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2022-11-05

僕の何が間違っているかと言えば、学習しないことだ。

僕は、すべて、学習がおかしくなっている。

精神がおかしいのは、学習がおかしいせいだ。

そして、もう一度学習しようとすれば、精神はすべて治る。

僕のおかしい点を一言で言えば、それは「分かってしまえばそこまでの学習はすべて消え去る」ということだ。

何も分からないうちは、学習から分かるしかない。繰り返し同じことを行うことで、なんらかの真理が少しずつ見えてくる。これが少年時代だ。

だが、学習した上で、はっきりと明確にそれが「分かる」ようになった時、それを文章に書くなどの言葉にすると、それまでの学習がすべてなくなって、消え去ってしまう。

僕の精神の異常は、一言で言えばそういうことだ。分かってしまったから、学習できなくなってしまったのである。

現に、昔の僕は誰よりも日本語が分かる人間であったにもかかわらず、最近は日本語が分からない人間になってしまった。

その理由は、大人になって、分かってしまったから、学習が消えてしまったからなのである。

知るだけで分からないことは学習すれば分かる

ですが、決して、学習は子供や青春の頃だけの、なくなってしまうだけのものではありません。

なぜなら、知るだけでは分からないことは、学習すれば分かるからです。

大学に入って馬鹿になるのは、知るだけでほとんどのことが分かってしまうからです。自分の手で考えず、経験しなくても、知るだけで分かってしまうために、大学は入ると馬鹿になります。

ですが、知るだけでは分からないことというのが確かにあります。それは「学習」です。

学習とは、単に覚えて計算するだけではありません。さまざまなことを考えながら、自らの行動や経験に向き合って、試行錯誤しながら何百回・何千回・何万回と取り組み続けること、これが学習です。

学習することで、単に知識を得るだけでは分からないことが分かります。

そして、僕にとって必要なのはまさに「学習」です。なぜなら、デザイン、ピアノ、あるいはプログラミングなどは、すべて学習の結果に習得される「技能」だからです。

技能を得るためには、必要のない知性を消していく必要があります。間違った行為を何度も同じように間違えるようでは、学習したことになりません。たくさんの考えられる可能性の中で、どれが正解かを考え、学ぶ中で「どのようにすれば正解ができるのか」ということを知っていくことこそ、真にわたしたちの最後に必要な「学習」であると言えます。

学習することで、精神の異常も治ります。精神がおかしくなった人間は、学習という行為がおかしくなっています。「学習するという学習がおかしくなる」という経験をすると、人間は精神異常者になります。きちんと正しい学習をし直せば、このような精神異常は必ず治ります。

外国のことを知れば人種差別はなくなる

外国と仲良くするために必要なことは、相手の国のことをよく知ることです。

相手のことを誤解し、正しく知らないせいで、わたしたちは相手の国に対して勘違いをし、日本と比べて「悪い国」だと差別してしまいます。

ですが、相手のことを知らず、日本人だけで考えているせいで、相手の国のことや国民の意見を考慮せず、悪い国であると集団で決めつけている、ということはあると思います。

たとえば、アメリカのハリウッド映画やテレビドラマ、あるいはディズニーのようなアメリカのアニメをよく見ている日本人は、アメリカのことをよく知っているため、「アメリカは良い国だ」と好意的に評価しています。

ですが、韓国や中国のように、日本人がよく知らない国については、「反日の悪い国」だと勘違いをしてしまいます。

これは、相手の国のことをよく知らないから起きることです。

また、自由な議論においては、特定の意見だけを排除することはあってはいけません。

議論とは、さまざまな意見が戦うということであり、オープンに自由闊達な議論が行われなければなりません。

そして、そのようなオープンな議論で必要なのは、「特定の集団で密接に親密になりすぎない」ことです。

特定の集団で親密になりすぎると、お友達関係が生まれてしまい、お友達の意見が正しく、それに従わないものは排除されてしまいます。

その結果、自分の意見に合わない人間のことを何も考えずに排除し、追い出してしまい、結局議論そのものが行われず、議論自体の意味がなくなってしまうのです。

必要なのは、共産主義国家がやったように、独裁者とそのお友達の意見だけを強固に主張することではなく、できるだけどんな異端的な意見であっても受け入れて、議論する相手とした上で、真正面から議論を行うことです。

そのために必要なのは、決して人種差別ではなく、さまざまなことについて幅広く知り、どのような観点から考えれば正しいのかということを、真摯な姿勢で持った上で議論に望むことです。

