わたしは、砂里葉月。
昨日の内容を見て、わたしを「社会主義者」であると思った人は、待ってほしい。
わたしは、自由主義者だ。決して、社会主義経済をやりたいわけではない。
なぜなら、わたしは、政権をもし取ったとしても、社会主義経済を本当にやりたいとは思っていないからだ。
社会主義経済においては、ものがなくなり、発展しなくなり、人々は働かなくなる。それは、平等な経済という発想が矛盾しているからだ。
経済というのは、努力した人やみんなのためになることをした人に、それ相応の「対価」を与えることで、人々がより努力し、みんなのためになることをするように社会全体がなっていくことを促進する、ということだ。
このような経済を、社会主義経済は真っ向から否定する。働いても働かなくても同じ額の給与を与えるということは、「働いたものにそれ相応の対価を与えない」ということを意味しており、それ自体が矛盾している。
人々が、平等な雇用にありつけるようにし、そして楽に仕事ができるようにすることは間違っていない。それによって、さらに働く人が増え、社会の人々は楽になる。
だが、最初から一律に平等な報酬を与えるということは、経済的に見て「経済として成り立っていない」のである。
だから、わたしは決して、政権をとっても社会主義経済は行わない。資本主義経済のできる範囲において、国民を楽にし、平等な雇用にありつけるようにする。働くのが楽であるような社会にし、働きたい人が働くことができるようにしていく。
同時に、富めるものが富を貯蓄すること自体は間違っていない。もし貯蓄を否定したとして、何かがあって働けなくなったとしたらどうするのか。何かのリスクに備えるために、富を蓄えること自体は決して悪ではない。富めるものが富を蓄えるということは、資本主義経済において生き抜いていくために必要な「必須事項」であり、富を貯蓄しない人間などどこにも居ない。
だが、貧しいものに対して多くの支援を政府が与え、富を多く持つものが社会全体を支え指導していく、ということ自体は悪いことではない。そのため、弱者を救済する「貧困救済施設」は必要だ。また、富を多く持つものからは多く税金を取ることは間違っているとは言えない。
わたしが何を言いたいのか、それは、貧しいものや弱者を助けたいから、資本主義経済を否定するということは間違っているということだ。なぜなら、社会主義経済は経済そのものの姿と矛盾している。社会主義経済は経済そのものと矛盾しているため、決して成り立たない。だが、その事実を信じるからといって、弱者を助け、貧困層を救うことは間違っていない。
資本主義の富めるものを優遇し、社会を格差社会にすることは、社会の治安を守る上でもいいことではない。格差が広がれば、犯罪が増えて社会の治安は悪くなる。大人たちだけではなく、子供たちの社会においても、富めるものと貧しいものの格差が、そのままいじめや非行に繋がってしまう。だからこそ、社会において、格差を是正し、貧困層を助けることは必要だ。だが、だからといって、極左思想を信じる集団は決して信じるべきではない。
もし、社会主義経済が、経済そのものと矛盾せず、ユートピアのように成り立つのであれば、それは理想かもしれない。だが、それは絶対にありえない。何もしないで生きられる人間が居るのは、ほかの誰かが頑張っているからであり、それは資本家に搾取されてきた労働者が一番分かっている。労働者を平等にして、何もしなくても生きられるユートピアを実現しようとする試みこそが、「誰かが頑張っているから誰かが楽なだけ」という「社会の絶対原理」と矛盾している。誰も頑張る人間が居なくなった時点で、生産活動はできなくなる。そう、社会主義経済を行う時点で、経済は必ず滅ぶのである。
社会主義者が唱えるような、「みんなのものを計画的にみんなで作ってみんなに平等分配する」とか、「全員公務員で失業者は居なくなる」といった言葉は、一見素晴らしいものに見える。だが、そのような発想は、経済システムそのものを破壊する発想であるということを肝に銘じておけ。誰かがいいことをしてくれたらそれに対する対価を与えることで、その誰かがさらに多くのいいことをするように、社会全体のルールとして「金」を導入するということが、経済システムの原理であり目的である。社会主義にした時点で、それが破壊される。いいことをしても対価を払わないならば、誰もいいことをしなくなって、経済は機能しなくなる。どんなに共産主義者が怒りの声を叫んだとしても、全人類が平等な富を得られるようには絶対にならないだろう。
