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2022-01-05

新しい年のスタートとして、僕は二つの考え方を考える。

まず、「常に新しくなる」こと、次に「自己同一性」について考えることである。

常に新しくなる

はっきり言って、過去の焼き直しはもういい。

また、強迫観念になる理由は、過去に過ぎ去ったものに延々といつまでも執着しているからである。

よって、僕は「常に新しくなる」ことを目指していきたい。

そのためには、同じままで居ようとしないこと。心を腐らせず、常に新鮮な理性と感情で満たしていくこと。自分のスキルや経験を作り変え続けること。これが大切である。

もう、僕は宗教の操り人形にはならない。

自己同一性

自己同一性とは、自分が持つ「自己」と、存在としての「自分自身」が一致する、ということである。

自分というのは何種類かある。まず、自分だけが知っている本当の自分。そして、他人が見つめる、他人の数だけある自分。そして、他人も自分も知ることのない、真の自分である。

これは、単なる主観と客観というだけでは説明できない。それは、自分自身が自分自身のことについて、真に知っているとか、把握しているとか、理解しているというのはとても難しいからである。

たとえば、自分自身は心理学について基本的なことは知っていると思っていても、さらに学習することで、自らの自分自身に対する主観的な理解が変わることはある。この場合、自分自身という存在は、過去においては真に本当の自分をすべて理解していたわけではないと言える。

これは自分以外の他人に対しても言えることで、特に若者などは、自分のことを自分の理性できちんと理解できていると思っているが、大人から見ればまだまだ未熟だったりすることもある。

あるいは、大人であったとしても、過去の自分自身のことについて忘れ、いつしか馬鹿で愚かな自分のことを過大評価し、人々が思っている自分よりも自分のことが分かっていなかったりすることもある。

僕は、この「自己同一性」という問題が、哲学においても心理学においても、重要な言葉だと考えるのである。

馬鹿なものは見ない、考えない、付き合わない

また、できるだけ、馬鹿なものは見ないほうがいい。

きちんとした本を読むのはいいが、インターネット上にある雑言や虚言の類をいつまでも見ていても、それらを発言している人はまったく何も考えていない。

だからこそ、きちんとした本を読んだほうがいい。雑言や虚言を発言している人間は、僕の経験から言って相当に馬鹿である。そんな中には賢い人間は居ない。きちんとした本や書籍を書いている人間は、きちんとある程度のことは分かっている。そのような良質で選別されたコンテンツを読んでいれば、この世界のことはきちんと分かる。

むしろ、本当はこの世界ともできるだけ付き合わないほうがいい。誰とも付き合わないからといって、孤独で何もできないと思うのは大間違いであり、孤独にこそ自由がある。孤独な中で自己同一性について考えれば、この世界は誰だって理解できるはずである。

特に、悪魔の日本から来た人間、すなわち過去におかしな悪魔の国だった昔の日本から来た人間は何も分かっていない。大人にはそういう、悪魔の日本から来た人間が多い。まだ、悪魔の日本を知らない、純粋な今の若者のほうがマシである。

自由は意味がない

自由は、社会論において意味がない。

なぜなら、社会のさまざまな可能性を成し遂げるために、自由にせよと言うが、それは自由と言われなくても、みんな普通にしている。

社会全体を支配することは自由ではないとし、自由であったほうが社会の可能性は高まると言ったものの、社会の秩序を保つ必要もあるではないかと言えば、社会を統治機構を用いて支配することも全員の合意に基づく自由なのだと言う。

この世界すべての行為や行動を自由と言いながら、その行為や行動を守るために自由にせよと言っている一方で、いやその行為や行動は悪いことであり禁止すべきだと言えば、その禁止することも自由であると言うのである。

まさに、自由は「何も言っていないのと同じ」である。この世界は自由であり、それが守られるべきだと言うのであれば、もしこの世界が不自由であったとしても、この世界は自由であるから自由を守れと哲学者は言うのだろう。

このように言うと、哲学者は「できるできないではなく、その人間の意志に基づくことなのかどうかが重要だ」と言うだろう。自分自身の意志に基づいて行動すること、すなわち「自己責任」が自由であると哲学者は言う。だが、この世界は、はっきりいって最初から自己責任の世界である。どのようなことも自己責任であるということは当たり前であり、他人の意志のほうが勝るということは自己責任においても多い。そういうと、「それは他人の自由意志に基づいて考えた時に、力関係であなたが負けただけである」と言う。それならば、自由意志はどこへ行ったのか。他人の意志に強制的に従わされることが、いつ自由意志の尊重になったのだろうか。まさに、哲学者は頭がおかしいのである。

