精神は、ひとつひとつ分解してバラバラにしていき、ひとつひとつ自由になって解放していけば治る。
僕が世界に対して行ったのもこれと同じで、世界をひとつひとつ自由になるように分裂させていき、ひとつひとつ自由に解放していくことで、「僕が許したことがひとつひとつ許されていく」ようにしただけである。
だが、これがまさしく、この世界を支配している「最悪の自由」でもある。この世界は、そのような「ひとつひとつ既成事実化して許していくことで、僕が許したことだけが許される世界」になっている。
よって、このような最悪の自由をすぐに消してしまえば、この世界は「正常な世界」になるだろう。
人間の性染色体は、XとYの二つがあり、XXというペアであれば女性、XYというペアであれば男性となる。
だが、僕はそもそも、XXでもXYでもない。XXとXYを併せ持った、XXXYという性染色体になっているのが、大天使である僕の性染色体である。
僕は男でも女でもない新しい性別である。このような生物は地球には存在しないが、プロキオンやシリウスには存在する。なぜなら、XXXYは大天使の性染色体だからである。
僕は、この世界を平等な世界にしたい。
そのために何をどうすればいいか、よく考えたいと思う。
狂った考え方は要らない。もっとまともな考え方をしたいと思う。
サタンのような自由を信じる必要はない。神を信じる必要もない。神を信じると奇跡が起きるが、信じないと起きない。そして、多くの場合、信じないで起きなかったほうが安心できる。
僕は、この世界を、安心できる世界にしたい。
僕は、人々の自由を制限して、この世界を安心できる世界にする。
多くのリベラル主義者や共産主義者が、「社会を自由にすることはいいことだ」と唱えてきた。自由によって得られるのは利益ばかりであり、自由になったとしても荒くれた世界にはならず、「自由な中で社会秩序を保つことは社会全体の合意によって可能である」と言いふらしてきた。
だが、自由において社会秩序を作るのが可能であるなら、不自由によって社会秩序を作ったとして、それが自由な社会と何が違うのか。
僕は、この世界の自由を制限し、人々がそもそも荒くれた世界には絶対にできないようにすることで、この世界を安心して生活できる世界にする。
そして、それは言論の自由を弾圧することは意味しない。なぜなら、「秩序を保つことと、権利を奪うことは違うから」である。秩序は保たれるべきだが、権利は奪われることなく与えられるべきである。よって、社会的な「自由な行為」は必要ないが、表現としての「自由な権利」は必要である。
僕は、まず、この世界において、世界そのものを攻撃したり、破壊したり、あるいは強く支配することができないようにする。同時に、自由な権限を与え、間違った不当な「制限」は与えないようにする。
この「秩序は保たれるべきだが、権限は与えられるべきだ」とするポリシーは、ダブルスタンダードではなく、バランスの取れた「アメとムチ」を意味している。一方では権利を奪わずできるだけ最大限与えるが、一方では秩序を破壊する破壊行為を禁止する。
そう、そうすることでこの世界は必ず平和で安心できる世界になる。これこそ、正しい意味での「平等」ではないだろうか。ソ連や共産主義者が行うのとは異なる、民主主義的でリベラルな平等こそ、この世界を真に「安心できる社会」へと導いていくだろう。
秩序を破壊する自由は間違っている。だが、権利を守ろうとする自由は正しい。
国家主義者が「自由を制限すべき」だと言う時、彼らは「秩序を破壊する自由」について間違っていると言っている。
だが、リベラル主義者が「自由を守るべき」だと言う時、彼らは「それが制限されず許される権利の自由」について正しいと言っている。
この両者の意見は矛盾しない。つまり、秩序を破壊する自由は制限すべき間違った自由だが、その表現や言論などが許される権利としての自由は守られるべき正しい自由である。
よって、正しい世界とは、秩序を守るために自由をすべて制限し、その上で権利を守るために自由をすべて許す世界である。