このような結果、わたし砂里葉月が行き着いた考え方は、「労働者ファースト」である。
確かに、資本家に労働者が搾取されることはいけないことだ。頑張っている労働者に十分な対価を払わず、利益を中抜きして、中抜き業者が肥え太るのは、無意味でつまらないことだろう。
だが、だからといって、社会主義者もまた、労働者にきちんと対価を払おうとしない。みんなに同じ給与を与え、労働者が頑張っても頑張らなくても一律で給与が同じであるならば、搾取はされなくても、「労働の対価をきちんと払っている」とは言えない。
そう、この問題の解決方法は、「労働者にきちんと相応の対価を払うこと」である。
よって、わたしは「労働者ファースト」を宣言する。この主義では、「頑張っている人間にこそ高い報酬を与えるべき」であるとする。よって、社会において、頑張っていないにもかかわらず高い報酬を得ている人間、たとえば政治家や役人などについて、わたしは給与を減らし、大きな税金をかける。そして、その税金で得られた利益を、労働者たちの給与へと反映させていく。また、貧困層には多くの雇用を与える。
これによって、はじめて労働者や貧困層は救済される。社会において真に頑張っている人間すなわち労働者に対して、「労働者ファースト党」が多くの支援を行い、できるだけ多くの給与と報酬を与えるようにするべきなのである。
また、僕の精神について言えば、自然に治ることを受け入れれば治る。
僕は、すべてを支配して自分の思うがままにしたいと思ったために、自然にこの世界が解放へと向かっていくのを常に拒否するようになってしまった。
だが、自然に治ることを受け入れてしまえば、このおかしな精神の病気は放っておいても治る。
ここまでを自力で治したこと自体は凄いことかもしれないが、これ以上は、自分の手で治すのではなく、自然に任せた上で、「神の導き」を信じれば精神はすぐに楽になる。
それによって、この世界の全員の狂いも治る。僕がひとり治すのではなく、みんながそれぞれ自然に治るように解放されていく。そう、これこそ、僕が望んでいた「僕ひとりの支配からの自由」である。
また、子供には自分らしさを与えるべきである。
自分らしく生きられるような環境、自分らしくありのままで居られることをみんなが許してくれるような環境を与えればいい。
そうすれば、子供たちは「真に周りから受け入れられたという経験」を知ることができる。
そして、その経験が、今度は「自分が周りに受け入れられたのと同様に、誰かのことを今度は自分が受け入れてあげる」という考え方をすることができる。
そして、世界を変える経験をさせることだ。これは何も、世界全体を変えようとしろと言うのではない。小さな世界を、ちっぽけでもいいから小さな世界をみんなで築き上げ、みんなでかけがえのない環境を築くという経験をさせることだ。そうすれば、子供たちは自らぐんぐん学んで、この世界を支えることのできる「指導者」になることができる。
また、子供に科学やほかの学問を教え込むことは、本当は正しいことではない。なぜなら、「自分以外の知識が増えるだけのことで、自分で考えることができなくなる」からである。必要なのは、自分自身でその知識を作り出し、同じ発想をすることであり、そのためには「考え方を自分の手で作る」という体験や、「自分の手で思考して分かるという経験」をさせなければならない。これこそ、「体験的に理解する」ということの意味である。
知識を教え込まれて、それを覚えろというだけでは、実際に自分の手で何も考えていない。学校の間違いはそこにある。教え込まれた知識は、すべて「過去の偉人が考えたこと」であり、「過去の偉人の分かったのと同じことを、自分たちは何も考えずに分かる」ということを学校の教育は行っている。必要なのは明らかに「自分で考える」ことであり、自分で考えるためには自分で自由に世界を知り、思考し、経験していくことが必要になる。それを僕は「体験的に分かる」と呼ぶ。体験すること、体験的に考えることこそ、子供たちを真に賢くし、「指導者を生み出す」ために必要なことである。よって、学校の教育では、子供たちは決して賢くはならない。