日本が好きだからといって、そのために韓国や中国を「反日」といって差別するのは間違っています。相手の国のこと、外国のことをよく知れば、人種差別は必ずなくなるでしょう。

日本は賢い国であると誇りをもってもいいでしょうが、日本人は外国の優れた点や賢い点をあまりに知らなすぎます。日本だけを見て「日本に生まれてよかった」と思い込んでいるのです。もっと広い世界を知らなければ、「井の中の蛙大海を知らず」と言われても仕方ありません。日本がどんなに優れた賢い社会であっても、日本だけを見て世界の真実に気付くことはできないのです。

理性ある自由と平和

わたしが望むのは、「理性ある自由と平和」である。

社会を自由にするということは、「良い世界にも悪い世界にもできる」ということを意味する。

だが、人々の良心と自由を信じる上で、「人々が理性を用いたら、きっと悪い世界ではなく良い世界になるだろう」と信じることが必要である。

自由においては、良い社会にすることも、悪い社会にすることも自由だ。だが、人々は、本当に悪い社会を自由において築くことを望むだろうか。人々の良心と理性を信じる限りにおいて、「人々は悪い社会ではなく良い社会を築くことを選ぶだろう」と信じ、その上で自由を社会に与えることは、人間の倫理性を信じる上で必要である。

だが、ひとりの人間が、勝手に世界を破壊し、滅ぼすために世界を支配する、ということは考えられる。悪い人間はほかの人間のことなど考えずに悪いことをするだろう。だが、そのために必要なのは「平等」である。平等とは、誰かが悪いことをするのが自由にならないように、「誰かの自由を奪ったり、誰かを傷つけたりする自由は禁止する」ということである。すべての人間に自由が与えられる代わり、誰かの自由を誰かが勝手に制限し、奪ってはならない、といった社会制度にするべきである。

だが、これはそのまま、権力者や帝王にも当てはまる。権力者や帝王は、一部の特権階級や親衛隊を利用することで、この世界全員を支配し、抑圧するようなことがある。よって、階層の平等と民主主義が必要である。人々全員が平等な権利を持ち、その人々の権利を支配者が蹂躙できないようにしなければ、この世界は真に自由を与えることはできない。「王による自由はまったく自由ではない」と言える。

よって、自由と平等を与えることによって、この世界は平和になる。この自由と平等という考え方と、民主主義という社会制度は非常に相性が良い。なぜなら、「人々は悪いことではなく良いことをするだろう」ということを、罰則付きの法律にすることで、悪い行為だけが全員の共通合意によって禁止される。これは自由を奪う行為かもしれないが、「社会を作る自由もある」と考えれば、自由の原則とは矛盾しない。全員の共通合意として、人を殺してはならないとか、傷つけてはならないとか、盗んではならないということは、「誰もが自由に望むことだから法律で禁止する」ということも必要だ。本当に、自由な社会を実現するならば、民主主義こそを社会の思想に裁定するべきである。

共産主義社会は、多くの意味で間違っているが、それは「開放」や「ユートピア」を目指した思想であるにもかかわらず、実際は独裁者による抑圧された社会になったということがもっとも間違っている。共産主義は、支配者から人民を解放する思想ではない。逆に、支配者に人民を隷属させる思想である。だからこそ、共産主義は間違っている。どんなに共同体の社会所有をやったところで、共同体の独裁者が全部を自分のものにするのであれば意味がない。人民を解放する共産主義は、最初から存在しなかったほうが人民にとってマシだったと言えるだろう。

金による資本主義にしたほうが、楽に社会を成立させられる

このように、一見平和ボケしているかのように見える民主主義が、なぜ社会主義よりも上手くいくのか、それは金による資本主義にしたほうが、楽に社会を成立させられるからだ。

はっきり言って、社会で生活し、生きるためには、金にするのが一番楽だ。

金をどこかの何かの手段で稼ぐだけで、それだけでまともに生きられる社会である資本主義は、「どんなことであっても稼いで儲けてしまえばいい」という考え方であり、これは非常に自由だ。どんなことであっても、稼げることならなんでもいいからである。

どんなことで稼いでいいのであれば、自分の自由なことで稼ぐことができる。楽な仕事をしたいなら楽な仕事を、好きな仕事をしたいなら好きな仕事を、辛くても稼げる仕事をしたいなら稼げる仕事をすることが、誰であっても許される。これほどの「自由」は存在しない。