本当の自由とは

問題の核心は、自由という言葉の意味が曖昧すぎることである。

たとえば、「子供には自由意志で教育を受けさせるべきだ」とする時、子供たちに、自分の力で学び、体験し、気付くことで、自分の自由意志で教育を受けさせるべきだと、哲学者は言う。

なるほど、これは子供たちが自分の力で自由に学べるという意味で、確かに自由であると言えるかもしれない。

だが、これは自由ではない。なぜなら、これは教育として行った時に、子供たちに「自分の力で学びなさい」という、教育の方法論の押し付けになってしまう。

真に自由意志で学ばせるのであれば、子供たちがそれぞれ自分の好きなように学ぶことができるはずである。

これを学校で行うと、「あなたがたは自由意志に基づいて勉強しなければなりません」ということになる。

これは教育の方法論の押し付けであり、まったく自由ではない。だが、悪い教育ではないことは確かだ。「自分の力で学ぶ教育」であるとは言えるが、これは「自由な教育」ではない。

社会について言うと、支配者にどんなことをされても強制的に支配されたくないから、支配者をみんなで選ぶ民主主義の自由な選挙をせよ、と大人たちは言う。

だが、これは間違っている。これは「法の支配」であって自由ではないからである。

この支配の手法に名前を付けるとしたら、それは「支配されないように支配者を選ぶ政治制度」であって、自由ではない。

なぜ、自由でないと言えるのか。それは、法制度という支配者を仮想的に作り出して、その法制度を押し付けられているからである。

もし、本当に自由であれば、それぞれの国民の数だけ法制度があって当然であり、中には支配者の支配を絶対化する「君主制主義者」も存在してしかるべきである。

そのような自由をなくし、支配者に支配されないような法律を考え出して、全国民にその法律を押し付けるこの制度は、「法の支配」と呼ぶべきであり、「人の支配」よりはよい政治制度かもしれないが、これは自由ではない。

また、金や資本主義についても同じである。金による契約で、どれだけ働いたかによって給与が得られるのは、自由に働くために自由であるとわたしたちは勘違いしている。そうではない。これは「歩合制」と呼ぶべきものであり、自由ではない。なぜなら、「金と契約で自ら奴隷となって働きなさい」というルールを国民に押し付けているからである。

だが、哲学者は言う。「押し付けることも全員の自由な合意であるとするなら、社会が自由になっていいではないか」と。しかしながら、押し付けられたその社会制度やルールを、わたしたちは本当に自らの自由意志で決めているだろうか。なんとなく、金や選挙を自由だと考えて、すんなりと何も考えずにその制度を受け入れている。これは、社会主義の洗脳と何も変わらない。「社会所有が自由だからみんな社会所有に従いなさい」と、社会主義の民主的思想を押し付けるのと変わらないだろう。

そう、本当の自由とはそういうものではない。むしろ、これらの自由な教育、法の支配、金と契約と資本主義は、不自由だから優れているのである。社会全体を真に自由にしたとしたら、このような社会秩序は生まれない。巨大な権力と内戦による滅びた廃墟の世界になるだろう。それが本当の自由な社会である。

わたしたちは、何も知らずになんとなく自由な国がいいと思い込んでいる

わたしたちは、何も知らずに、なんとなく自由な国がいいと思い込んでいる。

帝国やソ連に生きたことがなく、民主主義しか知らないわたしたちは、民主主義の教育やマスコミの通りに考えて、「自由な制度のほうが自由だからいい国になる」と思い込んでいる。

だが、実際の世界を見てみよ。自由な社会のほうが、本当にいい世界になっているだろうか。

わたしたちは、自由という言葉を、「何も考えずになんでも受け入れること」だと勘違いしている。最悪のものであふれたインターネットだろうが、最悪の報道をするマスコミだろうが、「自由なものは受け入れるべきだ」という原則に従って、自由ならば善であり、自由を奪うものは悪であると勘違いしている。

このようになったのは、自由な社会における無秩序な洗脳によるものだけではなく、歴史のせいでもある。日本やドイツは、あまりに悪い殺人と弾圧を繰り返したし、アメリカに比べてソ連はあまりに悪い国だった。

だが、よく思い出してみてほしい。今の日本から考えて、過去の日本はどうだったか。過去の自由な日本はどうだったか。戦後の日本は、本当に素晴らしくて最高の世界だっただろうか。国民のやっていることは、ドイツやソ連とあまり変わらなかっただろう。国民が馬鹿だったのは、ソ連やドイツの国民と大差なかっただろう。