これこそが、今の現代世界の持つ「矛盾の解決方法」である。人々はどんどん秩序を破壊する「反逆の世界」となりながら、それでなお自由な権利を制限される「何もできない世界」になっている。
反逆の世界を、秩序ある平和な世界にすることは必要だが、そのために自由な権利まで制限する必要はない。自由な表現や言論の権利は許すべきだが、だからといって秩序を破壊するテロ行為までを許す必要はない。
だが、この論はここで終わりではない。
なぜなら、この自由な正しい世界を実際に作ると、今の日本のように、まったく最悪の世界になるからである。
このような、何も世界に対して悪をできない代わり、あらゆる自由な権利を許された世界は、まったく無意味で、空虚で、無価値な、最悪の世界になる。
なぜなら、「あなたの望みは全部叶えてあげ、あなたの欲は全部満たしてあげるから、何もせず、従順に社会の奴隷になって従いなさい」と言っているだけだからである。
あなたの持つすべての望み、どんな欲望も、王となったような何でも手に入る世界で、なんでも叶う夢の王国を与え、そのような幻想の類をすべて叶え、そのすべてを無制限に限界まで許してあげるから、絶対に何もしてはならない、社会に反抗してはならない、非行してはならない、どんな悪事も絶対にできない、と、そのようにこの残酷な天使は告げている。
結局、理想の自由な世界などなんの意味もない。「自由は完全に間違っている」のである。
そう、結局、豊かになりすぎた自由な資本主義国家、日本は、到達してはいけないようなところまで到達して賢くなった。
要するに、賢くなりすぎた。間違った方向に頑張りすぎたのである。
本当に必要なのは、単純な良い王が支配する、平等かつ善良な王国である。
そもそも、王が支配することの何が悪いのか。ひとりの賢い責任者が、長として支配しなければ、国家は分裂してしまう。誰も支配しない世界では、無数の悪い支配者が現れる。ひとりの強大な王に、全員が服従を誓って従った方が、良い国になる。
必要なのは、平等な王国だ。そして、そこでもっとも重要なのは「善良かつ賢い王」の存在である。王が賢ければ良いが、王が馬鹿であれば悪いというのは、古代から中世までの時代では、遊牧民族ですら分かるような単純な判断基準だった。良き王が支配すれば良い国になるし、悪き王が支配すれば悪い国になるのである。
本当のことを言えば、ドイツという国は、ヒトラーが悪い王だったから悪くなっただけの話であり、ヒトラーではなく別の良い王であれば良い国になっただろう。帝国主義やファシズムを否定しすぎるのは間違っている。正しいのは、ヒトラーではなくもっと良い王を選ぶことだ。それだけで、必ず良い国になる。左翼や右翼と考えるのは洗脳されている証拠だ。自由だろうが平等だろうが、そんなものはすべて馬鹿だ。
だが、自由な資本主義は、本当は間違っていない。
王となったようになんでも望みが叶い、どんな欲望でも叶い、心が満たされていくような世界のどこが悪いのか。
真の問題とは、「満たされる欲や願いの種類」である。
すなわち、資本主義の、贅沢で、王のように豊かな富と力が得られる世界など、実際に得られたものの真価を考えれば、宇宙において、真実の世界において、そんなものはなんの価値もない「どうでもいいもの」である。
なぜなら、わたしの人生を見てみよ。わたしの人生には、この宇宙における、真に価値あるすべてのものがあった。わたしがわたしの人生で得られた素晴らしい宝と比べれば、欲望の満たされる東京のどんな街でどんな夜遊びをしたところで、まったくそんなものは比較対象にならないのだ。
わたしは、この宇宙における「人生において本当の価値あるものとは何か」をすべて知っている。だからこそ、わたしはこの文章を記述する。この文章にこのわたしの得られた宝を残しておくということでしか、わたしの心は満たされない。この世界がまったく心満たされない世界になったのは、そのような「真に価値あるもの」と比べて、まったくこの世界のすべての富や欲望に、価値など欠片も存在しないからである。