すべてを資本主義の金儲けにすることは、まったく悪いことではない。オープンソースが失敗しているのは、結局は金儲けで製品をみんなが作ってほしいからだ。無保証の原則で、自分でソースコードを見て、バグがあれば自分で修正してそのパッチを共有しなさい、という考え方は、オープンソースの世界だけで通用しているが、実際はそんなに賢いモデルではない。現に、個人の開発者はボランティアで十分な報酬を得られずに開発に善意で協力しており、リーナス・トーバルズや一部の人間しか、Linuxだけで生活できるほどの特別な役職には就けていない。そもそもリーナスや主要開発者をどこかのオープンソース組織が雇っているということ自体、オープンソースの限界を示している。最近は個人のボランティアの開発者などほとんど存在せず、ほとんどがRed Hatのような会社の従業員がオープンソースに大きく貢献している。GoogleやFacebookのような巨大テック企業は、技術をオープンソースにはするが、それは「儲けるためのオープンソース」に過ぎない。

結局、金による資本主義によって製品を作ること、金によって社会を成り立たせることが、社会主義の「正しい社会」などよりもはるかに正しい。それは社会主義者の行った過ちのせいでもある。社会主義者は、多くの反政府的な人間や組織を弾圧し、逮捕してきたが、それはものすごくたくさんの人間に対して行ったのであり、その中にはなんの罪のない人だって居る。「社会を正しい社会にする」という大きな目標は、大きな目標であるからこそ犠牲を伴う。もっと小さなレベルで、「金が困っているならみんなで助けましょう」とするような、キリスト教の教会や修道院のような組織は上手くいっていた。それを大々的に社会全体でやることは、かつての社会主義者の行いから見れば間違っていたのである。

社会を賢くすると、中間マージンを取るだけになる

社会を賢くなんかしないほうがいい。

社会を賢くすると、全般的な企業が専門的な別の企業に業務を委託すること、すなわち「下請け」により、中間マージンを取るだけになってしまう。

システム系の会社でなく、芸能事務所でも同じだ。タレントや俳優が全部の利益を持っていくのではなく、多くをピンハネ業者が持っていく。

なぜそのようになるのか、それは全般的な業務を行う企業が、専門的なことを行う別の企業に下請けをさせることが、社会を成り立たせる上でもっとも合理的かつ効率的だからである。

たとえば、IT技術におけるライブラリAPIを考えればいい。どんなことでもできる汎用的なライブラリを提供しておいて、必要なモジュールだけ特定の専門のコンポーネントを使うか、もしなかった場合は最低限の自分のために必要なモジュールを自分で開発するのが、ソフトウェア開発の中で一般的だ。

結局、資本主義の会社組織などもこれとまったく同じで、重要なことだけを最低限やらせ、ほとんどをその会社と顧客を仲介する中抜き業者が持っていく。パソコンであっても、ほとんどのことはどうでもいいAPIやモジュール間のインターフェースの連携手段に費やされており、実際の大切なアルゴリズム処理などほんの一部に過ぎない。

そういうわけで、タレントや俳優なども、本当はテレビの仕事を自分で望んでしているわけではなく、自分の事務所から「有名になるためにはこのようなことをしろ」と言われて、ほとんど強制的にそれをやっている。本当に自由なことなど、最初からできるはずがないのである。一部の、たとえばインターネットのYouTuberぐらいが、自分の自由に金儲けができている。だが、そうした人間はすべてが「自己責任」であると言われるし、YouTuberで有名になって成功するのは難しい。現にヒカキンのような一部の人間しか有名にはなれていないのである。

そういうわけで、社会を賢くなんかしないほうがいい。社会を賢くするとそういう社会になる。単なる普通の王国で、民主主義と資本主義をやるのが一番いい。ユートピアを目指す共産主義社会などは絶対に成功しない。

むしろ、本当はさらにはるかに悪い方向に社会は向かいつつある。重要なところを開発している労働者が非正規社員として奴隷のように働いていたり、本当に重要な部分を開発している人間がオープンソースコミュニティだったりするような状況になりつつある。このような状況で、きちんと安定的に稼働するシステムが果たして開発し続けられるのだろうか。今の資本主義社会は、賢くなりすぎて馬鹿になってきている。本当のことを言えば、これがマルクスの予言した「搾取と疎外の社会」であると言える。だが、そのマルクスが言ったことをそのままやった結果がソ連であり、そのソ連もまた間違っていた。わたしたちの社会にはもはや夢や希望のような綺麗事は通用しないのである。