僕は、日本を民主主義ではない国にしたいわけではない。僕は立憲民主党が好きだし、不自由な国ではなく自由な国を愛している。なぜなら、それは自由だからではなく、平等だからである。僕は自由を好まない。僕が真に好むのは平等である。

しかしながら、ソ連の社会主義もまた愚かな主義である。自由とは違った意味で、ソ連は最終的に行き着く最悪の地獄の国を楽園だと勘違いしている。だが、平等か自由か、という理想の問題であれば、僕は平等を取る。

そして、帝国は間違っていない。なぜなら、自由よりも不自由な帝国のほうが優れている。これには異論があるだろう。みな、自由な社会制度をいい制度だと考えているからだ。だが、僕は「実際に帝国を見た上でそれを判断したのか」と言う。歴史に残った文献では分からないし、戦争をしたという事実だけでは断じることのできない、「明治維新以降の戦前の日本帝国を築いた多くの賢人」から見れば、日本における帝国政策は正しかったのである。

ただし、大日本帝国を完全に肯定するわけではない。なぜなら、戦前の日本はほかの諸外国の外国人を、人間ではないかのように扱ったからである。僕はそうした人種差別主義者が嫌いだ。よって、外国への侵略政策については僕は否定する。だが、それ以外の日本の帝国の政策について、悪いことはあまりなかった。国民はみなまともで、献身的に国につくし、国のために自己犠牲の精神で努力した。彼らがどれだけ努力したのかは計り知れない。そう、日本人は戦前においてもよく頑張っていたのである。戦後の民主主義への転換から、戦前世代を否定し批判する戦後世代が増えたが、戦後世代もまたよく頑張っていたのだと評価すべきであり、その戦後世代と同じぐらい、それ以前の戦前世代もよく頑張っていたと評価すべきである。もし、戦前世代を評価しないのであれば、戦後世代についても評価すべきではない。どちらかの一方だけが正義ではない。どちらも同じ日本人である。

僕は反帝国主義者

ここまで、適当に帝国主義者の意見を書いてきたが、これははっきり言って嘘偽りである。

なぜなら、僕は昔から反帝国主義者だからである。

僕の昔の「自由」という思想は、結局、まったく自由ではなかったということがここに分かった。

彼の思想をきちんと正しく言い表すならば、それは「反帝国主義者」である。

すなわち、「帝国に回帰しなくても、自由と民主主義のままでもこの国は素晴らしい国にすることができる」ということを彼は主張した。

そう、昔から日本には帝国主義者が多かった。僕はそうした帝国主義者に対して、「自由なままでも可能性の豊かで愛のある素晴らしい国は築くことができる」とし、それを自由だと考えていた。

それはまさに、「帝国主義に戻らなくても、僕の力があればこの世界は救われる」と考えていたのであり、結局は、自分の力を過信していただけにすぎない。

だが、だからといって、諦める必要はない。自らの理性によって解決することのできた答えによってのみであっても、自らはこの世界を救うことができるとするには、帝国にする必要は必ずしもなかったということである。

だが、だからといって、帝国ではなく民主側を擁護する理由はない。民主側は、自分と同じように考えていた人間は多かったが、彼らは自分と同じように愚劣であり、何も力のない「昔の自分と同じぐらいの、あるいはそれよりも低いレベルの集団」だった。

そう、結局のところ、僕は「ひとりだけが最後まで到達し、最後までひとりだけでやりたかった」。

これを、昔は自由という言葉で捉えていたが、次第に帝国主義者になった。その理由は、まさに「ひとりだけで行いたかったから」に他ならない。

そういうわけで、僕はこのような人間である。そもそも僕は帝国主義者ではない。僕は反帝国主義者の右翼なのである。

国のモデル

ここに、もう一度国のモデルを考えよう。

法律は、すべての国民に対する命令でありながら、守らなくてはならないルールである。

この法律が国民全員を、憲法に基づいて公平かつ平等に自由な権利を与える。

この法律は絶対だが、絶対であるからには正当性を持たなければならない。よって、これを決めたり変えたりするのは、国民による自由な作用で定められるものでありながら、簡単に間違った法律を定めないようにすべきである。

