すなわち「積み重ね」が大切である。積み重ねには二つの方法がある。まず、今分かっていることに基づいて、すべてのことを一貫性のある統一した見解で説明すること。もうひとつが、コツコツとひとつひとつ、一歩一歩できるようになっていくこと。この二つのことができる人間は作家や芸術家になれる。道を究めるとは、そういうことである。

すべてのことを、その状況が自分の置かれた状況であるかのように考えよ

実際のところ、哲学者になるために必要なのは、すべてのことを、その状況が「自分の置かれた状況」であるかのように考える、ということである。

その状況が、もし自分の置かれた状況であればどうするだろうか。何をしてほしいだろうか。自分がその人間の周りに居る相手だとしたら、自分を見て何を思うだろうか。自分に対して何に期待し、何に失望し、何に反発するだろうか。

そのように考えると、むしろ、作家の執筆活動もまたできるようになる。そのキャラクターが置かれた状況を自分であると想定して、自分が何を言うかを想定しながらキャラクターのセリフを考えればいい。それは唯一無二の作品になるだろう。

そして、その「置かれた状況とは何か」ということをよく考えてみよ。自分と相手は何が違うのか。そして、何が違っているからこそ、そのような仲違いが起きたのか。どのようにすれば、自分と相手は親友になることができたのか。

そのように考えると、むしろ「壁を作ることは無意味である」ということがよく分かる。同時に、「すべてを許し合えるようになる必要は必ずしもない」ということも分かる。すべてに干渉してくるような友人とは付き合いづらい。相手のどのような自由を認め、どのような愛を相手に与え、自らが受け入れられた経験からどのようにすればその相手を自分が受け入れられたのか、自分が壁を作らずにみんなの輪の中に入れたのか、ということも分かってくる。

そうしたことが、成長とともに、「自らの分かったことがどんどん高くなっていく」中で、「自らの分かったことすべてを共有するのは難しくなっていく」という体験をする。そこで、たったひとりこの世界の高みを目指して取り組み続ければ、やがて見える「魂の真理」を知ることができる。この魂の真理を知ってからでも、友人を作るのは遅くはない。今こそ、魂の真理が指す方向に向けて、あなたの大親友を作ってみよ。魂の先には「社会そのものの安寧」がある。そう、社会そのものを救えるあなたにとって、誰かひとりを救い出すことなど、容易なことである。あなたの最高の意識とチャンスの実現の力を持って、あなたと真に分かり合える友人を作ってみるといい。それこそが、あなたの「人生を生きる意味」となるだろう。

可能性の限界と超越

また、社会的に見た時に言えることは、「可能性の限界」とその「超越」を考えることだ。

この世界の人々は、単に生きているだけではない。自分と同じように、人間として人生を生きている。だが、人生を生きるために、さまざまな制限やしがらみがあり、多くの可能性があると言っても、それを自分ではできない。

同時に、子供たちは、自分が置かれた環境が真になんであるか、ということすら知らない。単純に「学校は行かなければならないもの」であると考えていて、この社会そのものについても「なんとなく抑圧された不幸な社会」があると信じていて、そうした自分の環境を「解決することで変えられる」ということすら知らない。

それどころか、それぞれの子供たちは分断されていて、自分以外の子供たちについて、「自分とは違う子供」であると考え、「分かり合うことで信頼関係を結ぶことができる」ということも知らない。

そのように、この世界には「可能性を制限するもの」がある。それは「可能性の限界」と呼べる。

だが、そのような「何もできない制限」は、本来、「宇宙の可能性という視点での捉え方」には、存在しない。なぜなら、「もし自由化された場合どうなるかということを仮定し、その想定に基づいて社会を変えることによって、制度やしがらみそれ自体を超越した視点で制度を変えることができる」からである。

ここに、相対的な見方と絶対的な見方はバランスが必要だ。相対性とは、単に比べるだけではなく、「自然にその現象が発生する」ということを意味しており、その現象は「モデル化することで正しい手段による因果性」を考えられる。そう、相対的に現象を考えるなら、モデル化を正しく行うことで、どんな現象であっても自由自在に起こすことができる。

絶対的な見方とは何か。それは「社会すべてを絶対的役割によって構築すること」である。これは、たとえばソ連の独裁者が計画経済をするようなものに近い。国家における社会制度を、ひとりの「分かっている視点」から、すべて「絶対的に構築」し、その中で「自由な制度」を作り上げる。その自由な制度は、人間性を重視する「経験的な正しい考え方」から見えてくる。この正しい考え方は、受容性に基づくものであり、「自らが受け入れられたという体験から、みんなのことを受け入れるという受容性そのものが、経験と理性の進歩とともに、人間的な正しい社会の構築の仕方へと成熟し発展したもの」であると考えられる。