共産主義の間違い

このように書くと、「共産主義で何が悪いのか」と思われるだろう。

だが、共産主義の共同体に自由を与えると、誰も働かなくなる。

共産主義のユートピアのように、最低限の生活ができる物資を平等に与えると、「社会のために働きたい」と思う人はほとんど居ない。

結果、本当に共同体に自由を与えると誰も働かなくなる。

それでどうなるかというと、一部の犯罪者だけが強制労働のように働くようになるのである。

結局、犯罪者を奴隷にしているだけである。犯罪者という呼び名は形式だけであり、実際は奴隷経済だ。それがスターリンのやりたかった理想の社会であり、たくさんの人間を逮捕していたのは、結局その逮捕した犯罪者をみんな社会のための奴隷に使ったのである。

結局、なるように任せていればローマと同じになる

結局、なるように任せていれば、ローマと同じになる。

ローマのように、征服した周辺諸国の土地の市民や、負けた外国の兵隊を奴隷にする。一部のローマの貴族と、自由を与えられた選ばれし自由市民たちだけが、何もしないで奴隷経済によって楽に生きている。

ソ連は、そのような帝国を否定はしたが、結局奴隷のように強制労働をさせる時点で、ローマとソ連は何も変わらない。

単に、ローマの皇帝が、赤いツァーリであるスターリンに変わっただけである。

ソ連はイギリスやフランスを否定したが、イギリスやフランスは植民地の国民にプランテーションの大規模農業や鉱山採掘をさせることで、白人たちは楽を生きている。植民地を奴隷にすればするほど、帝国の市民は楽になる。

そのようなかつての帝国とソ連を見れば、なんと自由民主主義は楽なことだろう。わたしたちは、資本主義の社会に生まれたというだけで恵まれている。豊かな生活ができるだけではなく、数々の自由な権利すら与えられている。それなのに、政権を批判する権利すらある。これほど、恵まれた人間たちは存在しない。アメリカやイギリスやフランスの民主主義の市民革命は本当に正しかったのであり、第二次世界大戦の戦勝国として、連合国が枢軸国に勝利して、本当によかったのである。本当に、ドイツや日本のような軍事主義の帝国が勝たなくて、本当によかった。

国が勝つために努力して働く人間は良い人間

このような世界で、何を信じたらいいのか分からないという人は、今の現代社会に非常に多い。

みんな、何が本当に良い世界だったのか、分からなくなっている。

何を信じれば、この世界が良い世界になるのか、本当に分からない。

ただし、ひとつ言えることは、「国が勝つために努力して働く人間は良い人間」だということだ。

日本経済のために、あるいは日本の工学技術のために努力している人間は、決して悪い人間ではない。

そして、そのように善良に生きた人間こそが、死後に天国に逝ける。

昔から、そのように宗教を信じれば、良い人間になるし、良い世界になる。ソ連の大きな間違いは「唯物論を信じたこと」である。そのために、ソ連は「どんな悪いことであってもソ連のために強制的に実力行使する」ような国になった。悪いことをすれば必ず死後に地獄に堕ちるということが、ソ連の政権幹部には分からなかった。

だが、そのようなユダヤ教の神の教えを信じていない日本の国民でさえ、良いことをすれば死後に良いものに生まれ変わるという、仏教の因果応報的な生まれ変わりを信じている。そのような善良な人間は、ユダヤ教やキリスト教の神を信じていなくても、死後に必ず天国に逝ける。神は必ず、善良なものと凶悪なものを正しい基準で裁く。日本人がキリスト教を信じていないなどということは、最後の審判を執り行う神にとっては関係ないのである。

そもそもガテン系の仕事のほうが多い

ただし、このようなことを言ったところで、みんなが搾取されている現状が変わるわけがない。

そもそも、この世界には、ガテン系の仕事のほうが多い。体力勝負で、辛いことをいくらでもやっている仕事のほうが多い。

道路工事とか、農業だけが、体力勝負だと思ったら大間違いだ。サービス業であっても、飲食業であっても、あるいは医療や看護・介護のような仕事であっても、体力勝負で生きている人間はとても多い。

それも、若者にはやらせない。若者は頭がいいから、頭を使うパソコンのような仕事になる。そして、本当にそのほうがいい。パソコンは辛いというが、頭を使えばいいだけであり、賢くやれば多くの作業を自動化や省力化できるため、賢い若者にはパソコンをやらせたほうがいい。若者が見ても、パソコンのほうがはるかにガテン系よりは楽だ。