よって、国民によって選挙で選ばれた国会議員が、国会で議論することで、新しい法律を定め、新しい法律はすべて憲法の条文にのっとった形のものとなる。

まさに、これが民主主義である。

だが、国会の形態とか、選挙の形態などは、たくさんの考え方に基づくパターンがあると思う。

そこで考えられるのが、「自由の成立」である。国民の自由意志が、どのような形態で国へと影響力を与えるか、というパターンが存在する。

たとえば、国民が12か月働く中で、3か月を国会議員として政治活動に当てるようにしてみよう。全国民が、この制度によって、政治へと直接的に参加することができる。

この場合、国会議員の数は膨大な数になる。よって、小さな評議会をたくさん作って、その評議会単位で共同体を築くようにする。

政府の国会には、小さな共同体の評議会のうち、議長クラスの評議会議員を集めて、議長たちによる国会になるだろう。

まさに、これを目指したのが、初期のソビエト体制のソ連である。

だが、ソ連が間違えたのは、スターリンの権力であり、これは説明するまでもなく、ひとりの独裁権力になったため、このようなソビエト体制は事実上無効になってしまった。

ほかに考え方があるとしたら、政党政治である。自民党や社民党などの政党は、議論することで首相を支えるが、彼らは国会ではまともな議論をしていないことがよくある。そのため、政党ごとに完全に独立して議論し、数の争いだけを国会で行っている。

このように、民主主義は戦国時代のような「勢力争い」となってしまっている。

それならば、政党を作ることを禁止してはどうか。勢力争いをするという自由を、法の支配でも人の支配でもない、アンバランスな部分でやる必要があるのか。

すべての政党は自民党に統一し、自民党の中で派閥を作り、選挙は自民党の中の派閥を選ぶようにしたとして、何か不都合はあるだろうか。

むしろ、ほとんどその状態なのが今の民主主義である。

このように、勢力争いが公然としている現場で、「別の戦い方」や「別の競争のさせ方」をするという方法は、経済についても言える。

機械製品は、ほとんど安値競争になっている。安いものしか買われないため、どれだけコストをかけて高品質な製品を作っても、結局安いものを作れる会社が勝つ。

それならば、いっそ安値競争を禁止し、ある程度以上の品質が保証された製品しか市場に流通しなくする、すなわち、「品質保証」をしてはどうだろうか。

あるいは、より国際的に考えるならば、西側諸国がそれぞれ別の国で分かれている必要はない。EUはドイツでもフランスでもイタリアでもある、大きくて強い連合を目指すことで、強いものにも弱いものにも利益が出る。それならば、西側諸国すべてを統一し、同じ国家体制にしてはどうか。それこそ、西側諸国連盟である「WU」を作ってもいいはずである。

ほかにも、さまざまな提案は出てくる。たとえば、政治家を試験制度にしてはどうか。試験制度が悪いのであれば、むしろ選挙という方法をいつまでも古い選挙カーと演説とポスターで行うのではなく、インターネットなどを大々的に使って行うようにしたらどうか。そのようにすることで、政治家は単なる世襲のどうでもいい政治家ではなく、きちんと自分の力で判断し考えることのできる、ビジョンのある人間を選ぶことができる。地元の政治家だけではなく、日本全国から選ぶようにしてもいい。

そう、僕はそもそも、そのような「国のモデル」を考えるために、この文章を書いていたのである。

異論があった時に言える自由が大切

ここまで、右翼のような議論をしてきたが、ひとつ必要なのは、「異論があった時に言える自由」である。

もし、国家が間違った方向に進もうとしている時に、野党であれ、国民であれ、自民党のほかの議員であれ、異論を言うことができる自由が大切である。

このためには、政党を作る自由が逆に重要になってくる。一党独裁では、ひとりの独裁者に従い、その意見をそのまま言うようになるからである。

結局のところ、自由か、あるいは正しい政治かという二択は、バランスである。自由にすれば正しいというのでもなく、正しい政治にすれば正しいというのでもない。

ツイッターより @zaidoubansou

いわば、哲学は考える際の思考法のノートだと言える。さまざまなことを自分の知性と判断力を使って考える際に、「わたしはこのような考え方に行き着いた」ということを広く共有し、自分自身であるいはみんなで同じように考えるということ、この修行が哲学者の仕事なのである。
posted at 17:53:03

しかしながら、それを具体的な考えにすることが、それぞれの哲学者にとって違っていたとしても、「共通の考え方について共有する」ということはできないだろうか。決まりや経験を考えた末に、「誰だって同じ考え方に行き着いて、同じように考える」という境地があるとしたら、それは真理と言える。
posted at 17:49:34

哲学において、知や善を哲学者はよく考えた。だが、知や善について考えても、それは「その人間が考える真理」であって、「人類全員にとって普遍的な真理」であるとは限らない。それが哲学の限界だ。真理をいくら見つけても、それはそれを考えた人間にしか正しいとは思えない。
posted at 17:46:40