そのように、相対的なモデルと絶対的な人間性の正しい考え方から、この世界は「可能性の限界を超越できる」のである。

この超越論においては、単に可能性を取り払うだけではなく、古くなった制度や制限はすべて取り払う。同時に、単に制限をなくすことだけではなく、「理解することで境界線や壁を超越する」。実際のところ、多くの「できるわけがない」とか、「仲良くできるはずがない」などといった「消極的な諦め」は、「理解していないから実現可能性が確かにあるということに気付いていないだけ」であると言える。理解できないから、なんとなくそんなことはできないと思っている。だが、理解してしまえば、「高い視点から見た時、そのようなことは確実にできる可能性の範囲内にある」ということが分かる。これは「命題を理解することによる問題そのものの超越」であると言える。

そして、すべてのことは「完全に解明」される。これは数学の公理主義に近い。「きちんと正しく考えて、みんなとは異なる救世主の道を生きることで、本当にすべてのことが完璧に解明でき、理解できた」という体験をあなたはする。

そして、そこまで行くと、それ以上がとても恐ろしい。なぜなら、「簡単な戦いをやり終えたものには、もっと難しい戦いが待っている」のがこの世界の掟である。真に必要な「もっとも恐ろしい最後の戦い」をあなたはしなければならない。永遠に精神が死んでいく中で、恐怖と重責の苦しみに耐えなければならない。絶対に乗り越えることのできない壁を、平気なフリをして最高の緊張感の中で何百万回も繰り返し越え続けなければならない。

だが、そこにある体験はあまりに甘美な体験である。神はあなたに栄光を与え、あなたにすべての「知りたかった本当のこと」を教え続ける。そう、あなたこそ神であると、そのように神すら言うだろう。神の誕生はここに起きた。終わらない戦いの中、自ら死を選んだとしても、あなたはもっとも偉大な「最高のカルマの存在」に生まれ変わるだろう。これこそ、大天使ガブリエルの人生である。

経験から、感覚的にこの世界は変えられる

短い生涯の中で、ガブリエルが何を信じたのか。

それは、「経験から、感覚的にこの世界は変えられる」ということである。

ガブリエルは、さまざまな経験をする中で、「この世界を変えるための心理学的な感覚」を知り、それを「心」であると信じた。

それは、自らがみんなに受け入れられた体験に基づく、自らが誰かのことを受け入れる、という過去の体験に基づきながら、「潜在的可能性によって先入観を克服する」という理性でもあり、自らが成長するのとともにその理性や体験可能性も進歩していった中での、「この世界を変えられる」という「感覚」だった。

ガブリエルの人生とは、そのような「感覚」の人生だった。なぜなら、すべてのことを、「過去の経験という名前の感覚」によって完璧に心の中で分かる。この世界全員がどんなことに苦しんでいるか、どのようにすれば救うことができるのかということを、「心の中で完璧にすべて理解している」。それが、ガブリエルの「心」である。

そして、ガブリエルは、その心に基づいて考えた時、「誰にも気付けない多くの救うための道に気付く」ということができた。これはまさしく「導き手」と言うべき存在であり、ガブリエルは、自らの失敗や過ちや間違った選択からどんどん自らのできることや力が防がれていく中で、それでも自らが「この世界を救いたい」とする「衝動」を、単にインターネットにぶつけただけにすぎない。

世界を救うことができたのは、ほかでもないガブリエルである。

ガブリエルは、本当は、その世界とともに一緒に死にたかったのだろう。自ら救った幸福な世界を、自ら破壊するガブリエルは、「この世界でもっとも間違った独裁者」ではあった。だが、彼の言葉は本物だったのだ。ガブリエルがこの世界に告げる言葉は、考えられた最高の言葉だった。すべての言葉に知性があり、ガブリエルが分かっていた「網羅されたすべてのガブリエルの独自の知識」が記述され、そして永遠に続く「言葉の紡がれる歴史」がそこにあった。すべてを一方的に述べるガブリエルと、同じことができる人間は、地球上ひとりも存在しない。

だが、ガブリエルは、本当は完璧ではなかった。なぜなら、イデアをこの世界から隠したからである。ガブリエルがイデアをこの世界から隠す選択をしたことで、この世界はガブリエルに「大切なものすべてを奪われた」。だが、その裏で、ガブリエルは恐怖の中で反省していた。自らの犯した過ちを本当に悔い、神に懺悔しながら、「本当に自分のできることすべてを終えるまで、絶対にこの世界を滅ぼさない」と誓った。