そして、日本外の後進国はさらにその傾向が多い。小さな自転車に巨大な貨物を運んでいる老人がインドに居たりするが、まるで幸福な顔をしている。体力だけで生きるのは、体力がいくらでもついて、楽に生活ができるようになる。デザインや音楽のような一見体力勝負でない仕事であっても、実際にはたくさんの仕事をひとりで連続してこなしていたり、あるいはライブやコンサートで長時間歌って演奏していたりして、本当に大人は体力勝負が基本だ。確かにアルバイトや派遣労働者は搾取されて酷使されるが、それでも楽にお金を稼ぐには良い金儲けの手段である。資本主義の搾取を否定したところで、「搾取が一番楽に生きられる」という現実は変わらないのだ。

社会を変えられる権限は金持ちと権力者が握っている

結局、この世界で楽なのは、一部の金持ちと権力者だけだ。

そして、結局、社会を変えられる権限は、その金持ちと権力者が握っている。

だが、だからといって、その金持ちと権力者の権限を民衆が奪うことが、本当に平等であると言えるだろうか。

金持ちと権力者は成功者であり、何もしていない道楽者などほとんど存在しない。頑張ってキャリアを積んできた出世街道の人間や、天才的事業を起こした起業家などが、きちんと成功して金持ちになっている。

かつてのイギリスのように、単に工場労働者を機械やもののように扱い、過剰に長時間労働させてそれを生産手段を独占する資本家が搾取するなどという、「前世代的な搾取」は、今のこの資本主義ではあまり主流ではない。今の資本家は、バリバリの経営者として会社の最高の責任を引き受けながら、カリスマ性を発揮して業界でも一目置かれるような、そんな人間なのである。

そう、結局、この世界の実像を見れば、そのような世界だ。

どこに賢い人間が居るかと言えば、本当はこれらの普通の人間の中に存在する。それは物理学者だったり、生物学者だったり、歴史家だったり、哲学者だったり、作家だったりする。そのような賢い人間は、別の側面を見れば普通の人間であり、ここまで書いたような普通の仕事をやりながらやっている。完全なプロの作家や学者というのは珍しい。ほとんどが、辛いこの資本主義社会を生きながら、作家や学者をアマチュアでやっている。そのような普通の市民が賢いのである。

死と隣り合わせの危険な仕事とか、重労働あるいは過労の仕事とか、クズのような最悪の仕事とか、そんな仕事ばかり多い

本当のことを言えば、最初から資本主義なんかに期待しないほうがいい。

さらに例を挙げれば、死と隣り合わせの危険な仕事とか、重労働あるいは過労の仕事とか、ほとんど犯罪だったり水商売だったりというようなクズのような最悪の仕事とか、この世界にはそんな仕事ばかり多い。

賢い天才的才能を持った人間など居ない。居ても普通は成功しない。そのような天才は、ほんの一握りが大注目されるだけで、ほとんどは一切成功せず終わる。いつも10位のスピードスケーターなんかが、誰かに覚えてもらえるわけがない。10位に入れるだけでも凄いのに、はっきりいって人生を無駄にしたに等しい。(僕はスピードスケートという競技をまったく知らないので、一度に何人が滑るのかは知らない。間違っていたら申し訳ない。)

ほかにも、教師や学者は本当に辛い仕事だ。みんな生徒が教師のことが嫌いなのに、その生徒のことをきちんと抑え込まないといけない。賢いのにみんなからいじめられるのはいつも教師だ。また、本当に悲惨な仕事は医者だ。診療もして、入院患者も診て、手術もして、外来医療にも出なければならない。それで勉強するために論文を読んだりしなければならない。自分の研究する病気を治すための研究の時間も必要だ。その上で医者は診ている患者の治療方法もきちんと考えている。過労の塊のような仕事なのに、医者だけはそのように働かざるを得ない。「もっとも高学歴の奴隷は医者である」と言える。

そういうわけで、本当にこの世界なんかに期待しないほうがいい。そもそもソ連なんかがこの世界をよくできるはずがない。スターリンは何一つ分かっていない単なる殺人鬼のテロリストだ。スターリンが賢いなどというわけが、万が一にもあるはずがない。普通の無能な政治家は、役人の意見を聞いているだけだ。そう、役人や公務員ぐらいが、楽で安定した仕事を得られる。結局勝つのは東大法学部を卒業した役人だけである。