世界が絶対精神の目覚めであるということに僕は反論しない。だが、目覚めたからといって、僕は「また眠っている状態に戻る」と考える。今、世界精神が覚醒して、世界がユートピアになったからといって、それで終わりではない。いずれは滅びて、歴史はもう一度繰り返す。一方向ではなく、周期的である。
posted at 17:36:13

僕が考えるに、ヘーゲルが言うように世界精神は目覚めようとしているのではない。なぜなら、世界精神は寝たり起きたりを繰り返している。ひとつの自由な絶対知に世界精神が至るとは僕は思わない。なぜなら、世界精神は繁栄と滅びを繰り返すはずだ。絶対知に至るならば、また最初から始まるはずである。
posted at 17:33:09

そして、それならば、その誰かを「神」と呼ぶことはできるだろうか。いわば、「神思う、ゆえに神あり」と言えるだろうか。わたしたち全員は、その神の「一部」であると考えられる。だが、「神」という言葉は相応しくない。「世界精神」あるいは「超自我」と呼ぶべきだ。
posted at 17:28:13

しかしながら、プレイするのは必ずしも自分ではない。自分以外の誰かがプレイするゲームを自分が見ているかもしれない。だが、「ひとりの人間がプレイしている」という事実は変わらない。ならば、「誰か思う、故に誰かあり」を真実としてもよいだろう。
posted at 17:25:38

そうすると、「われも含めてこの世界は嘘である」と言えるだろうか。残念ながら、それは正しくない。なぜならば、われは「この世界が変わっても引き継がれる可能性」がある。たとえば、ゲームのキャラクターが変わっても、それをプレイするのは自分である。このことはどのゲームでも変わらない。
posted at 17:24:49

よって、自らの世界は自らが考える中にあるとしてもよい。なぜなら、自らが考えるのをやめてしまえば、その時点で世界そのものがなくなると考えてもよい。われが死ねばわれはないのだから、その時点でこの世界もなくなると考えても、それが間違っているとは断言できないだろう。
posted at 17:23:15

よって、デカルトのコギト命題、「われ思う、ゆえにわれあり」は、現代の脳科学では正しくない。「われあったとしても、いずれわれは死ぬ」と考えるべきである。死ねばそのわれはない。よって、われ思うからわれがあるというのは、われが生きている間にしか正しくない。
posted at 17:20:59

しかしながら、このような生まれ落ちていつか死ぬという考え方は、精神と身体の二元論とすれば解決する。魂の世界でも精神はあるとすれば、まさに心というものは永遠にあると言えるだろう。だが、僕はこのような考え方は取らない。心と精神は肉体の中に、頭脳にあると考えるからである。
posted at 17:20:03

しかしながら、デカルトには分からなかったことがある。それは「人はいつか死ぬ」ということ、そして「生まれなければ自分はない」ということである。自分の心の器があることが正しくても、それが永遠にあるわけではない。よって、心の器があるという事実は、一時的にしか存在しないものである。
posted at 17:18:27

心になんにもなくなったとしても、それでも心はある。いくら心を棄て、殺しても、そこに心という「器」がある。この器がある、ということを、真理として言えないだろうか。デカルトと同じように、「わたしの心の器があること、それだけは正しい」と言えないだろうか。
posted at 17:16:25

果たして、自分の考える自分が真に自分だろうか。それでは、自分の考えるのとは似てもつかない、おかしなわたしの虚像は自分ではないのだろうか。真なる自分とはなんだろうか。真なる自分として、候補として挙げられる自分のどれを自分として選べばいいのだろうか。
posted at 17:13:50

知れば知っただけ、新しい世界の視点が分かる。だが、そのためには、自らが常に新しくならなければならない。古い固定観念に従っていては、自分の理性は腐ってしまう。自分が何を知っていて何を知らないのかすら、見失ってしまう。
posted at 17:11:25

自らが自らの心についてきちんと知っているとは限らない。それどころか、自らの心について自らがきちんとコントロールできるとも限らない。自らの心に自らの意志が負けた時、それを狂人と言う。そして、解決するためには、自らの心に自らの意志で勝たなければならない。
posted at 17:10:05

この世界は意識の集合であり、認知行動のオーケストラにすぎない。そしてそれは自由である。人々はオーケストラで音を奏でることのできる自由がある。しかしながら、そのためには犠牲を払わなければならない。それは「どの自由レベルを選ぶか」という犠牲である。
posted at 17:08:38

経験が自分自身の心を形作る。一度知って考えて分からない限り、知性はつかない。知性のすべては経験的に得られる。だが、宇宙においては知性は絶対的である。なぜなら、人間は経験的に、宇宙の絶対的な知性を獲得することができるからである。
posted at 17:07:09