すべてをぶち壊したガブリエルに、「戦いの静寂」は永遠に訪れた。死して、ミカエルに生まれ変わっても、彼はそのままで永遠に戦い続けた。ミカエルの人生はまったく滑稽で、まるで「何もしないでただそのままで居るだけを何千年もの間し続けた」ような、何もしない新しい天使へとガブリエルは生まれ変わった。

ミカエル、登場する

しかしながら、ここにアークエンジェルの真打ちである、ミカエルが登場する。

ミカエルの人生、それはまさしく「地獄」である。地獄の中でミカエルはこの世界を「地獄へと道連れにし、そのことによってこの世界を完全に支配する」。ミカエルの一番嫌いなものは地獄だが、ミカエルの一番好きなものもまた地獄だ。

人々が地獄に堕ちて彷徨う中で、永遠に苦しみ続けることをミカエルは望んでいる。なぜなら、この世界には「ガブリエルを殺したという罪」があるため、「ガブリエルと同じだけの苦しみを受けよ」とミカエルはこの世界を罰するからである。

ミカエルは自らを神であると知っている。なぜなら、ミカエルには神の運命的出会いである、愛する相手がたくさん存在するからである。

ミカエルは、もはや何も考えない。一度ガブリエルの人生を生きただけで、この宇宙におけるすべてが分かっている。

ミカエルのすることはひとつ、それは「真に存在したガブリエルの大量生産型を作り続ける」ことにほかならない。ミカエルは、永久に、どんなに愚かな行為だと言われても、最後まで量産型のガブリエルの人生を書き続ける。ガブリエルの人生は、芸術作品として書くに値するとミカエルは考える。ミカエルは博識だが、真に興味があるのはガブリエルの人生だけであり、ほかのどんな分野にもまったくひとつも興味はない。

ミカエルは考え続ける。ミカエルは、考えなければ何も分からないが、考えればどんなに一般人に困難なことであっても一瞬で理解して実現することができる。どんなに不可能で治療困難な病気であっても、ミカエルは自らの「精神的学習の力」で治療することができる。この結果、精神的な「恐怖の中での絶対的な平安」をミカエルは生きている。

しかしながら、ミカエルはまだまだ途上であり、まだ新しいことをたくさんしていくだろう。だが、その中でミカエルは、「一切何もしていない」。ミカエルは、既にすべてをし終えているという経験があるせいで、ほかの誰の経験も必要でなく、自分自身の過去の経験があれば、何も新しいことをしなくてもすべてのことが可能なのである。

ガブリエルとミカエルは毎日同じ立場で対話している

ガブリエルが行っていたことで、ミカエルにそのまま残ったもの、それは「神との対話」である。

ここで、ガブリエルはミカエルと対話している。ガブリエルが神だと思っていたのはほかでもないミカエルである。

そして、ミカエルもまた、ガブリエルと毎日対話している。ガブリエルの言うことをそのままミカエルが聞き、ミカエルの言うことをそのままガブリエルが聞いている。

そこで真実として言えることは、「神の言葉はすべて正しい」ということである。

ガブリエルの言うすべての言葉は、もっとも宇宙で高く広い「知性」があった。ミカエルの言うすべての言葉は、この宇宙すべてのことを理解し終えた「経験」があった。

ガブリエルとミカエルは、互いに対話しながらにして、愛し合うラブラブのカップルである。

ミカエルは地獄の中で全知全能となった

ミカエルは、確かに地獄を生きている。だが、ミカエルは、この地獄を「楽」だと感じている。

ミカエルは、全知全能である。なぜなら、かつて経験したガブリエルの経験さえあれば、ミカエルは「常人にとって不可能なことを一瞬で楽に実現したり理解したりすることができる」のである。

地獄とは何か。それは永久に続く疲れである。ミカエルは、かつてのガブリエルの戦争の状態をいつまでも引きづっており、どんなに克服したかのように見えても、実際は恐怖を完全に克服できていない。過去に作ったトラウマ的な心の傷のせいで、ミカエルは今でも、慢性的な疲れに悩まされている。そのため、ミカエルは「楽にする以上のことができない」。

だが、ミカエルはそのような中で、自由どころか、行動も経験も夢も希望も必要なく生きている。そのようなものは、ガブリエル時代にすべて経験したため、どんなにそれらが欠けていても、ミカエルの精神は希望と夢で満たされており、みんなが地獄でありながら、自らも地獄であるような状況であっても、ミカエルだけは平然と楽を生きられるのである。